物語No.3『日向穂琉三・プロローグ』
学園は異世界と繋がっている。
あの日、僕は学園で扉に出逢った。
学園は生徒数を凌駕するほど広大な敷地面積を有している。幼稚園区画、初等部区画、中等部区画、高等部区画、大学区画、共同区画というように、スクールエリアは大きく六つに分けられている。
高等部区画だけでも校舎が三つ建てられ、第一校舎、第二校舎、第三校舎と分けられている。第三校舎は新設されたばかりで、工事中のため人の出入りが禁止されている場所が多くあった。
高校一年に進級して初日、新しい教室。
だが中学時代に親しい人もいなかったため、当然一人。昼休みに教室を飛び出した。
売店に行き、コミックが立ち並ぶコーナーを見る。
目に入った漫画『不死身じゃない不死見さん』に手を伸ばすが、既に図書館で『幻獣図鑑』と『妖怪絵巻物語』を借りていたこともあり、買いはしなかった。
人のいない第三校舎に行き、立ち入り禁止の看板がある手前の教室で一人、昼食を食べていた。売店で買った焼きそばパンとコーヒー牛乳を飲みながら、図書館で借りた二冊を読む。
ふと、すぐ側で物音がした。気になり、音のした方へ進もうとするが、立ち入り禁止の看板が立てられている。
この日は作業は行われない日のため、立ち入り禁止の場所に人がいるはずもない。だが物音がしている。
どうしようかと熟考している間にも物音は増す一歩だった。覚悟を決め、立ち入り禁止の看板を超えた。
隣の教室。
まだ壁や床も塗装の途中で、窓も全てはめられていない。
未完成の教室。
そこで出会った。
──扉に。
平凡な扉。いたって普通の扉。
しかし扉は独立しており、どの部屋とも繋がっていない。四方から扉を見回し、注意深く観察する。
不気味だ。
最近学校で流行っている噂を耳にしていたため、最初は噂を模倣したイタズラだと疑った。
だが、不気味な点があった。扉がずっと揺れている。まるで扉の向こう側から叩かれているみたいに。
扉はどこにも繋がっていないのは見て分かる。だがもし噂通り、扉が異世界に繋がっていたとしたら。
気付けばドアノブに手をかけていた。本当は迷うべきだったのかもしれない。何かが背中を押した。
孤独や不安、虚無感。
思い当たる節は幾つもある。
どれも正解なのだろう。
僕は扉を開き、その先に広がっている景色を見た。
「熱っ!」
広がっていたのは一面灼熱の世界だった。分厚い炎が視界を塞ぎ、それ以外は何も見えない。
進めば全身が黒焦げになることは間違いない。扉から離れていても熱は感じる。
一目で理解した。
扉の先には異世界が広がっていた。
同時にむなしさも襲う。
「そう上手く行くはずがないよね。異世界に行って現実から逃げられるなんて……」
虚しさを感じながら扉を閉める。
ため息を吐き、扉に背を向けて立ち去ろうとした。
その時、
「おいお前、扉を開けたな」
声を聞き振り返って一番、視界に入ったのは赤い光球だった。燃えるような赤。
当然光球が喋るはずない。が、光球が目の前で浮いているのだっておかしい。
どれだけ見回しても周囲に人はいない。否定したはずの仮説が浮かび上がる。
「いや、光が喋るはずない。だって光は口がない。なのに喋れるなんて──」
「現実に囚われてやがるな。そんなんで人生楽しいのか」
声が聞こえてくるのは赤い光球が浮かぶ位置。
声にならない驚きに浸り、光球を見つめる。
「君は一体……どうして光が喋れるんだ」
「ったくよ、何でもかんでも言葉は必要か。私を知るのに説明なんていらねえ。お前の前で起きていることだけが事実さ」
光球はもじもじする僕を一掃した。
「私はお前に説明しない。お前に頭がついているなら、てめえの頭で考えな」
質問は幾つも浮かぶが、光球の機嫌を損ねるのを危惧し、その全てを喉の奥に押し込んだ。
沈黙が続く。
急に世間話をするはずもない。僕のいる世間と光球のいる世間が同じとも限らない。この状況で唯一会話の切り口となる質問を封じられ、気まずい時間が流れる。
なんとか払拭しようと、口を開く。
「あ……っ、え、ええっと…………う……っ」
何か言おうとし、上手く言葉にできない。
光球はじっと停止している。
──が、突如光球は言い放つ。
「やっぱ、扉に選ばれたのはお前じゃないだろ」
「──っ!?」
その言葉を聞いた途端、まるで心にヒビが入ったような気持ちが起こった。
自然に胸を押さえる。
「それって、どういう意味……」
思わず質問した。
それが光球の発言に逆らうような言動だったと、言い終えてから気付いた。
怒られる、と身構える。
「さあな」
意外にも光球は冷静だった。
質問をした僕に怒鳴ることはない。
だが怒っていないわけでもないのだろう。光球の表情は全く読めないが、これまでの会話からそのことは分かる。
「ところでここは、見渡す限り人はいないし声もしない。こんなところに一人で何をしている」
「……昼食だよ」
「一人でか」
「……人に食べてるところを見られたくないんだよ。ただそれだけ」
「そうか、なるほど」
光球は頷き、僕をじっと見ているような雰囲気を出す。
小さな光の玉のどこに目があるか分からないが、見られていることははっきり分かる。
「お前という人間が少しだけ分かった」
光球は僕の目の少し上まで下がる。
「私を解き放ってくれたことには感謝する。だが、私は自由に生きると決めた。──ありがとう、さよならだ」
別れを告げると、綿毛のように窓の外へ飛んでいった。
「ああ……」
思わず手を伸ばす。
すぐに手を引いた。
呼び止めることで光球の邪魔をしてしまうのではないか。
そんな疑念が過り、光球が去っていくのを見届けることしかできなかった。
必死に止めていれば新しい日々が始まったのかもしれない。
後悔が胸を打つ。
相変わらず僕は鬱だ。
光球が去ってから、しばらく第三校舎を徘徊していた。光球が見つかることはなかった。
時計に目を向ければ、短針は一を差しかけていた。十三時から五時限目が始まる。
「教室に戻らなきゃ……」
憂鬱だ。
急いで第一校舎に向かう。
第三校舎の出口に差し掛かった時、出口を塞ぐように三人組の男が座り込んでいた。
緑のラインが入った靴を身につけていることから、高等部三年の上級生だと分かる。
ストレスが溜まっているようで、時折床や壁を叩きつけていた。
そこへ忍び寄る。三人の横を音も立てず通りすぎようとしたが三人の視線が集まる。
「なあお前、上級生に挨拶なしで通りすぎるつもりか」
第一声にしてはうるさい声で呼び止められる。
その言い分に納得できず、不満げな表情を向ける。
それが仇となった。
「ムカつくなお前。サンドバッグにしてやるからついてこい」
逃げようとしたが、三方向を囲まれ、逃場はなくなる。
手際が早い。
まるでこのような行動に慣れているかのようだ。
逃げられないよう左右から腕を掴まれ、立ち入り禁止の場所へと連れ込まれた。
生憎、誰も助けには来ないだろう。
授業中、立ち入り禁止の区画へ来る者なんているはずがない。
上級生三人は笑っている。
僕の表情はただ暗い。
この状況になっても脅えていないわけじゃない。人前で感情を見せることが苦手なだけ。
他人に自分の内面を見られるのが嫌いだ。いつだって隠してきた。
そんなやり方で新密度が深まるはずがない。他人と接する機会が減った。話し方を忘れた。一人になった。
どうやって笑うんだっけ。
どうやって泣くんだっけ。
どうやって脅えるんだっけ。
きっと無表情の僕は、彼らからは脅えていないように見えている。
本当は心底脅えているのに。
逃げたい。逃げたい。逃げたい。
恐怖で動けない。
成されるがままに、体の隅々に拳や足が食い込む。
嘔吐しそうなほどの痛みが腹を襲った。呼吸ができないほどの激痛。初めて感じた涙が出るほどの苦痛。
……涙。
そうか。
僕は人前でも涙は流せたんだ。
ははっ。
どうでもいい……。
誰か、助けて。
誰か、僕を助けて。
僕の願いを叶えて。
心の中で叫んだ。
世界の中心に届くくらいに叫んだ。
声は出ていない。
涙だけが溢れる。
それでも誰かに伝われと。
「……だ、…………だずげえ…………」
言葉にならない声が出た。
初めて自分の弱さを口に出した。
こんなことしたって意味がないのに。
誰にも届くはずはないのに。
救ってくれるはずがないのに。
それでも思ったんだ。
誰かに伝われと。
誰かに──
「──伝わるはずないだろ」
上級生三人の誰でもない、第三者の声がする。
聞き覚えのある声。
視線の先に、光があった。
「まあ、私には届いたよ。だから助けてあげる」
立ち去ったはずの光球が戻ってきた。
次の瞬間、上級生三人の上半身が炎に包まれた。上級生三人は掠れた声で悲鳴をあげる。
「……あっ」
三人が燃えていく様子を見て、快感が走った。だが、それ以上に罪悪感に襲われる。
このままでは三人は死ぬ。
本当はこの三人に同情する余地なんてないのかもしれない。だが、本能的にしてはいけないと思った。
ふと思い出したのは、担任がいつかのホームルームで言っていた言葉だ。
──生きていれば償うことはできる。死ねば何も残らない。
生かさなきゃ。
この三人は生かすべきだ。
「やめてくれ。もうそれ以上やめてくれ」
思わず叫んだ。
「なぜだ」
思わぬ問いかけに一瞬固まる。
どう答えるべきか迷い、口を閉じた。
瞳を閉じて、すぐに気付く。
──本音を言えば言い。
ただそれだけ。
心の内側を嘘偽りなく伝えればいい。
「僕はその三人が嫌いだ。でも死なせて終わりじゃ償いにはならない。その三人は生きて償うべきだ」
炎が止む。
三人は上半身を黒焦げにし、その場に倒れた。
かろうじて息はしている。
光球は僕の目の前まで下りてくる。
「ようやく自分の本音を言えたな」
「──あっ」
今まで、自分の感情を見せるのが苦手だった。自分の本心を伝えて、それで嫌われたら嫌だったから。でもそれは、誰とも関わろうとしないのと一緒だ。だから僕は一人になった。
「最初は別の才覚者に付き従おうと思っていたが、お前でいい。本音を言うことができるなら、他人に伝えようとできるお前なら問題ない」
そして光球は言う。
「今日から私がお前の相棒になってやる」
相棒……。
その言葉に不思議な魅力を感じた。
「いいね、相棒」
目を輝かせ、期待に胸を膨らませる。
「私は火の精霊ヒルコだ。お前は?」
「僕は人間の穂琉三。日向穂琉三。これからよろしくね」
久しぶりに笑った。
孤独は永遠に付きまとうのだと思っていた。ずっと一人だと思っていた。
光球の登場で孤独は晴れた。
これからは精霊とともに歩もう。
「約束だ。お前は私の相棒なんだから」
呟くように、光球は言った。
この時、精霊の相棒になることの意味をまだ理解していなかった。
後に知る。
学園から始まるファンタジー。
そして、僕の異世界は始まった。