31◆ダンスレッスン
「私は淑女になるための教育を放棄してしまって、踊れないんだ」
ダンスは淑女の嗜みである。妙齢の伯爵令嬢が踊れないと聞いてラインハルトとマリアは驚いた。本当にロッテンバッハ家はオディールに結婚相手を見つけるための社交をさせるつもりがなかったらしい。
「セーヌ侯爵のパーティーにはまだ時間がある。練習しよう」
一方ローレンスはなんだそんなことかという感じである。目的に力が満たないのなら、それに向かって鍛錬をしたらいい。ローレンスにとっては単純な話である。
「その、昔に少し齧った時も、私は下手だったんだ…適性があるとは思えない」
「踊りで身を立てるわけではないのだから、下手なのは問題ないだろう」
ローレンスは事も無げに言う。下手さゆえにコソコソと陰で何かを言われるとか、そういう発想は皆無だ。そうでなければあのいで立ちで婚活などしていない。
「踊ったことがあるのなら少しやってみよう。今の時点でのレベルを確認しておいた方がいい」
踊らなくてもいい、という選択肢はどうやら無いようだ。ローレンスに手を差し伸べられたオディールは、その手を取ってショボショボとソファから立ち上がった。
食後の団欒をしていたこの部屋は「広間」と言っていいほど広いので踊るのも問題ない。
「絶対に足を踏む」
「構わない」
まずは踊れないことを相談と思っていたのに、早速踊る羽目になってしまった。オディールは観念してローレンスと向かい合った。3拍子の足の運びを教えられ、まずはそれを繰り返す。それだけでオディールは足がもつれそうだ。よたよたしたステップは今にもローレンスの足を踏みそうであるが、ローレンスがサッと避けている。
「意外と踏まれませんわね」
「ローレンス様の運動神経と反射神経は並みじゃございません」
ラインハルトに言われ、マリアはなるほどと納得する。確実に足を踏んでくるとわかっている相手ならば避けるのも簡単なのだろう。
少し基本を繰り返しただけだが、オディールはすぐに音を上げた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ…足がもう動かん…」
「ふむ、オディールがどのくらいかはわかった」
レベルで言えば初心者である。音楽に乗って動けるまでもいかないので、これはパーティーまでずいぶん練習が必要だ。
ソファに倒れ込むように座ったオディールは、足を伸ばしてぐるぐると足首を回す。それをマリアが「はしたないですわよ」と窘めている。
「踊りやすい靴を用意する。明日から一緒に練習しよう」
「ローレンス様と?」
「もちろん」
オディールのレベルを知れば踊らせないという選択も出るかと思いきや、誰の口からもダンスから逃れる手段の提案はない。
「…私と踊ると、ローレンス様が恥をかくかもしれん…」
オディールの言葉はローレンスのためというよりも、逃げたい一心で出たものだ。
「恥?なぜだ?」
パートナーの踊りが下手で何の恥になるというのか、ローレンスには本気で解らない。足を踏まれるリスクも相手のレベルを知っていれば回避できるし、踏まれたところでローレンスには大したダメージはない。それにこれから毎日練習をするのなら、毎日オディールと踊れるということだ。それがローレンスにはとても嬉しかった。
「…仕方ない、やるしかないか」
そう言ってオディールはしぶしぶながら腹を決める。パーティーへの参加権を得るためには踊れることが最低限の条件だ。ピカピカなローレンスがモテモテなのはこの目で見たい。
その日からオディールはローレンスの予定の入れやすい夕食後と、空いた時間とで踊りの練習を始めることになった。今までそんなことはやってこなかったのであちこち筋肉痛になっている。
「貴族の嗜みということもあるが、いい運動になるので続けた方がいい」
「そ、そうか…っ?」
オディールは息を切らせながら少しレベルを上げたステップにどうにか付いていく。大柄で熊のようだと揶揄されるローレンスだが、ダンスのリードは上手い。リズム感も良く、とにかく身体能力に恵まれているのだ。
練習中のオディールは「YES・NOモード」のスイッチをオンにはできない。息も絶え絶えで令嬢らしからぬいつもの態度である。
「しかし、こんなに下手なのにローレンス様は練習中に叱らんな」
「叱責するような事象がない」
故意に足を踏んでくるのであればローレンスとて厳重注意とするだろうが、オディールはひたすら真面目に練習をしている。下手なのは叱責するようなことではない。そもそも、そのための練習だ。
「それはありがたい…しかしこれではパーティーではローレンス様以外とは踊れんな」
ローレンスだからこそオディールに足を踏まれもせずに済んでいるのだ。他の相手ではこうはいかない。オディールとて相手を負傷させたくはないので、それがお互いのためだろう。
「オディールを独り占めできるのは願ったりだ」
「は?」
ローレンスの言葉にオディールはステップを踏みながら驚きの顔で見上げる。
毎日毎日二人で踊りコミュニケーションを取ったことで、ローレンスもオディールへの緊張が解けてきた。なのでようやくこんな本音も伝えることができるようになったのだ。
ローレンスの言葉に気を取られたオディールはそのまま足を滑らせ勢いよく真後ろに傾く。しかしさすがのローレンスは即座に右手でオディールの背中を支え、そのまま胸に抱きとめる。
そんなわけで、今オディールはローレンスに抱きしめられている。
(これは…どういうことだ?)
練習をずっと見ている必要はないと、この部屋にマリアもラインハルトもいない。二人きりである。オディールはもちろん男性に抱きしめられたことなどない。修道院に行く予定だったのでそんなことが自分の身に起きるとも思ったことがないのだ。
「あのっ…ローレンス様…」
「ん?」
腕の中に納めてしまうとオディールはとても小さい。特別小柄というわけではないが、ローレンスが大きいのと、やはり女性は華奢だ。
「あ、あの、ローレンス様、これはいくら私でも、」
「ん?」
ローレンスがオディールの顔を覗き込む。
「…どうしていいか…わからない…」
耳まで真っ赤になっているオディールは今まで見たことのない一面だ。
「…なんて可愛らしい」
ため息を吐いたような声でローレンスは呟く。
可愛らしい?一体誰が?オディールは耳を疑う。しかし今日の化粧のテーマが「淑女」であったと思い出す。
「騙されてはだめだローレンス様、これは化けの皮だ」
「今日のオディールも、最初の時や馬車の中でも同じオディールに見える」
「なんて張合いのない人だ!」
ローレンスの目が大雑把なのはこの際どうでもいい。何を言っても腕から逃してくれないらしく、オディールの体温はどんどん上昇する。
だけどそれが嫌かと聞かれたら、嫌ではないのだ。
熱くなって、頭がぼうっとなる。観念して目をつむり、ローレンスの胸にもたれ掛かったその時…
「ローレンス!練習はうまくいってるかー!」
パトリックが扉を豪快に開いてやってきた。その声にオディールは正気に戻り、わたわたと腕からの脱出を試みる。腕から逃れたオディールは「今日はおしまいだ!」とそそくさと逃げていってしまった。
「…お邪魔しちまったか!」
「…そうですね」
ガハハと笑いながらパトリックは退場し、ローレンスが広間に一人取り残されてしまった。
せっかくの甘い空気は霧散してしまったが、それでも今日しっかりと、ローレンスのスイッチは入ったのだった。




