初めまして、家族
ダレナが顔色を変えて、私を抱き上げた。私はそんなに大きい方ではないが、軽々と持ち上げられるほど小さくはないはずである。
「ダ、ダレナ?そんなに急がなくても大丈夫だよ?」
驚いて少し上擦った声が出たが、ダレナはお構いなしだ。
「いえいえ、トイレは遠いですから。それに、少し顔色が悪くなってるじゃないですか。」
顔色が悪いのはダレナだよ。
心の呟きは口に出さなかった。私は大人しくダレナにしがみつく。トイレに着いて、使い方が分からず漏らす可能性もあるのだ。早く着くに越したことはない。物凄いスピードで建物に入るダレナに抱かれ、夜中に行きたくなっても良いように私は、トイレまでの道を覚えることにした。
「こ、これ大丈夫?と、飛ばないよね?」
誰にも聞こえないくらいの声だが、つい、そう呟いてしまった。ここは、トイレの個室だ。形も見慣れた、洋式トイレである。
靴のまま歩くので床は汚いけれど、そんなに臭くもない。トイレットペーパーはもちろんないが、その素材に似た葉っぱがたくさん置いてある。きっとこれで拭けば良いのだろう。そこまでは理解できたし、使い方も分かった。ゴミ箱がないから葉っぱも流すのかな、なんて考えつつ便座の蓋を開けてみる。事件はその時起こった。
さ、魚が泳いでる?!
中に水があるのは見慣れているが、一緒に魚が入ってるなんて予想もしてなかったし、今まで経験したことがない。大きな声を出さなかった自分を褒めてあげたい。
え、これ、ここで用を足すの?
振り返ってもドアしかない。当たり前だ。外にはダレナがいるが、騒いだら怪しまれる。
ど、どうしよう。
4匹の小さな魚は、パクパクと口を動かしながら泳いでいる。トイレに入った安心感で尿意も高まっている。…結局私は、仕方なく用を足してドアを開けた。
「遅いから、声をかけようか迷いましたよ。」
大丈夫ですか?と問いかけてくるダレナに、私は力無く答えた。
「あの子たちって、どうやって生きているの?」
私から返ってきた斜め上の質問に、ダレナは一瞬、面食らったような顔になった。
「マリアお嬢さんもやっと、色々なことに興味が出てきたみたいだね。」
そう言うと、成長を喜ぶような笑顔を見せて、丁寧に説明してくれる。もう少し、色々なものに興味を持って生きて欲しかったよ、マリア。
「マジョは、食べたものを消化すると綺麗な水にして排泄する魚なんですよ。基本的になんでも食べる魚っていうんで、12年前からトイレで飼うのが義務付けられてね。毒も菌も食べるなんてすごいですよね。でも、暗いところで育つ魚なんで、蓋も用意しなきゃなんないし、殆どの家にあるようになったのは、やっとここ最近ってとこですね。」
なんと、ここでは一般的なものだったらしい。
「すごいお魚なんだね。次の人は、そのお魚が食べ終わってから入るの?」
「マジョを入れるまでは土に埋めるのが当たり前だったんで、随分と便利になりましたね。マジョは10秒もあれば飲み込んでるんで気にしてる人はいませんよ。」
この世界は面白い。私の知っている常識を遥かに超えた、別の文明がある。理解し難いけれど、少しずつ慣れていかなければならないのだろう。
でも、床が汚いのは落ち着かない。靴のまま入るのも、公衆トイレみたいでなんとなく居心地が悪いのだ。
せめて『スリッパ』が欲しいな。
私はこれから、自分が変えていける範囲で、ここの常識を変えて行こうと心に決めた。
部屋に戻り、脳内で建物の構内図を作っていると、ダレナは夕食の準備をしに出て行った。
ここは三階建の三階で、一階まで階段を降りて外に出る途中に厨房がある。その先に川だ。厨房へ行かずに階段を降りてそのまま真っ直ぐ進んだ先の観音扉を開けると、少し長い廊下があった。そのまま更に真っ直ぐ進めば奥にトイレがある。観音扉から右手側は、その下にフロアマットが敷いてあるので正面玄関のようだ。左側も観音扉だったが、中には入っていないので何があるのか分からない。
そういえば、私の部屋の前と下の階の部屋って誰がいるんだろう?
そんなことを考えていると、ダレナが私を呼びに来た。
「マリアお嬢さん、体調はいかがですか?」
「うん。大丈夫だよ。」
「じゃあ、そろそろ夕食の時間なので行きましょう。」
「はぁい。ところで、いまって何時?」
「ええと、いまは20時ですよ。」
随分と遅い夕食だ。これも、ここでは一般的なのだろうか。
「ありがとう。じゃあ、行こう。」
部屋を出て歩きながら、私は考えていた。実は私、貴族なのではないだろうか。地方の、貧乏貴族的な。
この家は、奴隷とはいえお手伝いさんがたくさんいるし、お勉強の話が出たりとか、着ているものが汚くないとか、建物の広さを考えても、一般家庭ではなさそうな気がする。
もしそうなのであれば、家の立て直しとかをこれから考えなければいけないかも?田畑があるって言ってたけど、この家の土地かな?それなら何か…うーん。と唸りながら歩いていたら、立ち止まったダレナのお尻に追突してしまった。事故である。
「ごめんね。ダレナ、大丈夫?」
「ふふ。大丈夫ですよ、マリアお嬢さん。さ、こちらへどうぞ。」
そう言って笑うダレナが一階の、正面玄関とは反対側にあるドアを開けてくれた。
「…っ!ミニー!」
ガタッという音と共に、大きな声が響いた。記憶で見たお母さんだ。ファムはお母さん似なのだろう。ファムと同じような顔で、クリーム色の柔らかそうな髪をゆるいシニヨンにまとめている。昨日までの自分と同じ年頃だろうか。若くて、綺麗だ。ミモレ丈のワンピースにダークブラウンのベルトを締め、センスも良さそうなお母さん。
だが、私を見ると部屋の中央に大きく置かれたテーブルセットの左奥から、つかつかと靴音を立てながら近付き、私の頬をぎゅむっと挟む。
「?!」
「もう、大丈夫なの?一緒に倒れたお父さんもお兄ちゃんも、昨日には持ち直したのに。あなたは今日も熱が下がってないと聞いていたのよ。」
ぎゅむっと潰された頬のせいで言葉が出ない。
…ってか、近い近い!
至近距離から薄いピンク色の真剣な目で、顔やら体やら、あちこち見るお母さんは少し怖い。私は純日本人でした。こんな風に感情をぶつけられることは経験がないんです。私が声も出せずに目を白黒させていると、お母さんの後ろから声が飛んできた。
「まぁまぁ、ここに来たということは体調も随分良くなったんじゃないか?ひとまず座りなさい。」
穏やかに聞こえる、少し低めの声は一家の主であるお父さんのものだ。顔は少しベース型の骨格で、ゆるくカールした江戸紫色の髪をサラリーマン風に横分けしている。昔で言うところの七三分けなのだが、綺麗に切り揃えられた髭とキッチリしていない毛流れが渋くてお洒落な雰囲気である。
ただ、その下に見える髪と同じ色の瞳がちょっと冷たい。後ろを振り向いて、しぶしぶという様子でお母さんは手を離してくれた。…新しいお母さんは割と激情家なのかもしれない。でも、お父さんには弱そうだ。
「ミニーは女の子だもの。あたしだって、パラプの実を生で食べたらそうなるよ。ほら早くこっちに来て座ろう、ミニー。」
そう言って呼ぶのは、もうすぐ5歳になるフィオレだ。4歳後半とは思えないくらい、おませさんだ。丸いおでこの真ん中より上に切られた江戸紫の短い前髪に、顎のラインで切られた少し癖っ毛のボブ。その真ん中でキラキラと生意気そうに揺れる淡い藤色の瞳。記憶よりも可愛い。なんだ、この可愛さは。
きゅうぅんっ!と音を立てた心臓をこれでもかと鷲掴みにされた私は、お母さんとフィオレの間に空けられている椅子に座った。
それにしても、『ミニー』。
某夢の国が思い浮かぶ、呼ばれ慣れない愛称。可愛いけれど、物凄い違和感だ。マリアに使うのって『メアリー』とか『マリー』とかのイメージなんだけど。記憶の中でもそう呼ばれていたので、自分を呼んでるとは分かるけれど、慣れるには時間が必要である。
席は男女分けて年功序列なのだろう。扉から見て一番奥の誕生日席に父、私たちの反対側に兄と上の弟とファムの順で座っており、空いている席はここだった。ふむふむ。と、そんな推察をして真面目な顔をしている私だが、今はこの、満足そうな笑みを浮かべてこちらを見ている淡い藤色の瞳にメロメロだ。でも大丈夫、誰にもバレてない。
「まずは食前のお祈りをしよう。話は食事をしながらすればいいからな。」
お父さんがそう言うと、手を胸の前で組んだ。
「神よ。今日も貴方から与えられる恵みにより、家族が健康でいられるだけの食事ができます。これからも、貴方の計画に沿って行動できる身体を、貴方のために維持して参ります。家族揃って、その通りにいたします。」
「「「その通りにいたします。」」」
これは、いただきますと同じ意味だろう。マリアの記憶にもあった。…でも、計画って何だろう?意味は良く分からないけれど、お腹が空いた。みんながそれぞれ食事をし始めたので、私もスプーンを手に取る。
が、…ショックだ。みんな殆ど手で食べている。小さく切られた肉も、スプーンで取るには大きい。自分の歯でちぎって食べている。スプーンとお皿だけ並ぶテーブルに、物理的に頭を抱えたい。
ピザなの?みんなにとって、肉はピザなのね?
まぁ、その手をそのままテーブルクロスで拭くわけではなく、フィンガーボウルで都度洗っているから100歩、いや1000歩は譲るしかないか…。
スープを飲みながら心を落ち着かせ、私もみんなと同じように食べることにした。
もち麦もぷちぷちではなく、もちゅもちゅのままだったので、テンションは低い。隣にいるお母さんのお皿を見ても同じである。お昼に食べたものと同じ形状なのは体調的にありがたいのだが、今後も続くと飽きそうだ。私は今後の大きな課題として、『食の改善』を心に誓った。
しばらくは順調に食べ進められたが、徐々にペースが落ちてくる。ここの料理は結構塩気が強いのだ。濃いチーズのせいだろうか。初めはもち麦がより美味しく感じられるなぁと思っていたのだが、どれもこれも、しょっぱい。
「ミニー、そんなにおかずばかり食べてしょっぱくないの?」
様子を見ていたのだろうか。お母さんにそう言われて、私はお母さんのお皿を見た。もち麦はほぼ食べ切っているのに、おかずが殆ど減ってない。
「ちゃんとバランスよく食べないと、また身体を壊すわよ。」
そう言いながら最後のひと口を含み、持っていたスプーンでグラスを鳴らすと、もち麦がまた母の前に置かれる。
あ、そうやって食べるんだ。
実はマリアもそうしていたのだが、あれが嫌いだとか、これは食べたくないとかの感情が強く、好き嫌いでそうしているのだと勝手に思っていた。どうやら、おかずはちょぴっと、ごはんは多めのバランスで食べるのがここでの基本だったようだ。
「ミニーは好き嫌いが多いからなぁ。ほら、私のデューも食べるといい。」
そう言って腕を伸ばし、スプーンに乗せた赤い実を私のお皿に入れてくれたのは兄のジョバンニである。マリアは、ジャンニという愛称で呼んでいた。
お母さんと同じクリーム色の髪と、お父さんと同じ濃い江戸紫色の瞳とのコントラストのせいか少し神経質そうな印象のジャンニ。ただ、身体の線は細いのに、捲ったシャツの腕は筋肉質なので細マッチョではないだろうか。ちなみにデューは、キュウリみたいな味のあっさりした野菜である。
「ありがとう、ジャンニ。今日は、家に居たの?」
「ああ。昨日の今日だからね。父さんと家で仕事をしてたよ。」
「ミニー!僕も!僕も今日はジャン兄の手伝いしたんだよ!」
ジャンニと話し始めた直後に割って入ってきたのは、上の弟エルミニオだ。お母さんから貰ったクリーム色の髪に薄いピンクの瞳を爛々と輝かせたその顔は、好奇心旺盛な小学生男子のイメージそのままである。ただ、まだ7歳なのに仕事の手伝いをするとは。出来た弟である。
「モロエル。だめよ、ジャンニとミニーが先にお話ししていたでしょう?」
すかさずお母さんに注意を受けて、顎を引いてみせるその姿は、まさに『モロ(シャイでハンサムでやんちゃな)エル(エルミニオ)』だ。意味が分かった私は、ついクスクスと笑ってしまった。モロエルがジト目で見てくる。可愛い。
ぅおほんっ。乾いた咳が左側から聞こえた。父だ。
「今回は私を含め三人とも、なんとか命を長らえることが出来た。マリア。たしかに『パラプの実』は美味しいが、摘んだままで食べると有害なタンパク質があるのだよ。今後は必ず、厨房で茹でたものを持ってくるように。いいかい?」
残念な子を見る目で見つめられ、私は目を剥いた。どうやらマリアの死の原因は、マリア本人だったらしい。本人が一番痛い目に遭っているのだから、誰も怒れなかったようだが危険すぎる。
あまりの衝撃に、下を向いて記憶を探る。たしかに少し前、畑のような場所で『枝豆』のような物を摘み取っていた。もしかして、本当に枝豆なのではないだろうか。ここには、名前が違うだけの同じ食べ物がある。そうだとしたら、食中毒を起こすのは当然だ。
「マリア、大丈夫だ。みんなが助かったんだ。誰もいなくなったわけじゃない。これから気を付ければいいだけのことだ。さぁ、食事の続きをしよう。」
下を向いたのを反省と捉えたのか、お父さんは優しい声で私を慰めてくれた。でもね、お父さん。マリアは、本当のマリアはもう…。
性格はそれぞれ違うけど、この家族のことは思った以上に好きになれそうな気がした。マリアの代わりが私に務まるのかは不安だが、悲しませたくはない。
反対にマリアは、みんなからどんな風に見えていたのだろう。
…前と今で、違って見えるところはないかな。
少し心配になりつつ、私は食事を終えた。