096
こんなにも、クルーガーと居づらくなったのは初めてだった。
あれほど心地好かった秋風が、今ばかりは少し肌寒い。
「……ミス・ゼレーニナがその話を?」
以前、黒魔術の試験に使った人気の無い広場。その広場を目指して二人で歩きつつ、重苦しい声でクルーガーが訊ねてくる。
「いいや」
いつもより幾分遅いクルーガーの足取りに歩調を合わせながら、隣で言葉を返す。
「俺が自分一人で気付いたんだ。誤解しない様に言っておくが、ゼレーニナは自分からは一切そんな話はしていない。奴を責めるなら、お門違いだ」
「成る程。…………流石に、頭が回りますね」
別にゼレーニナを庇う様なつもりは無いが、奴は矜持を持ち、線を引いた技術者だった。
あいつの不始末でも無い話で、あいつが責められる様な話は俺としても気分が悪い。
それだけの理由だ。
「今回の件の為に、一つ昔話をしましょうか」
「昔話?」
唐突に投げられたそんな言葉に思わず怪訝な眼をしてしまうが、どうやら彼の中では筋道が立った話らしく、クルーガーがそのまま静かに話し始める。
「私は昔……浄化戦争が始まる前、レガリスに居たんです。ある工業技術研究所で、新技術開発部門の主任を務めていました」
少し、思案を巡らせる。
空中都市レガリスは都市連邦バラクシアにおいて、首都を兼ねる中央国でもあるが元は工業都市であり、元々は工業技術で首都にまで成り上がった都市でもあった。
勿論素人では無いと思っていたが、レガリスの研究所で開発部門の主任を務めていたとなるとクルーガーは元々、想像以上に最先端の研究所で勤務していたらしい。
落ち葉を踏む音が、幾つも聞こえる。
そう言えば、これだけ追い詰められた黒羽の団及びカラマック島に置いて、数少ない味方とも言えるクルーガー自身の過去について、自分は何一つ知らなかった。
詮索屋が嫌われる事を含めても、改めて聞こうとした事は無かったな。
聞き返された時、自分自身が話して盛り上がる様な過去では無い、という理由もあったが。
「この話をするのは、随分と久し振りです。少なくとも、浄化戦争が終結してからは初めてですね」
孫に語り掛ける祖母の様に話し始めるクルーガー。
浄化戦争が終結したのは1834年。少なくとも、4年以上は話していない事になる。
……“浄化戦争が始まる前”という言い方からして、クルーガーは浄化戦争が始まる頃には既に黒羽の団に居た、という事だろうか。
それならばクルーガーはこの団に10年か、それ以上居る事になる。
「ジャイロコンパス、という物を知っていますか?」
このまま彼の過去について語られると思っていたので、唐突に投げられた質問に面食らう。
ジャイロコンパスだって?知ってはいるが、何故今になってそんな話が出てくるんだ?
唐突に話し始めた過去と言い、ジャイロコンパスと言い、余りにも話が脱線している様に思える。
少し、眉が寄った。
「クルーガー、こんな事を言いたくは無いが…………ジャイロコンパスやお前の過去が、今回の件に関係あるのか?まさかとは思うが、他の話に変えようとはしてないよな?」
善人かつ人格者として知られているクルーガー相手と言えど、余りに唐突な話なので少しばかり勘繰ってしまう。
今回ばかりは、俺がクルーガーを糾弾する立場、追い詰める立場だからだ。
どんなに善人だったとしても追い詰められた、もしくは追い詰められる段になった途端に手負いの獣の様に豹変したり、煙に巻こうとするのはよくある話だ。
悲しい事に、俺はそれを良く知っている。
しかしそんな勘繰りをしてくる俺に対してさえ、クルーガーは持ち前の人柄の良さを何一つ陰らせないまま、呟く。
「安心してくださいミスターブロウズ。今回、ミス・ゼレーニナの件にまで自分で気付いた貴方から、今更になって逃れようなんて思っていません」
そう呟くクルーガーの眼は、穏やかな眼だった。
「私の過去は、今回の件に非常に関係のある話なんです。少し付き合ってください。絶対にこの件から逃げないと約束しますから」
そんなクルーガーの足取りは重くとも、止まる事は無い。
先程まで俺は相手を追い詰める立場の様に思っていたが、こうして見るとまるで懺悔を聞く聖職者の様な気分だ。
頭を掻いた。まぁ、良いだろう。
「ジャイロコンパス……確か、航空機や飛行船に搭載されてる方位を知る為の航空計器だったか。何度か実際に見た事がある」
帝国軍に所属していた頃、隠密部隊に所属する前も所属した後も、数えきれない程の航空機や飛行船に乗り込んだ事を思い出す。
「そうです、飛行船及び航空機に搭載されているあの羅針儀の事です」
クルーガーが先程よりも、幾分か軽い調子でそう返す。
飛行船、か。
航空機が移動手段の主流になる以前、当初発明された飛行船は文字通り空を渡る“船”として話題になったらしい。
水に浮かぶ船という物に自分は乗った事は無いが、文献や資料によればかつて空を渡る等考えもしなかった頃の人類にとって、湖や河川の対岸に渡れるか否かは重要な事だった。
そうして人類の文化に充分過ぎる程に“船”というものが染み込んだ後、人類は遂に河川どころか大空を渡る事を考えつく。
そして人類は河川や湖でなく、“空”を渡る船として“飛行船”を発明したのだった。
今では“船”が本来、水に浮かぶ物だと知らない子供も居るそうだ。言葉の意味を教える事は重要だとは思うが空中都市生まれ、空中都市育ちの身としては仕方ない事だとも思う。
そして、そんな飛行船には方位を知る計器、羅針儀の一つとしてジャイロコンパスが搭載されていたのを確かに覚えている。
「確か………かつては磁気コンパスだったが、何らかの理由でジャイロコンパスが開発された筈だ。確か、磁気が影響されるんだったか?」
そんな俺の答えに、学院の教授の様にクルーガーが優しく笑う。
「そうです。飛行船等の船体が金属で構成されていくにつれ、従来の磁気コンパスは磁気に影響される為、取って代わられた新時代のコンパスがそのジャイロコンパスになります」
随分と話が逸れている様な気がするが、先程クルーガーは確かに“この件から逃げない”と約束した。
それならば、多少は付き合ってやるのも良いだろう。俺としても、何も悪戯にクルーガーを苦しめたい訳ではない。
「新時代、と言っても相当前から使われているだろう。確かに歴史上、かつては磁気コンパスで空を渡っていた時代もあったとは聞くが………俺もお前も生まれてない時代なんじゃないか?」
そんな俺の言葉に、クルーガーが淡く微笑む。
揮発性燃料ディロジウムの副産物として不燃性のジェリーガスが発明され、人々が大空に駆け出したばかりの頃、飛行船は今では考えられない程簡素に出来ていたそうだ。
後に軟式飛行船と呼ばれる当時の飛行船の形式は、重量及びコストの面で現代の飛行船とは比べ物にならない程有利であり、また金属部品も不安になる程少なかった。
しかし、勿論欠点も多かった。
気嚢からジェリーガスを放出すれば圧力が弱まり、船体を維持できなくなる。突風などによって船体が変形でもすれば船のコントロールを失ってしまい、下手をすればそのまま空の底へと沈んでいってしまう。
また、気嚢に穴でも開こうものなら、気嚢からの漏出が、気嚢全体に影響するなどの恐ろしい欠点もあった。
現代の観点で昔を語るのはナンセンスだと分かっていても、かつての航空技術を見る度に俺にはとんでもない綱渡りに見える。
……空の底なんて物が本当にあるなら、数えきれない程の遺体と飛行船の残骸が眠ってる、なんて話もあるぐらいだ。
個人的には、強ち的外れな話でも無い、とは思っているが。
「そうですね、磁気コンパスが主に使われていた時代は相当前の時代です。それこそ航空時代の初期、空中都市が建造される前の時代でしょうか」
浮遊大陸から人々が大空に駆け出したのは、おおよそ二世紀以上前。
クルーガーの言う様に、人々が空を渡り出してからの時代を“航空時代”、空を渡る前の時代を“大陸時代”と呼称される事もある。
別に大陸から人類が全く消えた訳でも無いのだが、まるで大陸が前時代的かの様に言うのは個人的に気に食わなかった。
「………そこから空中都市が建造されるにつれて、飛行船も金属部品を多用する様になっていき、磁気コンパスが影響される時代になったという事か?」
「はい。空中都市が“故郷”の方々が増える頃にはミスターブロウズや私が良く知る、俗に言う“現代式”の飛行船や航空機の時代になっていきました。厳密には、“硬式飛行船”や“硬式航空機”と言うそうですけどね」
クルーガーの言う通り、現代の飛行船は、軽量合金や複合材料といった軽量な部材により鳥籠のように船体や骨格を組み立て、尚且つワイヤーでそれを補強する事で船体に強度を持たせている。
初期の飛行船とは違い、船体内部の気嚢は十数個以上に分割され、気嚢破損や不具合にも対応出来る構成となった。
言うまでもなく、金属製のフレームにより重量が嵩むという欠点があるが、飛行船全体の強度が向上するため大型化、高速飛行が可能となる。
「そして、その金属製のフレームにより磁気コンパスが影響される結果、ジャイロコンパスが発明されたと言う訳か」
技術者の性か、技術や発明の事を語るクルーガーは幾分か気分が和らいだ様に見えるがそれでも、やはり足取りは重かった。
目的地としているあの広場に辿り着くには中々の時間がかかりそうだが、特に問題無かった。
何も場所が目的ではなく、人気が無ければそれで俺達には充分だからだ。
「……流石に帝国軍出身なだけあって、教養人ですね。その知識も軍で?」
「本を読むのは嫌いじゃないんでな。元々、読まされる前に読む性格だっただけだ。先に言っておくが、お前らにはまるで敵わないぞ」
帝国軍では一般教養の修得や受講が義務付けられている上、希望者に対しては書物庫や図書館も限定的ではあるが解放されている。
作戦に関して必要な技術や知識の為に本を読み漁った事もあるが、非番の時に本を積み上げる程に読み込んだ事もあった。
少なくとも、読み書きに不自由しないだけの頭が備わっていた点は我ながら幸運だったのだろう。
「まぁ、それに加えて貴方は帝国軍に置いても最前線で戦っていた英雄です、航空機に縁が無い訳がありませんね」
クルーガーがそんな言葉と共に、力無く笑みを溢す。
「…………勿論設計に関わった事は無いし、本格的に学んだ事も無い。だが、お前の言う通り最前線で戦う以上様々な航空機に乗り込む事になったのも事実だ」
浄化戦争に駆り出された頃は空中都市のみならず、空中都市近辺の浮遊大陸にも幾度と無く派兵され、仕事を終えたらそのまま次の土地や都市に航空機で派兵される事もあった。
「戦争のお陰で見飽きる程乗った航空機もあるし、逆に見慣れない航空機にも乗った。ウィスパーみたいな突拍子も無い航空機でも無い限り、最前線に居れば其処らの連中よりは詳しくなるさ」
かつて帝国軍だった頃の記憶に想いを馳せていると、急に冷たい風が吹き込み上着を羽織直す仕草と共に、空を見上げる。
随分と冷たい風が吹く様になったものだ、考えてみればもう“紅葉の月”か。もう少しすれば本格的に冬が来るだろう。
もうじき、あの人気の無い広場にも着く。そろそろ、話を進展させ初めておくべきか。
「少しは、話が脇道に逸れる理由を説明してくれても良いんじゃないか?俺はお前と飛行船について談義しに来た訳じゃないぞ」
そんな俺の言葉に、隣を歩いていたクルーガーが再び力無く笑う。
「……関係ない話の様に聞こえたでしょうが、ミスターブロウズ。今回の件を話す前に、貴方が教養人かつ、技術や発展に理解があるかどうかを確かめる必要があったのです。そうでなければきっと、これから私が話す事柄は理解して貰えないでしょうからね」
ある程度、俺が技術や発展の話が理解出来るか確かめたと言う事か。
まぁ確かにクルーガーの言う事は分からなくも無い。世の中には、技術発展の偉大さや重要性が理解出来ない連中は数多く居る。
勿論肌の色に関係なく、均等に。
「なら取り敢えずは充分だろ?少なくとも、無教養じゃあ無い筈だ」
クルーガーの過去の話を理解するのにどの程度の教養が必要なのかは分からないが、これならまるで理解出来ない、とはならないだろう。
そんな俺の言葉に対して、相変わらず重い足取りのままのクルーガーが言葉を返していく。
「貴方を試す様な真似をしたのは謝罪します。ですが、この団に来たばかりの時にこの話をして、その…………まるで理解して貰えず、“下らん”と一蹴された事がありまして。それ以来、過去を話す際は理解して貰えるか確かめてから話す事にしていまして。こればかりは、ご容赦を」
黒魔術の試験、検証を行ったあの広場に遂に二人で辿り着く。
改めて辺りを見渡すまでもなく、広場には人気が無いのは明らかだった。
さて。
重い足取りで歩いているクルーガーの前に回り込み、広場の中心で正面から向き合う。
「なら、もう本題に入ってくれるんだな?」
クルーガーが顔を上げる。身長差の関係上、相手が此方をやや見上げる様な形になり、覚悟を決めた様な顔になっているのがはっきり見えた。
「……分かりました、本題に移りましょう」
静かにそう呟くクルーガーに、無言のまま目線で先を促す。
一旦目を閉じて、深く息を吸った後にクルーガーが話し始める。
「私がかつて、レガリスで技術研究所に勤めていたのは話しましたよね?」
「ああ」
分かってはいたが、やはり技術関係の話か。わざわざ事前に理解を確かめた辺り、当然ではあるが。
研究所の開発に関する話か?権利の問題か?そこまで考えた辺りで、絡まりかけていた思考を一旦放棄する。
今俺が考えても仕方がない。目の前のクルーガーの話を聞くのが先決だ。
考察も判断も、その先で良いだろう。
「先程話した、飛行船や航空機に搭載するジャイロコンパスが今回、私が話す過去に深い関係があるんです」
「ジャイロコンパスが?」
向き合ったまま、冷静に話すクルーガーにそんな声が出る。
てっきり関係の無い話で自分を試したのかと思ったが、一応はクルーガーの過去に関係ある話でもあったのか。
「…………私はかつて、レガリスの研究所で最新型のジャイロコンパス、俗に言う改良型ジャイロコンパスを開発しようと日々苦心していました」
クルーガーのそんな言葉に思案を巡らせつつ、腕を組んだ。
レガリスの研究所で、ジャイロコンパスの改良型を開発しようとした、か。
「その開発が上手く行かなかった、という事か」
そんな俺の言葉に、「いえ」とクルーガーが直ぐ様否定する。
「現在、製造されている飛行船や航空機の殆どには、私が開発の際に主任を勤めた最新型のジャイロコンパスが搭載されています。言っておきますが、最後まで円満に開発は終わりましたよ」
意外な返答だった。
結局、最新型……改良型のジャイロコンパスは無事に世に出て、飛行船や航空機に搭載されているという事か。
ならば改良型の開発には成功しているのか、てっきり開発失敗でレガリスを追放され、黒羽の団に来たのかと思ったが、読みは一つ外れたな。
と、そこまで考えて少し首を捻った。
待てよ?
「待ってくれ…………それなら、開発者としては最後まで上手く行ったと言う事か?」
「はい。先に言いますが、追放もされていませんし免職にもなっていません。むしろ、私の名前で研究所を設立する話まで出ていました。自慢になりますが私は元々、レガリス未来技術アカデミーにも在籍していたぐらいです」
何故か、自嘲する様な口調でそう話を続けるクルーガー。
眉を潜める。
追放された訳では無い。免職された訳でも無い。何なら、研究所設立の話まで出ていた。
……そうだ、おかしい。
現在、飛行船や航空機の殆どに搭載されている改良型ジャイロコンパスを開発したのがクルーガーなら、クルーガーには相当な利権があった筈だ。
それだけの利権と実績があるならレガリス各所の製造所から、笑いが出る程の金貨が自身に流れ込んでくる様にも出来た筈だ。
素直に考えるなら、俺が散々見てきた富裕層の仲間入りしていてもおかしくない。
もし何かが違えば、それこそレイヴンとして暗殺任務に出撃していたかも知れない。
それどころか、よくよく考えてみればもっと名を馳せているのが当然だろう。
なのに黒羽の団に来るまで、“ヘンリック・クルーガー”という名前を聞いた事は一度も無かった。それだけの人物にも関わらず、だ。
あれだけ読んだ書物のどれ一つとして、クルーガーを大々的に綴っている書物は存在しなかった。
「なら、どうして?」
俺の言葉に対して、クルーガーが僅かに微笑を溢す。
「こればかりは貴方も似た様な経験があるかも知れませんね」
「私はその改良型ジャイロコンパス開発者の名誉を、自分から辞退したんです」




