052
「巨大なカラスか、フクロウの夢………」
ゼレーニナの質問に思わず口から言葉が溢れ出る。
心当たりは、言うまでもなくあった。胸の奥まで冷え込む様な、あの奇妙な夢。身の毛がよだつようなカラス達。
そして、嗄れた声で喋るあの巨大なフクロウ。肺の奥まで見透かす様なあの蒼い眼。
心臓を蹴飛ばされた様に動悸が激しくなる。無意識に左手を握り締めた。
そんな俺の様子を見てゼレーニナは満足そうな顔をするでもなく、岩を削る様な険しい眼を向けてくる訳でもなく。
「心当たりがある様ですね」
ただ、合点がいった様な顔をしていた。
「…………俺が見たのは、巨大なフクロウだった。周りにカラスも居たが……カラスは巨大ではなかったな」
そんな俺の言葉に、ゼレーニナは表情を変えずに聞き入っている。
「ふむ、カラスでは無かった………どうやらウルグスの実像は認知に左右される訳ではなく、共通する様ですね」
「あのフクロウは何なんだ?悪夢だとしても、あればっかりは何かが違う。具体的には上手く言えないが、他の夢とは決定的に何かが違うんだ」
そんな俺の言葉を当然の様に無視して、ゼレーニナが机の上に乱雑に積まれていた書物を手に取り、頁を捲っていく。
「単刀直入に聞きます。ウルグス、という名前を聞いた事は?」
「……いいや」
全く聞いた事が無い名前だ。こいつの言い方だと機械部品の様に聞こえなくも無いが、まぁ今回ばかりは呼称だろうな。
ゼレーニナの頁を捲る手が止まり、本を両開きにして机に広げる。
伝承や伝説について語った本らしく宗教や神様について語られている様だ。
開いた頁には大きな図解がついており、奇妙なフクロウが咆哮しながら脚で人間を押さえ付ける図が描かれている。
模様も大きさも顔も、俺が見たフクロウとは全く似ていない。
「神霊ウルグス、と呼ばれるものです。古代から伝承されている宗教の一つですね、時代で言えばテネジアより古来から伝わっています」
「生憎と無宗教でな。誰が古いだの新しいだの、神様達の話はサッパリなんだ。テネジア教徒ならまた話も違ったんだろうが」
伝承だろうと伝説だろうと、知った事ではない。見た事無い神様より、見覚えのある剣と影だ。
素っ気ない俺の言葉に、ゼレーニナが顔を上げて意外そうな顔をする。
「……確か帝国軍は、訓練生の時からテネジア教に入信してテネジアの名の元に戦う様に訓練されている、と記憶していますが」
「名目上はな。だが実際に血塗れで戦場を走っている時に、神様もクソも無い。実際に頼りにした事は無いし、頼りになった事も無い。俺は特にそうだった」
隠密部隊で第一線でやっている連中に、実際にテネジア教を信仰している奴が何人居た事か。こう言ってはなんだが、教徒で祈りを捧げている奴の背中を突き刺すのが仕事だったのだから。
少し鼻を鳴らして、ゼレーニナが書物に眼を戻す。向こうも咎める気は無いらしい。勿論咎められる筋合いも無いが。
「神霊ウルグスを中心とした宗教は、先程も言った通りテネジア教より古くから存在し、バラクシア北方のリドゴニア、もしくは更に北から伝わってきた宗教とされています。ですがレガリスが建造されて以来、現在に至るまでウルグスを中心にしたウルグス神霊教はレガリスでは邪教に指定され、教徒や入信は処罰の対象とされています」
文章を読んでいるのかと思っていたが、広げている頁にそんな文章は見当たらない。
この宗教の文献さえも、普通に知識として頭で保有し喋っている訳か。この偏屈少女は科学や機械だけでなく宗教まで知識があると来た、そろそろ何処かにもう一人居るんじゃないかと疑いたくなる。
自分とて軍学校上がりなのだから無学とまでは行かない筈だが、ウルグス神霊教など聞いた事が無い。
「………じゃあお前は、ウルグス神霊教なのか?」
「私も生憎と無宗教なので」
顔すら上げずにゼレーニナが答える。無宗教か。聞いておいて何だが、まぁ納得の行く話だ。
そこまで考えて、少し首を捻った。邪教?
「なぁ、お前さっきレガリスでは………あーウルグス神霊教が邪教に指定されてるって言ったよな」
「はい。それが?」
頭を指で掻く。そうだ、思い出してきた。帝国軍で浄化戦争に参加した際。いやもっと前から、奴隷の宗教として騒がれていた“ラグラス人の忌まわしい邪教”。確か………
「………奴隷民族が信奉しているって噂の処罰対象の邪教って、邪神グロングスじゃなかったか?少なくとも、レガリスじゃそうだ。処罰対象の邪教なんてそれ1つしか無い筈だ、ウルグス神霊教なんて聞いた事無いぞ」
新聞記事でも帝国の歴史書でも、邪神グロングスについてはよく語られている。亜人の宗教、奴隷の宗教だと。テネジア教徒に異を唱えない様に、即刻処罰によってテネジア教徒に改宗させよと帝国軍では命じられている。
「邪神グロングス、ですね」
相変わらず、顔も上げないまま退屈そうにゼレーニナが答える。
「やたら巨大なカラスで、不幸な出来事や惨劇の際には必ず何処かでグロングスが見ている、ってやつだ。不運や憎悪を司るんだったか」
「それは後世による創作ですね」
俺の言葉を遮る形で、ゼレーニナが面倒そうな様子で切り捨てた。
創作?
帝国軍で散々教え込まれ、未だに邪神グロングスから聖女テネジアが守ってくれると信じて祈っている奴も居ると言うのに、グロングスが創作?
「…………グロングスって、創作なのか?こう、昔から伝わる邪神なんじゃないのか?」
ゼレーニナが少し鼻を鳴らし、頁を捲り、指である一項目を指す。
“グロングス”と小さな見出しがそこにはあった。数行に満たない説明があるだけで、挿し絵すらない。
「グロングスとは本来、確かに神霊ウルグスの僕となり、世界に波紋を起こすとされている存在です。ですが現在、バラクシアひいてはレガリスで教育されている“邪神グロングス”は、レガリスのキセリア人達がプロパガンダを含め、ラグラス人や奴隷に“邪教徒”というイメージを植え付ける為に大部分が追加・変形された存在です」
文字を綴る様に冷淡に語り続けるゼレーニナに、少し気圧される。
「本来邪教に指定されているのはウルグス神霊教なのですが、貴方を含めて殆どの人間がウルグス神霊教の存在すら知らず、名称を知らぬまま“邪神グロングスを崇める邪教”と認識して忌避しているのが現状ですね」
言葉が出なかった。
軍に入る前から教え込まれてきた邪神が、元々は亜人差別の為に意図的に考え出された存在だったとは………
「……じゃあ、グロングスが人を呑み込む様な巨大なカラスってのは」
「それも創作ですね。本来のグロングスにそんな記述は一切ありません。そもそも、カラスどころか容姿についての記述はどの文献にもありませんでした」
眉を寄せた。何というか、余りにも味気無い話だ。いや、自分もグロングスを信じていたかと言われると怪しい所だが。まぁそもそも、聖女テネジアでさえ“クソの役にも立たない”と吐き捨てていた身なので、何一つ文句を言えない身ではあるが。
「なぁ」
「何です?」
「俺はその、信心深い方じゃない。テネジアを頼りにした事もまともに心から祈った事も覚えが無い。だが、その本に記述が無いからってこれだけ浸透している神様が、何もかも帝国がラグラス人を貶す為だけに考えた質の悪い落書きだった、なんて事あるのか?」
そんな俺の質問にも、ゼレーニナは淡々と返す。
「現に、空中都市連邦が設立される前の記録や文献には、グロングスが不幸や憎悪を司ったり、またグロングスに対して畏怖する様な記述はありません。世界に波紋を起こす、と記述されているだけです。ディロジウム発明以前のかなりの数の文献も調べましたが、“邪神グロングス”という記述が登場するのは二世紀近く前の文献からですね。丁度、空中都市連邦が設立され始めた頃です」
椅子に体重を掛ける。何というか、想像以上に根が深い問題だ。まさか、亜人や奴隷を見下す為に神様まで考え出し、それを都市中に浸透させていたとは。
そして、自分も気付かない内にその一人になっており、二世紀近く前にキセリア人が考えた神様の名前を口ずさんでいたとは。
「………ミスター・ブロウズ、もう一度聞きます。貴方は夢で巨大なフクロウ、ウルグスに会ったのですね?」
少し身を乗り出したゼレーニナが、真剣な声音でそんな事を言う。
「あぁ。言っておくが気分の良いもんじゃないぞ」
今更ながらゼレーニナの話と推測が正しいならば、俺はウルグスとかいう神霊に出会った事になるのか。
何というか、神様に会うと言うのはもっと神々しいというか、眩しく暖かい場所で出会う物だと勝手に思っていたが………
まさかあんな、夜に崖から底の見えない空を覗き込む様な、肺の奥まで冷え込む様な空気の中で出会うとは思わなかった。
あの暗い悪夢の中で、蒼白い奇妙な眼を持ったフクロウに烙印の様に、この痣を焼き付けられ。あの奇妙な力を授けられ。
不気味なフクロウに眼を付けられたかと思えば、その奇妙な力のせいで命拾いして。
左手を眺める。
あのウルグスと呼ばれるフクロウが神様ならば、ウルグスは俺に何をさせようと言うんだ?
物思いに耽っていると、ゼレーニナの大きな眼が此方を真っ直ぐに見つめている事に気付く。
「…………私がグロングスについて、何と言ったか覚えていますか?」
「邪神ってのは、レガリスの連中がプロパガンダの為に考えた創作なんだろ?」
「その前です。グロングスは確かに邪神ではありませんが、創作の部分を別にすれば神霊ウルグスと同じぐらい古くから伝わる存在です」
ああそうか、グロングスが俺達の考える様な邪神で無いにしろ、余計な継ぎ足しを抜きにした本来のグロングスは一応存在するのか。ややこしい話になってきたな。
「これは推測ですが………その左手の痣、浮かび上がる前日か、浮かび上がる瞬間にウルグスの夢を見ていませんか?」
椅子に座り直し、真剣な様子のゼレーニナに向き直る。
この痣と力を得る直前にも、酷い悪夢を見た事を覚えている。他の夢の様に微睡んで解れて、溶けてしまう様な事もなく明確に焼き付いているあの悪夢。
思い出したくも無いが、あの時に焼き付けられた箇所は痣が浮かび上がった左手と同じく、左手だった。
「………あぁ」
そう返すと、ゼレーニナが真剣な面持ちのまま更に言葉を紡ぐ。
「つまり、貴方があの庭園において行使した力もその時に発現していた事になります。これは先程も確認しましたね」
あの後、閉じ込められた地下牢でも出した結論だった。ウルグスのせいで閉じ込められたとも言えるが、あの力が無ければそもそも生きて帰れない可能性もあった訳か。
全く、因果な話だ。
「そう、なるな。それが?」
「ブロウズ………私が、グロングスについて何と説明したか、覚えていますか?」
何故先程と同じ質問を繰り返すのか。そう反射的に思うも、すぐに考え直した。
こいつは、見た目こそは愛想も愛嬌も無い少女だが、中身は其処らの学者や教授を数人纏めて言い負かす様な知識と脳味噌が詰まってる。
そんな返事の為に、こんな真剣な眼で質問してくる様な女じゃない。
考えろ。こいつがこういう聞き方をしてくるという事は、此方は何か思い付く筈だ。考え方を変えろ。言葉の意味を絞り出せ。
少し間が開いた。そしてそれをゼレーニナも黙認していた。
そして考えている内に、ある1つの推測が組み上がり、息を呑んだ。
「なぁ、まさかとは想うが…………」
自分でも信じられない様な事を言おうとしていた。もし、一年前の俺が目の前に居たらひっぱたいた後に首根っこを掴んで、酔いを醒ませと冷水にでも沈めていただろう。
だが、俺には左手の痣がある。
あの崖から見下ろした様な胸の奥まで冷え込む様な、奇妙で歪んだ力を知っている。
「……グロングスとは、ウルグスの僕となり世界に波紋を起こす存在への呼称です。しかし、先程も言いましたが巨大なフクロウやカラスといった具体的な容姿や形については、何一つ記述が無いんです」
ゼレーニナが真剣な声音のまま、同じく真剣な眼で言った。
「そう。逆にこう考える事も出来ます。ウルグスの僕たるグロングスは、決まった形がありません。故にもし、あくまで仮説ですがウルグスが“自身で選んで波紋を起こさせている”のだとすれば…………」
息を呑んだ。握り締めた左手の痣が、微かに熱を持ち始める。
「世界に波紋を起こしている俺こそが、グロングスという事になるのか?」




