物語No.4『押しつけられた無理難題』
早朝に目覚めた僕は、洗面所へ向かう。
手のひらに溜めた水を眺め、ふとこう思った。
「ああ、僕は何のために生きているのだろう」
止まることなく流れる水。
水は手から溢れ出す。
溢れ出す水のように、自分も世界の外に逃げ出せたなら。
毎日、そんなことを思う。
異世界に繋がる扉はあったけれど、灼熱の世界が広がっているだけで、進めそうにはなかった。
進めば死が待っている。
異世界なんてそんなものなのかもしれない。
現実はそうじゃない分、余計に残酷だ。
不安が水のように溢れる。
毎日毎日、それの繰り返し。
いつか現実から脱却できたなら。
そう願い続けてきた。
だけど、思い通りにはいかなかった。
昨日の学園での戦いも、結局愛六にポイントを奪われた。
「くそっ……」
思わず声に出していた。
昨日のことがあまりにも悔しかったから。
「寝起き早々暗いな。穂琉三」
赤い光球が背後に現れたのを鏡面で確認する。
「おはようヒルコ」
「どうせ昨日のことで落ち込んでいるんだろ。日に日にポイント差は開いているからな」
まるで僕の心を見透かしているかのように、ヒルコは僕の悩みの原因のひとつを当ててみせた。
「僕は強いかな?」
「弱いよ、お前は」
分かっていることだ。
より落ち込みはしない。
「だが努力をすれば、愛六より強くなることはできる。目を背けるだけじゃお前の願いは叶わない」
「そうだね」
ヒルコの言う通りだ。
だが、努力はできても向き合うことは怖い。他人と関わることはまだできない。
ヒルコもそれを分かっているのか、深く言及はしてこない。
「顔を洗ったらランニング行くぞ。いつものメニューで身体を鍛える」
「うん。そうだね」
顔を洗い、鏡に映った自分を見つめる。
「──ニコリともしないな。お前は」
毎朝のルーティーンがある。
寮のすぐそばにある森を一時間ランニング。その際必ず、道中にある神社にお詣りをする。その後腕立て伏せ百回、スクワッド百回。最後にヒルコに向かってシャドーボクシングを三十分間行う。
毎晩モンスターと戦うため、ヒルコの提案したトレーニングに身を捧げている。
僕の戦闘スタイルは、基本的に拳に火を纏って殴る。
腕力は必要であるため、ヒルコのトレーニングは必須だった。軟弱な腕ではモンスターに対抗し得る力はない。
トレーニングを始めてから一ヶ月。最初はモンスターから逃げてばかりだったが、今では少しだけ戦えている。
倒しきれないものの、一時的に動きをとめるくらいのことはできるようになった。
「穂琉三、改めて私とお前が結んだ契約の内容を確認しておこう」
「そういえば忘れていることもちょっとあるかも」
ヒルコと会った初日の夜、モンスターと戦うことを定められた日に誓ったこと。
「まず、この学園は二十四時から零時の間に六時間、異世界と接続する時間が発生する。もし異世界から溢れたモンスターが現実に訪れれば、現実世界に大きな被害が出る。異世界との接続を断つためには扉を閉じる必要がある。その役目を精霊と契約した者は持つ。
その者を接続者と呼ぶ」
大きな危険が伴う。最悪、死ぬことだってある。
役目を担う者がいなければ現実世界は異世界によって終焉する。
「当然報酬はある。もし一年間守り続けた場合、異世界へ行く権利を与える。だが、接続者が二人以上いる場合、権利が与えられるのは最もポイントを稼いだ者」
ポイントは扉を閉じた場合に1ポイント与えられる。
ポイントについて開示されている情報はそれだけ。
「以上が私とお前が結んだ契約だ」
改めて契約の内容を確認した。
ヒルコが話し終えたのを確認すると、気になっていたことについて話す。
「ずっと疑問に思ってたんだけどさ、ヒルコと出会ったあの日開けた扉も、繋がっていた先は異世界なんだよね」
「そうだな」
「もし異世界が灼熱の世界だったり、全てが凍りつくような世界だったら、その権利を得ても意味がないよね」
異世界に行っても死ぬのであれば、死ぬために戦うようなものだ。
「異世界は広いからな、灼熱の大地や絶対零度の空間はある。権利を得て行く異世界は、様々な種族が暮らす豊かな都市だ」
「もしかしてエルフとかドワーフとか、龍人とかがいるの!?」
「そういう感じだ。中には人もいる。様々な種族が協力し合い、笑い合って暮らす世界に行くのさ」
異世界へ行きたい気持ちはより強くなる。
だが昨日のことを思い出し、気持ちは曇る。
「ねえ、僕と愛六ってどれくらいのポイント差が開いてるの」
「お前が10ポイント。愛六が21ポイントだ」
改めてポイント差を確認し、難易度を悟る。
「一年はまだ長いけど、10ポイント以上も差が開いてるんだよね」
「昨日の扉、愛六が横取りしなければポイント差は縮まっていた」
たかが1ポイント増えるだけ。
愛六の魔法技術が僕を上回っているのは確かだ。
「諦める必要はない。ポイントは他者に譲渡することもできる。愛六のもとに行って1ポイント返してもらえばいい」
「でも……扉を閉めたのは向こうだし……」
「いや、あれは完全にこっちポイントだった。愛六にはっきりと伝えるべきだ」
「でも……愛六は絶対に僕の話を聞いてくれない。それに学校で話しかけるのも嫌がるよ」
できる限り愛六とは関わりたくない。
嫌いだからとか、憎んでいるとか、そういう理由ではない。
ただ怖い。
愛六が時折僕に向ける視線が怖い。
学校で話しかければ間違いなく無視される。それでも強引に話しかければそれ以上の仕打ちが帰ってくる。
愛六に恐怖を感じていた。
だから関わりたくない。
「お前は相変わらずうじうじして成長しねえな。私と会った時に一歩前進したお前はどこに行ったんだよ」
「でも……」
「その『でも』をやめろ。なんでもかんでも自分を否定するな。お前が思ってるより愛六は嫌な奴じゃない」
「で……、それでも、愛六に話しかけるのは怖い。多分愛六は僕のことが嫌いなんだ」
「でも」の代わりに「それでも」を使う僕に、ヒルコは呆れていた。
しかしつい否定したくなる。
愛六が僕をどう思っているのか、彼女の態度で分かっている。
たとえ本音を聞かずとも。
「確かに愛六はお前のことを嫌いかもしれないな。だが嫌いが好きにならないなんてことはないし、嫌いじゃなかったってこともある」
「嫌いに決まってる。僕は、嫌われてるに決まってるんだ」
愛六を見ていれば分かる。
関わらなくても分かっている。
「なら、愛六はお前のどこが嫌いなんだ」
「それは……無口なところとか……」
「だとしたら、なんで愛六は無口なところが嫌いなんだ」
「それは……」
いざ言葉にすると難しい。
心の中では上手く表現できているのに、伝えられない。
「穂琉三、やはりお前は愛六と話すべきだ」
「でも……あっ……」
さっと口を塞ぐ。
だがヒルコは気にくわなかったのか、しばらく無言で僕をじっと凝視する。
そして一言。
「穂琉三、私は愛六から1ポイント返してもらうまでお前と組むのをやめる」
「待ってよ。それじゃあ魔法が使えない。素手でモンスターと戦えって言うの」
愛六たちはどのようにやっているのか分からないが、僕とヒルコは基本、精霊が魔法の発動してくれる。
魔法について理解できていれば自分で発動、もしくはある程度魔法に干渉できる。
僕に魔法を理解することはできなかった。魔法を理解する才能がないとヒルコには言われた。
つまり僕の場合、精霊がいなければ拳に火を纏うことなんてできない。
「素手でモンスターと戦うのと、愛六から1ポイント返してもらうのとでは、どっちが簡単か明白だろ」
「それは……」
どっちも難しいに決まってる。
優劣なんてつけられないほど、僕にはどちらも無理難題だ。
「じゃあ私はお前から離れる。愛六から1ポイント返してもらったら呼べ」
「待って……」
僕の声に耳を貸すことなく、ヒルコは去ってしまった。
「待ってよ。そんなの……あんまりじゃないか」
小さく丸まり、顔を膝の間に埋める。
ため息も出ない。
異世界へ行く希望もなくなってしまうなんて、そんなの嫌だよ。
ヒルコが帰ってきてくれることを祈るけれど、そんなことはありえない。
僕が愛六から1ポイント返してもらうまで、ヒルコは本当に戻ってこない。
頭を抱え、絶望する。
向き合うなんて、そんなの……無理だよ。