物語No.9『最低』
五月四日。
いつものように登校すると、いつも以上に愛六の席に人が集まっていた。
気にしていないように装いつつ、横目で見る。
人混みからわずかに見えた愛六を見て、僕は言葉を失った。
愛六は左腕と左足に包帯を巻いていた。
「愛六さん大丈夫?」
「大丈夫だよ。多分すぐに治るだろうから」
「なんで怪我したの?」
「ちょっと階段から転んじゃってね。それで転び方が悪くて腕が折れちゃったんだ」
愛六は普段のように明るく話す。
嘘であることはなんとなく分かる。
昨日も僕は夜の学校に顔を出していない。確かなことは分からないが、強いモンスターと交戦になったのだろう。
それ以外にあの怪我を負う理由は見当たらない。
別に、僕がいなかったからってわけじゃない。
「でも骨が折れるってこんなにも痛いんだね。知らなかったよ」
愛六は包帯に覆われた左腕を右手で触れ、歯を食い縛っていた。
「はあ、痛いな」
瞳は悲しげに見えた。
僕はなぜか教室を飛び出していた。
一心不乱に廊下を走る。
どこへ向かっているのかも分からない。
僕は見ていない。
僕は何も見ていない。
僕が戦わなかったことが原因じゃない。
悪いのは僕じゃない。僕じゃないんだ。
「僕のせいじゃない」
僕は怖かった。
愛六に非難されるのが。
きっと愛六は思ってる。
あなたが戦わなかったから、私が傷つくことになったんだ。
って。
僕だって戦いたいよ。
でも、そうさせてくれなかったのは愛六じゃないか。
もしあの日、愛六が僕の手柄を横取りしていなければ……きっと……
屋上に風が吹いている。髪を軽くさするほどの風。
屋上を囲う柵を掴む。足をかけるが、すぐに下ろす。
生まれ変わっても僕は僕のままだ。
いや、今よりももっと残酷な自分になっているだろう。
死んだからって変われない。
そんなもの結局運ゲーだ。
行くべきか、それともこのまま逃げ続けるのか。
僕はまだ分からない。
どちらを選ぶべきなのか。
苦渋に侵され、僕は屋上に座り込む。膝に顔を埋め、ため息をこぼす。
「もう、分からないよ……」
苦しみの一滴が言葉となって口から漏れ出る。
次々と出ようとする苦しみ達を、僕は喉奥で絞め殺した。
僕がいるのを知ってか知らずか、屋上に続く扉が開かれる。
出てきたのは神妹境娘だ。
彼女はまるで僕が屋上にいるのを知っているように、近づいてくる。
「日向穂琉三。知っての通り、瀧戸愛六は戦うことが難しい状態にあります。あなたの力が必要なんです」
「僕の力が必要?」
僕は思わず笑みをこぼす。
「そんなはずない。神妹境娘、君が戦えば全部解決するんだろ」
「そんなことはありません。私の能力はあくまでサポートをするだけ。モンスターと戦うことに関して言えば私では力不足です」
嘘か本当か、真偽判断をすることは僕にはできない。
だけど、僕がいなくても世界は上手く回る。
それほど世界は良くできているはずだから。
「僕はもう戦わない。だって、現実世界にもきっと良いことはあるから」
僕はそれで良いと思った。
三浦さんとの出会いが僕を変えてくれる気がした。
「その現実世界が異世界の侵略によって侵されても、ですか?」
「構わない。それも全部、神様のシナリオ通りなんだから」
全てが神様の書いた通りのシナリオを辿っている。
そんな予感がする。
それが神様の選んだシナリオだとすれば、僕が手を加えたところで変えることはできない。
いや、全部言い訳だ。
神様の存在なんて証明できない。
だからそれを言い訳にして、僕は逃げた。
でも、
「神妹境娘。僕は最低か?」
「そうですね。今のあなたは最低です」
戦うことは辛いから。
向き合うことは怖いから。
逃げよう。
このまま、嫌なことから目を逸らして。
♤
愛六は包帯を巻いた足で廊下を歩いていた。他の生徒が助けに入ろうとするが、愛六はその手を断り、一人である人のもとへと向かおうとしていた。
だが想像以上に体力を消耗し、廊下で座り込んだ。
ミナカも愛六を心配し、付き添っていた。
「愛六様、なぜ彼女のもとへ足を運ぶのですか」
「昨夜の戦いで気付いたんだよ。私一人じゃこの世界は守れないことに」
「いきなり一人で戦うことになれば今回のように命懸けの戦いになるのも避けがたいです。全てあの男が逃げたせいです」
ミナカは穂琉三に対して激しい怒りを見せていた。
愛六も当初はミナカのように穂琉三に怒りを感じていた。だが今は違う。
彼女は自分一人の力を過信し、自分に酔っていた。それを今回の戦いで理解した。
だから愛六は知るべきだと思った。穂琉三を再び戦場に戻すために、彼がなぜ今のような性格になってしまったのか。
「ミナカ、穂琉三にも悪いところはあるが、私にだってなかったわけじゃない」
「いえ、愛六様は何も悪くはありません」
「私を過大評価し過ぎだ。私だって思春期の女の子。過ちの一つは犯すさ。要はそれを糧にできるかどうかだ。そう思わないか?」
愛六の問いかけにミナカは反論の余地なく納得させられる。
ミナカは押し黙り、静かに頷いた。
そこへ一人の女性教師が甘酒を片手に歩いてきた。
「こんなところで何をしている」
彼女を見て、愛六は微笑む。
愛六が会いに行こうとした相手こそ、今目の前に現れた彼女だったからだ。
「実はあなたに話があったんです。日向先生」
彼女は日向穂琉三の育ての母親。
つまり日向穂琉三を最もよく知る人物の一人だ。
「で、私に会いに来た理由は穂琉三のことか」
「ええ。彼の幼少期について伺いたいことがあります」
愛六の質問に彼女は一瞬固まった後、空いた手を差し出す。
「少し長くなる。場所を変えよう」
愛六は彼女の手を掴み、立ち上がる。
そして彼女とともに場所を移した後、日向穂琉三について知ることになる。
♤
放課後。
僕は帰ろうと鞄に荷物を詰めていた。
足音が近づき、正面に三浦さんが現れる。
一体何の話をされるのかと期待して待っていると、
「ねえ、これからリゾートエリアに遊びに行こう」
予想外の笑顔で、彼女は僕を遊びに誘った。
僕は期待を超えて嬉しかった。
「う、うん。行く」
「ありがとね。じゃあ私荷物とってくる」
三浦さんは自分の席へ行き、鞄を拾い上げる。
すぐに振り返り、僕のもとへ駆け寄る。
足取りはやや軽く感じられる。
「じゃあ、行こっか」
チラチラと合う視線が恥ずかしく、上手く目が合わない。
ぎこちないまま、僕と三浦さんはリゾートエリアに向かった。
リゾートエリアは広かった。
初めて青い星を見た誰かが、あの星は青かった、とでも言うように、僕は見たままに言った。
動物園や水族館、ショッピングモールや遊園地など、ありとあらゆる施設が揃っている。中にはホテルといった施設まで用意されている。
遊園地は入場料無料、アトラクションは一律百円、一日フリーパスは千円で購入できる。
アトラクションは五十種類以上あり、どれもクオリティは高く、何回乗っても楽しめる。
明らかに赤字のはずだが、なぜ学園はこれほど安く運営しているのだろうか。
疑問はあるが、それ以前に三浦さんとの遊園地は楽しかった。
「三浦さんはジェットコースターとか平気なの?」
「うん。不思議と平気かな」
「僕、ジェットコースター乗ったことないんだよね」
「じゃあ初めてだ」
初めての遊園地。
初めてのジェットコースター。
いざ乗り込むと、恐怖で足が竦む。
「大丈夫だよ。私がいるよ」
怖いはずなのに、その恐怖は風に吹かれたタンポポのように吹き飛んだ。
不思議だ。
三浦さんの横にいると、なぜか安心する。
まるで前世から紡がれていたように、運命の赤い糸で結ばれていたように。
そんなロマンチックに浸る。
ジェットコースターは動き出す。
ひたすら上に上がっていくジェットコースター。ゆっくりと、徐々に恐怖を与えようとしてくる。
震える僕の手を三浦さんは掴む。
「ほら、もう怖くない」
ジェットコースターの最上部。
まるで時が止まったように、僕は三浦さんに釘付けになった。
そこから先のことは覚えていない。
天使に手を引かれ、空を踊るように舞う心地が残った。
時刻は既に二十二時。
閉園の時間が来て、僕らは遊園地の外に出る。
門の前、噴水が止めどなく流れ、側に飾られた花が揺れる。
僕も三浦さんも、遊園地の前で足を止めたまま、リゾートエリアを出ようとしない。
出たくない。
もう少し一緒にいたい。
側にいて、温もりを感じていたい。
言葉にしなきゃ。
思いを伝えなきゃ。
言葉が出ない。
勇気が出ない。
優柔不断な僕の背中を、花びらが風に乗って押す。
今こそ言うべきだ。
「三浦さん、僕は──」
口を開いて、気付いた。
何を伝えるべきなのか。
結局言葉にできなかった。
「日向くん、今日はありがとう。楽しかった」
間を埋めるように、三浦さんは言った。
「じゃあ、帰ろっか」
三浦さんはリゾートエリアの外へ足早に急ぐ。僕も渋々その後を追う。
リゾートエリアを出て、三浦さんは一言、
「また明日、学校でね」
手を振り、背中を向ける。
「うん。また明日」
僕も手を振り、家に帰っていく三浦さんの背中を見送る。
また明日。
僕は三浦さんに会いたい気持ちが高まっていた。
今にも会いたい。ずっと隣にいたい。
明日が来れば、また会える。
僕も寮へ帰ろうとしていた。
そんな時、ふと思った。
もし扉が閉じられなければ、明日はモンスターに奪われる。
神妹境娘はそのことを危惧していた。
愛六は負傷している。そんな状況で戦えるだろうか。
──今のあなたは最低です。