初めての日常生活
…ガタン。
「お嬢さん、今『踏み台』出しますんで、ちょっと待ってくださいね。」
お風呂に向かった時と同じように人力車に揺られて家に着くと、俥夫の男が声を掛けてくれる。
「ありがとう。アズ」
アズという名前のこの男は、この家のお抱え俥夫である。年齢は聞いていないが、大体20歳前後かなと思う。私はアズに差し出された手を掴み、立ち上がって笑顔を向けた。
「お嬢さん、俺の名前覚えててくれたんすね。ありがとうございます。」
「今まで呼んだことなかったっけ?」
「名前どころか、声を掛けてくれるのも久しぶりじゃないっすか。」
「いやいや、『ありがとう』くらいはいつも言ってるよね?」
名前はマリアの記憶にあったから、大丈夫。アズの嬉しそうな声に、そう言い聞かせながらマリアらしく適当に流した。私が人力車から降りると、ダレナもアズの手を借りて降りながら声を掛けてくる。
「マリアお嬢さん。今日は午後からお勉強で、それまでは乗馬の練習ですよ。エルミニオ坊ちゃんは先に始めてますから、荷物を置いたら向かいましょう。」
おぉう。…乗馬は初体験だよ。
マリアの記憶にはあるけれど、私の体験ではないのだ。ものすごく不安である。ただ、そんなことは顔にも声にも出せないので、ひとまずコクリと頷いて返した。
カッポ。カッポ。
身体能力も身体記憶もこの体のままだったらしい。考えてみれば当たり前なのだろうが、やっぱり不思議だ。記憶を探りつつ、こうかな?と動けばなんとかなる。思っていたよりも早く乗りこなせるようになり、一安心だ。
私、乗馬が向いてるんじゃない?ふふっ
労せず乗れてしまったことで楽しくなってきた。とはいえ、今は常歩(※馬を歩かせること)で馬に右に曲がってもらったり左に曲がってもらったりの基本動作だ。高さがあっても安心していられる速度だが、リードを引く人がいないので無理はできない。
因みに今の私はズボンスタイルである。お尻の隠れる長いシャツに、膝丈のシュミーズみたいな形のズボン。非常に恥ずかしい。ただ、一応ここでのスポーツウェア的なもののようで、教えてくれる先生も同じものを着ている。
エルミニオはリードのような紐を引いてもらいながら、速歩の練習だ。私よりもスピードがあるので、結構疲れているように見える。
「お嬢さん、それじゃあそろそろ速歩をしてみましょう。」
「え、もう?」
「はい。準備運動はそこそこで終わらせないと、馬も疲れますから。」
やっと慣れたばかりなのに、リードもないまま速歩はちょっとやだな。
ぼんやりエルミニオを眺めていたら、余裕があるように見えたのだろうか。口を尖らせつつ、速歩のやり方を思い出す。身体の揺れるリズムを変えて、馬に方向を指示した。
…うぁっ!ちょ、ちょっと待って。
馬の速度が上がり、身体の揺れが大きくなる。
ああぁあぁぁ、ちょ、無理。
お尻がぁ!お尻が痛いっ。
助けてっ!
どうやらマリアは頻繁に乗馬をしていたらしい。この小さなお尻に、摩擦による擦り傷が出来ていたようだ。そして元々擦れていたところに、スピードが加わり、強く刺激されている。これをどうにかしなければ、練習にはとても集中できない。
できるだけ体重を乗せないようにしたら、今度は脚が疲れる。そして、変な姿勢だったのだろう。先生にも注意される。
エルミニオ、
これが、疲れて見えた理由かっ…!
私は、結局泣きながら練習することになった。エルミニオもきっと、同じように痛みを堪えているだろう。お姉ちゃんとして、負ける訳にはいかない。
「はい。マリアお嬢さんもエルミニオ坊ちゃんもお上手でしたよ。次回は常歩で遠乗りに行きましょう。ダレナとターナには、飲み物と軽食を準備してもらいます。」
「やったあ。ジャン兄に自慢しよっと。」
「ありがとうございました。」
ウキウキしながら中に向かって歩き始めたエルミニオから目を離した私は、馬を片付け始めた先生に声を掛けた。
「先生。エルはすごく楽しみにしていたけれど、私、まだ遠乗りに行く自信がないの。」
あんなにウキウキしていたエルミニオには申し訳ないのだが、お尻が痛い。そして、乗馬二日目で外に出るのは怖すぎるのだ。なんとか阻止したい。
「どうしたんですか、マリアお嬢さん。遠乗りしたいって前は言ってたのに。」
「この前、寝込んでから、体調が急に良くなったり悪くなったりしてるの。…だから、もう少し様子を見てからにしたいなぁと思って。」
必殺『病気のせい』。さて、効果はあるか?
「それは大変ですね。わかりました。エルミニオ坊ちゃんには、上手く伝えてみますね。」
あった〜。
しかも先生、察しが良い。私がエルの前で断らなかった理由を理解してくれている。具合が悪いせいにはしたいけれど、無駄に悲しませたくはないのだ。
「ありがとう。私も片付けるのを手伝うよ。」
「あら、それは大丈夫ですよ。それよりも、皆様が昼食に向かいましたから、中でダレナが待っていると思います。早く行ってあげてください。」
先生に言われて家に顔を向けると、入り口辺りに人影が見える。
「あ、そうだね。じゃあ、お願いします。」
先生に片付けをお願いして帰るって、日本人的な感覚ではあり得ないけれど、先生も実は奴隷なのだ。私の方が立場が上になるので、敬語を使うのもあまり良くないらしい。
これは昨日の夕食中に分かったのだが、私たち家族やノアには、政治に参加する権利や裁判に訴える権利として『市民権』があり、それを持たない人のことを『奴隷』と表現しているようなのだ。
私のイメージしていた凄惨なものではなく、農地や作業場で働く奉公人や女中などに近い存在だということに、かなりホッとした。表現というか、言葉としての印象が悪いのは変わらないけれど。
…何か別の言い方になればいいのに。
それでも、能力によっては大きな農園の管理を任されている奴隷もいるらしいし、先程の『先生』もそうだが、需要があれば得意なものを仕事にすることも出来るらしいのだ。本人達が困っていないのなら、そのままでも良いのかもしれない。
そして、お父さんが最後に言っていた。『上の者は下の者の支えによって生きているため助ける義務がある』のだと。これは、ここの共通認識なのだろうか。とにかく、私のいる家や周辺では、大きな問題はそこまで起きないようになっているようなので私が口を出すことはしないでおく。
昼食が終わると、トイレの脇にある階段から二階に連れて行かれた。
「ほら、ミニー。早く来てよ。」
「そんなに急がなくても、まだ誰も来てないよ。」
エルミニオが階段の途中まで上がって、声を掛けてくるが、私は追いかけない。
「全く。エルはいつまでも子どもなんだから。」
隣で江戸紫色の髪をふるふると揺らしながら、フィオレが声を出した。午前はファムと一緒に中で過ごしているフィオレも、お勉強は一緒なのだ。
今日のフィオレは薄いオレンジ色のワンピース。マリアのお下がりである。私も昼食の前に薄い黄色のワンピースに着替えたのだが、襟の形も同じで、裾の刺繍も同じだ。ペアルックみたいで、なんだかウキウキしてしまう。
「フィオレ、手を繋ごうか。」
私がそう声を掛けると、目を丸くしてから、にっこりと笑って頷き、手を差し出してくれた。
「ミニー、いつから甘えん坊になったの?仕方ないわね。」
生意気な言葉を出しながら、照れ臭さそうに唇を尖らせるフィオレが愛おしい。膨らんだ頬がマシュマロみたいだ。
…可愛いぃい。私の妹、天使かな?
フィオレの驚きは理解できる。マリアは周囲に興味を持たない子だったようで、どの兄妹からも、声を掛けられるまではアクションを起こさなかったのだ。それでも、普段表さないこちらからの好意を受けて、取り乱さず、疑問に思わず、単純に喜んでくれるフィオレが可愛い。
ごめんね、新しいミニーは子供好きなの。
これからもきっと、たくさん驚くことがあるよ。と心の中で謝りつつ、私は部屋に入った。
「遅いよ。ミニー。僕もう待ちくたびれた。」
部屋の中には細長いテーブルが二つ、それぞれのテーブルにベンチが一つ、ハの字型に並んでいる。
エルミニオが奥のテーブルに座って声を掛けてきたが、待ちくたびれるほど私を待っていたのか。
モロエル、可愛いじゃないか。
実際に部屋に入った時間は2、3分ほどの違いなので、大して待っていないことは分かる。けれど、その言い回しをどこで覚えたのか、その使いどころが今である理由などを考えるとニヤけてしまう。
私は、エルミニオと反対側のテーブルに、フィオレと並んで座り返事をする。
「私を待っててくれてありがとう、エル。でも、お母さんに走っちゃダメって言われてなかった?」
「あ、えっ、と、だって僕も、走りたいとか思ってないけど、早い方が良いんだもん。強くなるには早くないといけないしさ。」
だらん、と突っ伏していた体をテーブルから起こし、支離滅裂なことを言いつつ反論してくるエルミニオが可愛すぎる。
「そっかぁ。じゃあ、私はいつも置いて行かれちゃうんだね。エルと、一緒にお部屋に来たかったなぁ。」
「えっ!じゃあ、じゃあこれからは歩くよ。ミニーがいる時は歩くことにする。」
私が寂しそうな表情を浮かべると、慌てた様子で考えを改めてくれた。エルミニオも、普段あまり反応しないマリアが仲良くなろうとしていることに喜んでくれたようだ。よしよし、少しずつ仲良くなるんだ。頑張れ、私。
「今日は賑やかですね。」
先生が入ってきた。名前はたしか…
「クラーク先生、こんにちは。」
そうだ。エドアルド・クラーク。マリアの知る中で唯一、苗字のある人。
180センチまで届きそうな身長、ハイネックのロングジャケットに、同じ色のズボン。肩甲骨の辺りまで伸びた白金の長髪を一つに束ね、清潔感を出しつつも髭を整えて生やしている。推定30歳のこの男は、マリアが6歳の頃にやって来たので、父が別で雇ったのではないかと思われる。私好みのイケメンだ。
「はい。フィオレ様、こんにちは。…マリア様、体調はいかがですか?」
「ありがとうございます。もう大丈夫です。」
クラーク先生は、フィオレに向かって特に関心なさそうに挨拶を返し、私にも興味が全く無さそうな顔で体調を聞いてから淡々と授業を始めた。言葉遣いは丁寧だが、かなり冷めてる感じだ。
マリアの記憶にも殆どないくらいに印象が薄いので、全く性格を掴めない。
「はい、じゃあ今日は基本文字の練習をしましょう。フィオレ様はこちらから、エルミニオ様はこちらから、マリア様は復習として全て書き出してください。」
「「「はい。」」」
基本文字は韓国のハングル文字に似ている。記号を上下左右に組み合わせて1つの文字にし、読み方や意味を変えていくのだ。使われている記号は違うが、全部で80字に満たない。『ひらがな』『カタカナ』『漢字』の3つを使いこなす日本人だったからか、それともマリアの記憶があるからか、思った以上に簡単だ。
植物を潰して乾燥させたような紙に、すすいっと書いていく私を見て、先生が近づいて来た。
「字が上手になりましたね。」
「そ、そうですか?頑張って、丁寧に書いてます。」
「間違いも、殆どないですね。素晴らしい。」
ははっと笑って返すが、内心バクバクだ。この授業で習う以外に、書くことは無いのである。ここでも、マリアの性格を「頑張れば出来る子」という立ち位置に変換しようと試みることにしたのだが、ちょっと張り切り過ぎたかもしれない。
「先生、僕も出来たよ!」
エルミニオ、ナイスッ!
急に被せてきたエルミニオに、クラーク先生が視線を上げた。そのまま、エルミニオの席に移動していく。
「ふぅむ。エルミニオ様、こちらの€の文字ですが、中央部分をもう少し近づけて書いてみましょう。字が整うはずです。フィオレ様はいかがかな。」
「分かった!やってみる。」
「もう、とっくに終わっているわ。モロエルよりも早く見てもらおうと思ってたのに。」
上手く気が逸れてくれたようだ。先生は二人に挟まれて、あちこち行き来しながら褒めたり指摘したりを繰り返し始めた。エルミニオ、やるじゃないか。私は、ほっと息を吐き、次の文字を少し崩して書いた。あまりやり過ぎると、わざとらしいので、間違えるのは全体の2割くらいに留めておく。
「はい。では、そろそろ数字に移りたいと思います。その前に15分ほど休憩にしますね。トイレに行ったり、喉を潤してお待ちください。」
気付いたら、かなり集中していたようだ。久しぶりの『お勉強』は意外と楽しい。子供の頃に戻ったような気分だった。…まあ、実際に、子供になってはいるのだけれど。
私、結構上手に手を抜けたんじゃないかしら?ふふふん。
自分の仕事に満足しつつ、仕上がった紙束をかき集めてテーブルに置き、ダレナとトイレに向かうことにする。
「ダレナ、トイレ行きたい。」