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ミニーの靴下  作者:
第一部 新しい家族
3/7

マリアの弟

 

「ねーね、いたい?」


 ダレナが連れて来たのはマリアの弟、3歳になったばかりのファムだ。ファムとは、5番目と言う意味なので、1番下の弟で間違いない。幼い子特有の拙い話し方が可愛すぎる。


 後で会うことになると思うが、実はマリアは5人兄弟の2番目である。この家が多産家系なのだろうか、それともこの地域では一般的なのだろうか。


「大丈夫だよ、ファム。ねーね、痛くないよ。」


 この『ねーね』は、『お姉ちゃん』を幼児言葉にしたものだ。私が返事をするとファムは、江戸紫色の瞳をぱぁっと広げて笑顔になり「ねーね、いたくないねー。」と返してくる。なんだこの可愛い生き物は。


 ドアの前に立ったままだったファムが、テーブルに向かうダレナと離れてこちらに近寄ってきた。


 ファムの服はお下がりなのだろうか。目立った汚れもほつれもないが、なんとなくそう思った。なんかこう、新しい感じがしないのだ。この頃の子供は成長が早いため服のサイズがよく変わる。新しい服を買っても着ている期間が短いため、すぐに気付けるほど着古した感じになることはないはずだ。


 ただ、ハイネックのボタンシャツに、ニッカポッカとは言わないが余裕のあるデザインのズボン、付けられたサスペンダーも含めて、全体的にシンプルなのだがどことなく品の良さを感じさせる。私好みだし、ファムにも良く似合っていると思う。


 瞳と同じ江戸紫色の前髪が、歩く度にサラサラと揺れる。ファムの上品に切りそろえられたショートヘアは、量が少ないのもあって清潔感がある感じだ。ぷにぷにとした白いほっぺも、丸いおでこも、小さな唇も、バランスが整っていて将来有望すぎる。


 ん?この子のお姉ちゃんってことは、私も美女なのでは?


 ちょっと鏡が見たくなってきた。考えてみたら、まだ自分の顔すら知らないではないか。そもそも鏡とかそれに代わるものってここにあるのかな?


「すいません、お嬢さん。ねーねに会いたいって、ごはんもさっさと食べちまったみたいで。」


 ベッドの脇に椅子を置いたダレナはそう言うと、お皿とスプーンが乗ったお盆を自身の膝に乗せた。ファムを眺めていた私が顔を向けると、スプーンを持ち上げ、ひと匙すくって私に差し出してくる。


「あ、きょ、今日は私、自分で食べるよ。」


 食べさせてもらう流れが想像できなくて、顔に近づけられたスプーンを口に含むことができない。


 マリアは、いつも病気になると「食べさせて」とせがんでいたらしいが、私には無理だ。


「あらあら。お嬢さんも大人になりましたね。」


 ふふっと茶化すように笑うダレナからお盆を受け取り、私はその上に置かれたお皿を見る。


 そうです、中身は完全なる大人なんです。そう心の中で呟いてから、目の前にある、ぐちゃぐちゃに潰したバナナのような『物体X』をひと匙すくった。


「!」


 お、美味しい。


 口に広がる味は想像と違っていて、思わず目を見開いてしまった。これは、麦だ。ぷちぷちがもちゅもちゅっとはしているが、食べ慣れた『もち麦』だ。


 オートミールや、何か別の残念そうな味を想像していた私は、スプーンを動かす手を早めてその味を楽しんだ。すき焼きを食べたあとの感覚と空腹で、ちょうどさっぱりとしたものを食べたかったのだ。


「おいしーねぇ。」


 私の隣でベッドに肘をつき、その小さな手で自分の頬を包みながらそう言ってくるファムの可愛さと、お腹に溜まっていく温かいごはんの美味しさに、するするっと緊張感が解けていくのを感じる。


 あぁ。私、今なら頑張れるかもしれない。


 もうちょっとだけ、ここで。


 つい先程までは絶望しかなかった。大切なものを全て失い、独りぼっちだった。


 知らない、分からないことだらけで不安な気持ちがどんどん膨らんで。自分の居場所はここじゃないって、泣いて叫びたかった。


 もちろん、この可愛いファムも、私ではない私に話しかけているんだということは分かっている。


 でも。


 ねーねと呼ぶこの笑顔は、私がマリアの代わりに生きることで、守られるのだ。


 あの子もどこかで、笑っていてくれたらいいのに。


 もう会えない子供を思い出して、きゅっと胸が締め付けられる。きっとこの気持ちは一生消えないだろう。誰にも言うことは出来ないけれど、心の中で想うのは自由だ。


 私は隣で揺れている江戸紫色の髪を撫でて、笑った。


「ファムは、ごはん美味しかった?」


 私がそう尋ねると、


「ごあん、おいしーしたよ。」


 ファムがそう答えてから、「こーんな、おっきのたべた!」と手を大きく広げて説明してくれる。話せる単語は少ないが、ちゃんと意思疎通が出来て嬉しいようでファムはたくさんお話ししてくれた。


 その様子を微笑ましそうに目を細めて見ていたダレナが、空になったお皿に気付いてお盆ごと持ち上げる。


「坊ちゃん、そろそろ準備しないと洗礼式に着ていく服を決められませんよ。」


「洗礼式?」


 何処かで耳にしたことがあるような、あまり聞き馴染みのない言葉に私が思わず聞き返すと、ダレナが何かに気付いた顔になって一つ頷いた。


「フィオレお嬢さんの時は、大奥様とご一緒にお出かけでしたもんね。洗礼式は、3歳の名付けをするお祝いの日ですよ。坊ちゃんはどんな名前になるんですかね?暑くなる前にあるから、雨が降らなくなるまでには準備を終わらせないと。」


 ねぇ、坊ちゃん。説明を終えた最後に、ダレナはファムにそう声をかけ、お盆をテーブルに置いたままファムを抱き上げて部屋を出て行く。


 なんと、ファムは名前では無かったらしい。


 洗礼式よりもそっちの方がびっくりだ。本当に5番目と言う意味だったのか。これが日本だったら、私は3歳まで2番目と呼ばれていたことになる。なんか嫌だ。ニュアンスが違うから、ここでは気にならないのかもしれないけれど。


 そして、フィオレ。まだ記憶の中でしか知らないが、ファムの1つ上の、私にとっては妹の名前だ。ファムと同じ江戸紫色の髪に、淡い藤色の瞳だったと思う。





 パタン、パタン、ガチャ。


 しばらく経ってダレナが戻って来た。お盆を取りに来たのだろう。私は、驚きに目を見張るダレナと目を合わせる。布団による痒みの復活で、だらだらと寝てもいられず靴を履いて待っていたのだ。


「あら。もう起きて大丈夫なんですかい?」


「布団が痒くて寝れないの。ダレナ、お洗濯手伝ってくれる?」


「あぁ。随分と汗をかきましたもんね。まずは藁を変えましょうか。」


「…そういえば、今って何時?」


 洗濯するよりも、先にその下の藁を変えようと提案してくるダレナの言葉で私は少し考えた。頭の中で洗濯と藁交換を天秤にかけたが、やはり布団の乾く時間からの逆算が必要だ。


 小さな窓からの光で明るくなっている部屋。そこから導き出したので間違いない。今日の天気は上々だ。


「今は14時ですけど、時間のお勉強ってもうしましたっけ?」


 もう午後だったらしい。大変だ。それでは夜までに乾くか分からないじゃないか。脱水機があるならまだしも。


「じゃあ洗濯をしてから藁を変えよう。お布団が乾かなかったらやだもん。」


 ダレナの質問には敢えて答えず、私はぷくっと軽く片頬を膨らませた。これは、昨日までの私もやっていた『癖』である。主張を曲げないという心構えは、何故かこうして現れる。ちなみに唇は尖らない。


 藁布団であることは100歩も1000歩も譲ろう。しかし、濡れた布団では意味がない。…ところで、替えはあるのだろうか。


「ねぇ、ダレナ。私の布団ってこれだけ?代わりの布ってないの?」


「そうですね。マリアお嬢さんの下にすぐ3人も生まれたから、用意する時間も糸も足りないって言われてます。」


 お盆を片付け終えたダレナに質問すると、その返事をしながら洋服を出して、絞ったタオルで私の身体を丁寧に拭き、手早く着替えさせてくれた。


 まぁそうだよねぇ。ほんの少しだけ期待したけれど、予想通りだったので気にしないことにする。


「そっか。私もやってみたいから一緒に洗ってもいい?」


 ここで暮らす人々の、衛生に対する意識がどうなっているのかが不安で仕方ない。どんな物を使って、どういう風に洗っているのだろうか。部屋も臭いし、本当はあれこれ掃除して回りたいくらいなのだ。この体の体力がどの程度動けるのか分からないので、ひとまず重要な所から始めたいと思う。


「まぁいいですけど、まだ本調子じゃないんだし見るだけにしたらどうですか?」


 そう言うダレナが、布団を持ったままドアを開けてくれる。私は初めて、この部屋を出た。





 部屋を出ると目の前にドア。右に壁、左に短い廊下があり、ダレナが廊下を歩いて行くので付いていく。少し先に階段があって降りると、同じような間取りの廊下が見えた。ダレナは慣れた足取りで更に階段を降りて行く。置いて行かれないように、私は気になりつつもダレナを追いかけた。


 次の階は奥に扉がある。観音開きになりそうな感じで、中央にドアノブが二つ並んでいた。更に階段を降りるのかと思いきや、数段降りた所にドアがあり、ダレナがそこを開けて進んで行く。


「あら、マリアお嬢さん。もう良いのかい?」


 ドアの先は厨房だったようで、何人かがカチャカチャと動き回っていた。ダレナと同じ服を着た、少しふっくらしている女性が私に気付き、声をかけてきたのだ。


「うん。もう平気だよ。」


 私はそう簡単に答えて、ダレナの後に続く。この人を見たことがありそうだが、名前は分からない。


「今の人、なんて言う名前なの?」


 厨房を抜けて外に出ると、気持ちの良い風が吹いていた。少し先に小さな川が流れていて、その近くで作業をしている人が沢山いる。そこに行くまでに、聞いておきたい。


「芋洗いのウンザですよ。…ちょっと前までは奥様のお茶担当だったから、マリアお嬢さんはあんまり詳しく知らないですよね。」


 何故か困った顔で返された。なんで?


 少しずつ集まってくる情報に、更なるハテナが生まれる。まぁ、今は洗濯が先だから後回しにしておこう。私は笑顔で頷き、そのまま歩き続けた。


 水場に着くと、ダレナは近くにあった大きな盥に寝具を投げ込んだ。そこに居た女性と何やら話している。水場として使われている川は、飛べば対岸に渡れそうなほど細い。底が見えるほど透き通っていて、その浅さに安心した。


「このお水はどこから来るの?」


 右から左に流れていく川の様子を見て、私はそう尋ねる。この先には何があるのだろうか。


「これは、そこの山から流れて来てるんですよ。飲み水にもなるから汚れたものを流すなって、うるさく言われてて。」


 出て来た建物のずっと奥にある森の方向を指さして、ダレナが教えてくれた。ここは、山の麓なのか。


「じゃあ、このお水はどこへ行くの?」


「ここから田畑に向かってますね。そのあとは二手に分かれて1つは隣の領地、もう一つは国境近くの海に続いてるって話ですよ。…さぁ。お嬢さん、綺麗にするから見ててくださいな。」


 ニカッと笑って、ダレナが先程話をしていた女性に声をかけた。声をかけられた女性は私を見て、軽くお辞儀のような仕草をすると、固形の何かを持ち寝具を擦り始めた。


 あ。石鹸、あるんだ。


 私はいつも自然派と書かれたの石鹸液で洗濯していた。子供を産んでから、添加物とか合成洗剤とかそういうのが気になって、色々と調べたり作ったりしていたのだ。ただ、石鹸は尿素を使って作る。たしかアンモニアで汚れが落ちるので、必須材料だと思ったのだが、その作り方が分からない。だから、ここで使っている物が嫌だった時には、それに代わる物を作らなければと思っていたのだ。


 私が密かに安堵していると、女性は洗濯物が泡立ち始めたのを確認し、膝下の長さだったスカートを持ち上げた。そして、足を盥の中に入れてパチャパチャと音を立てながら、足踏みを始める。


「実はそれぞれに担当があって、私は洗えないんですよ。それに、今日はナージャにお願いしましたけど、その日に何をどのくらい洗うのかは予め決まっているもんですからね。」


 話しかけられてナージャから目を離し振り返ると、お嬢さんだから今回は特別ですよ。と、いたずらっ子みたいな顔でダレナは笑った。





「さて、そろそろお部屋に行きますよ。マリアお嬢さん。」


 結局、私は何も手伝わせてもらえなかった。ナージャは石鹸が入った水を川ではなく、土に撒いていた。害虫駆除と、洗濯場の除草が出来て一石二鳥なんだそうだ。洗濯物を干すまで見せてもらって、私たちは部屋に戻ることにした。立ち上がると気温が下がってきていたのか、ぷるっと体が震える。


「ダレナ、トイレに行きたい。」


 トイレと言う単語がすんなり出てきたから、トイレはあるはずだ。おまるとかではない。きっと。




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