始まりの日
ごろん。
……ちく。
ごろん。
……ぽりぽり。
……ぽりぽり。
…んー!…ぼりぼり。しっとりとした布の重さと無意識に掻いているような自分の腕の動きを感じとり、夢の中から少しずつ意識が覚醒し始めた私は、まだ起きたくなくて何度か寝返りを繰り返す。
でも、なんか、痒い。
…ぼりぼりぼり。
顔も足も首も背中も、どんどん痒くなってくる。
…ちく。
…ぼりぼり、ぼりぼりぼりぼり。
……ちくちくっ!
んー!やっぱり痒い!!そう思った瞬間に私は、目を開けることもせずに横になったまま夢中で体のあちこちを掻きむしっていた。
痒い、痒い、痒い!
皮膚の異常を感じるままにひたすら掻いた場所にまた、何かがちくりと刺さったり引っ掛かったりするので痒みは更に増していく。しかも、なんか臭い。
何これ!もう、無理!
ひたすら掻いても終わりのこない痒みに耐え切れず、私はガバッと体を起こし、布団を跳ね除ける。
絶対布団のせいだ!
体を掻き続けながら何度か瞬きを繰り返し、ゆっくり意識と視界を現実世界に引き戻していく。
私は母の用意してくれた布団から出ようと、体を捩りながら目を開けて、明るくなった部屋を見た。
……へ?
ここは、実家ではない。
それだけは認識できた。起きたら知らない家に寝ていたなんてことはあるだろうか。いや、ない。
驚きすぎて声も出ず、体を起こすことも止めて、辺りを見回してみる。
私、まだ夢の中にいるの?
そんな言葉が頭の中に浮かんでは消えて、また浮かぶ。
何故ならこの部屋、変なのだ。なんというか、童話の世界を模したテーマパークを思い出させるような古そうで新しい、何とも言えない違和感がある。たしか、そこに用意されていた撮影スポットにも、これに似たような部屋があったはずだ。少し前に子供を連れて行ったから余計にそう思うのかもしれないけれど。
…白雪姫とか出てこないよね?
頑丈そうな太い木枠でできた小さな窓。煤ぼけた漆喰っぽい壁。茶色い洋服箪笥。そして、申し訳程度に置かれた装飾のない丸いテーブルの上に吊るされたロウソク。シャンデリアとは言い難いが、薄い十字形の鉄の板の上に4本刺さっているのは多分本物のロウソクだろう。溶けて残ったように形が崩れている物もあり、ロウソクの長さがバランス悪く並んでいる。
…あの人どこに行ったのかしら。
布団から逃れたおかげか、先程までの酷い痒みも幾分楽になり、意識がはっきりしてきた。言いようのない不安が込み上げてきたからか、姿の見えない家族のことを思い出す。何をしたのか、あの人に聞かなければ。
ひとまずベッドから降りようと目の前に広がる布団を手に取り、その汚さに思わず、うへぇ。というなんとも間抜けな声を出したときに気付いた。
この手、誰の手?
自分の体から伸びる腕、自分の動かしたい方向に動く手首、手のひらが、小さな子供の手のように見えるのだ。これが自分の体の一部なのか。確認するために布団を上げ下げしようとすれば、距離感が合わなくて体が前のめりになる。
そして、先程自分で出した声の高さと声音に意識が飛ぶと、ザッと鳥肌が立つのを感じた。
私、小さくなってる?
小さい、え?
掴んだままの布団を見ながら、何も考えられなくなってしまった。夫や子供の顔が浮かんでは消えるだけだ。
ど、ど、どど、どういうこと?!
心臓がバクバクと早鐘を打ち、目だけが彷徨う。ふと目に入るのは、美容院で年末に染めたばかりの自分の髪ではなく、くすんだラベンダー色の柔らかそうな髪の毛。長さも肩ぐらいだったはずなのに、腰辺りまで伸びている。
ふるりと頭を揺らせば、その動きに合わせて揺れる。やはり、これは私の髪のようだ。
鏡がないので、顔を撫でてみる。まつげが長い。おでこが丸い。鼻が小さい。
そっとベッドから降りて、形の歪なフローリングに足を乗せた。足も小さい。お肌もきめ細かくて綺麗。
これは、どう見ても完全に子供の体、だよねぇ?
誰も答えてくれるはずがないのに、頭の中で質問してみる。なんだか汚らしい小さな靴が置いてあるが、見るからに臭そうで履きたくない。
…うぅ。でも、この床ザリザリしてる。
裸足のまま靴を持って椅子に座り、丁寧に手で靴の中の砂を掻き出した。足の裏も真っ黒になったので、それも適当に払って靴を履いて歩いてみる。
洋服箪笥の奥に、扉を見つけた。ここから出られそうだ。意識はしていなかったが、外から誰かの笑い声がずっとしている。
窓を見ても、でこぼこしたガラス面から外は覗けそうにない。
勇気を出して、外に出るために軽く深呼吸をしてドアノブに手をかけた時。
ータン、タン、タン。パタン、パタン、パタン。
誰かの足音が近づいてくることに気づいて、パッと手を離して後ろに飛びのいた。
…ガチャッ。
ドアを開けて入ってきたのは、大柄な女性だった。膝より長いワンピースにエプロン姿。使い古された感じのする生地は、あまり洗われていないのか落ちない汚れなのかヨレヨレで少し汚い。この人は、この体にとっての母親だろうか。クリクリの短いストロベリーブロンドヘアで、ニカッと笑った笑顔が温かそうな雰囲気だ。
「@#&/_#/&/&/@/&_#?」(もう起きていたのね?)
「え?」
笑顔で聞かれたが、聞いたこともないニュアンスで、よく分からない言語。中国語ともドイツ語ともフランス語とも韓国語とも違うのだけは分かる。もちろん、英語や日本語では絶対ない。
なのに、意味がわかる。
声をかけられて数秒も経たないうちに、目の前が割れた鏡のように歪んだ。同時に感じる強い目眩に、私は思わず目を閉じる。頭にバーッと誰かの記憶が雪崩れこんできて、目の前の現実と、頭の中の映像が混ざり気持ち悪いのだ。これを記憶だと思うのは、VRのように自分の視点から世界を見ていて、その時に感じていた感情も一緒に入ってきたからだろう。
「おぅえ。かはっ。」
息が詰まり、胸焼けみたいな吐き気と共に、酷い頭痛に襲われた。何も飛び出してこなかったことが不思議なくらいだ。
「♪%、2$€¥4>々€→°♪=÷|:」(あら、まだ本調子じゃないみたいだね。)
慌てて持っていたボウルをテーブルに置き、駆け寄ってくるこの人は、奴隷のダレナだ。
両膝をつき苦しむ私を抱きかかえて、そっと布団に乗せてくれる。履いたばかりの靴を脱がされた私は、先ほどの痒いベッドで丸くなった。
「やっと治ったばかりなんだから、無理はだめですよ。マリアお嬢さん。」
マリア。やっぱりそれが、今の私の名前なのね。
ダレナがボウルに入った水にタオルを浸し、絞った。そのタオルで私の顔を拭ってくれる。
急に雪崩れ込んだこの体の記憶はそう多くなかった。時折強くなる頭痛を残して、吐き気や息苦しさは次第に楽になっていく。
「ごめんねダレナ。まだ普通に動けないみたい。でも、お腹が空いてるの。」
変に思われないように、少しでいいから1人になりたい。ベッドの上に乗せられただけの私は、肌寒さを感じて布団にのそのそと入りながらダレナに向かってそう言った。
しかも、私はまだすき焼きをたらふく食べたばかりの気分だが、この体は違うようで。今にも音が鳴りそうなくらいの空腹なのだ。混乱してても腹は減る。人間だもの。吐き気が収まったらすぐに空腹とは、我ながら忙しないなと心の中で呆れてしまう。
「今ちょうど呼びに行こうと思ってましたけど、ここに持ってきましょうか?」
私と同じようなことを考えたのであろうダレナが、呆れたような笑みを浮かべてそう聞いてきたので、私は小さく頷いた。
「喉も渇いてるから、何か飲み物も欲しいな。」
わかりました、と返事を返して部屋から出ていくダレナの後ろ姿を見ながら今起こったことを思い返した。
足音が聞こえなくなったのを確認してから体を起こし、状況を整理していく。動く度に頭痛が起きるので、ベッドからは降りられない。
これは、よく分からないけど、二回目の人生ってことなのかな?来世的な。……でも、それにしては生活水準が低くない?
何故自分が小さい子供になったのか分からない。生まれたばかりでもないし、ついさっきまではマリアとしての記憶もなかったのだ。
ただ、先程入ってきた記憶によると、この体の持ち主は食中毒で倒れたところらしい。最後に見た映像はベッドの上だった。それがこの体の最後の記憶ならば、高熱と痙攣を繰り返し、痛くて苦しんで……。
そして分かったのは、この子は8歳であるということと家族の顔と名前、それぞれとの関わり方だ。
あとは、この子を知ってる人は多いけれど、この子が覚えている人は少ないということくらいだろうか。記憶が入ってきたのに、とにかく情報が少ないのだ。マリアが覚えていないことは、入ってこないようだった。
ひとまず先程のダレナは女中のような役割をしているようで、関わりは多そうだから仲良くしておこう。
どこの家庭にも奴隷はいるのかな。なんか、やだなぁ。
先程のダレナのことを思い出すと、なんだか気分が落ち込む。彼女にはあまり悲壮感はなかったので、この家では扱いが良いのだろう。他の家ではどうなのか、心配で不安になる。
そしてマリアの年齢的な問題なのだろうか、外を歩けば、毛並みの良さそうな猫を追いかけて歩いていたり、何が楽しいのかずっと靴を見ながら建物内を歩いていたりして過ごしていたようだ。
見せて欲しい肝心な所を見せてくれない上に、感情ばかりが伝わってきて疲れた。この建物の間取りや外の景色、親に教わったことや好んでいたもの、遊び方や起きてから寝るまでにすることなど、知っておきたいことが殆ど分からなかった。結局分からないことばかりなので、考えることを放棄したい。
…けれど、1つだけ分かったことがある。いや、なんとなく気付いてはいた。
ここには夫も子供も、いない。
ほぼ間違いなく、ここは別の世界。
文句が多くて、変なとこにこだわりの強いあの人も。
最近少し生意気になってきて、それでも私から離れたがらないあの子も。
ここには、いないのだ。
受け入れたくはないけれど、言葉も環境も、自分の体でさえも違うのだ。
……っぽた。
ぽたぽた。
涙が溢れて、落ちた。力が入らなくて拭うことも出来ない。
何でこんなことになったのだろう。
…昨日までは普通の日、だったのに。
この小さな体に私の魂が入ったのだとしたら、私の家族も『ここ』に近い場所で、同じ時間に生きる誰かの中に入っている、なんてことはあるのだろうか。
いや、可能性はきっと低い。まずストロベリーブロンドの白人が奴隷なんて、現代ではありえないことだ。ここは、地球ではない何処か、または時代を遡った何処か、あるいは遠い未来の何処か、だろう。
その数千、数万分ある選択肢の中で、私が家族に生きていて欲しいのは、この時代のピンポイントの『ここ』である。
そして、たとえもし、そんな素敵な奇跡が起こったとしても、誰がその人なのか分からない。
自分がこんなに小さくなったのだ。夫が子供になっていたり、子供がおじさんになっている場合もあるだろう。性別すら同じとは限らない。
これからのことを心配するよりも、昨日まで共に過ごしていた家族のことを考えていると、突然ドアが開く音がした。
ガチャ。
足音に気付かず突然聞こえた音に、私はハッとして顔を上げた。涙で前が見えない。左の人差し指で涙を拭うと見えたのは、先程出て行ったダレナと小さい子供。
マリアの弟だった。