088
随分な雨だった。
雨が自分の外套を打つのを感じながらも、屋根から屋根へと大きく跳ぶ。
これだけの雨なのだから、数日は無理でもせめて翌日に決行延期を申請するべきでは無いかとの意見もあったが、丁寧に否定した。
恐らくこの雨ならコールリッジの邸宅内はまだしも、邸宅の周辺や屋根の上や街路を警備している連中の虚を突く事が出来る筈だ。
只でさえ未知の怪物と戦う可能性がある任務だ、多少苦労する事になっても自分達の利は一つでも抑えておきたい。
勿論言うまでもなくレイヴンの装備には荒天装備もあり、その一つがこの外套でもあった。
随分と撥水性の良い外套でありながら、動きを阻害しない程度の丈に抑えてある。現場のレイヴンが“どの程度防げれば十分か”を弁えた上で設計してあるらしく、任務や移動術にも支障が可能な限り出ない造りになっている様だ。
恐らくは、軍人のケープ辺りを参考にしたのだろうな。元帝国軍の自分には、全く同じとは言わずとも所々そう思わせる部分が垣間見えた。
雨音の中、自分に平行する様に部下のパトリックも躊躇無く屋根から屋根と跳び、別のルートを移動しているスヴャトラフに至っては壁を蹴ってパイプの端に飛び付いては、直ぐ様身体を引き上げている。
今までに二人程、雨の中で退屈そうに立ち尽くしている歩哨を排除させたが、想像以上に手際は良い。
実際の任務で部下が指示に従わなければどうしたものかと思わなくも無かったが、実際任務に出てみればパトリック達は手信号一つで機敏に動き、何かあれば手信号で此方に異変を伝えてくる。
会議の時の扱いから正直良い印象は持って居なかったのだが、どうやら公私は分けて考えるタイプらしい。
そして部下の二人と変わらない速度と音、むしろ二人より静かにさえ思える挙動で先行していた巨漢が、再び屋根から跳ぶ。
最初、ユーリがレイヴン装備を着込んで外套を身に付けた姿を見た時は、クローゼットの奥の怪物を覗き込んだ様な気分になったものだ。
きっと子供部屋のクローゼットからこんな巨漢のレイヴンが出てきたら、子供は末永くクローゼットに怯える生活を送る事になるだろう。
7フィート近く、むしろ7フィートを越えようかと言う巨漢が、黒革の防護服を着込んで不気味なレイヴンマスクを付け、その上に同じく黒い外套を羽織っているのだから。
そんな巨体でありながら、他の二人より静かにさえ思える軽やかな動きで先行しては異変の有無を手信号で此方に送ってくるのだから、人は見掛けに寄らないものだ。
そんな中、先行していたユーリが手信号で異変発見及び制止を伝えてくる。
建造物の上を駆けていた自分が即座に足を止め、他の二人にも制止及び異変発見の手信号を出した。
自分と同じくパトリック達も即応し、屋根の上やスチームパイプの影で息を潜める様に停止する。
雨音の中、外套に雨が当たるのを感じながら雨音以外の音を聞き漏らさぬ様に耳を澄ませつつ、先行しているユーリの報告を待つ。
手信号。歩哨。未発見。背面。及び、側面。
歩哨を斜め後方から発見し、向こうはまだ此方に気付いていないと言った所か。
手信号。銃砲。両手。一人。
クランクライフルを持っているらしい。
気付かれるとかなり面倒な事になるだろうが、雨の中である事と我々が背後に位置している事、歩哨が一人である事を考えれば静かに排除する事は充分に可能だろう。
手信号を送る。
可能な限り。静穏。排除。
少しの間の後に、了承の信号が来た。
ユーリが排除するのだろうが、不測の事態が発生した際に直ぐ様対応出来る様に周囲の警戒を他二人のレイヴンに指示しつつ、自分も先行しているユーリの方に静かに距離を詰めていく。
ボルトを装填しているスパンデュールで、万が一の際には歩哨の胴を射つ状況を想定する。無理に頭部を狙うよりは、確実に胴に当てて動きを阻害する方が良い。
どのみち、動けなくすればユーリが致命傷を与える筈だ。
スチームパイプの陰に入る形で、スパンデュールを意識しながら静かにユーリの方を見守る。
降り頻る雨の中、背後から歩哨に忍び寄るユーリの手元に斧が握られているのが見えた。
ランバージャック。レイヴンの装備に正式採用されている、特殊な戦斧。
刃の下部が伸びた斧頭を備えた、所謂“鉤付き斧” や“鉤斧”、また“髭斧”とも呼ばれる中々に大型のハチェットだ。
この装備を最初見た時は、ただの大型の手斧かと思っていた。装備に斧を組み込むのは、別に何一つ不自然な事ではない。
だが、この手斧は見た目以上、想像以上の性能を秘めている。
純金属製のランバージャックの特殊性は、斧頭ではなく柄にある。大型のハチェットでありながら、柄を展開する事により両手で振るう両手斧にも変形する仕組みになっているのだ。
片手で扱うハチェットにしては斧頭と刃が随分大きいとは思っていたが、まさか両手斧に展開出来るとは思わなかった。
思い切り打ち込む試験の様子も以前に見せてもらったが、展開した柄も強度としては他の一般的な両手斧に遜色無い強度を誇っているらしい。
リッパー程では無いにしろ、ランバージャックを主兵装として愛用してるレイヴンもそれなりには居るそうだ。
まぁ、体格からしてもユーリはリッパーよりもランバージャックの方が似合うだろうな。あんな奴が斧を振り回しているだけでも、敵からしたら相当な威圧感の筈だ。
現にレイヴンの中でも斧を好む者は、取り分け大柄な者が多いらしい。
目の前の光景を見る限り、納得の行く話だ。
雨の中、ユーリがランバージャックを音も無く振りかぶる。
肉の裂ける音は、雨音に滲んで殆ど聞こえなかった。
背後から頭蓋を割られて居眠りの様に力が抜けた歩哨を、ユーリが丁寧に横たえる。
歩哨の頭蓋から引き抜いた刃を歩哨の服で拭った後、手信号が来た。
解決。継続して、先行。
此方が了承の信号を出すと、ランバージャックを仕舞ったユーリがまたもや巨体とは思えない身軽さで再び屋根から跳ぶ。
それを見つめた後に、パトリックとスヴャトラフにも広範囲偵察と警戒の指示を出し、自分も屋上の段から雨の中へと跳んだ。
コールリッジ邸は、敷地内に専用の路線が走っている事もあり随分と広大な敷地を有していた。
現にこうして見ている今も、憲兵か使用人が乗っているであろう個人列車が悠々と敷地内を巡回している。憲兵と、見るべきだろうな。
敷地を囲う高い塀はその見た目とは裏腹に特に障害や問題になる様な点も無く、レイヴンならばそれ程問題になる事もなく乗り越えられるが………
塀を乗り越えても、直ぐ様コールリッジ邸へという訳にも行かない。
邸宅まで辿り着くには無視できない距離がある上に、倉庫にしろ兵舎にしろ、各種様々な建造物が邸宅までの道を阻む様に連なっている。
物陰にはなるだろうが、中から使用人や憲兵が現れる可能性も充分にあるだろう。
助けにも、邪魔にもなる。任務の進行は、益々複雑になると言わざるを得ない。
複数階建ての屋上から、全体像を眺めつつ革のフードに覆われた頭を掻いた。
勿論、事前の資料で分かってはいた事だがやはり難解な任務だ。それに加えて、今回はクロヴィスの話から察するに事前情報以上に警備が厳しくなっている可能性が高い。
現状把握と確認を兼ねて他三人には全体的な偵察を指示し、屋上に片膝を着いたまま報告を待っていると遥か遠方の屋上に、奇妙なものを見掛けた。
一瞬、煙突かパイプを見間違えたのかと思ったが、すぐに“それ”が屋根の上を奇妙な動きで“歩いている”事に気付き、総毛立った。
偵察用の装備の一つ、専用の光学望遠レンズを取り出してレイヴンマスクの強化レンズの上から重ねる様に装着し、簡易的な単眼式の望遠鏡の様に意識と視界を遠方に向ける。
固定倍率の望遠レンズに映る光景は、とても認めがたいものだった。
機械仕掛けの怪物。
駆動機構を切り出して不気味な人形に仕立てた様な、奇妙な造形。クルーガーの資料で見た重装型とはまた違う、研いだ刀身の様な細身の体躯と脚部。
加えて肩から突き出した、甲殻類の脚を思わせる四本の腕は、肘から先は取り外した鋏の様になっているらしかった。
そして鳥類を模倣したかの様な頭部には、眼窩に当たる位置から他方向にレンズが付いた太い筒が複数飛び出している。おそらくはあれが事前に聞かされた有機器官部品だろう。
説明されるまでもなく、何が屋上を歩いているのかは明白だった。
機動型の自律駆動兵、通称“アナベル”だ。
片膝を着いた体勢のまま、冷たい雨に打たれながらも動悸が早まっていくのを感じた。
鹿車に追い付く敏捷性、30フィートを容易く飛び越える跳躍力。刀身が付いた四本の腕は、四方向から敵を引き裂いて切り捨てる。そんな悪夢の様な性能は、資料で嫌と言う程に分かっている。
息を呑んでその姿を見守っていたが、流石に向こうはまだ此方を知覚していないらしく、幾らか歩いた後に屋根から別の屋根へと大きく跳躍し、此方からは見えない角度に消えた。
………あんなものが徘徊している中、邸宅に忍び込んでコールリッジ本人の隣に居るであろう重装型の自律駆動兵“グレゴリー”をすり抜けて、目標を殺害する訳か。それも、多数の憲兵を乗り越えた上で。
今更ながら、たった四人に任せるには随分な任務だ。幾ら、レイヴンが其処らの兵士を凌ぐ実力だとしても。
元々隠密を心掛けて潜入するつもりではあるが、今回は屋根の上、上下からの視線に殊更注意して潜入するべきだろう。
今宵に限っては、屋根の上を舞うのはレイヴンの専売特許では無い。
自分達が刃を振り下ろすだけでなく、いつ自分達の上からあの奇妙な刀身が降りかかってくるかも知れないのだから。
雨音が、幾分か強くなった様な気がした。
アナベルがこの雨の中で歩いて跳躍した事から鑑みても、当然ながら荒天にも対応出来る様に構成してあるのだろうな。
雨で浸水して壊れる程度の機械なら、今回の任務はどれだけ楽だった事か。
「戻りました」
振り向けば、偵察を指示したレイヴンが戻って来ていた。声と背丈からして、パトリックか。
流石にこればかりは手信号だけで会話する訳にも行かない。普段は歩哨等に声を拾われない様に手信号で会話するにしろ、今回は伝達内容が複雑な事に加え、この近辺の安全も確保してある。少なくとも、数時間は安全だ。
「スヴャトラフとユーリは戻ってませんか?彼等にも至急伝えるべき情報があるのですが」
レイヴンマスクで顔色こそ伺えないものの、声色で何を危惧しているのかは察しがついた。あぁ、こいつも見掛けたんだな。
「………“アナベル”の件か?」
少しの間の後、パトリックが頷いた。
スヴャトラフとユーリが偵察から戻ってきても、集まった情報と認識は危惧していた通りと言うしか無く、レイヴンマスクの下で顔が僅かに苦くなる。
レイヴンを恐れる貴族の例に漏れず厳重な警備、所々で存在感を放つ装甲兵。そして、レイヴンを探すかの様に屋根を徘徊する機動型自律駆動兵、“アナベル”。
これに加えて、情報通りならコールリッジ本人の傍には重装型自律駆動兵“グレゴリー”まで控えている筈だ。
革のフードに覆われた頭を掻いた。
経験上、この規模の邸宅に入り込んで隠密を保ったまま任務を片付ける事は非常に難しい。
普段の様な単独任務でこそ無いものの、一つでも騒ぎが起きれば山の様な憲兵が飛んでくると見てまず間違いない。
勿論、憲兵の中にはあの厄介な熟練者、装甲兵も含まれるだろう。
ナッキービルのガルバン邸宅で相手にした経験から言っても、あんなのが複数来た場合非常に厄介な事になる。
その上、今回は戦力が未知数な自律駆動兵まで相手にしなければならない。それも、前回はレイヴンを全滅させかねなかった巨大な怪物を。
最悪のケースとして、邸宅に入り込む前に敷地内で侵入が発覚し憲兵達に囲まれるケースが考えられる。
その場合はおそらくコールリッジ本人も逃走するか、籠城の様に守りを固めるだろう。
報告された憲兵と装甲兵の戦力から考えても、コールリッジ本人の周りの警備を固めた上で此方を追い込むのに充分な戦力を有しているのは間違いない。
更に酷いケースを考えれば、“グレゴリー”を此方の掃討に回す可能性も有り得る。
そうなれば、戦力差から考えてほぼ絶望的なのは間違いない。まず間違いなく任務は失敗、高確率で全滅も覚悟しなければならないだろう。
仮に隠密を保ったまま、憲兵を排除しつつ装甲兵をやり過ごし、アナベルの眼を掻い潜り、コールリッジまで辿り着いたとしても、コールリッジの喉を切り裂いて終わりとは行かないだろう。
事前情報から見てもコールリッジの隣には高確率でグレゴリーが張り付いているだろうし、戦闘はまず避けられない。それにグレゴリーと戦闘になるなら、確実に隠密とは言えなくなるだろう。
つまり、どうやっても“静かに入り静かに出る”とは行かない訳だ。
「デイヴィッド」
頭を悩ませていると、それなりに落としたユーリの声が聞こえ、顔を上げる。
「どうした?」
「配置の構成が前回の任務時から変わってない。数ヶ所が前より増員されてはいるが、それだけだ」
静かながらも僅かに張り詰めたユーリの声に、レイヴンマスクの下で眉を潜めた。
「前回の構成がレイヴンに効果的だと分かったんでしょう、そのまま増員されている辺り間違いない。対策こそ練りましたが、面倒ですよこれは」
パトリックが苦い声でぼやく。確かに前回の襲撃でレイヴン達は完敗とも言える被害を受けた。ならば、効果的な陣形である事が証明されたと見る事も出来る。
ならば、実績のある陣形を更に増員し、濃密にするのも正しい判断だろう。
だが、何か胸の奥がざわつく。
「前回のルート方面を偵察したのもユーリだろ、前回の廃棄孔から廃棄処理場に入るルートは使えそうか?」
苦い声のパトリックと対照的にスヴャトラフが幾ばくか明るい声で呟くが、その質問には答えないユーリに対し、少しの間の後に静かに問い掛ける。
「………前回の襲撃から配置に変更が無いのか?複数のレイヴンに襲撃されて手が届きかねない距離まで来たのに、特別警戒配置に変える事もしていないのか?」
ユーリが、頷く。
確かに前回の襲撃で、レイヴンは完敗とも言える被害を被った。
前回の警備配置が効果的だと実証された、という見方も出来る。正しく、配置の正しさが実証されたのだと。
だが、そう受け止めてしまって良いのか?前回は自律駆動兵のお陰でコールリッジは助かったとも言える。イレギュラーで助かった男が、幾ら自律駆動兵が常駐する上に増員されるからと配置構成を変えないのか?
「表立った警備の変更を見せない事で、レイヴンが脅威ではない事を誇示しているのでは?コールリッジは今正に、レイヴンに対して“余裕”をアピールしたい筈です。意図的に目立った配置変更、改革をしない様に命令しているのかも知れません」
俺の言葉に対してパトリックが静かに呟き、その言葉で閃いた様にスヴャトラフも幾ばくか顔を上げた。
「………そう捉えるなら、目に見えない形での警備が変更されている可能性は十分にある。誇示目的で警備を変更していないなら、逆に言えば外から見えない場所には新しい対策が為されていると見るべきだ」
「目に見えない形………」
そんな言葉が口から漏れる。配置変更等では無い目に見えない形での警備強化、となると内面や内側の変更か?しかし敷地内部の変更も“誇示”に含まれる筈だ。いや、“余裕”を誇示したいという前提が間違っているのかも知れない。
「侵入ルートだ」
ユーリが静かに、だが通る声で言った。
パトリックにスヴャトラフにつられる様に、俺もユーリに顔を向ける。
「前回の侵入ルート、廃棄孔から廃棄処理場に入るルートは侵入時に一度しか使っていない、脱出時には応急的な別ルートから脱出したし痕跡も残していない。そして警備の状況からもまず把握されていないと思っていたが………万が一探知されていて、意図的に見逃されている可能性もある。現に廃棄孔に繋がっている敷地下層への警備は、大して増員されていなかった。前回と同じく、簡単にすり抜けられる程度の警備だ」
レイヴンマスクで表情は何一つ分からない。それでも、自分と同じくパトリックとスヴャトラフが息を呑んだのが分かった。
「……前回のルートを探知していない様に装って、“まだ見つかっていない筈のルート”に罠を張っておけば、“間抜けなカラス”は得意気にそのルートを使って罠から頭から突っ込む事になる」
そんな言葉を発しながらも、自身の背中に冷たい物が通るのを感じていた。
勿論、杞憂の域を出ない話ではある。
“あの男”の言葉が、脳裏を過る。
「本命の罠に嵌めたいなら、他の道に馬鹿な罠を張れ………」
歯を、噛み締める。
「見せたい物こそ隠せ、得意気に掘り出す奴が必ず居る………」
歯と噛み締めると同じく、拳を握り締めた。
頭の中で組み上がりかけていた作戦と図面を崩し、相手の罠を前提に新たに作戦と図面、そして方針を練り上げていく。
「前回の廃棄孔から廃棄処理場に繋がる侵入ルートは放棄する。発見されているかどうかは別にしても、罠が張られている前提で動くぞ」
そう言い切ると、三人の視線が一斉に此方に集まる。
「どうする?」と呟くユーリに、スヴャトラフとパトリックが同調する様に聞き入る様な姿勢を見せた。
頭の中にある新しい作戦を公表する事に少し躊躇したが、それでも口を開いた。
こいつらが死ねば、俺の責任だ。そんな事は今に始まった話では無い。
「警備がとりわけ“厚い”場所を幾つか挙げてくれ」
ユーリが分かりやすく、疑問の声を上げた。
「厚い場所?」
想像以上に分厚く、想像以上に高い塀の上で片膝を着いたまま、コールリッジの所有する敷地を見下ろしていた。
憲兵の休憩所の様になっている、塀に近い場所のテーブルを備えた広場。中心に添えられたディロジウム街灯が雨の中でも煌々と灯り、警備のシフトを待っている兵士が雨具を被った上で妙な顔をしながら、下らない冗談を言い合っていた。
娼婦と妻の区別が付かずに金貨を投げてしまうも、妻から釣りが返ってきたという定番の文句だった。
六人。少し位置が悪い。かつ、殆ど同時に仕留めなければ、確実に警報が鳴ると思って良いだろう。
圧力式緊急警報装置は広場の中心にある。気が抜けてるとは言え、いざとなれば誰かが直ぐ様駆け寄って、作動させるのは容易い距離だ。
幸いにも、装甲兵は居ない。だが、二人はクランクライフルを所持している。残り四人もレバーピストルを所持している可能性は高い。
緊急警報装置に手が届かなくても、最悪空にでも発砲すれば余程の馬鹿でも無い限り、遠方の兵士も“何かあった”と勘づく。
少し離れた高所で伸縮式スティレット、“ヴァイパー”を逆手に握ったスヴャトラフが手信号を送ってきた。
実行。思案。再度確認。
本当にやるのか。そう言いたいのだろう。
手信号を返す。確定。実行。
了承の信号を受けとり、目の前の風景と情報で再度頭の中で巡らせていく。
確かにこいつらに指一本触れる事無く、レイヴン四人とも塀を乗り越えてすり抜ける事も出来なくは無いだろう。
だが、この先コールリッジ邸宅へと進んでいくなら立地から見ても、邸宅に辿り着く前に確実に見つかる。
この広場から見れば、邸宅へと向かう俺達の背中が殆ど丸見えと言って良い。ここではない、他の点から塀を乗り越えて侵入しようにも確実にこの広場か、他の厳重警備されている点から背中が見えてしまう。
そして広場から身を隠そうものなら、逆に邸宅を警備している兵士は丸見えになる。随分と攻め辛い位置関係だ。
その位置関係から逃れられる、唯一の侵入ポイントが廃棄孔から辿り着ける廃棄処理場だったのだ。だが、俺達はそのポイントを敢えて放棄しているのだから、こうするしかない。
このルートを進むならほぼ確実に、この広場の憲兵達は全員始末しておく必要がある。
確実に仕留める事を考えれば自分含めレイヴンが四人とも、塀の上から飛び掛かる形になるだろう。
高所からクロスボウのボルトを打ち込むだけ、という訳には行かない。
自分以外のリストクロスボウ、“グレムリン”が単発である事を考えても飛び掛かる形で制圧するのが、確実だ。
勿論リスクを取っている事が分からない訳では無い、ここで一人でも負傷すればこの後の任務の進行は、益々難しくなる。
だが、この状況を無傷かつ警報を鳴らさず警戒もさせずに制圧出来れば、かなりの優位を取る事が出来る。
もう少し人数が居ればまた違ったのかも知れないが、活動しているレイヴンは自分達だけでは無い。日程や場所の差はあろうとも、他の部隊も自分達と同じく他の任務を遂行している。
元々自分が特殊な独立個人部隊である事を考えれば、黒羽の団が追い込まれているにも関わらず此方に数人レイヴンを回すだけでも、相当な決断だったのだろう。
いや、自分が別動隊に組み込まれたのだったか?まぁいい、今はそれどころではない。
息を深く吸った。
廃棄孔に繋がる敷地下層に繋がる道が余り増員されていない事から考えても、向こうは何かしらの形で廃棄孔からの侵入ルートに罠を張っていると見るべきだ。
露見していない筈の侵入ルートが、他より警備が増員されていないのなら確実とは行かずとも、そこを通る可能性は非常に高い。
別の侵入ルートについても少し話したが、予備案として考えていた侵入ルートは安全性が低い上に、他と同じく増員されていたそうだ。
戦術的に考えて、まず当初のルートを通るしか無いだろう。罠に気付かず迂闊に入れば正しく餌食になる。だが、分かっていてもそこしか道が無ければ警戒しながらでもそのルートを通るしか無い。
少なくとも向こうは、そう思っている筈だ。だが、掌に誘われたからと言って掌でどう着飾って踊るべきか悩む筋合いは無い。
裏を掻く。
警備が薄い場所に罠を張り、意図的に誘い込もうとしているなら、敵の警備は薄くとも意識や注意はその“罠”に集中している筈だ。
肝心の罠が喰い破られては元も子も無いのだから。
廃棄処理場からの侵入先にでも、兵力を集中させている可能性は充分にある。
それこそ、装甲兵も居るかも知れない。若しくは、無人で作動するワイヤー式の罠でも仕掛けられてる可能性もある。
そこで裏を掻いて、警備が薄い場所ではなく“意識が薄い”場所を逆に突く。
廃棄処理場に意識が集中している理由は言うまでも無い。ならば、「他にはまず来ないだろう」と思われている理由は何か。
警備の厚さに他ならない。そして、発想を入れ換えれば向こうも「警備が厚い場所には来ない」と安堵している。
危険な状況とは最も無防備な時ではなく、最も安堵している時だ。
破られるどころか、まず来ないだろうと思われている場所を喰い破る事が出来れば、少なくとも相手の想定外のやり方で潜り込む事が出来る。
リスキーである事は否定しようも無い。だが、これだけの状況を覆して優位を取るにはリスクを避ける様な真似はしていられない。
どの道、まともにぶつかろう物なら頭から喰われる様な戦力差だ。
手信号で実行前に、最終確認をする。
パトリック。問題無し。
スヴャトラフ。予定通り。
ユーリ。敵移動。位置が悪い。自身も移動する。
手信号を返す。了解。隠密を意識して、移動。
ユーリの大柄な影が音も無く移動するのを見届けてから、改めて敵の位置を確認した。
この強襲で俺が担当するのは二人。二人ともクランクライフルを所持している。
六人を仕留めるのに対し、俺達は四人。数えるまでもなく、誰が複数人倒さなければ問題になる事は分かりきっている。
複数人担当するのは俺とユーリ。パトリックとスヴャトラフは確実に敵を排除し、いざとなれば此方の万が一に対応する。
だが、俺の担当する二人の憲兵は他の五人と離れている。俺は恐らく、二人からのフォローは見込めないだろう。
頭の中で手順を再確認する。
降下の勢いを利用し、予備兵装のアイゼンビークで相手の頭を潰す。
そして直ぐ様、少し離れたもう一人の頭をスパンデュールで穿つ。
リッパーかヴァイパーでもあれば、また違ったのだろうが今回自分の主兵装はあくまで自律駆動兵相手に用意した“ゴーレムバンカー”だ。
リッパーは無理にしても、予備兵装としてヴァイパーを持ってくる案もあった。だが、憲兵と戦闘になった際に余りにも汎用性に欠ける為、今回は汎用性を取る事にした。
一応ゴーレムバンカーは本体ごと腰に二本下げ、背面に予備を二本背負っているが、腰に更にリッパーを下げる事はまず難しいだろうな。
そんな事を考えていると、別の位置に移動したユーリから手信号が来た。
到着。問題無し。実行可能。
“了解”を返し、静かに息を吐く。
他にも信号を送り、問題ない事を確かめてから、信号でタイミングを伝えた。
少しの間の後、飛び降りる三人を追う形で塀の上から勢いと共に跳ぶ。
慣れ親しんだ浮遊感の中、先に降下した三人が急降下するハヤブサの様に、憲兵へと襲い掛かるのが見える。
雨の中、ユーリがランバージャックを落下の勢いのまま憲兵の鎖骨に振り下ろし、そのまま心臓まで割り開いたのが見えた。
逆手に持ったヴァイパーで、同じく落下の勢いを利用し鎖骨の辺りから根本まで深く貫くパトリック、背中を蹴り倒して至近距離から頭蓋骨をグレムリンで撃ち抜くスヴャトラフ。
三者三様の一瞬の出来事の後、音も無く地面と目下の憲兵の頭が凄まじい勢いで近付いてくる。
何倍にも引き延ばされた感覚の中で、憲兵が何気ない動きで身体の向きを変えた。
数秒と無い空中で即座に方針を変える。一撃目で仕留めるのは変更。蹴り倒す。
落下の勢いを憲兵に吸収させる様に相手の肩を踏みつけ、勢いを変換し蹴り跳ばす様に相手の向きを回転させる。
足が縺れた様な動きで回転し、仰向けに倒れた顔に振りかぶったアイゼンビークを、素早く振り下ろす。
挟まった果実が潰れる様な音と共にアイゼンビークのピック部分ではなく、対に備えられた鎚部分が憲兵の顔面に深くめり込み、声も無く憲兵が事切れた。
ランバージャックで憲兵を“割り開いた”ばかりのユーリが、直ぐ様近くのもう一人の憲兵の頭をグレムリンで撃ち抜いたのが見える。
此方も予定していた通り、離れたもう一人に直ぐ様左腕を向け、スパンデュールを発射する。ボルトが、直ぐ様相手の頬に突き刺さる。
ボルトが直ぐ様脳髄に到達、いや。位置が悪い。ボルトは頬の肉を貫き後ろにまで貫通しているが、脊椎や脳を逸れている。相手の意識が断絶されていない。
頬からボルトを生やした憲兵が、血塗れの顔でクランクライフルを構えた。
色んな思考と危機対処が、一斉に脳内に吹き荒れる。
急げ。
ボルトをもう一発。却下。
左手を突き出してはいるが、今ボルトを発射しても狙いがブレる。頭には確実に当てられない。
発砲されたらまずい。
アイゼンビークを投げる。却下。
相手に当てても意識を断絶させられるとは思えない。
他のレイヴンに指示。却下。
俺が一番この兵士に近い。他を呼んでも更に遅れるだけだ。
もう間に合わなくなる。
鋭く、尖った息を打ち出す様に吐きながら、左手に絡めた“何か”を握り締めて“手繰り寄せる”。
蒼白い光と共に地面が後ろに消える様な感覚の中、反射に近い思考で両足を思い切り突き出した。
殻を割る様な、枝を折る様な音と共に勢いの付いたレイヴンブーツの底が、憲兵の胸に真正面からめり込む。
クランクライフルが硬い音と共に雨の中を転がった。
その刹那、胸の内に黒く冷たい物が流れ込み、自分の何かが暗く淀んでいく。
後ろ飛び蹴りがまともに命中した時の様な感覚と共に、体重の殆どをぶつけられた憲兵が弾かれた人形の様に吹き飛び、仰向けに倒れた後も幾らか地面を滑り、砂利を噛んだ様に止まる。
胸を抑えたまま苦しそうに喘ぐ憲兵を、近くに歩み寄ったユーリがランバージャックで躊躇無く頭を叩き割った。
安堵より先に、地面に身を投げ出した様な体勢のまま、直ぐ様スパンデュールを構え辺りを見回す。
皆、自分の担当した憲兵は確実に仕留めていたらしく、誰一人として援護が必要なレイヴンは見当たらなかった。
六人の死体を覆い隠す様に、雨の音だけが耳朶に染みてくる。
咄嗟に使ったからか、考える間も無く全力で使ったからか、それとも別の理由があるのかは知らないがこれまでの“手繰り寄せ”に比べ左手の痣は、煙が上がるのではないかと思う程に酷い熱を放っていた。
左手の痛みにレイヴンマスクの下で顔をしかめる。ガルバンの庭園の時もそうだったが、物も握れない程のこの熱を考えるとやはり、この“黒魔術”は迂闊には使えないな。
しかし咄嗟の判断だったが、何とか上手く収まったらしい。仲間が居てくれて助かったと言う他無い。
「今のが黒魔術か?」
雨音に押し流されそうな小声で、スヴャトラフが呟く。
「そんな所だ」
左手を振りながら、そんな声を返すもレイヴンマスクの上からでも呆然としているのが分かる。
お伽噺の様に聞いていた“黒魔術”を目の前で見て、言葉が出ない。そんな所だろう。
「まだまだ使えるのか?」
そんな言葉を投げるスヴャトラフに「言っておくが良い気分じゃないぞ」とアイゼンビークの血糊を振り払いながら呟く。
どのみち、精神的な影響を今事細かに説明してもしょうがないだろう。任務が終わった後にでも説明してやるしかない。
「敵の反応はありません、今の所は」
辺りを見回していたパトリックが静かに此方へと歩み寄ってくる。
一応は、周りに知れ渡る事無くこの敷地内に侵入出来たらしい。
「もう手信号にした方が良い」
そんなユーリの声に、口をつぐんだ。確かにその通りだ。
少なくとも、まずは敷地内に侵入成功だ。恐らくは、コールリッジの想定していない形で。
警備の薄かった廃棄処理場には罠が張り巡らされているのかも知れないし、俺達が勝手に深読みした全くの杞憂かも知れない。
だが、この判断は恐らく間違って居ないだろう。少なくとも、今の所は。
スパンデュールにボルトを装填し、手信号をこの場の全員に送る。
目立たない影の方に、死体を隠蔽。今から実行。
目の前の三人から、了承の信号が来た。
装甲兵がどれだけ面倒な存在なのかは、言うまでも無い。
以前、ガルバン家の庭園では任務が始まったばかりの頃から、装甲兵のおかげで早速隠密を捨て去る事となった。
装甲兵の着込んでいる軽量合金には、普通に斬り合ってはまず文字通り刃は通らないと思って良い。
その上、一式につき一般人の年収に匹敵する程の費用がかかる事からも、鎧を着込める装甲兵は武術に精通した上級衛兵に限られる。
刃が通らない鎧を着ているだけでも面倒なのに、中身は熟練兵と来たものだ。
そんな装甲兵の三人組が、悠々と歩いていた。
まずいぞ。そんな手信号が隣のパトリックから来る。
分かっている。そんな手信号を返す。
そんな冗談の様なやり取りをしている俺達だが、死角になっている小屋の上に居る事もあって、このまま動かなくても俺達が見つかる危険性はかなり低いと言って良いだろう。まずいのは、そこではない。
問題は、その装甲兵の三人が先ほどの広場に散歩の様な足取りで向かっている事だ。
先ほどの広場で六人もの死体を出した俺達だが、勿論死体は隠蔽している。
しかし死体は見つからずとも、“六人は居る筈の広場に誰一人居ない”という事に気付かれるのは、死体が見付かる事と同じぐらいまずい事だ。
環境と状況から考えても、流石に「六人揃って便所にでも居るんだろう」と考える程奴等は楽天家では無い。
めぼしい選択肢は二つ。
一つ。このまま邸宅に進み、こいつらが本格的に騒ぎ始める前に邸宅へと辿り着き、敢えてこいつらを陽動に使う。
時間制限はつく上に、遅かれ早かれ騒ぎは免れないだろう。コールリッジ排除に関しては隠密のままでは居られない、とは予想を立ててはいるがこの方針では完全に隠密を捨てる事が前提となる。
二つ。この三人の装甲兵をここで排除する。それならば少なくとも解決するだろうが、隠密に片付けるとなると、上手く行くかどうかを含めて中々のリスクだ。
一応奇襲出来る立場ではあるが、装甲兵の鎧を着込めるのは上級衛兵に限られる。上級衛兵の錬度を考えれば、奇襲出来たとしても万が一が無いとは限らない。
それも、三人。此方が四人とは言え、装甲兵が三人というのは決して安心出来る数では無い。
頭の中で、リスクと利益、有利と不利が往き来する。
ユーリから手信号。決断、可及的速やかに。
信号を返す。既知。了承済み。
幸いという訳では無いが、手元にはアイゼンビークがある。少なくとも、リッパーよりは装甲兵に有効な武器だろう。
パトリックの主兵装がリッパー、予備兵装がヴァイパー。
スヴャトラフも主兵装はリッパー、予備兵装もヴァイパーの筈だ。
ユーリの主兵装はランバージャック、ただし予備兵装はアイゼンビークだ。
ウォーピックことアイゼンビークを用いた、後ろからの一撃で殺害出来るか?
大打撃を与える事は出来るだろうが………
それに、アイゼンビークで装甲兵を後ろから奇襲して成功したとして、それでも単純計算で装甲兵が一人残る。
勿論レイヴンも素人ではない。最後の一人をどうにか片付ける事は可能だろうが、それも迅速にやらないとまずい。その上、装甲兵には上級衛兵としての錬度もある。
刃が通らない相手に対しても、関節を破壊するにしろ脇の下を突き破るにしろ、やりようはあるがリスクがあるのは誤魔化しようも無い。
肩を、小突かれた。
振り向くとアイゼンビークの柄を差し出す形で、ユーリが俺に予備兵装たるウォーピックを渡そうとしていた。
柄を握る形で受け取る。
少しして、ユーリが何を伝えたいのか言うまでもなく、信号で伝えるまでもなく分かった。
“俺はやれる”と言いたいのだ。ウォーピック無しでも、あの装甲兵を迅速に排除出来ると。
少しずつ、三人が広場の方面へと歩いていく。見逃すのなら、この辺りで此処を離れないと陽動で稼がれる時間を磨り減らす事になる。
深く息を吸った。ベットしなければゲームは成立しない、決断無くして成果は無い。
リスクを取るとしよう。
受け取ったアイゼンビークと、自分が持っていたアイゼンビークをパトリックとスヴャトラフに手渡す。
手信号で簡素に作戦を伝え、一人につき装甲兵を一人排除する事を伝える。
直ぐ様二人からは了解の信号が来たが、やはり二人ともユーリが装甲兵をどうするのか気にしている様子だった。
当のユーリはと言えば、そんな二人など気にもかけない様子で小屋の上から静かに降りていく。
余りにも平然と装甲兵に進むユーリに、部下の二人と顔を見合せたが今更悩んでも仕方無い。ユーリはやれると示したのだから、信じるしかない。
装甲兵排除に関して自分も実行員になるべきか幾ばくか迷ったが、この状況ではむしろ邪魔になる可能性が高い。
素直に、俯瞰視点から全体を把握しつつ緊急時に補助に回るべきだろうが、生憎とアイゼンビークはもう手渡している。
装甲兵とゴーレムバンカーで戦うのは論外だろうし、ラスティだけで装甲兵と直接対決は厳しいだろう。
スパンデュールを連発して撹乱するか、いざとなれば黒魔術を使う事も視野に入れなければ。
小屋の上から静かに降り立った二人とユーリが合流し、黒革の防護服を着込んだレイヴン三人が雨音の中を影の様に近付いていく。
装甲兵に気付く様子は無いが、スパンデュールで援護する想定を脳内で組み立てつつ、その姿を後方の小屋の上から見守る。
そんな時に、ふとある事に気付いた。
パトリックはアイゼンビークを握っている。スヴャトラフも言わずもがなアイゼンビークを握っている。
なのに、ユーリはランバージャックさえ握っていない。両の掌を開き、腕も大きく広げ、犬でも捕まえるのでは無いかと思う程に重心も低い。
どうする気だ?
レイヴン三人が、背後から装甲兵を仕留められる射程に入った。影が、襲い掛かる。
スヴャトラフが背後から、装甲兵の膝裏を蹴って体制を崩し、殆ど脳天からアイゼンビークを振り下ろした。まるで装飾の一部の様に、ピックが深々と兜から頭蓋の内部まで突き刺さる。
装甲兵が蹴り崩されるのに合わせる様に、パトリックが大きく振りかぶったアイゼンビークは、隣の兵士の異変に気を取られた装甲兵の側頭部の辺りから、脳にまで深々とピックを突き刺す事となった。
その二人が理想的な結果を打ち出している中、俺は意識の半分近くをユーリの行動に奪われ、視線が引き付けられていた。惹き付けられていたと言っても過言では無い。
件のユーリは、ウォーピックを握っていない。それどころか、ランバージャックという斧すら握っていない。何故武器すら握らずに後ろから近付くのか、俺には理解出来なかった。
理由は単純。邪魔だったからだ。
スヴャトラフとパトリックが二人の装甲兵の頭蓋を穿っている隣で、平行するユーリは装甲兵の鎧を引き千切るのでは無いかと思う程強く掴む。
7フィートの体躯でユーリがやった事は、子供でも説明出来る程に単純な事だった。
持ち上げて、逆さにして、落とした。
帝国軍最新技術の軽量合金とは言え、全身を金属で覆っている鎧は40ポンド近くか、物によってはそれ以上の重量はあるだろう。
武術の鍛練を積んだ上級衛兵、言ってしまえば鍛え込んだ成人の体重に加え、40ポンド前後の重量。
それを、ユーリはしっかり掴んだかと思えば一息で頭上に持ち上げ、余りの事に間抜けな声が出る装甲兵を上下逆にして、何の配慮も無く脳天から地面に落としたのだ。
自身の重量に加えて鎧の重量、そしてそれを子供の様に地面から引き抜いて、逆さに振り下ろすユーリの怪物とさえ言える筋力により、不憫な事故の様に頭から落とされた装甲兵は鈍い音の後、苦悶の声すら無く静かになった。
そんな隣で、呆然とするスヴャトラフとパトリック。勿論、俺自身も二人と同じく、呆然としている。
鎧を着込んだ装甲兵を持ち上げて地面に叩き付ける等、思いつきもしなかった。
三体の死体を確認した後、何一つ気にしていない様子でユーリが手信号を此方に送ってくる。
“完了。異常無し、隠蔽する”
隠密を保ったまま、邸宅まで辿り着けた事はかなりのアドバンテージと言える。
この邸宅に辿り着く前に警報がなるなり、銃声等で襲撃が露見するなりして更に危機的状況に陥る想定を幾つもしていた身としては、中々に理想的と言える状況だった。
負傷者は居らず、今の所は侵入も露見していない。自律駆動兵にも遭遇していない。
死体もそれなりには隠蔽してあるので、かなりの時間稼ぎにはなっている筈だ。
しかし、問題はここからだ。
この作戦は大前提としてコールリッジの邸宅まで隠密を保ったまま辿り着き、そこからコールリッジ含め自律駆動兵と対決して、漸く“具体的な勝ち目が見えてくる”という任務なのだから。
改めて考えても、随分な任務だ。承知の上だろう、と言われたらそれまでだが。
そんな事を考えながらも窓枠に足を掛け、静かに垂直に跳ぶ。重力が跳躍に気付いて身体を引き下ろし始める前に、壁の装飾や段差、新たな窓枠等を掴み身体をゆっくり引き上げていく。
まるで床を這う様に、壁を這い登っていく。煙が昇る様に素早く、雨が伝う様に静かに。
もしこの光景をまともに見ている者が居れば、随分と奇妙な光景に映っただろう。黒革の防護服を着たレイヴン四人が、大した音も無く階段を登る様に慣れた様子で、邸宅の壁面を登っていくのだから。
任務に出る前から邸宅を登る際に、死角になる角度と場所は目星を付けてあった。
最も、任務前にこの辺りの調整をした時は“侵入が露見せずにこの地点まで来れた場合”という前提で調整していた為、どちらかと言えば今回のメンバーは自分含め「ここまでに露見する可能性の方が高い」という考えではあったが。
夜間という時間帯に加え雨天である事も幸いし、殆ど人目に付かずに登る事が出来た。
階層の一つ一つが随分と高い上に、三階立てともなると結構な高さになったが、大した音を立てる事もなくレイヴン四人が屋根に辿り着く。
邸宅の屋根の上から、目立たない様に辺りを見回すが最初に飛び込んだ広場含めて、特に騒ぎになっている様子は無い。
パトリックから手信号が来る。
“アナベル”は相変わらず見当たらない、そして恐らく“グレゴリー”とこれから遭遇する危険性が高いとの事。
このまま、屋根の上から三階にあるコールリッジの自室に直接向かった方が良い、とユーリが手信号。
フードに覆われた頭を掻いた。
ここからはどれだけ素早くコールリッジを排除出来るかという勝負になってくる。
こうして邸宅の屋根に辿り着くまでの道中でさえ、襲撃が露見しなかったのは僥倖と言っても良い。
そして、ここからは遂にコールリッジの邸宅内に侵入する。言うまでもなく、敵に見つかる危険性はこれまでの比では無い。
その上、邸宅内部には今回の発端とも言える重装型の自律駆動兵“グレゴリー”が徘徊している。
勿論、グレゴリーに見つからずにコールリッジの首を切り飛ばす事が出来るなら言う事は無いのだが、コールリッジはレイヴン対策として自分の傍にグレゴリーを控えさせている可能性が高い。
………いや、ユーリが襲撃した際にはグレゴリーが傍に居たというだけだ。
クロヴィスが任務前の説明でも言っていた通り、今回は準備期間が短すぎたが為に具体的な警備の変更状況、増員情報は把握出来ていない。
廃棄処理場からの侵入ルートの件もそうだが、様々な可能性を考慮し柔軟に考えて行く必要がある。
グレゴリーがこの邸宅に存在しないという可能性は勿論無くは無いが、殆ど誤差の様な物と考えて良いだろう。
それより懸念すべきは今グレゴリーは何処に居るのか、コールリッジはその近くに居るのかと言う事だ。
言うまでもない事だが、大前提としてコールリッジを先に発見出来れば随分と有利に任務を進められる。
万が一単独のコールリッジを発見出来たなら、直ぐ様その首を切り落とすか頭を潰し、全速力で離脱する。これは理想の形と言って良い。
今の所、最も有り得る形としてはコールリッジの傍に件の自律駆動兵、グレゴリーが居た場合だ。前情報から考えても、グレゴリーの脇をすり抜けてコールリッジを倒すのは相当困難な仕事だろう。それこそ、レイヴンが数人掛かりでも叩き潰されるぐらいには。
つまり、グレゴリーを俺の背中に背負っている“ゴーレムバンカー”で行動不能、もしくは能力の大幅な減退にまで追い込む必要がある。
それが不可能だとしても、俺がグレゴリーを引き付けている間に仲間のレイヴンがコールリッジを倒すという方針になる訳だ。
………レイヴンを平然と叩き潰す様な奴に“引き付ける”など、木の棒でハネワシを追い払う様なものだと思うのだが、ヴィタリー含め幹部連中からすれば“黒魔術とやらを使えば少しは引き付けて居られるだろ”ぐらいの感覚なのだろう。
俺が死に、コールリッジの首が切り落とされ、三人のレイヴンがカラマック島に戻ってきたとしたら幹部連中はどんな反応をするのだろうか。
少なくとも、ヴィタリーだけは容易に想像が付くが。
雨の音に囲まれながら、静かに息を吸った。
コールリッジだけを発見し抹殺出来れば、理想的。コールリッジの隣に居るグレゴリーを引き付けるなり、破壊するなりしなければならないのが最も有り得るであろう展開。
そして、最悪なのがコールリッジを発見するより先に単独のグレゴリーに発見される事だ。
グレゴリーが単独で行動しているとは考えにくいが、可能性として有り得なくは無い。
俺達四人がグレゴリーに襲撃される形になり、時間稼ぎどころでは無くなる。破壊なり行動不能に追い込むなりしなければ、レイヴン達が逆にグレゴリーに追われる形となる。
言うまでもなく、もし逃走するならグレゴリーから逃げながら未発見のコールリッジを探す形になる。かなり厳しい状況だろう。
加えてユーリの話と報告から考えても、自律駆動兵からは単純な逃走ですら難しい。
つまり、今回の任務を成功させるなら“単独で行動しているグレゴリーに見つかった”時点で、俺が背面に背負っているゴーレムバンカーでグレゴリーを行動不能にしなければならなくなる、という事だ。
レイヴンマスクの下で苦い顔をしていると、パトリックから手信号。
殆ど人気の無い窓を発見。周囲にも気配無し。ここから、目標の自室に向かうルートを提案。
他の二人、ユーリとスヴャトラフに視線を投げる。
静かに、頷きだけが返ってくる。
たたでさえ余裕の無い作戦だ。先にコールリッジが見つかる事を、願うしかない。
同じく頷いてから、パトリックに手信号を返す。
了解、決行。侵入開始。
どのみち、事前情報で対処出来る域はとうに過ぎている。どれだけ頭を捻ろうと、ここからは実際に飛び込んで現場の判断で動いていくしかない。
雨が降り頻る中、足か手を滑らせれば地面と大変“仲良く”なってしまう様な高さではあったが、それでも決して慌てる事なく身体をぶら下げる様に壁面を降りていく。
段差に手を掛けて壁に張り付いた体制のまま、改めて気配を探る。
相変わらず降り注ぐ雨音の事を加味して考えても、パトリックの言う通り全くと言って良い程に気配は感じられない。
片手で、同じく壁に張り付いているレイヴン達に問題無しの信号を送った。
自分の理性は問題ないと言っていたが、それでも一応警戒しつつも窓を開ける。この業種には、理性を信用しないパラノイアの部分もある程度は必要だ。
日頃から開閉しているのか窓は錆び付く事も固着する事もなく、すんなりと開いた。
一応、入り込む前に顔を突っ込む様な形で更に周りを見回したが、やはり誰一人としてこの付近には居ない。
本当に誰も居ないのか?
頭の中を整理していたつもりだったが、再び様々な想定が頭の中に吹き出してきては、霞の様に消えていく。
集中しろ、と自身に言い聞かせた。
“自分が先陣を切る”と周りに手信号を送ってから、窓枠を潜る様にして静かに室内に入り込み出来るだけ音を立てずに床に降り立ち、ゆっくりとした動きで身体と足を窓枠から引き抜いていく。
窓枠から離れた辺りでスパンデュールを構えアイゼンビークを握ったまま、仲間のレイヴンが部屋に入り込むのを待つ。
大した音も無く、管に紐を通す様に窓枠から次々にレイヴンが入ってくる間も辺りの気配を探りつつ警戒していたが、やはり気配は感じられない。
最後に窓を通ったレイヴン、詰まらないのが意外な程にスムーズに通り抜けたユーリに、手信号を送る。
目標の部屋はこの先か?
少しの間の後に、ユーリが信号を返す。
この部屋から廊下一つ挟んだ部屋が、目標の自室。何故確認する?
パトリックとスヴャトラフも振り向いて此方を見つめてくる。少し悩んだが、仕方無い。正直に伝えよう。
こんな事を手信号で伝えるのは多少難儀したが、それでも何とか組み合わせで表現した。
静か過ぎる、嫌な予感がする、と。
勿論何か強い根拠がある訳では無い。それでも、何処か大事な事が抜け落ちている様な感覚が拭えない。
パトリックが、少しの間の後に頷いた。
レイヴンマスクで表情は見えないが、手信号で伝えるまでもなく言いたい事が伝わってくる。
ユーリとスヴャトラフも、改めて辺りに気を配る様な仕草を見せる。
確かに、今俺達は有利な状況に居る。まだ侵入が露見していない上に目標の邸宅にまで入り込み、雨音に色んな音が掻き消される中標的の部屋の近辺まで迫る事が出来ている。
だが、夜半という事を考えても肝心の邸宅、しかも目標が居る三階層がここまで静まり返っている、という事が有り得るだろうか?
邸宅の外でさえ装甲兵が彷徨いていたぐらいだ、むしろ邸宅の中こそ兵士がひしめき合っているべきなのではないか?
向こうも子供ではない、自律駆動兵の投資確約が噂されている事を考えれば、コールリッジも今自分がレイヴンに血眼で狙われている自覚がある筈だ。
安眠の為、夜半に自室の付近を静粛にする様に指示が出ているという想定も出来る。その為に人払いしていると。
だが、この状況なら明らかに安眠より優先するべき物がある筈だ。むしろ、自身こそ部屋を歩き回っていても可笑しくない。
“念の為、目標の自室を確認する”
パトリックのそんな手信号に、了解と返す。
他の二人も同意見らしい。色んな思惑と理由はあるだろうが、少なくともこの状況で自室を確認もせずに見放すのは流石にパラノイアが過ぎるだろうし、自室にコールリッジが居るかどうかだけでも確かめておくべきだろう。
手信号で皆にも前進を指示し、アイゼンビークを片手に握り締める。
スヴャトラフはリッパー、ユーリは当然ながらランバージャックを握り、先陣を切るパトリックもリッパーを握り締めている。
いざ目標を目の前にするなら、ヴァイパーよりはリッパーの方が良いのだろう。いよいよもって接敵の可能性が高まってきた今なら尚更だ。
先陣を進むパトリックが静かに廊下への扉を開け、辺りを見回すと共にリッパーを構え直す。
レイヴン達に緊張が走るが、やはり人は居ないらしい。
スヴャトラフが僅かばかり肩を竦めた。任務中だぞと普段なら言うだろうが、心境としては同意見だ。夜半という事、雨という事、露見していない事を踏まえても、ここまで標的の邸宅が静かな事があるのだろうか?
二階と一階に住人が集中しているのでは無いか、という考えが頭を過る。いや、それでも自室に不在かどうか、という事を確かめておくのは決して悪手ではない。
そんな中、先頭を進んでいたパトリックが不意に手で此方を制した。
直ぐ様ユーリとスヴャトラフ、勿論俺自身にも緊張が走る。
パトリックの目の前には、コールリッジの自室の扉。
手信号でわざわざ示されるまでも無くパトリックが言いたい事は分かったが、それでもパトリックは此方を振り返りつつ、丁寧に手信号で伝えてきた。
“中に、誰か居る” “微かに、物音がする”
そんな手信号に、自身の隅々まで酸素を巡らせるかの如く息を吸った。
このコールリッジの自室でコールリッジ本人を発見出来れば、かなりの進展になる。グレゴリーが隣に居るなら、とうとう俺とゴーレムバンカーの出番だ。
展開していたアイゼンビークを格納し、腰に下げていたゴーレムバンカーを遂に右腕に通す。
お世辞にもゴーレムバンカーは人向きの武器では無いが、仮に部屋の中にコールリッジ本人、もしくはその周りに憲兵が居たとしても他の三人が対応出来る筈だ。必要なら、俺がスパンデュールで援護しても良い。
逆に、自律駆動兵“グレゴリー”が居た場合には有効打を与えられるのは殆ど俺だけと思って良いだろう。
そして必要ならば、例えこの左手が焼け落ちようとも黒魔術を使わなければならない。例え俺の中にどれだけ黒い物が流れ込み、俺の何かが歪んで淀んだとしても。
今回の作戦で俺は、その為にここまで来たのだから。
パトリックが、コールリッジの自室の扉に向き直る。呼応する様に、スヴャトラフとユーリも武器を握り直す。
さぁ、本番だ。




