40◆根も葉もある噂の種と、ない種
「今日はアルゴンドラ辺境伯の周辺で愉快なことが起きますなあ」
「本当に」
セーヌ子爵の声は周囲に響き、アルゴンドラ辺境伯とダルク子爵の三男坊に何かがあったのはすぐ知れる。トラブルの空気に顔を困ったような顔をしながらも、本当は人の厄介事を楽しんでいるのである。そこに誰かの足を引っ張るネタがあれば尚のこと良い。
こんな噂好きの紳士淑女が好き勝手に話すことが、時に命取りになったりするので恐ろしい。
「しかし噂で聞いたんですが。ロッテンバッハ伯爵と言えばほら、この前の」
「ああ、とばっちりとは言え不正事件の関係者だ」
「あれのペナルティのためにアルゴンドラ辺境伯へ娘を差し出せと王に命じられたと聞いたが…」
一部貴族の間ではアルゴンドラ辺境伯の婚活話は笑いの種だ。熊のような大男を貴族の娘たちが嫌がってことごとく縁談が纏まらないのを不憫そうな顔で笑っていた。
「ワシが聞いたのは、ロッテンバッハのお嬢様は実は訳ありとかで、アルゴンドラ辺境伯はハズレを掴まされたという話だが」
「まあ、訳ありってなんですの?」
噂好きの貴族たちがローレンスとオディールの噂を始めたところに、ニコニコと愛想よく現れたのはバークマン子爵である。
「皆さま、お久しぶりです。また王都へ行く際には我が宿をご利用ください」
「おお、バークマン子爵、ここで会うのは珍しいな」
「ええ、娘のマリアがアルゴンドラ辺境伯の婚約者の旅の供をしまして。娘を迎えに来がてら、セーヌ侯爵にもご挨拶をと」
なんと、噂の渦中のアルゴンドラ辺境伯とその婚約者のネタを一番持っていそうな人物が現れたではないか。皆の目がキラキラと期待で光る。
「まあ、そうでしたの。で、ロッテンバッハ伯爵のご令嬢はどうでしたの?」
「訳ありと聞いたが、実際のところどうなんだね」
「訳あり?とんでもない!」
バークマン子爵は大げさに驚いて見せる。
「我が領の宿にも滞在したのですが、ロッテンバッハのお嬢様はとても優しい方ですよ。アルゴンドラ辺境伯へ婚約の贈り物がしたいと言うので、お手伝いをさせてもらいました。我が領は織物が盛んだと知って、最上の布のシャツや、他にもアルゴンドラ辺境伯にたくさんの服をお作りいただきました。お買い物もロッテンバッハのお嬢様が自ら婚約者に似合うものを選んで、それは仲睦まじい様子でしたよ」
「まあ、そうですの」
バークマン子爵はここで自領の最上の布のシャツのことを言うのも忘れない。きっとここへ滞在中に最上の布のシャツを着たアルゴンドラ辺境伯を見掛けるだろう。「あれが婚約者からプレゼントされたシャツ」と注目されたら儲けものだ。
「しかし、火のない所に煙は立たぬと言うじゃないか。アルゴンドラ辺境伯も奇妙な恰好をしておられたし、ロッテンバッハ家が娘を全く社交に出さなかったのもどういうわけか」
噂好きの詮索好きがウームと頭を悩ませると、背後から「ヒッヒッヒッ」と笑う声がした。
「王家がアルゴンドラ家に重きを置いているのはご存じでしょう。大方、ロッテンバッハ家から嫁入りする話はとうに王家が纏めていたので、社交界には出さなかったという所でしょうなぁ」
「これはこれはサイモン侯爵。なるほど、では婚活と言いながらもあのような珍妙な恰好をしていたのも、他に話が来ないための対策か。しかしそんなの公表していれば済んだものを、一体どうして」
「きっとロッテンバッハ家に難が降りかからないようにしていたのですわ、アルゴンドラ辺境伯があんなに素敵な紳士と知られたら余計な邪魔が入りますものね!」
今日のローレンスの姿を一目見てファンになった年配の貴族女性が目を輝かせながら言う。
「なるほど、そうでなければ今回のロッテンバッハ家のペナルティも、もっと大きく騒ぎだて、足を引っ張る者がいたかもしれん」
「王と王妃の茶会で結ばれたという話も納得だ」
盛り上がる人々の輪から外れたサイモン侯爵とバークマン子爵は、給仕よりワインを受け取り、壁際で乾杯をする。
「…先ほどの話は本当ですか?」
「いや、知らん。適当に言っただけだ」
しれっと答えるサイモン侯爵にバークマン子爵は笑いを堪える。噂好きはどんな噂だっていいのだ。それが本当でも嘘でも構いやしない。だったら都合のいいネタを放り込んで勝手に育ててくれればいい。
育った噂に説得力を持たせるのは、今日のローレンスとオディールだ。休憩が終わって本日二度目のダンスに挑戦しているらしく、ダンスフロアで踊る二人が見える。
着飾ったローレンスの姿を知っていれば結婚したのにと悔しがる令嬢の声が漏れ聞こえ、それがまるで噂の仮説の裏付けのように聞こえるのだ。そんな幸運な婚約者に物申したいと思ったところで、サイモン三姉妹と仲良く話すオディールに難癖を付けられる令嬢などいない。
そんなわけでフレッドの一件以外はとても平和に楽しくパーティーを過ごせたのであった。
***
忙しくも楽しい時間は過ぎ、今は帰りの馬車である。
「ふふふ、ローレンス様、今日のお姿をみんなにめちゃくちゃ褒められたな」
「そうだな。オディールのことも根掘り葉掘り聞かれたぞ」
「ボロは出ないように頑張ったが、出てたら許してくれ」
「問題ない」
今日は月がよく見える夜で、月明かりが湖面に映り、一本の光の道のように伸びている。
それでも馬車の中は薄暗く、表情を隠してくれるだろう。それが丁度良くて、オディールは照れて恥ずかしいがローレンスに言っておきたいことを言うつもりでいた。
「あのな、ローレンス様」
「なんだ」
「私は、ローレンス様と結婚出来て…うれしい」
ローレンスが愛の言葉をくれたのに、自分は何も返していないとオディールは思っていた。だけど「愛」はまだよくわからなくて、「愛している」と言うと嘘みたいに聞こえるんじゃないかと思ったのだ。では正直な気持ちを考えたら、この言葉になった。
自分の顔が熱くなっているのがわかる。きっと変な顔もしているだろう。だけどまっすぐローレンスの方を見ながらオディールは伝えた。薄暗くてローレンスが今どんな顔をしているかわからないから、ローレンスにも自分の表情はわからないだろうと安心する。
言葉もなく近づいて来たローレンスに唇を重ねられたとわかったのは、それが離れてからだった。
「私も嬉しい…こんな嬉しいことはない」
「ロ、ローレンス様…」
再び口付けられた時にはオディールにもしっかりとそれがわかった。向かい側に座っていたローレンスはオディールの隣に来て、口付けを繰り返しながらそのままオディールを抱きしめる。ローレンスの逞しい腕の中は温かく、鼓動の音が聞こえた。
「オディールは傷跡を恐ろしがったことがないな」
顔に傷があるというだけで眉を顰める者もいるが、爪痕の生々しさに魔獣という存在を思い出さずにはいられず、それが怖いという者もいる。
「何を言う、それはローレンス様が勇敢な証だろう。王より賜る勲章よりすごいぞ」
オディールの言葉にローレンスの抱きしめる腕に力が入る。彼女は外見は美しく装っても、言葉は決して飾らない。愛しさがこの身から零れ出そうだ。
「今日、オディールの部屋へ行ってもいいか?」
「そっそれはまだ早いっその、心の準備がっ」
夜に「部屋に行く」と言われる意味はさすがにオディールとてわかる。真っ赤になるオディールに、ローレンスは残念だと、少しため息を吐きながらも笑って承知した。今日はオディールの気持ちを受け取れたので良しとする。
今日は月が明るく、とても夜目が利くローレンスにはオディールの表情がよく見える。大事な言葉を照れながらも、真っすぐに自分に伝えてくれた人を、ローレンスは心から愛しいと思った。
次回更新で終わりです。2話更新します。




