8◆黒い銅馬車とコルセット
婚約者に会って10日後には引っ越しというタイトなスケジュールではあったが、身軽で来てもらえばいいということだったので、オディールは大きなトランクにいっぱいの化粧道具と気に入りのドレスだけを持ち込むことにした。メイドは全員が転勤不可とのことなので、本当に一人で行くことになる。
「お姉様、身の回りのお世話はどうされますの?」
「コルセットの紐さえ結んでもらえたらあとは構わない。身支度については何の不安もないし、まあ不便はあるかもしれんが、楽しんでみるさ」
もしアルゴンドラ辺境伯ご一行の中に女性がいなかったら、コルセットの紐は未来の夫に結んでもらえばいいのだ。
そうして支度を終えたオディールはアルゴンドラ辺境伯がやってくるのを待った。アイラインをきっちり引いたいつもの魔女スタイルで。
「オディール!なぜ茶会の時の恰好をせんのだ!」
「おや父上。私がずっと猫を被っていられるとお思いか?それとも今ここで素を見せてクレームを受けるのがお嫌かな?しかし国王夫妻が纏めた縁談、クレームはあっても嫌とは言うまい」
どうせ猫を脱ぐのであれば遠く北の地で脱いでくれたらいいものを…そうしたらあとは知らん。ロッテンバッハ伯爵がこう考えていることなどオディールにはお見通しである。
そんなこんなでアルゴンドラ辺境伯が迎えにくる時刻になった。何やら地鳴りのような音がして家族みんなが窓の外を見てみると、黒塗りの四頭立て銅馬車がロッテンバッハ伯爵家にぞろぞろとやってきた。なんとも物々しい。
「すごいな、すぐにでも戦えそうだ」
オディールは腕組みをしながらその様子を眺めている。とてもじゃないが嫁入りの雰囲気は皆無だ。
「迎えに来た、オディール・ロッテンバッハ嬢」
「さあオディール様、お付きの方と一緒にこちらの馬車にお乗りください」
今日はローレンスの後ろではなく隣にいるラインハルトが、主人の乗る馬車のすぐ後ろの馬車へ促した。
「いや、供はいない。私一人だ。できれば夫となるアルゴンドラ辺境伯と一緒の馬車で行きたいのだが、不都合はあるか?」
「なに!」
声を上げたのはアルゴンドラ辺境伯である。
オディール嬢と一緒に?
まだ良くわからないであろう男と一緒に乗ってくれるというのか?
しかし、一体何を話せばいいのだ?
ローレンスは自分が厳つい男である自覚はあるし、それゆえに少女に怖いと言われたこともある。自分とは食事を一緒にするなどして徐々に慣れてもらおうと考えていたのだが、まさか旅の初日から一緒の馬車に乗るとは思わず、心の準備が何もできていない。
微動だにせずそこから二の句を告げない様子に、普通の令嬢であれば気分を害したと気に病むだろう。しかしそこはオディールである、提案の返事を待つだけだ。
驚いたのはラインハルトもだが、それは伯爵令嬢が侍女も連れずにやってくることに対してだ。男所帯で世話ができないと青ざめる。
「いやあの、本当にお一人で参られるのですか?この旅に女性の従者は連れておらず…」
「構わん。私は自分のことは大抵できる。ただコルセットの紐だけはアルゴンドラ辺境伯に結んで欲しい」
「オディール!!!」
ロッテンバッハ伯爵が苦い顔でつっこむ。おかしなことを言うのなら出発してからにしてほしい。
「コルセット…私が…?」
コルセットとは、服の下に身に着けるものだ。その紐を自分が…?
何を話したらいいのか悩んでいたローレンスに向かって衝撃の頼みだ。
「あの、それでしたら私もまずは一緒の馬車に乗ってよろしいでしょうか。お二人だけでは緊張もございますでしょうから。身の回りの世話については、旅の途中で顔見知りもおりますので、そこから人を借りられるようお願いをしてみます」
ラインハルトは、脳の処理が追い付かず固まったままの主人のことは放って話を進める。
「ああそれで頼む」
不敵に笑って答えるオディールと目頭を押さえて俯くロッテンバッハ伯爵---おそらくこれが普段通りなのだろう。王妃の茶会の時とはずいぶん印象が違うが…そう思いラインハルトはアルゴンドラ辺境伯を見る。
「コルセット…」
ああ、ダメだ。ラインハルトも伯爵同様、目頭を押さえる。
オディールのキャラクターがずいぶん違うことについて、ラインハルトはどうこう言うつもりもない。そもそもローレンスが条件を一切出さないでお願いしたのだから、どんな相手でも文句はない。
「それでは父上、世話になったな。母上、ミアーラ、達者で暮らせ」
オディールは家族にさらっと挨拶をすると、まっすぐに一番厳つい馬車に向かう。
「オディール嬢、手を」
「すまないな、アルゴンドラ辺境伯」
ようやく動き出したアルゴンドラ辺境伯に素直にエスコートされ、オディールは馬車に乗り込む。
向かい合って座ると顔がよく見える。オディールは化粧も茶会の時とは違うが、その表情も大人しそうな微笑みではなく、愉快気でありどこか人を食ったような笑みなのだ。
オディールまじまじと見る二人に堂々と背筋を伸ばし「よろしく」と言った。