物語No.19『そこにある幸せ』
僕は部屋の隅で無様に転がっていた。
何か意味があるわけでもない。
たださ迷う心が行き場をなくし、僕に何の気力も起こさせない。
端っこにうずくまって無様な人生を送っても、今の心では受け入れてしまう。
駄目なのは分かってる。
愛六を一人で戦わせないって思った矢先、結局逃げてる。
「お腹空いた」
「穂琉三……」
ヒルコは僕を側で見ている。
本当は起き上がって、筋トレでもして戦いに備えるべきだ。
それでも全身を堕天使に抱かれたような気だるさが消えない。
もう全部がどうでも良くなるくらい、身体は怠惰を訴えていた。
「穂琉三、いるか」
扉がノックされる。
後ろで聞こえたのは母親の声だ。
母さんとは寮生活になって以来会っていない。
学校では生徒と教師という関係であり、誰にも家族の関係であることは知られていない。
愛六は知っていたが、おそらく母さんから聞いたのだろう。
誰も家族であるというのを知らない以上、寮で教師と密会するわけにもいかない。そのためここに来るのはないことだと思っていた。
どうして……。
「入るぞ」
母さんは僕の答えも待たず、扉を開けた。
鍵をかけ忘れた扉は簡単に開き、母さんは僕の背中と直面する。
「穂琉三、しばらく話をしていなかったから、したい話が山ほどあるんだ。まずはどれから話そうか」
そんな前置きをして、母さんは僕の側に黙って座り込んだ。
「学校は大変か」
「…………」
「大変だよな。学校には一万もの生徒が通っている。それだけの人がいれば意見の食い違いだって出てくるし、嫌いな生徒、好きな生徒も出てくる」
僕は黙って母さんの話に耳だけ傾ける。
「好きな生徒が転校することだってある」
「……っ」
特別不思議なことじゃない。
ただ仲が良かった友達の一人が転校したってだけの話。
「穂琉三はさ、辛かったか?」
僕は涙が溢れた。
突然、不意に涙が溢れる。
本音も感情の起伏にしたがって溢れ出す。
「辛かったんだ。嫌だったんだ。苦しかったんだ。好きだと思える人ができて、まだ気を遣っちゃうくらいの仲だった。本当はもっと仲良くなって、もっと僕を知ってほしかった」
「辛いよな。苦しいよな」
「最後の時も、思いを伝えられなかった。せめて最後に思いだけは伝えたかったのに、いきなりのことで心の整理がつかなかった」
もっと早く転校すると分かっていれば、思いを伝えられていただろうか。
分からない。
だけどもう少し彼女と話したかった。
一秒でも長く、桜の花びらが落ちるまでのわずかな間でも長く話したかった。
結局僕はどこまでいっても勇気が出ない。
伝えたいはずの言葉さえ伝えられない。
大好きな人に約束の一つも取りつけられない。
また会おうって言えば良かったのに。
大好きだよって言えれば良かったのに。
「僕は彼女との距離を、もっと近くに感じたかった」
「やり残したことはいっぱいあるな」
「もっと思い出を作りたかった……」
「そうか……」
母さんは僕の話を静かに聞いてくれた。
思いの吐露を受け止めてくれた。
「穂琉三、少し出掛けないか」
まだ夕焼けが降りる前の空を見上げながら、僕は母さんとともに校舎を歩いた。
どこへ向かっているのかは分からなかったが、次第に行き先が分かり始めた。
共同区画にある部活棟、八階にある部室。表札には不思議写真同好会という文字が刻まれている。
「穂琉三、お前は後悔しているか」
「うん。後悔だらけだよ」
「後悔は避けられない。だがな、後悔に浸りすぎていてはすぐ側にある幸せに気付けない」
「幸せなんて……」
幸せは今の僕には到底遠いものだ。
母さんは扉を開け、中には入らず僕を促すように扉の横に立つ。促されるままに僕は部室へと入ろうと一歩を踏み出した時、
中に立っていた撮鳥さんが道を塞いだ。
「日向、あなたは最後、三浦と何を話したの」
「何も……話してない。僕は何も言えなかった。彼女に何も伝えられなかった」
「そう……」
あの晩、三浦さんに別れを告げられた。
そして僕らは一人ずつ彼女に呼び出され、話をした。
撮鳥さんが先に呼ばれ、彼女と話した。
次に僕も呼ばれ、彼女と二人きりになった。
緊張で何を話したのか、ほとんど覚えていない。というより何も話していない。
僕はただ彼女と見つめ合い、言葉を交わさなかった。
思いを伝える勇気はなかった。
最後にお互い「さよなら」を言い合って終わった。ただそれだけの時間だった。
「日向は三浦のことをどう思ってたの」
「……好きだった」
「なら尚更悲しいよね。三浦が転校したことは」
当たり前だ。
泣いたって晴れないくらい悲しい。
「こんなに楽しい日々があるって知らなかったんだ。三浦さんがいなくなって、もう何もかも色を失って……」
「日向は三浦を思ってくれている。じゃあさ、部室に入ってきてよ」
撮鳥さんは僕を部室の中へ促す。
中に入るなり、広がった光景に僕は目を瞬かせる。
部室の壁中に貼られたたくさんの写真。以前来た時は風景写真ばかりだったが、全てリニューアルされ、三浦さんの写真がたくさん貼られている。
「これからもまた部室に来てよ」
撮鳥さんは壁に貼られた写真を見ながら言う。
「だって私と三浦との思い出はこんなにあるんだ。でもこれだけの量、一人で見ているとちょっと寂しい。だから私の話し相手になってよ。これまでの三浦との話を共有したいからさ」
母さんは言った。
後悔に浸りすぎていてはすぐ側にある幸せに気付けない。
こんなに近くにあったんだ。
「撮鳥さん、ありがとう。僕、またここに来て良いんだよね」
「もちろん。いつでも歓迎するよ」
僕は気づいた。
幸せは僕の側から失くなったわけじゃない。すぐ側にある幸せに僕が気付いていなかっただけなんだ。
この場所を大切にしよう。
思い出を積み重ねよう。
この場所から、僕は自分を変えよう。
僕は屋上へ赴く。
誰もいない屋上で、柵に手をつけ、空を見上げる。
「三浦さん、僕は君のおかげで毎日が楽しいと思えるようになったんだ。生きることの楽しさが分かるようになったんだ」
ずっと辛かった。
慣れていたはずの苦しみは、楽しさを知った今、辛いものだと実感した。
「三浦さん、僕はあなたに会えて良かった」
本当にそう思う。
三浦さんがいたから、僕は今生きている。
「三浦さん、僕は……」
あの時言えなかった言葉を。
直接伝えたかった言葉を。
思いに乗せて伝える。
「三浦さんが大好きだ」
届くだろうか。
そう思いながら、僕は空に叫んだ。
隠し続けた本音を。




