ネットもテレビも広告であることは一緒
ネットは真実を伝えると信じられていた時代もあったんです。
まさか、現代社会において、ネットはテレビより優れたメディアだ、ネットは正確な情報をテレビより早く伝えることが出来るのだ、などと本気で考えている人はいないでしょう。もしもいらっしゃたらゴメンだけれども。
ただ、インターネットの黎明期には確かにそういった機運があったように思える。既存のメディアの枠組みから脱し、有益な情報をより多くの人に伝えること、マスメディアでは掬い上げることの出来ない、さまざまな立場の人々の意見を取り上げること、それらによって社会をより良い方向に進めていこうとする、豊かなインターネット文化というのものが僅かな期間とはいえ存在したのだ。
しかし、そういった志も、結局は既存のメディア(雑誌、新聞、テレビなど)と同じ道を辿り、何かを売りつけるための広告に成り果てたように感じる。そういえば、昔はYouTubeを観ていても、動画再生前にCMは流れなかったようなということを思い出す。今は広告を観ないためにはお金を払わなければならない時代だ。お金を払えば広告を流さないようにしてあげるよというのは、広告を発信する側も広告を嫌なものと捉えていることの証拠ではなかろうか。そう考えると広告っていうのは一緒の情報攻撃、毒電波みたいなもので、それから身を守るには金を払わねばならないという、地獄じみた生活を我々現代人は生きていると言えよう。仮に、人間の脳が一生の間に受容できる情報の量が決まっているとしたら、日々の生活で一方的に押し付けられる広告という情報は、ある意味でその人間の命を削っていると同じなのかもしれない。
そういった情報の包囲から逃れるため、テレビを持たず、ネットを活用しているという人もいるのかもしれないけれど、結局はネットも広告で溢れているし、配信されている番組も結局何かの宣伝でしかないわけで、テレビと何が違うんだって話になる。大体、ネットとテレビを対立するものとする語り口も多いのだけれど、多分ネットで利益を得ている層と、それ以前のメディアで利益を得ている層というのは大部分で被っているんじゃなかろうか。番組を、その内容の良し悪しに関わらず、より多くに人の目に触れるようにする手管というのは、マスメディア関係者が育んできたものなわけで。抜きん出た再生数を誇る配信者というのはそのバックに企業がいるのでしょうし、哀れ、その掌で踊るのは、テレビ嫌いからネットを愛好する視聴者ということになる。
テレビだろうが、ネットだろうが、結局は人間の下賤な欲を満たすためのツールに成り下がっているというのが実情だと思う。限りある人生を、精神的により豊かにするためのツールになる道もあったはずなのだけれど、残念ながらその方向には進まなかったようだ。それというのも、現代社会のあり方そのものが下品であり、さらに下品であることを良しとする流れに乗っているからだと思う。
この先100年、200年も経てば、この時代のあり方は、未来の人間に笑われることになるのではないだろうか。経済や欲望なんてものを大事に考えていた時代があったなんて信じられないね、という風に。そして、そうやって笑う未来人もまた、その先の未来人に笑われる。人間の歴史というのはその繰り返しなのではないだろうか。だから、せめて、今の時代の生き方が最新で、もっとも正しいなどという驕りは持たないようにしたい。 終わり