トミーとマツの木の下に
あの日は幸福に滅入る日でした。父が重篤なのです。そのためらいもなく傷つける悪罵で、その一貫不惑の罵詈雑言で、私の曇りない心を土足で踏み荒らした父が、です。私は陰口、タメ口が嫌いなように、父の悪口が嫌いでした。人の口は、羊たちの沈黙に耳をすませながら、すなわち屠殺場の悲鳴を耳に焼き付けながら、命をいただきます。だからこそ、その口から出る言霊は、自然の摂理に鼓舞されて、人を活かす、活人の言霊でなければならないのです。
初めに言葉がありました。それは人を活かす言葉です。
あの男、オワッテます。
否、あの人はこれから始まる男性です。
あの女、空っぽです。
否、あの人はいつか満たされて、その悦びを知る女性です。
何忍者?
人人人人人。人人人人人。
十忍者!
にににんと、十忍者が駆けぬけて、言霊を投げてゆきました。
人ノ人タル人ハ人ヲ人トトス。
人ノ人タラザル人ハ人ヲ人トセズ。
永い年月のこちらから選んだ疎遠をそのままにして、母から来たラインの、父危篤の知らせを、既読スルーにして、危篤スルーを差し上げました。巨大な天の圧搾機が取り払われつつあるのです。後には祭りの後のような寂しさだけが残るでしょう。
私はそのとき、林檎の木の根方に腰かけて、雨脚が凄まじい速さで、緑が丘をブリリアント・グリーンに染め上げるのを見ていました。
林檎を頬張りながら雨止みを待っていました。それはつかの間に訪れました。そのスピードで。旧に復して、空は再び青さを取り戻し、陽は暖かく金色に輝いたのです。
私には予感がありました。そうです、虹です。光りの爆発がはじまりました。雲居の高く、空は充たされてゆきます。青がある、オレンジがある、緑がある、紫がある。虹の両端は地上に落ちてきました。
果たして、私は願ごとをしました。虹の消えないうちに。
どうか父がやすらかに○△□ますように。
願ごとは叶うでしょうか? 不得要領に笑うばかりです。○△□には古典の言葉が入ります。
虹が消えると、歌姫の歌声が流れてきました。黄金なる林檎の木、美しく流るる歌姫の声、ですね。この歌姫の名前を若葉様は知っていますか?
いつかこの虹を黒枠の額縁に描こうと思います。必ずヴィセント・ヴァンゴゥの「星月夜」の向こうをはれるはずです。題は「彼岸に渡る虹」にします。この絵が完成したら、トミーとマツの木の下に埋めるでせう。私がたった今、歴史的仮名遣を使ったので、歴史的現在が、封印されていた小さな物語の魔法が解けたことを告げるでしょう。