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ヴァレリー法律事務所

九回二死の男

作者: 飛鳥京子

ニ〇ニ〇年九月 パリ





「リュウガ・シェリンフォード。ルーツは香港だが、ニューヨーク生まれのニューヨーク育ち。よろしく」

 そう自己紹介した男は、まるで弁護士らしく見えなかった。ダークスーツに、第一ボタンをはずしたシャツはノーネクタイ。漆黒の髪を首の後ろで一つにまとめ、野球帽をあみだにかぶっている。やや釣り上がり気味の細い目。アジア系の顔立ちだ。

 今度は、彼を迎えるこちらが挨拶する番だ。エラリイは列の一番端にいたので、真っ先に名乗った。

「エラリイ・スターリング。イギリス人。よろしく」

 コロナ禍の第二波が押し寄せている時だったので、握手はなしだ。隣に立つ金髪碧眼の男が続く。

「ラエスリール・エースナイト、イギリス人です。長ったらしい名前なので、エースとよばれています」 

竜導幸葉(りゅうどうゆきは)、日本人です。竜導がファミリーネームです」

「アスター・ローリンド。アイルランド系アメリカ人です。ぼくもニューヨーク出身です。よろしく」

 セーヌ川の中洲の一つ、サン・ルイ島にあるヴァレリー法律事務所には、なぜか多国籍多民族のスタッフが集っている。それで、いつしか自己紹介にそういった情報を入れる習慣ができた。 

「ベアトリーチェ・トレシリアン。イタリア人です。ビーチェって呼んでね」

 この日はレモンイエローのスーツに身を包んだ、事務員のベアトリーチェがしめくくって、顔合わせは終わった。



 その日の昼食にアスターがリュウガを誘ったのは、自然な成り行きだったろう。面識はなくとも、同じニューヨーク出身。外国ではそれだけで親しくなるよすがとなる。その二人に、同じ英語国民のエラリイとエース、フランス語よりは英語の方が馴染みがあるという幸葉が何となく加わって、総勢五人でカフェに向った。セーヌ右岸、四区にある最近オープンしたカフェで、エスプレッソだけでなくドリップしたコーヒーも出すのが嬉しい。アメリカンがあると聞いて、リュウガも喜んだ。

 五人が座ったのは、店内のテーブル席だ。マスクを着用した店員が、注文を聞きにくる。

 三〜五月のロックダウンが明け、バカンスシーズンに向かって浮かれはじけたフランスは、今またコロナ感染者数の増加に脅かされていた。政府が何か措置を取れば、たちまち影響を受けるであろうこの店にも、そこはかとない緊張が漂っているようだ。

 エラリイ達のテーブルも、最初は少しぎこちなかったが、アスターがリュウガに、

−−それ、ヤンキースの帽子ですか?

と訊ねたあたりから空気がほぐれだした。二人が二言三言メジャーリーグの話をすると、話題はすぐにあとの三人も加われるものに変わった。多国籍で会話をする時は、全員が理解できる言語で話すこと、いつまでもローカルネタをしゃべらないことがルールだ。

 リュウガは少々やさぐれたムードを纏っているが、人柄は悪くなさそうだ。食事を終え、そこそこ打ち解けた五人が店を出ると、前の通りに人だかりがしている。五人がその輪に近づいてみると、買い物カートの側に人が倒れており、傍らにアジア系の男性がへたり込んでいた。

 ちょうど、倒れていた人物が身動きしたので、そちらもアジア系の、女性とわかった。頭を上げると、地面に丸く血の跡が残った。

「動かない方がいいわ」

 スーツ姿の女性が叫んだ。誰かが救急車を呼べと言ったらしいのへ、地面に座り込んでいた男性が、

「呼んだけど、一時間半以上かかるというんだ」

と、半分泣き声で答えた。

「それは、ねえな」

 リュウガは自分の携帯を出して、SAMU(救急医療サービス)を呼び出し、現在位置や患者の様子をテキパキと伝えてゆく。通話が終わると、

「大丈夫。すぐ来てくれるぜ」

と、路上の二人に声をかけた。女性の方はなおも起き上がろうとしている。後頭部にあてた手のひらにも血がべったりついており、皆、口々に動くなと言った。

(どういう転び方したんだろう)

 エラリイは訝った。このあたりは、最近、石畳からアスファルト舗装に変わったばかりで、路面は滑らかだ。カートを押して歩いていて、あんな傷ができるような転び方をするものだろうか。

 そうこうするうちに救急車が到着した。女性が担架に載せられる間に、別の隊員が、アジア系の男性に転倒の瞬間の様子を訊ねる。

「あれって、日本人じゃねえの?」

 エラリイが幸葉に囁くと、

「いや、ベトナム人だ」

 答えたのはリュウガだった。

「うちの近所のベトナム料理店のおばちゃんなんだ。病院へはおれが付き添っていくよ」

 そう言うと、リュウガは救急車の方へ歩いて行った。



 リュウガはなかなか事務所に戻って来なかった。夕方頃、事がややこしくなってきたので、今日は戻れないという連絡があったと、ベアトリーチェが言っていた。

 ケガをした女性の夫らしいアジア系の男性はまるで頼りにならなそうだったので、リュウガがずっと付き添っているのだろう。ということは、女性は案外重体なのか。エラリイの脳裏を、ふと、いやな予感がよぎった。



 母親がケガをして救急搬送されたという知らせがダンの耳に届いたのは、その日の撮影が終わって、帰り支度をしている時だった。

 連絡してくれたのは、両親がやっているベトナム料理店の客だった。リュウガというその客は、もちろんダンの携帯番号など知らないので、電話はかなりたらい回しにされたようだった。

 教えられた病院にダンが駆けつけた時には、母親は顔に白布をかぶせられた遺体になっていた。その脇に、父親が呆けたように立ち尽くしている。

 リュウガは、ダンを廊下に誘うと、

「お母さんの遺体を解剖して貰え」

と囁いた。

「おれが見た時には、お母さんはもうカフェの前に倒れてた。だから、転んだのかと思ったが、実際は、誰かがお母さんの頭に何か投げつけたらしい。金髪の男が、『コロナと一緒に国へ帰れ!』と叫んで逃げて行ったのを見た人もいる」

 コロナ禍が始まったのは中国の武漢だったので、欧米では、感染者数が増加するとアジア系の人間を白眼視する傾向があった。しかし、だからといって……

 ダンは母親の遺体に目を遣った。

「おれはこれから、パリ市警の証拠保全に立ち会ってくる。その時、お母さんの遺体を司法解剖するようせっつくつもりだ。解剖には家族の承諾がいるはずだから……」

「わかりました」

 ダンは頷いた。リュウガの言うとおりにしないと、アジア系女性の死など、単なる転倒による事故として片付けられてしまうことが、彼にもわかっていた。

 ダンの一族は、ベトナム戦争終了後にフランスに移住してきた。家族は全員、フランス国籍を持つ歴としたフランス人だ。だが、こんな時、自分達はあくまでもベトナム人なのだと痛感させられる。

 リュウガは、一枚の名刺をダンの手に握らせた。

「救急隊員に目撃証言をしてくれた通行人だ。必要があれば、いつでも話をしてくれると言ってる」

 ダンは名刺に目を落とした。


『On y va!』編集部

ピラール・ジュリー







「え? 昨日の女の人、亡くなっちゃったの?」

 翌朝、エラリイ達四人は、リュウガにその後の成り行きを聞き、揃って驚いた。

 リュウガはほとんど徹夜で走り回っていたらしく、スーツがよれよれだ。

「で、本当に、誰かに何かぶつけられたの?」

「ああ。こいつだ」

 リュウガはスマホで撮った写真を見せた。ペーパーバック程の大きさのコンクリート片の角に、血がついている。

「市警の奴ら、おれがやいやい言わねえと、指紋も取ろうとしやがらねえ」

 幸葉は両手で頬を包んで俯いた。とても他人事だと思えない様子だ。リュウガがまめまめしく奔走するのも、やはり、同じアジア系だからだろうか。市警が気のない捜査しかしないようなら、自分でコンクリート片を投げつけた金髪男を探しかねない勢いだ。

 偶然目にした現場の、思いがけなく深刻な経過に、一同は顔色を暗くした。



 同じ頃、ダンはロケ現場のテントの中で衣装をつけていた。司法解剖がすむまでは母親の遺体が戻ってこないので、葬式が出せない。それなら撮影に参加して、少しでもギャラを貰った方がいい。これまで勉学のためにコツコツ貯めた金を、葬儀や生活のために吐き出さねばならないと思うと、胸の中に黒雲が立ち込めた。

 彼の背後でテントがまくられ、同じスタントのアドルフが入って来た。母親がドイツ人、父親がフランス人だという彼は、母の血を濃く引いたらしい、金髪碧眼のアーリア人顔だ。

 彼には、いずれ主役を張る俳優にという野心があるらしい。今回、自分がスタントを務める主演男優をしきりにこきおろしていたが、その声はダンの耳を素通りしていくばかりだった。

 更衣テントを出たところで、ダンは荷物を抱えたアシスタント・ディレクターに行きあった。

「あ、ダンくん。お母さんの具合、どうだったの?」

「残念ながら、亡くなりました」

「え? 交通事故か何か?」

 相手は目を剥いた。

「まだ、はっきりわからないんです」

「ええと、撮影に来ても大丈夫なの?」

「司法解剖がすむまで、葬儀ができないんで」

「な、何か大事だね。あー、次のテレビドラマで、きみに日本人役がどうのって話があるみたいなんだけど、まあ、お葬式とかがすんでから……」

 語尾をモゴモゴと濁して、アシスタント・ディレクターは足早に立ち去った。

「いいなあ、もう次の仕事があるのか」

 どこから聞いていたのか、アドルフが背後から言った。

「いいよな、アジア系は。日本人だろうが、中国人だろうが、何だって声がかかるから。おれなんか、ドイツ系の顔だっていうだけでスタントやエキストラばっかりだもんな。フランス人は、ちょっとタレ目で目がデカい奴が好きだろう……」

 ダンは黙って歩き出した。



 撮影が終わると、ダンは名刺の人物に電話してみた。女性の声が出たので、少し驚いた。フランス人の名前は性別がわかりにくいと思う。

 午後八時以降であれば会えるというので、二四時まで開いているカフェで待ち合わせた。

 ダンの方が先に着いて、テーブル席で待っていると、一〇分ほどして女性が一人入ってきた。ダンにはすぐ、それがピラールだとわかった。きびきびした歩みにつれて、肩の少し上で切りそろえた黒髪が揺れる

 ダンが立ち上がると、向こうも彼を認めた。

 ピラールはこの店に来慣れているらしく、メニューも見ずに、生姜とシナモン入りミルクティーを頼んだ。ダンがさっき、これ一杯に五ユーロは高すぎると感じた飲み物だ。

 ダンの母親の死は、この日の夕方、ようやくニュースになっていた。警察は、事故と事件の両面から捜査するという。ピラールは簡単な悔やみの言葉を言うと、自分が目撃したことを話し始めた。

「歩いていたら、前方で、『コロナと一緒に国へ帰れ!』っていう声が聞こえて、反対方向から歩いてきた女の人が倒れたの。わたしがもう一度、声のした方を見ると、金髪の体格のいい男性が走っていくところだったわ」

「母はコンクリート片を頭にぶつけられたみたいなんですが、その男性が物を投げた瞬間はご覧になっていませんか?」

「ええ。走り去る後姿を見ただけで、顔も見ていないの。そんないうほど、決定的な瞬間を目撃したわけじゃないのよ。ごめんなさいね」

「いえ、そんな、感謝しています」

 ダンの言葉に嘘はなかった。通りすがりに目撃しただけの事件なのに、この女性はこうして名乗り出てくれたのだ。

「ねえ、あなた」

 ピラールはミルクティーのカップ越しに言った。

「もしかして、『外人部隊 フランシスとアブデラズィズ』っていうドラマに出てなかった?」

「はい。チョイ役でしたけど」

「やっぱり。グェン軍曹役よね。フランシスと同じ部隊のベトナム人の」

「そうです」

「その、キリッとした目元がすごく印象的だったの。あ、ごめんなさいね。こんな話、不謹慎かしら」

「かまいませんよ。ぼくを覚えていて下さってありがとうございます」

「主役のジリーはアクションシーンでスタントを使ってたけど、あなたは吹き替えなしだったでしょ」

「すごいですね。普通はそんなところまで気がつきませんよ」

 フランシス役のジリー・コスビーは、アドルフの弟だ。アドルフはドイツ人の母親似、ジリーはフランス人の父親似と、見事に顔立ちが分かれている。ヨーロッパ人など皆同じ顔に見えるダンにも、二人を見比べると少しは違いがわかった。同じ金髪碧眼でも、アドルフの方が彫りが深く、顔の中心に造作が集まっていて、中心に高い鼻がそびえている。ジリーの方は、たれ目気味の大きな瞳の、いわゆる甘いマスクだ。

「そうそう、あの鼻でスタントだってわかったのよ」

 この観察眼の持主が、現場から走り去る男の顔を見ていてくれたら、とダンはひそかに奥歯を噛みしめた。





 リュウガは、母の葬儀に弁護士仲間を連れて参列してくれた。

 漆黒の髪、エメラルドグリーンの瞳が印象的なアイルランド系アメリカ人がアスター、金髪碧眼のイギリス人がエース、プラチナブロンドに青紫色の瞳の、やはりイギリス人がエラリイ、紅一点の日本人が竜導幸葉という名だった。

 ピラールは明日参列すると連絡してきた。カフェで話した夜に携帯番号とメールアドレスを交換していたので、葬儀の日程を伝えたのだ。

 ベトナム式の葬儀は三日三晩続く。その間のいつ来ていつ帰るのも、参列者の自由だ。ダンは極力出費を押さえたので、かなり質素な葬儀になったが、あの日以来呆けたような父親を見れば、皆目をつぶってくれるだろう。

 それでも預金の大半を使ってしまったので、大学は休学するしかない。これからは、収入を生活費に充てなければならないから、再び学資を貯めて学校に戻るのは難しそうだ。

 誰かが腹立ち紛れに投げたコンクリート片のせいで、自分の人生までがガラガラと崩れてゆく。コンクリート片には指紋がついていたはずなのに、事故と事件の両面からなどといっている警察にも腹が立った。

(何が事故だ。殺人じゃないか)

 アジア系だというだけで、母の命はそこまで軽くなるのか。

 焼香の所作をじっと見守っていたリュウガ達が、ようやく祭壇の方へ進んできた。ダンも線香を持って進み出た。



 白い喪服に白いハチマキをした遺族の青年から線香を受け取って、エラリイは遺影の前に立った。三礼して線香を鉢に立て、棺桶の周りを時計と反対周りに一周する。

 同じ仏教徒の葬式でも、日本とベトナムでは全然違うらしい。

――前の人のよく見て、その通りにするしかないわ。

と、斎場を見るなり幸葉は言った。

 喪服が白というのがまず驚きだったが、参列者は皆暗めの服を着ているので、白は遺族だけの正装のようだ。すっかり気力を失くした様子の父親が、エラリイに昔を思い出させた。

 エラリイの父は、町ではそれなりに慕われていた医者だったが、母の死をきっかけに酒浸りになり、ある時、とうとう医療ミスをおかして医院をたたんだ。その後は死ぬまで、ただ飲んだくれていた。ダンのためにも、彼の父親には立ち直ってほしいものだと、祈らずにはおれなかった。




 

 母の葬儀がすむと、早々にダンは撮影現場に復帰した。今はとにかく、生活の糧を手に入れなければならない。

「お母さんは気の毒だったなあ。道で転んで亡くなるなんて、よっぽど打ちどころが悪かったんだね」

 アドルフの脳天気な言葉に、

「母は転んで死んだんじゃありません。コンクリート片を頭に投げつけられたんです」

 感情を抑えた声で答える。

「え、そうなの? ニュースじゃ事故だっていってなかったっけ」

「その後、現場でコンクリート片がみつかったんです。コンクリート片には、血痕も指紋もついていたそうです」

「指紋も? じゃあ、犯人はもう捕まったのかな」

 さすがに、アドルフの声のトーンが変わった。

「いいえ。前科・前歴のない人物だったみたいで、警察のデータベースにはヒットしなかったようです」

「じゃあ、どうやって犯人を見つけるの? 聞き込みとか?」

「そうじゃないですか?」

 はたして、パリ市警がそこまでやってくれるか。ダンは唇を噛んだ。



 ピラールから電話があったのは、その夜だった。自宅からかけているようなのに、なぜか声をひそめている。

「そこに誰かいるんですか?」

――ううん。事が事なんで、つい」

 声が少し大きくなった。

――あのね、初めて会った夜に、『外人部隊……』の話が出たでしょ?」

「はい」

――そのせいか、何だか、もう一度見たくなって、ネット配信で第一話から見直してたのよ」

 ピラールが何を言いたいのかわからず、ダンは首を傾げた。

――そうしたら……あの、ほら、地雷のシーン、覚えてる? フランシスが地雷原の前でわざと敵の標的になって、自分を狙った敵の弾丸で地雷を爆発させる場面」

「ああ、はい、覚えてます」

 ピラールの声が、また少し低くなった。

――あのシーンて、ジリーじゃなくて、スタントがやってたのよね?」

「そうです。お兄さんのアドルフがやってました」

――わたし、あの後姿、地雷原に向かって走っていく……あれに妙な既視感を覚えたの」

「既視感……」

――一度見た作品だからっていうんじゃなくて、あー、重大なことなんで言いにくい」

 ダンは携帯を持つ手がじわりと汗ばむのを感じた。

「もしかして、母の……」

 ピラールは、ダンの言葉におっかぶせるように、

――絶対間違いないって言い切れるわけじゃないのよ。でも、でも、あの時見た金髪の男性の後姿は……」

「そのシーンを演じていた男性、つまり、アドルフではないかと?」

――そうなの。ジリーが吹替なしで走ってるシーンの後姿とも見比べてみたけど、やっぱりアドルフなのよ」

「それを警察に話すお気持ちはありますか?」

――もちろんよ。でなきゃ、あなたにこんな電話しないわ。明日の朝一番でパリ警視庁に行くつもりなんだけど」

 その瞬間、ダンは自分の失態に気づいた。今日、撮影現場で、アドルフの態度が癇にさわり、リュウガから得た情報を事細かにしゃべってしまった。コンクリート片に指紋がついていたことまで。

 アドルフは最初、自分がコンクリート片を投げつけたことと、ダンの母親の死を結びつけてすらいない様子だった。だが、ダンと話すうちに、自分が彼女を死なせたことを知ってしまった。もう、安閑としてはいないだろう。

「いま……」

 歯ぎしりしたい思いで、彼は言った。

「今すぐ、一緒に警察に行って頂けませんか? それでも、間に合わないかもしれないけど」





 事務所が定期講読している日刊紙が配達されると、エラリイは早速、ダンの母親の事件の続報を探した。

 通りがかったベアトリーチェが紙面を覗き込み、

「ねえ、ひどいと思わない? この記事」

 少しかがみ込んで指さした。

 ダンの母親にコンクリート片を投げつけて死にいたらしめた人物が、若手俳優ジリー・コスビーの兄アドルフらしいという記事が、フリーペーパーよりやや詳しく載っている。警察が彼のアパルトマンに踏み込んだ時は既に遅く、部屋はもぬけの殻だったという。ご丁寧に部屋中きれいに清掃されており、指紋一つ出なかったそうだ。

 ジリーも参考人として警察の尋問を受けたが、間もなく釈放されている。

「ジリーが、そんなヘイト事件みたいなのに関係してるわけないじゃない。なのに、巻き添え食って出演停止だなんて」

 ベアトリーチェが怒っているのは、ジリーという俳優のためのようだ。

「おまえ、その、ジリー何とかのファンなの?」

「そうよ。応援してるの。まだ、深夜ドラマの主役を一本やっただけの新人だけど、すごく素敵なのよ。サラサラの金髪、大きな青い目、あどけなさの残る甘いマスク……女の子が一度は夢見る白馬の王子様そのものだわ」

「何だ、見てくれがいいだけかよ」

「あら、演技力なんて、後からいくらでもついてくるものよ。でも、気品ある顔立ちやスタイルの良さは、天性のものでしょ。努力したからって身につくものじゃないわ」

 ベアトリーチェは自分の容姿に自信を持っている。波打つ金髪、蜂蜜色の肌、すらりと伸びた長い手足。そのせいか、時々、こういう残酷なことを言う。

「警察はジリーがアドルフの潜伏先を知ってるんじゃないかって疑ってるみたいなの。気の毒なジリー。尾行とかされて神経すり減らしてるんじゃないかしら」

 ベアトリーチェは長い指を組み合わせて、手を揉んだ。



「……ぼくのせいです。アドルフの言うことなんか、いつもは黙って受け流してたのに」

 ダンは爪が食い込むほど握りしめた拳を、リュウガの執務室のテーブルに並べた。

 リュウガは、デスクの椅子を九〇度回してテーブルに向け、ソファに座ったダンと差し向かいになった。

「あいつがあまりにも軽く、母さんがただ転んで死んだみたいに言うから、つい、ムキになって、事件について知っていることをベラベラしゃべってしまったんです。現場で見つかったコンクリート片に指紋がついていたことまで。それで、あいつは捜査の手が迫っていることを知り、風をくらって逃げたんです」

「まあ、自分のすぐ側にいる人間が犯人だなんて、普通は思わんからなあ」

 あの夜、通話を終えるとすぐ、ダンとピラールはパリ市警本部に急いだ。かなり遅い刻限だったが、担当のラファエルという警部が残っていて、令状を取る一方で陣容を整え、翌朝一番にアドルフのアパルトマンに踏み込んだ。しかし、アドルフは姿をくらませた後で、部屋はきれいに清掃されていた。

――プレスリリースに事故の線も残しておいたのは、犯人を油断させるためだったんだ。

 ラファエルからそう聞いて、ダンは唇を噛み締めた。彼は、てっきり、警察がいつでも捜査を投げ出せるように、そう発表したのだと思っていた。

「ジリーの話じゃ、アドルフはぼくと話した後、ちょっとしたことで監督と言い合いになり、自分はドイツで俳優を目指すと啖呵を切って、現場を飛び出していったそうです。警察は一応、ドイツ警察の協力を得て、宿泊施設を調べているそうですが」

 現在、フランスからドイツへの入国に際しては個人証明の確認を受ける必要がなく、当然、記録も残らない。しかし、ホテルなどの宿泊施設では、外国人宿泊客は宿泊記録に自筆で記名せねばならず、個人証明書の作成も必要となる。

「問題は、本当にドイツへ行ったのかってことだな」

「ぼくと話していた時点で、いずれ捜査が自分の身に及ぶことはわかっていたと思いますから、それは陽動でしょう」

「そいつ、ドイツ語はどうなんだ。しゃべれるのか?」

「日常会話ぐらいはいけると思いますが」 

「とすると、どこかフランス語かドイツ語圏地域に逃げ込んだか、そう見せかけて国内にとどまっているか」

「アドルフは一応、俳優です。フランス国内だと、誰に顔を知られているかわかりません。EU域内の言葉が通じる国に逃亡したんじゃないでしょうか」

「正確には、シェンゲン圏だな。まあ、ほとんど同じようなもんだけど」

 ヨーロッパで互いに単一国内のように移動できるのは、一九八五年に署名されたシェンゲン協定が適用される二六か国だ。EUに加盟していなくともシェンゲン協定は締結している国、逆にEU加盟国だが協定を結んでいない国もあるので、両者は完全には一致しない。

「ま、おれ達がここでああだこうだ考えたって、どうなるもんでもねえ。それより、昼飯食いに行こうぜ」

 リュウガは椅子を回して立ち上がった。



 ダンが、ヴァレリー法律事務所へリュウガを訪ねたのは、アドルフ失踪までの顛末を話すためではなかった。

 その朝、激しいノックに目を覚まさせられ、ドアを開けると、債権者だという男達が立っていた。

 父は、

――そういうことは、母さんに任せていたからなあ。

と呟くばかりなので、ダンがざっと彼らの話を聞いた。

――母の葬儀が終わったばかりで、ぼくには事情がよくわからないんです。とりあえず、事実を確認をさせて下さい。

 そう言って何とかいったん引き取って貰い、父親を引っ張ってリュウガのもとに法律相談に来たのだった。

――借金があるのは本当なのか?

――はい。これが借用書です。

 母が几帳面にしまい込んでいた借用書は、今朝、押しかけてきた男達の人数より数が多い。

――なるほど、かなりの額だな。

 リュウガは、指を二本立て、

――まず、店を続けていくのか、清算しちまうのか、方針は大きく二つだ。

 店を続ける方向の手続きをとれるかどうかは、「支払停止状態」になっていないか、更正の可能性があるかによる。

――おれは、昨日や今日、パリ弁護士会に登録したばっかりで、勝手がよくわかってねえんだが、どうも、「支払停止状態」ってのが、色んなところで基準になるみてえなんだ。だから、それを調べるために、帳簿類を持ってきてほしい。直近五年分ぐらいの決算書もあった方がいいな。

――父さん。

 ダンに肘でつつかれ、父親は、

――ああ、はい。用意します。

と返事をしたが、いかにも心ここにあらずという様子だ。彼は委任状に署名すると、一足先に帰って行った。アドルフの話になったのは、その後である。

(何もかも上手くいかない……)

 リュウガの痩せた背中をぼんやりと眺めながら、ダンは力ない足取りで歩いていた。



 エラリイ、エース、幸葉、アスターは、カフェに向う途中で、ダン、リュウガと一緒になった。いずれも同じ店を目指していたようだ。

 カフェのテーブルでも、アドルフの逃亡先が話題になった。

「昔読んだ本に、無実の罪を着せられた主人公が、フランスへ行って外人部隊に入るっていうのがあったけど」

 幸葉が言うには、志願時に登録した指紋が国際手配されていなければ、体力テストなどでふるい落とされない限り、入隊が許可される。正式入隊してしまうと、その人物は隊に庇護され、警察も手出しはできないそうだ。

「それじゃ、無法者の巣窟になっちまわねえ?」

 エラリイが訊くと、

「そんなことはないんじゃない? 犯罪で手配中だったり、刑事処罰を受けたことが判明した人も、入隊は許可されないみたいだから」

「アドルフの場合なら、奴の指紋がコンクリート片に残っていたものと一致して、逮捕令状が出なきゃきついか」

 リュウガが骨張った指でカップを弾いた。

「てか、アドルフはフランス人なんだろ? 外人部隊なんか入れないんじゃねえの?」

 エラリイが訊いた。

「いえ、フランス人で外人部隊に入隊する人間も、結構いるみたいです。フランス系外国人てことにして申請するんですよ」

 ダンは、テレビドラマの『外人部隊……』シリーズに出演していただけあって、詳しい。そのドラマにはアドルフもスタントとして出演していたから、当然、彼にも同様な知識があるだろう。

「志願したら、指名手配とかされてない限り、すぐ入隊できるわけ?」

「いえ。その日は選考本部で、面接や色々なテストがあって、まずそこでふるいにかけられるそうです。残った者は志願兵になって訓練を受けますが、その間にもどんどん落伍者は出ます」

「アドルフはスタントやってたぐらいだから、身体能力ありそうだな」

 エラリイがつぶやくと、ダンは組んだ手にぐっと力を入れた。

「そうですね。ただ、軍隊だから、いわゆる運動神経だけじゃなく、持久力が問われるんですよ。長距離走の成績が悪いと、隊に残れなかったり、希望の部隊に入れなかったりするんです」

 ダンが演じたグェン軍曹は、他は申し分ないのに、持久力だけが足りず、エリート部隊に入れなかったという設定だそうだ。

「アドルフはアクション系の俳優を目指してたみたいで、日頃から走り込んだり、トレーニングしてましたから、外人部隊の基準にもかなうかもしれません」

 それまで黙って聞いていたアスターが、初めて口を開いた。

「ぼくは、外人部隊に伝手のようなものがあるんだけど、何なら、アドルフと思われる志願兵がいないか、聞いてみようか?」

 ダンは目を見張った。思いがけない申し出に、何と返事をしていいかわからない様子だ。エラリイ達も、驚いてアスターを見た。

「もし外人部隊に潜り込もうと考えたのなら、アドルフはおそらく偽名を使い、ドイツ人と称して志願したでしょう。そうなると、決め手は外見だけになる。できるだけ写りのいい彼の写真があるとありがたいんですが」

「『外人部隊……』の打ち上げのスナップならありますが。あの、ぼくも一緒に行っていいですか? もしかするとアドルフは、ちょっとした変装をしているかもしれません。でも、ぼくなら、役に合わせて外見を変える彼を見ていますから、見破れると思います」

「それなら、警官にも同行して貰えばいい。指紋を突き合わせて一致すりゃあ、その場で身柄を押さえられるだろ? そっちは、おれが話してやるよ」

 リュウガも身を乗り出した。

 フォル・ド・ノジャンにある外人部隊の選抜センターは二四時間、年中無休で入隊志願を受け付けているという。ダンは、できることなら今すぐとんで行きたい様子だ。一分一秒の遅れで、アドルフを取り逃がすかもしれないのだから。

 しかし、アスターにも既に午後の予定が入っている。それが全て終わる午後六時過ぎに、関係者は事務所の前に集まることになった。

「ありがとうございます。ぼくのために」

 ダンはこみ上げてくるものを堪えるように顔をしかめた。リュウガがその肩を叩く。

「エラーをしても、次の打席でヒットを打って取り返せばいいのさ」



 エラリイ達がパリ・リヨン駅に着いた時、有名な時計塔は六時半を指していた。塔の四面に文字盤があるので、どの方角からも時刻がわかる。

 構内は近代的だが、外観は一九世紀の雰囲気をとどめるこの駅は、それ自体が一つの観光スポットだ。

「で、何でおまえらまでついてくんだよ」

 リュウガに睨まれ、エラリイ達は首を縮めた。

「て、外人部隊ってどんなとこか、ちょっと見てみたいし」

「ごめん。そんな興味本位でついていくべきじゃないよね。でも、あそこまで話を聞いちゃった以上、最後まで見届けたいっていうか……これも野次馬根性かな」

 いかにも英国紳士という風情のエースに真摯に言われると、たいていの人間は気持ちを和らげる。

「いえ、それだけ気にかけて頂いてるってことですから」

 ダンは言った。

 幸葉は、帰れるものなら帰りたいという風情で、面倒そうに歩いている。

 パリから最寄の外人部隊選抜センター、フォル・ド・ノジャンへは、リヨン駅から、イル・ド・フランス地方の鉄道ネットワーク、トランシリアンに乗って行く。

 フォントネ・ス・ボワ駅で降車すると、パリから約三km離れているだけなのに、随分土くさい趣きになった。

 ラファエル警部達市警本部の面々は、既に車で到着していた。

 一同は、アスターについてゆるやかな坂道を登り、社宅風のアパルトマンが連なる路に入った。その路の先に厚い木製の扉があり、レジヨン・エトランジェール(外人部隊)と記されている。

 アスターが進み出、誰何する歩哨と短いやりとりをかわす。ややあって、扉が開き、彼は中へ招き入れられた。

 アスターは、事件を報じた新聞記事の切り抜きと、ダンが持ってきたアドルフのスナップ写真を持参している。それを見せて、ダンが最後にアドルフと話してから、警察がアドルフのアパルトマンを家宅捜索するまでの間に、彼が入隊志願してこなかったか訊ねればいい。

 三〇分程して、兵士が一人、顔を出して言った。

「すみません。警察の方と、被害者の息子さんは中に入って下さい」

 さらに二〇分程が経過し、中に入ったメンバーが出てきた。

「で、どうなったのさ」

 エラリイが訊くと、アスターが説明した。

「志願者の面通しは断られた。写真に似た男が志願してきたかどうかも答えられないそうだ。でも、ラファエル警部が捜索差押令状をとっていたので、九月一一日から一二日の間に志願してきた者が登録した指紋を持ち帰れる。市警本部で鑑定して、コンクリート片に残った指紋と一致するものがあれば、逮捕令状が出るから、今度こそ身柄を拘束できるよ」

 市警の面々は一刻も早く鑑定に回したいのだろう、急ぎ足で車に乗り込んだ。

 ダンと五人の弁護士達は鉄道でパリ・リヨン駅に戻ると、近くのカフェで一息ついた。

 ダンによると、彼らが入って行ってからの二〇分あまりは、なぜ志願兵の面通しができないかの説明に終始していたという。ラファエル警部も随分粘ったが、結局、該当期間内に志願してきた者の氏名と、登録時の指紋を持ち帰れただけだった。

「志願兵の中に、ミヒャエル・ハウザーというドイツ人の名前がありました。多分、それがアドルフだと思います。会わせて貰えたら一目でわかるのに」

 ダンははがゆそうに顔をしかめた。

「まあ、いいんじゃねえの? 指紋を鑑定して、コンクリート片に残ったものと一致するのがありゃあ、逮捕できるんだから」

 リュウガはそう言って、エスプレッソを飲み干した。

「ところで、アスター。答えたくなけりゃいいんだが、おまえと外人部隊って、どういう関係なんだ? おまえを見送る時のやつらの様子ったら、まるで身内だったじゃねえか。ありゃあ、伝手がある、程度には見えなかったけどな」

「ぼくは、外人部隊にいたことがあるんだ」

 意外なことをアスターはスラリと口にした。

「正式入隊すると、契約期間は一期五年だ。ぼくは延長せずに一期で退役した。実際にやってみて、軍隊は性に合わないと感じたからだけど、彼らにとってはOBだから、仲間のように迎えてくれたんだろう」

 アスターが淡々と話すのを、他の五人はあっけにとられて聞いている。

「何で、外人部隊に入ろうなんて思ったのか、訊いてもいい?」

 エラリイが訊ねると、アスターはまたもあっさりと言った。

「ぼくの両親を殺した男を、追いかけて行ったんだ」



 その夏、アスターは祖父母の家で二週間を過ごした。さほど遠い土地ではなかったので、十代の少年でも一人で行来できる。

 帰りにバス停まで見送って貰い、バスとメトロを乗り継いで帰宅した。

 自宅から二ブロック程のところで、一人の男とすれ違った。グリーンのキャップを目深にかぶり、ジーンズのポケットに手を突っ込んでいる。赤みがかった茶色の髪が、キャップからのぞいていた。

 男の横を歩き過ぎる瞬間、なぜか空気の温度が下がったように感じた。

 思わず振り返ったが、男はどんどん歩いてゆく。

 アスターも急ぎ足で二週間ぶりの我が家に帰り着いた。

 玄関ドアが開いているのがわずかに気になったが、かまわず家の中に駆け入ると、リビングに父と母が折り重なって倒れていた。すぐに、二人ともこときれているのがわかった。その瞬間、さっきすれ違った男の仕業であることを、なぜか彼は確信していた。



 男は捕まらなかった。

 しかし、警察の地道な捜査により、彼がキリアン・レイン・ディランデイという名であること、犯行後、フランス外人部隊に入隊したことが判明した。

 アスターはフランスに渡り、自らも外人部隊に志願して、さまざまなテストをクリアし、正式入隊した。残念ながら、体力テストの成績がわずかに及ばなかったため、キリアンのいるエリート部隊には配属されず、結局、五年の任期のうちに、彼と顔を合わせる機会は一度もなかった。アスターは空しく満期除隊した。

 しかし、外人部隊は何歳まででも続けられる仕事ではない。パリで司法に携わる仕事をしていれば、いずれキリアンが除隊してきた時に接点ができるかもしれない。

 そう考えて、アスターは法律の勉強をはじめた……という。

 




「え? どれも一致しなかった?」

 警察からの電話にダンは耳を疑った。普通、警察は鑑定の結果をいちいち被害者の遺族に伝えたりしない。だが、昨日一緒にフォル・ド・ノジャンまで行ったよしみか、ラファエル警部は彼に連絡してくれた。志願兵の登録指紋はどれも、コンクリート片に残っていたものと一致しなかったと。

(そんな……じゃあ、あいつはどこに)

 コスビー兄弟の母方の祖父には国粋主義者的なところがあり、一人娘がフランス人と結婚するのには反対だったと、以前、ジリーに聞いたことがある。

――だから、ぼく達も、ドイツへ行ったことはないんだ。

 ならば、アドルフが本当にドイツへ行ったとしても、泊めてくれる親戚などいないはずだ。アドルフがドイツの宿泊施設に宿泊した記録も、今のところみつかっていない。彼は一体どこに消えたのか。

 愕然として通話を終えると、待っていたかのようにピラールからの着信が入った。

 昨日からの顛末を話すと、

――じゃあ、あれはアドルフじゃなかったのかしら? わたし、何度も画面を見直したんだけど、ごめんなさい」

「いえ、犯人はアドルフで間違いないと思います。でなければ、あんなに急いで姿を消すはずがありません。しかも、指紋を消すために、部屋をきれいに掃除までして。ただ、行先が外人部隊ではなかったようです」

――他に、どこへ行ったか心当たりはないの?」

「ぼくはそれほど彼と親しかったわけじゃありませんし、弟のジリーも見当がつかないみたいなんで」

――んー……」

 ピラールはしばし考え込む様子だったが、やがて言った。

――ねえ、『外人部隊……』のジリーが入隊するところで、指紋を押捺するシーンがあったわよね?」

「ああ、ええ」

――あそこで映ってた指紋て、まさかジリーのじゃないでしょ? 撮影用の小道具に指紋シールみたいなのがあるんじゃない?」

 間もなく捜査の手が自分に伸びるかもしれないこと、指紋が決定的な証拠らしいことを知ったアドルフが、小道具の指紋シールを持ち逃げし、外人部隊の志願時登録にそれを使ったのではないかというのだ。

――一枚なくなってないか、小道具の人に訊いてみたら?」

「そうですね」

と相槌を打ったが、アドルフに疑いがかかって以来、自分に対する周囲の目が急速に冷たくなったのをダンは感じている。たとえ被害者側の人間であっても、彼は撮影現場をかき乱した存在なのだ。おそらく、次の仕事はもう来ないだろう。探偵ごっこのようなことはしていられないのが実情だった。ピラールが善意で言っていることはわかっていても、安定した仕事を持っている人間の余裕のようなものを感じてしまう自分が嫌だった。

 二本の電話が入る前に広げていた決算書に目を落として、ダンはため息をついた。





「大山鳴動して破産一件かあ」

 リュウガの執務室には、エースのいれたアールグレイの香りが漂っている。自分のカップを受け取りながら、リュウガは盛大にため息をついた。

 アドルフが逮捕されたからといって、リュウガの利益になるわけではないが、犯人が捕まれば、ダンの母親も浮かばれようというものだ。生前、夫と二人で懸命にやってきた店が、コンクリート片一片のために失われようとしているのだから、なおさらだ。

「やっぱり、破産するしかねえの?」

 ソファの背もたれに片腕をかけて、エラリイが訊いた。リュウガが頷く。

「ダメだな。遅かれ早かれ支払不能だ。もともと、奥さん一人でもってた店みてえだし、それなら、清算しちまって、ダンの奴を身軽にしてやった方がいい。あいつは大学に行きたいんだ」

 フランスの法律では、支払不能に陥ってから四五日以内に倒産手続きの申立てをしないと、経営者に申立遅延責任が生じる。リュウガはダンの父親の申立代理人となって、必要書類を作成し、裁判所に提出するのだ。

「しかし、あの親父、奥さんの言いなりだったみたいでよ」

 リュウガは体を背もたれに預けて、額に手を当てた。

「何を訊いても、妻ならわかるんですが……で、埒が明かねえんだ」

「他人と思えない」

 エラリイの隣で幸葉がぽそりと呟いた。彼女は時々こんなことを言う。他人と思えない、自分を見ているようだ。

(ダンの親父さんなんか、そんなに幸葉に似てるかな)

 エラリイは首を傾げた。

「だけど、そのアドルフって人、どこへ消えちゃったんだろうね」

 エースが言った。彼は、ソファの隣の丸テーブルを囲む椅子に腰かけている。

「ベルギーかスイスあたりに逃げ込んで、整形手術しちまったのかもなあ」

 リュウガのカップがソーサーに当たってカチンと鳴った。

「幸葉の読んだ本ではどうだったんだ?」

 エラリイが訊くと、

「主人公だから捕まらないよ」

と幸葉は笑った。

「でも、何年かかっても必ず捕まえてやるって執念燃やしてる刑事と、あの事件の真犯人は別にいるんじゃないかって疑問を抱く刑事がいて、三人のからみが面白かったわ」

「その、目撃者の女性が言ってたようなことは可能なのかな?」

 エースが話を戻した。

「登録時に偽の指紋を使うっていうのは」

「偽の指紋を作る時間はなかったと思うぜ」

 リュウガが答えた。

「パソコンや携帯の画面についた他人の指紋を写真編集ソフトで画像化して、レーザープリンターでアセテートシートに印刷するのが、一番簡単なやり方だろうけど、まず、ある程度はっきりした他人の指紋を写すってのが、前々から機会をうかがってなきゃできねえことだ。それに、アドルフは多分、レーザープリンターなんか持ってなかっただろう。家具備え付けの部屋に、最低限の身の回り品だけ持ち込んでたんじゃねえかな。でなきゃ、あんな短時間で部屋を引き払えねえよ」

「レーザープリンターじゃないとダメなんですか?」

 知ったかぶりをせず素直にものを訊ねるのは、幸葉の美点の一つだと、エラリイは思っている。時々、「おまえ、そんなこと知らないでこれまで生きてきたの?」と訊き返したくなることも、あるにはあるが。

「ダメだね」

 リュウガが説明する。

「指紋てのは、凹凸があるもんだろ。レーザープリンターのトナーがシートに付着することによって、指紋の3D構造が印刷できるんだ」

 印刷後は接着剤でコーティングするなど、結構手間暇がかかるようである。それらの作業を終えて、その跡を片付け、部屋中の指紋をきれいに拭き取るには、一日足らずという時間はややタイトなのではないか。

 そんなことを話しながら、一同はティーセットの片付けにかかった。給湯室にある洗濯機のような食洗機に食器を入れると、ちょうど中がいっぱいになった。エラリイは所定の場所に塩を入れて、スイッチを押した。

 塩を入れるのは、フランスの水道水がミネラルの多い硬水だからで、そのままだと、石灰が白く残ったり、食洗機の故障原因になる。

 エラリイの母国イギリスでも、食洗機はあたりまえのように、キッチンにビルトインされていたので、

――あたし、フランスへ来るまで、食洗機なんか使ったことなかった。

と、幸葉に聞いた時はぶったまげたものだ。

 日本の水は軟水だから、と幸葉は言うが、

「ニューヨークの水だって軟水だけど、食洗機はほぼ備え付けだぜ」

と、リュウガは言う。

「硬水、軟水っていうより、アジアが手洗い文化なんだよ。つーか、女が手洗いすべきって文化なんじゃねーか?」

「そうかも」

 幸葉は憮然とした表情を浮かべた。





 自転車を連ねて裁判所から戻る途中、リュウガは、

「ちょっと、市警本部によっていきたい」

と言い出した。

 エラリイは瞬時迷ったが、

「いいよ。おれも行く」

と答えた。

 まだ手持ち事件が少ないリュウガに、エラリイは共同受任を一件頼んだ。その口頭弁論の帰りだった。比較的早く順番が回ってきたので、午前中に事務所に戻れる時間帯だった。

 市警本部を訪ねると、ラファエル警部はおらず、彼と一緒にフォル・ド・ノジャンに来ていたリジェンヌという刑事が応対してくれた。

「ドイツの警察によると、コスビー兄弟のお祖父さん、ヨアヒム・グンダーマンは、ちょっと要注意人物らしいの」

 中年以降にナチスオタクとでもいうような傾向が強くなり、車椅子生活になった今では、家の中で鉤十字の腕章や、SSの制帽を身につけたりしているという。通いのヘルパーは、彼を外出させる際、そういったグッズを残らず外したか点検するのが大変らしい。

「そんな人物だから、アーリア人的な外見のアドルフを匿う可能性はあるわ。だから、わたし達から照会を受けるとすぐ、ヨアヒムの家をチェックしてくれてるんだけど、今のところその形跡はないらしいの」

 ヘルパーが買う食料品の量が増えたり、見知らぬ男の姿を見かけたという目撃情報もない。

「じいさんがアドルフを他の親戚に預けたってことはないか? 自分は警察にマークされてるし、ヘルパーさんが家に出入りしてるからって」

 リジェンヌは首を振った。

「ヨアヒムの家族は、もうみんな亡くなっているわ。お兄さんが三人いたんだけど、戦争で死んでしまって、戦後生まれの末っ子であるヨアヒムだけが生き残ったそうよ」

「外人部隊の線は、もう完全に消えちまったの?」

 エラリイが訊くと、リジェンヌは鼻に皺を寄せた。

「だって、指紋が一致しなかったし」

「あの目撃情報を寄せてくれた女性が、撮影の小道具に指紋シートみたいなのがあるんじゃないかっつってたらしいけど」

 リュウガが、ダンに聞いた話を告げた。

「実際に、一枚なくなってたなんてことがあったの?」

「それは、わからん。ダンの奴は、今、工事現場のバイトをかけもちしてて、撮影現場には行っていないんだ」

 俳優として人気が出始めていたジリーが事件の巻き添えを食ったことで、撮影現場のダンに対する風当たりが強くなり、彼も仕事を干されているらしい。理不尽な話だと、エラリイは思う。

「じゃあ、ちょっと問い合わせてみるわ」

 リジェンヌはその場で電話をかけた。結果は、アドルフが最後に撮影に加わった現場で小道具がなくなったということはないということだ。もちろん、使用後はその度に数を確認しているそうだ。

 彼女のテキパキした対応に、エラリイは好感を持った。初動こそ腰が重かったものの、ラファエル警部のチームが担当になってからは、俄然、フットワークがよくなった。

 だが、依然、アドルフの行方は知れない。

 警察は、ドイツに限らず周辺諸国へ行く航空機、特急列車等、予約の必要なものは全て照会をかけたが、ヒットしなかったという。宿泊施設への照会も同様だった。

 リュウガもエラリイも何となく気落ちして事務所に戻った。ドアを開けるなり、ベアトリーチェの声が耳に飛び込んでくる。

「ユキアさん(イタリア人もhを発音しない)、お願い。すぐ、ドイツ語になっちゃう方なの。回していいわね。外線3番よ」

「幸葉さんて、ドイツ語しゃべれるの?」

 リュウガが訊く。

「本人はしゃべれないっつってるけど、こないだ、ドイツ人に道をきかれて、ドイツ語で説明してたぞ」

「アジアの謙遜だな」

 リュウガは声を立てて笑った。

 欧米人は、できることは堂々とできると言うし、何かが上手いとほめられると素直に喜ぶが、アジア人は思い切り否定するのが慣例なのだそうだ。

「おれはニューヨーク生まれだから欧米流だが、年配の中国系はすごいぜ。『そんな、わたしなんか、とんでもないです。全然ダメです』って全力で否定するんだ。『そうですか。わたし、歌には自信あるんです』なんて言おうもんなら、あいつは自信過剰だとか、思い上がってるとか、社交辞令がわからないのかとかって、叩かれちまうんだよ」

「めんどくせ〜」

 エラリイがため息をついた時、

「リュウガ、ちょうど良かった」

 アスターが二階の通廊から声をかけ、階段を駆け降りてきた。

「さっき、外人部隊の後輩から連絡があったんだ。問題の日に志願してきた者の中に、挙動不審な男が一人いたって」

 その兵士は、ニュースで流れたアドルフのスタントシーンを見て、思い出したという。志願者の列に並んでいた男が一人、途中で列を抜けて引き返したのを。

「その時は、臆病風に吹かれて逃げ出したと思い、特に気に留めなかったそうだが、後姿が、ニュースで流れたアドルフのものに似ていたというんだ。今思うと、自分より前に並んだ奴らが指紋登録しているのを見て、踵を返したようだったと」

「てことは……どうなるんだ?」

 エラリイは頭を振って、考えを整理しようとした。

 後付けの記憶というのは、往々にして信用できない。既に先入観が入ってしまっているからだ。

 だが、この兵士がよほどおっちょこちょいでない限り、記憶や印象をある程度吟味した上でアスターに連絡してきたに違いない。

 とすると、アドルフは一度は外人部隊に身を隠そうとしたものの(『外人部隊……』にも、そういう設定の登場人物がいた)、指紋が、自分と事件を結びつける決定的な証拠であることに思い至り、志願を断念したのか。

 では、その後にアドルフが行こうとした場所はどこだろう?

「午後に、ダンと打合せが入ってるから、心当たりがないか訊いてみるよ」

 リュウガがアスターに答える声が、耳に入った。



「そんなこと、知りませんよ。ぼくは別に、アドルフと個人的に親しかったわけじゃないんですから」

 思わず声を荒らげてしまい、ダンはハッとして、続く言葉を飲み込んだ。

 母親が死んで以来、彼女が一身に背負っていた重荷が全てダンの肩にかかってきた。

 アルバイトを掛け持ちしても、生活を支えるだけでカツカツで、大学に戻る希望も将来の夢も、今は極力考えないようにしないと気が狂いそうになる。

 父親はまるで抜殻で、家にいても家事をしてくれるでもない。この打合せも、父親が行ってくれれば午後のバイトを休まなくてもよかったのにと思うと、一言言わずにはおれなかった。

――わからない、わからないって、母さんと一緒にずっと店をやってたのは父さんだろ? ぼくが弁護士のところへ行ったら、その分の時給がなくなるんだよ。

 そんな心のささくれを、今度はリュウガにぶつけてしまった。たまたま現場に居合わせただけの巡り合わせで、リュウガはずっと親身だったのに。

「すみません、ぼく……」

「わかってるよ」

 リュウガは怒らなかった。

「今、おまえが感じてるストレスは相当なもんだろう。そんな中で、店の後始末なんざ、一番やりたくないことだよな。そこへ、よけいなことまで訊かれたら、そりゃあ、癇に障るわな」

「申し訳ありません」

「大丈夫だよ。さっき、アスターが市警本部に連絡したから、今頃、奴らがジリーにでも聞きに行ってるさ」

 その結果におそらく期待はできないだろうと、ダンは思った。彼の見たところ、ジリーとアドルフはそれほど仲のいい兄弟ではなかったからだ。特に、ジリーにちらほら役がつきだしてからは、アドルフのやっかみが露わになり、ジリーも鬱陶しがって、極力接触を避けていた。

 気を取り直して、眼前の課題に向う。

 今日作成するのは、支払不能に至る経過の説明だ。

 もともと経営が楽ではなかったことは、ダンも感じていた。ベトナム料理店自体、パリにはたくさんある上に、やはり数多い中国料理店や寿司バーとライバル関係にあったからだ。

 両親は毎日長時間働き、それでも自転車操業から抜け出せなかった。

 そこへ、三〜五月の外出禁止と飲食店の閉店が追い打ちをかけた。

「給付金はちゃんと貰えたのか?」

「それが……損な方にばっかり転ぶ人っているでしょ」

 ダンは口を歪めた。

「え?」

「ちょうどボーダーライン付近にいて、たとえば、あと少し収入が少なければ、税金が一段下のランクだったのにとか、逆に、もう少し損害が大きければ、給付金が貰えたのにとか、いつも損な方にばっかり該当する人っているでしょう。うちって、そうなんです」

 ロックダウンによる連帯給付金の支給には、今年三月の収入が前年三月の五〇パーセント減という条件がついている。

「ロックダウンが始まったのは三月一五日だったでしょう」

 その一五日分の売上がたまたま良かったために、わずかに五〇パーセントの減少にならなかったのだ。

「四月、五月は全面休業だったんで、さすがに貰えましたけど、一五〇〇ユーロ(約一八万円)一回分貰えなかったのはきついですよ」

 フランスの政治は速攻だ。大統領がテレビで、何日からロックダウンだと演説すれば、即実行される。タッチの差で仕入れてしまっていた材料の買掛金や、三月分の給付金を貰えなかったために利用したカードローンの支払いなどに、四月分の給付が右から左に消えてしまい……という具合に、ボタンの掛け違いが直せなかった。

 母はバカ正直な性格だった。申告のしようによっては、三月分の給付金も貰えたのではないかとダンは思う。ネットで簡単に申請できたのだから、自分がしてやればよかったと、今さらながらに悔やまれた。

 父親のことなど言えない。母が生きていた時は、面倒事は全て母一人が防波堤のように受け止めていたのだ。その防波堤がアドルフのあの行為で、あっけなく壊れた。

 そう思った瞬間、腹の底から噴き上げてくる憎しみに、ダンは拳を握りしめた。




 パリ警視庁は、セーヌ川の中洲の一つ、シテ島のほぼ中央部にある。向かいは、昨年四月、大規模火災が発生したノートルダム大聖堂である。まだ修復に向けての準備中で、火災前の改修工事のために組まれた足場の撤去などが行われているらしい。

 警察留置になった被疑者の接見を終えて、ネオフィレンツェスタイルの庁舎を出てきたエラリイは、自転車をサン・ルイ橋に向けた。

 彼が所属するヴァレリー法律事務所は、その橋を渡った先、サン・ルイ島にあるのだ。

 庁舎の入口付近をうろうろしていた女性が、エラリイの自転車の進行方向から身を躱した。つばの広い帽子を被ってサングラスをかけ、マスクをしているので、人相はほとんどわからない。

 彼女は彼の脇を通り過ぎ、庁舎の入口を覗き込んでいたが、身を翻してこちらへ歩いてきた。だが、すぐ足を止めて、躊躇いがちに庁舎の方へ戻りかける。

「あの、警察に何かご用ですか?」

 エラリイは自転車を降りて声をかけた。敷居が高くて入りにくいのなら、受付のあたりまで付き添ってもいいと思ったのだ。

「あなた、警察の方?」

「いえ、弁護士です。もし、入りにくいようなら、一緒に行きましょうか?」

 女性は戸惑ったように、エラリイと庁舎の入口に、交互に目をやった。

「わたし……どうしていいかわからなくて」

 細い指が金髪をかきあげる。

「弁護士さんだとおっしゃいましたね。もし、お時間があるようでしたら、ちょっと、そこのカフェで話を聞いて頂けないでしょうか?」

 藪から棒にそう言われて、エラリイは面食らったが、彼女があまりに必死の面持ちだったので、つい頷いてしまった。



 パリのカフェの客は大まかに三層に分かれる。カウンター派、店内テーブル席派、オープンテラス派である。

 エラリイは店内テーブル席派で、今日は連れの女性の話が深刻そうなので、奥の壁際に陣取った。カウンターからもある程度離れていて、他人の耳をはばかりやすい。

 どちらもカフェオレを頼み、それが運ばれてきても、女性は口を切らなかった。

 半分ほど飲んだところで、エラリイは名乗りながら名刺を渡した。女性も自己紹介する。

「わたしはクリスタ・コスビー。おそらくニュースでご存知でしょうが、アドルフ・コスビーの母です」

 エラリイは、続く彼女の言葉を慌てて遮った。

「ちょっと待って下さい。そういうことなら、これ言っとかないと、フェアじゃないから」

 目をパチクリさせるクリスタに、エラリイは、同じ事務所の弁護士が、あの事件で亡くなった女性の遺族の依頼を受けていることを伝えた。

「あの件とは直接関係ない民事の依頼ですが、利益相反ていって、たとえば、あなたがうちの事務所に何か依頼しようとされた場合、うちではお受けできないんですよ」

 利害の対立する当事者の依頼を同じ事務所で受けてしまうと、どちらかの利益を損なう可能性があるからで、そういう相談を受けた場合、弁護士は、他の事務所を紹介する。

「ぼくがそういう立場の弁護士だとわかった上で話されるのなら、お聞きしますけど」

 クリスタは、そこに答えが書いてあるとでもいうようにエラリイの名刺をためつすがめつしていたが、やがて言った。

「わかりました。わたし、本当にどうしていいのかわからないので、やはり聞いて頂きたいと思います」

 クリスタは語り出した。



 そうは言っても、何からお話すればいいのか……やはり、父のことから聞いて頂くのが一番いいでしょうね。

 わたしの父ヨアヒムは、もともと少し国粋主義的な傾向がある人でした。

 母が生きていた頃は、まだ普通だったというか、ちょっと愛国心が強過ぎるおじさん程度ですんでいたように思います。わたしも、幼い頃は、さほど父に嫌悪感は抱きませんでしたから。

 でも、母が死んでから、父は精神のバランスを崩しました。ナチスを礼賛するようなことを言い出したり、外国人をやたら毛嫌いするようになったんです。

 わたしが恋人を紹介すると、彼がフランス人だというだけで交際を反対されました。結婚するなら、親子の縁を切ると。わたし達はかまわず結婚し、パリに移り住みました。わたしも、今はフランス国籍です。子供達が生まれた時だけは写真を同封した手紙を出しましたが、父からは何の返事もありませんでした。こちらからも、あえて接触はしていません。

 父と再会したのは、あの人が要介護状態になった時です。施設に入れることも考えましたが、移動に車椅子を要する以外はシャキシャキしていますので、通いのヘルパーさんに来て貰うよう手配したんです。

 父は、性格が一層偏屈になっているようで、寝室の壁にも大きなナチスの旗を飾っていました。そんなことが見つかったら、ドイツでは犯罪です。最初はそれで、どのヘルパーさんにも逃げられてしまったんですが、幸い、今の人は上手くあしらってくれているようです。

 その父から、最近、妙なメールが来ました。

 こんな風に長々と父の話をしたのは、そのためです。



 クリスタはそう言って、携帯の画面を示した。父を見舞った時に、一応、電話番号とメールアドレスを交換しておいたのだという。

 ヨアヒムのメールは当然ドイツ語なので、クリスタはフランス語に訳していった。

『おまえとは親でも子でもないと思っていた。当然、財産も譲るつもりはなかった。だが、あの男に全てを搾り取られるくらいなら、ドイツ人のおまえと、若い頃のわたしにそっくりなアドルフにだけは、分けてやってもいいと考えている。そういう遺言書を作ってほしいか?』というのが、大意である。

「あの男って、誰ですか?」

「どうも、ヘルパーさんのことみたいなんですが、どうしてそういう話になるのか……それより、わたしが気になるのは、この部分なんです」

 クリスタは携帯の画面を指さした。

「アドルフが、若い頃の父にそっくりだって書いてあるでしょう。たしかに、あの子は、隔世遺伝と言いたくなるくらい父に似ています。見た目も、考え方も。でも、そんなことを父が知っているはずがないんです。父には、あの子達が生まれた時の写真を送ったきりで、その後の様子なんか、何一つ知らせていないんですから」

「てことは、アドルフはお父さんのところへ行ったと?」

 しかし、先日、リュウガと一緒に市警本部で聞いたところでは、ヨアヒムの家にもう一人潜り込んでいる形跡はないという。通いのヘルパーがいるということだから、その目から隠すことも難しいだろう。

「てか、あなたが、どうしていいかわからないと思い悩んでいるのは、何についてなんですか?」

「この話を警察にするかどうかです」

 クリスタは軽く首を振った。

「いえ、すべきなのはわかっているんです。でも……」

 俯くと、形良くとがった鼻の両脇のほうれい線が際立った。マスクはカップの横に置かれている。

「わたし達……あの女性のご遺族と同じくらい、アドルフを恨めしく思ってるんです」

「そりゃあ、自分は何も悪いことしてないのに、大変な目にあったんですからね」

 そう言うと、クリスタは意外そうに顔を上げた。

「そんな風に言って下さるんですか? あの事件以来、家の前の通りにはマスコミの車がびっしり縦列駐車して、フェンスには記者が鈴なりでした。あの圧迫感。わたし達、家から一歩も出られませんでした。夫もわたしも、仕事は休職せざるを得ず、要りようなものは全てネットで注文しました。でも、そんなストレスは、誰にも言えません。何を言っても、返ってくるのはバッシングだけですから」

「お友達なんかもですか?」

「……そうですね。さすがに、口汚く罵ったりはしませんでしたけど、ご遺族のことを考えたら、そのくらい仕方ないんじゃないか、みたいな言い方をされるんです」

「ありがちな話ですね」

 クリスタの長い睫毛が瞬いた。

「わたし達は今、ベルギーにいます」

「え?」

 エラリイはテーブルから目をあげた。

「住み慣れた家から、夜逃げみたいにこっそり脱け出したんです。夫の仕事仲間が、部屋を貸してくれたので」

「それじゃ、今日は、ベルギーからわざわざいらしたんですか?」

「はい」

 エラリイはカップの底に残ったカフェオレを飲み干して、口を湿した。

「そうまでして来たのに、どうしても市警本部に入れなかったのはなぜですか? やっぱり、敷居が高かったですか?」

「そうですね。そもそも、一般人が入りやすい場所ではありませんし、それに、こんなもの、本当に捜査の役に立つのかどうか。父は、何ら具体的なことは書いていませんし、財産の話しかしていません。アドルフの顔だって、あの子が出ていたテレビ番組がドイツで放映されたのを、たまたま見ただけかもしれませんし」

「でも、あなたは、そのメールに何かを感じたから、こうしてパリまで来られたんでしょう?」

 エラリイは、

「一緒に行きましょうか?」

と訊いた。

「え?」

「ぼくは、あの事件を担当している刑事と顔見知りなんです。一人で行きにくいなら、ぼくがついていきますよ」

 クリスタは動転したようにキョロキョロと目を動かした。エラリイを見、テーブルのカップを見、最後に隣の席に置いた帽子のつばに手をついた。

「わたし……あの、ちょっと待って下さい」

 走った後のように胸が波立っている。エラリイに向き直ると、

「ごめんなさい。今言ったことは忘れて下さい。わたし、どうかしていたんです。ごめんなさい」

 早口でまくしたてると、驚くような素早さでマスクをつけ、携帯と帽子を引っつかむと、ギャルソンに声をかけて二人分の勘定をすませ、店の外に飛び出した。

 しばしあっけにとられていたエラリイは、我に返ると、クリスタの後を追った。

「ちょっ……ちょっと待って下さい」

 店を出たところでクリスタに追いつき、彼女の前に立った。

「待って。あなたの複雑な気持ちはわかります。いや、わかるなんて、簡単に言っちゃいけないな。少し想像がつきます。だから、今、その足で市警本部へ行けとは言いません。でも、もう少し落ち着いて考えて下さい。何があなたをベルギーからここまで連れてきたのか、もう一度考えてみて下さい」

 クリスタは、またエラリイの名刺に目を落とした。

「エラリイ・スターリング先生。アメリカの方ですか?」

「イギリスです」

「そうですか。最後の言い回しが英語っぽかったので」

 エラリイは思わず微笑んだ。

 What brought you――?

「あの、嫌じゃなかったら、うちの事務所にいらっしゃいませんか? 紅茶ぐらい出しますよ」



「それで、何で、あたしのところへくるのよ?」

 クリスタとエラリイを執務室に招き入れながら、幸葉が耳元で囁いた。

「いや、おまえ、ドイツ語しゃべれるんだろう? クリスタさんさえよければ、親父さんのメール見て貰えるかなと思って」

 幸葉の部屋は採光がいい。

 大きくとった窓の脇に自分のデスクを置き、向かって左の壁がキャビネット、右が本棚になっている。

 依頼者とは、部屋の中央よりやや窓寄りのテーブルで話をするようになっていた。そのテーブルで、なぜかリュウガが頭を抱えている。

「どうしたんだ?」

「あの親父、とんでもねえタイムリーエラーしやがってよ」

 あの親父、とはダンの父親のようだ。

「何? 偏頗弁済?」

 リュウガは頷いた。

 更正・破産手続における債務者のチョンボといえば、たいていこれだ。手続が開始されると、債権者は全員平等に扱われ、債権額や担保の有無等により、法律に定められた順位に従い弁済を受ける。

 そのため、債務者が一部の債権者にだけ支払いをする偏頗弁済は、債権者間の公平を害する行為として禁止されている。

 フランスの法律でも、更正・破産手続開始命令以前に発生した債務の弁済は禁じられている。が、ダンの父親は、古い取引先に、

――この支払いをして貰わないと、うちも連鎖倒産してしまう。それほど大きな金額でもないし、うちだけ払ってくれても問題ないだろう。

と泣きつかれて、買掛金を支払ってしまったそうだ。

 これを知った他の債権者から、リュウガに抗議の電話が入り、ことが発覚した。彼はダンの父親を呼び出して事実関係を確認し、幸葉にアドバイスを求めに来たようだ。

「それって、もう申立は済んでるの?」

「今日、申し立てるつもりだったんだよ。あんだけ、どこにも弁済するなっつっといたのに、長いつきあいのところだから、迷惑かけられなかったって、こういう手続申し立てる時点で、もう、あっちにもこっちにも迷惑かけてんだよ」

 リュウガは先刻、その取引先に連絡を取って、支払金額を返してくれるよう頼んだが、その金は右から左に支払われて、向こうの手元にもないという。

「うちも自転車操業ですからって、胸張って言われてもなあ」

 リュウガは額に手を当てた。

「何とか、偏頗弁済じゃないって言い張れないのか?」

 リュウガは打合せメモをエラリイの前に滑らせた。債務の発生から支払いまでの経過が、日時と共に箇条書にされ、一目でわかるようになっている。

「うわ、ヤッベー。会社資産売却して、返済にあててるじゃん」

「そうなんだ。その取引先が、高額で買い取ってくれる業者を紹介したらしい」

 リュウガは、

――そんなことして一時的に弁済を受けても、清算管財人に無効を訴えられるだけですよ。

と言い聞かせたが、相手は、弁済金は自分も支払にあててしまって、もう手元にはない、の一点張りだったという。

「いくら何でも、申立前のことだからなあ。こっちで解決しとかねえと、管財人に悪いだろう」

 管財人に後始末を押しつける形で申し立ててしまう弁護士もいるのだから、リュウガは良心的といえる。

「しかし、こいつは難しいなあ。売っ払った機器を買い戻すか、金を返して貰うか、どっちかしかねえだろ」

「タイムリーエラーっていうより、逆転スリーランぶちかまされた感じね」

 幸葉は他人事ながら、貧血を起こしそうな顔をしている。

「何言ってるんだ。野球は九回二死からだぜ」

 リュウガは、ニヤリと笑った。

「そっちが逆転スリーランなら、こっちは代打逆転サヨナラ満塁ホームランだ」

「リュウガ、メンタル強〜い。あたしなら、ラ・セーヌに身投げしたくなっちゃう」

「いちいち大げさなんだ、てめえはよ」

 四人分の紅茶をいれながら、リュウガと野球ネタをやりとりする幸葉は楽しそうだった。

 ヨーロッパでは、圧倒的に野球よりサッカーがさかんだ。幸葉はサッカーの話にも加わるが、やはり、日本で人気のある野球の方が面白いのだろう。エラリイはなぜか、胸をチクリと刺されるような切なさを覚えた。

 紅茶を飲みながら、幸葉は、クリスタに手渡された携帯のメールを読んだ。

 エラリイが後から聞いたメールの詳細な文面は次のようなものだった。


『娘よ。

 わたしはおまえがあのフランス人と結婚し、あろうことかフランスに移り住むと聞いた時、きっぱり親子の縁を切った。もう、父でも娘でもない。おまえが孫だと言って写真を送ってきた赤ん坊達も、わたしには赤の他人だった。

 わたしが車椅子で生活しなければならなくなった時、おまえは肉親面して会いに来たが、わたしには、おまえの世話になる気などさらさらなかった。ただ、色々な手続に家族の同意がいるというので、便宜上、おまえの協力を仰いだにすぎない。おまえがわたしの遺産を狙っていることはわかっていたが、びた一文譲る気はなかった。

 実際、おまえがフランスに帰ってしまっても、通いのヘルパーがいれば十分やっていけた。とはいえ、最初の何人かは気の利かない奴ばかりで、今のエーリヒ・ギュンターが来るまでは誰一人定着せんかった。エーリヒは黒髪の雑種で、だからこそこんな仕事にしかつけなかったのだろうが、ドイツ人だけあって勤勉で頭の回転も速い。わたしは彼が気に入っていたが、やはり雑種は雑種でしかなかった。親切そうなみせかけの陰で、エーリヒはわたしの財産を絞り取ろうと企てていたのだ。

 こんな奴に全てを奪われるくらいなら、金髪碧眼のドイツ人であるおまえと、若い頃のわたしにそっくりな(わたしの方がもっと気品があって美しかったが)アドルフに譲り渡す方がはるかにマシかもしれない。

 どうだ? そんな遺言書を書いてほしいか? おまえがそれを懇願するなら、考えてやってもいいぞ。

              父より』


 

 幸葉は読み終わるなり、これはSOSではないかと言った。

 ヨアヒムは必死に助けを求めている、と。

「どこが?」

 エラリイは訊いた。彼には、やたら人種差別的な発言が炸裂しているようにしか見えなかった。男のくせに自分を「美しかった」と言う神経もいかがなものかと思ったが、幸葉に言わせると、それもジェンダーバイアスらしい。女性を外見の美しさでしか評価しないのも、男性が美しさをアピールするのを厭うのも、その根は同じということのようだ。しかし、どこがSOS?

「すごくわかりにくくて、遠まわしで、本人以外にはまずSOSに見えないだろうけど、そんな感じがする」

 自分もそういうSOSの出し方をしたことがあるから……と幸葉は言う。

「アドルフは、この、エーリヒっていうヘルパーさんのところに匿われてるんじゃないかしら。『親切そうなみせかけ』って、そういうことじゃないかな」

 どういう思惑があったのかはともかく、エーリヒはアドルフを自宅に住まわせようと申し出た。あるいは、ヨアヒムに頼まれて承諾した。

 それならば、警察がヨアヒムの家をチェックしていても、暮らしぶりに変化がないのも頷ける。エーリヒは、ある時点で手のひらを返し、老人を脅しだしたのか。アドルフの居所を警察に知られたくなければ、遺産を自分に譲るという遺言書を書けと迫ったのか。外国に住む家族より、毎日親切に面倒をみてくれたヘルパーに財産を譲りたいと考えるのは、あながち不自然ではない。遺言の形式に問題がなければ、有効と認められるだろう。

「だけど、クリスタさんが、遺産は自分とアドルフが譲り受けるべきものだ、そう文句を言えば、エーリヒを止める『助け』になるってこと?」

「そういうことかもしれない」

 クリスタは、とても信じられないと言いたげだ。サングラスを外しているので、青の濃い瞳が大きく見開かれているのがわかる。

「てか、そのじいさん、そんなに財産持ってるの?」

 エラリイは訊いた。

「ええ。父が要介護になった時、色々手続をしに行って、預金額なんかも見ましたから。その時も、どうせ遺産目当てでとんできたんだろうが、おまえなんかには一ユーロだってやらんとか、さんざん嫌味を言われました。もちろん、こちらもそんなお金、あてにはしていません。でも、これだけあれば、いざとなったら、いい施設に入れられると思ったのを覚えています。父は、どうせ、フランスへは来たがらないでしょうから」

 ヨアヒムが娘の家族の世話になっても、彼はその環境になじめまいと、エラリイにも想像がついた。どうせ孤独を味わうなら、ドイツでの方がましかもしれない。

「でも、これがSOS……?」

 クリスタが今一度、メールに目を走らせている時、ノックの音がして、エースが顔を出した。幸葉に用があったようだが、大勢詰めかけているのを見て、

「すみません。また、後で」

と、ドアを閉めようとした。

 エラリイは慌てて彼を引き止め、

「おまえもドイツ語わかるよな。ちょっと、これ見てくれよ」

 クリスタの手から携帯を受け取り、メールをエースに読ませた。

「アドルフは、この、エーリヒ・ギュンターという人のところにいるんですか?」

 読み終えて、エースは言った。

「やっぱ、おまえも、そう思う?」

 エラリイは、エースの洞察力を信頼している。世が世なら伯爵様だけあって、じれったい程おっとりした奴だが、見かけに惑わされず、その奥の真実を見抜く力には、一目置いているのだ。

「それに、何だか切羽詰まった状況になっているような気がする。助けてくれとは一言も書いていないけど、これは……」

「SOSなのか?」

「そうだね。そう言えるんじゃないかと思う」

「でも、なぜ……このメールには、人種差別的な発言と、わたしに対する嫌味しか……」

 エースは、クリスタの方を振り向いた。

「お父様が、あなたに対してこういうことをおっしゃるのは、どんな時ですか?」

「どんなって……最初は母が亡くなった時でした。あんなユダヤ系の医者にかからなければ、などと言い出して。母の死があまりに辛かったので、誰かのせいにせずにはおれなかったんだと思います。でも、わたしだって母に死なれて悲しかったんです。そんな時にそんな言葉、聞きたくなかった。その頃にはまだ、父を心配して訪ねてくれるお友達もいて、少し落ち着いた時期もあったんですが」

 次に「発作」が起きたのは、クリスタがフランス人男性と出会い、結婚話が持ち上がった時だったという。

「この時はもう、めちゃくちゃでした。規律を重んじる勤勉なドイツ民族が、仕事よりバカンスを重視するようなフランス人と一緒になるのかとか、今思い出しても腸が煮えくり返るような暴言を吐かれました。こんなことを言う父に縁を切られても、正直、構わないと思いました。いえ、実を言うと、ジョルジュに会う前のわたしにも、似たような偏見はあったんです」

 クリスタは恥じ入るように、頬に手を当てた。

「でも、彼とつきあううちに、プライベートを大切にして、人生を楽しむことで、幸せを感じられる自分を見出したんです。人は自分に余裕がないと、周りにもやさしくなれません。もちろん、何でもフランス流が一番とは思いませんが、どちらが優れているとか劣っているとかではなく、ただ、違う生き方が存在しているだけなんです。父は全く聞く耳を持ってくれませんでしたが」

 ヨアヒムがナチスグッズをコレクションしだしたり、SSのコスプレをするようになったのは、この時以降だったという。

「それが、SOSだというんですか? 母やわたしがいなくなって、寂しいとか悲しいとかいう気持ちを、あんな形で表出させていたと?」

「それは、最終的には、お父さんに確かめて頂くしかありませんが、ぼくには、お父さんが極端な行動に出ることで、あなたの気持ちを自分の方に向けたかったように見えるんです」

「ちなみに、おまえが出したわかりにくいSOSって、どんなの?」

 エラリイは幸葉に訊いた。他の具体例を聞けば、ヨアヒムの方も理解できるかと思ったのだ。

「聞いたら、引くよ」

「いいから、言えよ」

「リストカットしたり、睡眠薬の一気飲みしたり」

 エラリイは、あんぐり口を開けた。

「それで、周りの奴、SOSだって気がつかなかったの?」

「だから、何を訴えてて、どういう風に助けてほしいのか、わかんないでしょ?」

 当初は幸葉も、みんな、見て見ぬふりしてひどいと思ったらしい。

「でも、自分が逆の立場だったら、やっぱり、どう接していいのか、わからなかっただろうなって」

「で、どういう風に助けてほしかったんだ?」

「愛してほしかった」

 幸葉はきまり悪そうに言った。

「好きな奴に?」

「違う。家族に」

 クリスタがハッと息をのみ、「アドルフ」と呟いて片手で口元を覆った。彼女はヨロヨロと幸葉に近づいた。

「教えて下さい。あなたは、ご家族にどういうメッセージを出していたんですか?」

 幸葉は気が進まなそうだったが、クリスタの必死の表情に、しぶしぶ口を開いた。

「わたしを否定しないで」

 クリスタは弾かれたように一歩下がった。

「わたしを壊そうとしないで。わたしの人生に呪いをかけないで。わたしの失敗を喜ばないで」

「お……お」

 クリスタは崩れるように傍らの椅子に座り込み、テーブルに肘をついて、両手で顔を覆った。

 幸葉のメッセージは抽象的で、説明されても、どういうことかよくわからない。しかし、その内容はいかにも異様で不穏に響いた。

 エラリイの父親も、妻を亡くして以来、飲んだくれのろくでなしになった。エラリイの保護者たるどころか、彼のバイト代を飲み代にしてしまったこともある。あの時は、

(あのクソ親父、ぶっ殺してやる)

と怒り心頭だったが、幸葉の家族には、そういう、わかりやすいダメさではない、不気味なものを感じた。

「わたし……そんなつもりじゃなかった」

 か細く漏れ聞こえるクリスタの声に、

「あなたのことを言ったんじゃありません」

 幸葉は応えた。

 クリスタはゆっくりと頭を振る。彼女の口から、声が漏れ出続ける。

 アドルフは母方の血が濃く出た、見るからにアーリア人的な風貌をしていた。そのせいで、友人達からはずれ者扱いされることもあったようだ。アドルフは周囲のそんな態度から自我を守るためか、アーリア人の優秀さを誇示したり、他民族を見下すような言動をするようになった。

「わたしには、それが怖かったんです。あまりにも父にそっくりで。わたしは、あの子の考え方を矯正しなければと、何度も言い聞かせました。どの国や民族が優れているとか劣っているとか、そんなことはない。そんな風に考えるのは恐ろしいことだ。そんな考え方のせいで、第二次世界大戦後に、ドイツ人がどんな代償を支払わねばならなかったか、あなたも知っているはずだ、と」

 アドルフはその度に、疲れたような表情でため息をついたという。そんなことが、ぼくにわからないと思っているの?、と言いたげに。

「なのに、なぜ、あの子が同じ発言を執拗に繰り返すのか、わたしにはわかりませんでした。まるで父があの子に取り憑いているようで、恐ろしかった。そんな時のあの子は見るのも嫌でした。自分の子供にそんな恐怖心や嫌悪を感じるなんて、私の方こそ母親としてどうかしているのかもしれないと、何度も自分を責めました。あの子の担任の先生や、他の子の親が、同じようにあの子を非難するのを聞くと、そんな不安が和らぐんです。やっぱり、誰が見てもあの子がおかしいんだ、あの子が悪いんだって」

 クリスタの青い目が、幸葉に据えられた。

「でも、あの子はただ、わたしに共感してほしかっただけだったんですか? ドイツ人の血のせいで傷つけられた自分の心に、寄り添ってほしかっただけだったんですか?」

 幸葉は、わりと心中の思いが顔に出る方だ。今、彼女の表情はこう言っている。

(そんなこと、あたしに訊かれても)

「ジリーの方は、そんなことなかったんですか?」

 エラリイは訊ねた。

「ジリーですか? あの子は見た目も性格も夫にそっくりで、何というか、一緒にいて安心感があるんです。物事に真面目に取り組む姿勢はアドルフの方が上でしたが、ジリーは明るくて、素直で、えこひいきしたつもりはありませんが、ジリーといる時の方が心地良かったのは確かです」

 アドルフは、母親が弟ばかりを可愛がると怒ったことはなかったそうだ。ただ、時々、クリスタがドイツ民族の誇りを忘れて堕落したラテン民族に染まってしまったと、ヒステリックに非難することはあったという。

「そういう、プロファイリングみたいな話は、もういいんじゃないか?」

 リュウガが携帯メールを指差して言った。

「こいつがSOSだってことは、クリスタさんも納得したんだろ? なら、さっさと警察に行って、アドルフとじいさんを保護して貰えばいいじゃないか」

 実際には、パリ警視庁からドイツの警察に協力を要請し、身柄を確保または保護した後、引き渡して貰うことになるだろう。

 EU加盟国には、EU法という、国際法とも、加盟各国の国内法とも違う法体系があるが、おそらくそういうことになるはずだ。

 ここまでの行きがかり上、エラリイがクリスタとパリ警視庁に行き、残った弁護士は、この場合、EU法がどのように適用されるのか調べることになった。



 クリスタを伴ってパリ警視庁に向かったエラリイは、ラファエルとリジェンヌを前に、懸命に事態を説明した。

 しかし、ヨアヒムのSOSがあまりにひねくれているせいか、なかなか切迫した状況が伝わらない。エラリイは大昔の国語の授業を思い出した。

(エースを連れてくりゃ良かった。あいつは、こういう読解問題みたいなのが得意だから)

 最後に、クリスタが何とか理路整然とした説明に成功し、二人の言わんとしたことが、ラファエル達に伝わった。

「要するに、アドルフは、そのエーリヒっていう人の自宅にいる可能性が高いのね?」

「かいつまんで言えば、そういうこと」

 エラリイは息を吐いた。

「ただ、アドルフのじいさんをエーリヒが脅してる可能性もあるんで、そこんとこ、気をつけてやって貰いたいんだ」

「わたし、ドイツへ行きます」

 クリスタが言った。

「行って、アドルフを説得します。長年にわたって、父やあの子との間に生じた誤解を解かなければ」

「ちょっと待って。そういう段取りは、上と相談しないと」

 ラファエルとリジェンヌは、二人を残して、慌ただしく立ち去った。

 二〇分ほどして、リジェンヌが一人で戻って来た。話が長引きそうなので、いったん、事務所なり自宅なりに戻っていてほしいという。

「こないだの外人部隊が空振だったんで、あたし達があんまり積極的に動くの、上は渋い顔なのよ。裁判所はそれに輪をかけて頭が硬いから、今回は令状を出して貰えるかどうか」

 エラリイは仕方なく、クリスタを連れて事務所に戻った。ヴァレリー法律事務所は、アパルトマンをほぼそのまま使っているので、クリスタが休める部屋もある。

「宅配のピザとかでもよかったら、注文しようか? 腹が減ってちゃ戦はできねえからな」

 クリスタは気丈に微笑んだ。ドイツへ行くなら、なおのこと腹ごしらえをしておかねばならないと思ったようだ。

 まだ残っていたエースや幸葉らとピザを食べ終えたところへ、リジェンヌから電話が入った。

 上層部の决定は、ドイツ警察やインターポールに協力要請はするが、リジェンヌ達のドイツ出張は許可しないというものだったそうだ。

――だから、ラファエルとわたしは時間外にプライベートでドイツへ行くことにするわ。クリスタさんがまずアドルフと話してくれるなら、その方がいいと思うの。いきなり、ドイツ警察に急襲されるより」

 話を聞いたクリスタは、携帯でしゃべっていたエラリイに向かって頭を下げた。

 通話を終えたエラリイに、

「あの人達、すごいね。公務員の鑑だね」

 幸葉が囁いた。

「今からドイツなんて、気が遠くなりそう」

「んー、ドイツのどこかにもよるけど、高速鉄道で、二、三時間はかかるからな」

 幸葉はハッとしたように顔を上げた。

「そっか。ここはヨーロッパだから、地続きなんだ」

 どうやら、日本からのつもりで、何時間も飛行機に乗らなければならないと錯覚したようだ。

 やがて、ラファエルとリジェンヌがクリスタを迎えに来た。彼らと共にドイツに向かうことになったクリスタの頬からは、既に涙の跡が消えていた。




10



 アドルフの逮捕は、翌日のニュースで速報された。

 フランクフルトに住む祖父のヘルパー宅に滞在していたところを逮捕されたという簡単な報道だったが、エラリイが後にリジェンヌから聞いた話では、状況は予想以上に切迫していたらしい。

 パリからフランクフルトへは、フランスとドイツを直通で結ぶ高速鉄道、TGVヨーロッパ東線で、約三時間三〇分だ。

 フランクフルトに到着した彼らは、ヨアヒムの家を遠張りしていた現地の警察と相談し、まず、クリスタとラファエルがヨアヒム宅を訪ねた。その時、ヨアヒムは、エーリヒに遺言書を口述筆記させられている最中だったという。

 エーリヒがラファエルをクリスタの夫だと勘違いしたのが幸いして、時間が稼げ、状況がはっきりした。戸口にしのびよっていた警察が踏み込み、おそらく強要罪の現行犯でエーリヒを拘束した。

 次いで、ヨアヒムが警察の指示でアドルフに電話し、こちらへ来るよう伝えた。何も知らないアドルフは、エーリヒ宅を出たところで、包囲していた警官隊に逮捕されたという。

 アドルフは、警察署でクリスタの顔を見るなり、

――息子を官憲に売ったのか!

と悪態をついたが、クリスタが列車の中でしたためた手紙を読んでからは、うってかわって素直になったそうだ。

「どんな手紙だったんだろう」

「あたしは、列車の中でちょっと見せて貰っただけなんだけど……」

 リジェンヌは視線を宙に飛ばして、記憶を辿った。

「アドルフの発したメッセージをちゃんと受け取れなくて悪かった、みたいな内容だったわ。アドルフが子供の頃、やたらアーリア人の優秀性を言い立てるので、クリスタは懸命にその考えを改めさせようとしたみたいなんだけど、本当のところ、アドルフは、ドイツ系の顔立ちのせいで、友達に何か言われて傷ついただけだったとか、色々行き違いがあったみたいなの。そのせいで、アドルフの人柄まで、いつの間にか誤解してしまって、それがますますアドルフを傷つけることになったとか、そんなことにやっと気がついて、あなたに謝りたいとか、そういうことが書いてあったわ。あたしには、いまひとつ意味がよくわからなかったんだけど、お父さんにも、同じような話をしていたわ」

(事務所で、幸葉と言ってたようなことだな)

 なぜかはわからないが、幸葉の言葉は、雷のようにクリスタを打ち、一瞬の光の中に過去を浮かび上がらせたのだ。ヨアヒムもアドルフも、メッセージをストレートに伝えられなかったこと、ねじ曲がったそのメッセージをクリスタが言葉通りに受け取ってしまい、その奥にあるSOSに気づけなかったこと。

(しかし、幸葉もエースも、あのメールから、よくあんなこと読み取れるよな)

 幸葉は、自分が過去に放ったメッセージの話を、あれ以上しようとはしなかった。

 世界各国からスタッフが集まっているヴァレリー法律事務所では、いつのまにか、本人が話したがらないことは詮索しないという不文律ができている。アスターの衝撃の過去も棚上げだ。そういうところは外人部隊に似ているかもしれないと、エラリイは思った。



 フランクフルトで逮捕されたアドルフが、パリへ護送されている頃、ダンはリュウガと共に、かつての常連客を訪ね回っていた。

 ダンの父親が、会社資産を売却して、その代金を一部の債権者の弁済に充ててしまったので、リュウガは申立てまでにその資産を買い戻そうと、彼らにカンパを募ることにしたのである。カンパといっても、実質はツケの取り立てだ。

「何も全額払ってくれなくてもいいんだよ。今、できる範囲でいいんだ。でも、一セントも協力しないってのはなあ。本来なら、これは、店があんたに対して持っている債権として、申立書に記載しなきゃならない金なんだぜ」

 硬軟織り交ぜた口上で、リュウガは集金してゆく。三日もすると、塵も積もれば山となるで、交渉次第では売却した機器を買い戻せるだけの金額が集まった。

 早速、機器を引き取った業者の元へ行き、宥めたりすかしたり恫喝したりして、どうにか手持ちの金額で取り戻すことができた。

 申立前だったのを幸い、偏頗弁済を受けた債権者の名前はしれっとリストから削除し、抗議してきた債権者には会社財産を取り戻したと連絡して、事なきを得た。

「華麗な逆転満塁ホームランといきたかったが、押し出しのフォアボール、内野安打、最後の最後に走者一掃タイムリーツーベースってとこか」

 野球のたとえはよくわからなかったが、父の大ポカはフォローされたようだ。

「すみませんでした。ご迷惑をおかけして」

「こんなのは料金のうちさ。弁護士なら、誰でもおり込み済みだよ」

 実のところ、ダンとしては、かつての常連客からツケを取り立てるのは気が進まなかった。

――だけど、そいつらがちゃんと代金払ってくれてたら、おまえんちの店も、あそこまで追いつめられなかったんじゃないのか?

 そう言うリュウガの背後に隠れるようにして、一日目は身を縮めていた。

 翌日、事務所でばったり幸葉に出くわし、ついそのことを愚痴ってしまった。

――中には、おれたちの食生活を心配して、野菜やら手作りの惣菜やら、持って来てくれる人もいるんですよ。なのに、今さら、お金払えなんて。

――あたしも、そういうの言えない方だから、言いにくい気持ちはわかるよ。なんか、胃がキリキリしちゃったりしない?

――そうなんですよ。

――でも、人生には、百万の真心より十万の現金ていう場面があるんじゃないかしら。

 その一言で、目からウロコが落ちた。

 それまで、周囲の人達の親切に感謝しながらも、拭い切れないもどかしさがあった。それは、ピラールや、ラファエル、リジェンヌに対してすら感じていたものだ。

 彼が皆にぶちまけたかった思いは、

――おれが本当に助けてほしいのは、そこじゃないんだ。

ということだった。

 食べ物もありがたいが、今ほしいのは金だ。

 アドルフを逮捕するより、生活費と学費を稼げる仕事を紹介してほしい。

 もちろん、彼らにそんな要求はできない。今集めている金も、店の後始末のためのもので、集まったからといって大学に戻れるわけではない。

 だが、その手続きが無事にすんで、はじめて自分達は再生できるのだ。

 ダンはその日、自らが前に出てこう言った。

――皆さんが親身になって下さってることは、父もおれもよくわかってますし、感謝もしています。でも、今ぼく達が抱えている問題は、お金じゃないと解決できないんです。ビジネスライクで申し訳ありませんが、一部でもいいんで代金を納めて下さい。

 そう頭を下げた瞬間、周囲に対する恨みがましい気持ちが溶けていく気がした。

 帰途、リュウガにそう話すと、

――そうか。人は誰でもストレートなSOSを出せないものなのかもしれんな。

と、呟いた。

――どういうことですか?

と訊くと、彼は、

――いや、何でもない。こっちの話さ。

と、手を振った。



「おまえ、ロンドン大学の通信教育課程って知ってるか?」

 何度目かの打ち合わせの終わりに、リュウガが言った。

 ダンは、今ではもう腹をくくって、大学に退学届けを出した。生活費を稼がなければならないので、バイトと就職活動の合間を縫って打ち合わせにも付き添っている。父親を一人で行かせると、

――何かそんな話をしてたけど、何ておっしゃってたかなあ。

ということになって、埒が明かないからだ。

「いえ、知りません。そんなのがあるんですか?」

 胸の奥がゾワゾワしてきた。

「エラリイとエースがそれでロンドン大学を卒業したそうだ。ネルソン・マンデラも獄中で通信教育を受けていたらしい」

――だから、おれたちは、ネルソン・マンデラの後輩なんだぜ。

と、エラリイは得意気だったそうだ。

「通信教育は、勉強時間の確保とモチベーションの維持が難しいが、おまえには学びたいという強い意欲がある。働きながら、オンライン留学なんてのもいけるんじゃねえか?」

 リュウガはコピー用紙数枚を、ダンの方へ滑らせた。エラリイがホームページの関連部分をプリントアウトしたものだという。

「まあ、興味があれば見ておけよ」

 興味があるどころではない。帰宅すると、すぐさま目を通した。

 ロンドン大学は、「人々のための大学」という伝統を持つ連合大学である。すなわち、人種、宗教、政治的信条などに関わりなく、広く学問への門戸を開くために設立された。

 この伝統を最も強く受け継いでいるのが通信教育課程で、世界一〇か国、五万人以上が学んでいるという。

 学費は、年間約一万四千〜二万八千ユーロ(約二〇〇万円〜四〇〇万円)。きちんと就職して何年か働けば貯められない額ではない。奨学金制度だって調べればあるかもしれない。エラリイに訊けば教えてくれるだろうか。

 この世は理不尽に満ちているが、思いがけない希望に出会えることもある。

 リュウガの口癖でいうなら、九回二死から逆転ホームランが飛び出すように。

             (了)































 

 






 

 































 









 





























 










 

 


 






 






 








 

 


 










 



 









 



 





 


 





 


 

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