048
「回転数を上げたら、ギアも上げていかないと行けないんです。何度も言ってますよ」
逆さ吊りの景色のまま、地面からぶら下がったクルーガーが呆れた様に言う。何でこんな事になったんだか。
地下牢の解放から一週間。解放されてからの周りの目の冷たさときたら流石に堪えた。大量殺人の重犯罪者が釈放された後に、“被害者の会”の中で暮らしている様なものだ。
別に何が変わった訳では無い。部屋が狭くなった訳でも、飯が減った訳でも無い。虚しい一人部屋は変わらず、部屋に届けられる飯も変わらず。
ただ、以前にも増して周囲から向けられる眼が氷の如く冷たくなっただけだ。
相も変わらず食堂に行く勇気は出ず、出番が無い猟犬や猟用鳥みたいにいつまでも待たされている。鉄格子や処刑の危険が無いだけで、ここも地下牢と変わらない。
そんな中、事情は勿論知っているだろうに、それでもこれまでと変わらず関わってくれるクルーガーには正直、随分と救われた。
石どころかクロスボウのボルトが飛んできそうな嫌われ方の中、幹部三人からもさえ苦言を呈され、一人鍛練でもするしかない、と部屋で鍛えていた俺をわざわざ部屋に来てまで、快く紅茶に誘ってくれたのがクルーガーだ。
クルーガー周りの整備員や人員はどうやらクルーガーから事前に事情を聞かされたのか、それとも俺に気を遣う様に言われているのか、兎にも角にもクルーガー周りの連中は他の連中と違い、 こんな状況の俺にも快く接してくれた。俺がどの様な経緯でこんな目に合っているかは勿論分かっているだろうに、ここの連中が情深いのか、もしくはクルーガーの人徳の成せる業か。
紅茶を共にする際、クルーガーは色々な事を聞いてきた。その中でも、「ですが今回の事件は、団の為に戦った結果なのでしょう?」と聞いてくれたのは、 素直に嬉しかった。俺の悪評など、この団の中では疑うまでもないだろうに。
高そうな紅茶の二杯目を注いで貰ってる際に、クルーガーは極めて慎重に黒魔術の話を切り出してきた。恐れていると言うよりは、此方に失礼が無い様に配慮している様に思える。
どう報告を受けたのかは知らないが、クルーガーとしては俺が起こした“黒魔術”事件には恐怖や疑いよりも、遥かに好奇心が勝るらしい。
「……すると、その左手の紋様が………」
クルーガーが、俺が差し出した左手の痣を覗き込む。稀少な鉱石でも見るかの様に、その眼は輝いている。
「あぁ。今回の騒動の発端だ」
「痣、と言うよりは火傷………刺青の様に見えますが………翼、でしょうか?」
「俺もそう見えるが……分からん、理由なんて無いのかも知れない。俺もよく分かってないんだ」
左手の痣は相も変わらず、刺青の様に明暗や縁が際立っており、滲む事も霞む事もなく手の甲に描かれている。
「この紋様は、どの様にしてその、手に浮かんだのでしょう………?」
日が暮れるまで眺めていても飽きない、 と言わんばかりにクルーガーが手の痣を眺めながら、それでも此方に気を使った様子で聞いてくる。
事の発端か。確か………あぁ、あの原生林での頭痛からか。何と言うか、我ながら仮病の言い訳みたいな話だ。余り胸を張って言える話でも無いな、冗談だと思われないと良いのだが。
「………少し、突拍子も無い話になるが。真面目に、聞いてくれるか?」
「はい?」
クルーガーが意外そうに、左手ばかり見つめていた顔を上げる。何故そんな事をと言いたげな顔だったが、少しの間を置いて此方の言わんとしている事を理解したらしく、真面目な顔で、頷いた。
「黒魔術が現実に起きているのです、どんな夢物語でも信じましょう」
少し口角が上がる。出来の悪い猟犬の様に扱われているこの団の中で、こんなにも俺の黒魔術の事を肯定的に聞いてくれる奴が居るだろうか。
「………分かった。じゃあクルーガーを信じてそのまま、シンプルに言うぞ」
そう呟くと、促す様にクルーガーが頷く。
考えてみればこの痣とも、奇妙な出会い方をしたものだ。陳腐な表現にならない様に言葉を考えていたが、どのみち妄言の様になる事に気付く。気にするだけ無駄か。
「前に、原生林の方に歩いてる時に、唐突にとんでもない頭痛が来たんだ。頭が割れるかと思う程の頭痛だった」
「頭痛、ですか……」
取り敢えず切り出しては見たが、思いの他クルーガーは真面目に受け止めてくれた。推理する様な表情のまま考え込んで居る。
「そのまま死ぬかと思うぐらいの頭痛の後、気が付いたら、この……痣がもう左手にあったんだ」
正しく小説の様だ、とどこか他人事の様に思った。自分でさえそう聞こえるのに、クルーガーには益々小説の様にしか聞こえないだろう。
「頭痛から目覚めたら……………既に、左手に……」
クルーガーが顎に手をやりながら、興味深そうに聞き入る。きっと、今もクルーガーの脳は、ディロジウム駆動機関の様に唸りを上げて回っている筈だ。
「心当たりは……ある訳ありませんね」
考え込みながらそう呟くクルーガーに、肩を竦める。
「何でこんな痣が出来たのかも分からないし、この痣がどういう者なのかも分からない。こう言ってはなんだが、テネジア教徒なら絶対に俺を悪魔の遣いだと思うだろうな」
「ミスターブロウズは、テネジア教徒で?」
そう言って少し顔を上げたクルーガーに、首を振る。生憎と神様を頼った覚えも、頼りになった覚えも無かった。
「黒魔術、と呼ばれているものは、自分の意思で行使できるのですか?」
クルーガーが不意に顔を上げ、そんな事を聞いてくる。少しの間の後、「あぁ」と頷くとクルーガーが感嘆の息を漏らしながら、益々左手を覗き込んだ。
「………報告によると、貴方はとてつもない魔術を……カラスを、呼び出したとか。それも何もない敵地の真ん中で」
再び、輝く双眸が俺を捉える。多少、嫌な予感がしないでも無かったが、再び、相手を見据えながら頷いた。幹部達の尋問に比べたら、まだこうやって身内で話し合ってる方がマシだ。
「カラス、というのは一般的に私達が知ってるカラスの認識で宜しいですか?」
「概ね合ってるが、何というか……眼球が無かった。それは間違いない」
「………眼球が、無い?」
「目の部分……眼窩と言うか。そこが抉れてるんだ、肉ごと。抉り取られたみたいな形だった」
眼を輝かせながら聞いていたクルーガーが、とうとう堪えきれなくなった様に、懐から革の手帳を取り出した。同じく、インク吸い上げ式の万年筆を取り出しては、ペン先を開いた手帳に走らせていく。
黒魔術や痣、発現と言った言葉が次々に手帳に走っていくのを眺めつつ、少し考えた。
このクルーガーの様子からして、少なくとも俺の黒魔術とやらを肯定的に見てくれているのは間違いない。嫌悪や恐怖は、殆ど無いと思って良いだろう。不信感もこの様子から見るとほぼ無いのは間違いない。
となると、クルーガーからすれば、俺は正しく童話に出てくる様な、不思議いっぱいの魔法使いに見える訳だ。それも、魔法で敵地から抜け出す様な、誤魔化しやトリック無しの本物の魔法使いに。
最早、楽しそうにすら見える顔で一頻り万年筆を走らせた後、クルーガーが顔を上げた。
「……黒魔術を行使する際は、どの様な感覚になるのですか?こう…………何か、特別な感覚は、やはりあるのでしょうか?」
感覚、か。確かに、この痣の力………連中が“黒魔術”と呼んでいる力を行使する際、火で炙られている様な熱を左手に感じたのを覚えている。それも焼き焦がす様な、粗く、容赦ない熱だった。俺が童話の魔法使いに見えているクルーガーからすれば、少々夢の無い話に聞こえるだろう。言うまでもなく、俺の知った事では無いが。
「その、黒魔術を使った時には………熱を、感じる。それも、かなりの熱だ。酷い時は、焼き焦げる様な熱にダガーすらまともに握れなくなる。それ程の、熱を感じるんだ。正直、楽しい感覚じゃない」
「………魔術を行使する、代償でしょうか」
クルーガーが真剣な面持ちで、此方を見据えつつ言う。
代償か。言われてみれば、確かにそうだ。あれだけの超常的な力を使っているのだから、 むしろ代償があるのも納得出来る話ではある。
天に左手を翳す。考えてみれば、熱を感じる刺青の様な痣というのは、焼き印の様でもあった。
「代償、か」
何があるでもなく、そんな言葉を呟く。
不意に紙の音がして眼を向けると、クルーガーが眼を輝かせながら、ひたすらに手帳に万年筆を走らせていた。
「魔術には代償が………熱、熱ですか………熱力を変換………いや、恐らくは熱は二次的なもの……排熱?排熱だとすると…発揮する力は……」
クルーガーが、独り言を呟き続けつつ、頁を捲ってまでひたすらに万年筆を走らせている。
何というか、正直に言って随分と楽しそうに見える。自分からしてみれば、手が焼き焦げるといった代償は、どちらかと言えば不都合な物であり、心踊る様なものではないと思うのだが………どうやら、クルーガーには魔術の際に手を焼き焦がして代償を支払う事が、とても胸踊る様な話に聞こえるらしい。
やはり、頭の良い奴等の考える事は分からん。
「クルーガーさん、時間検査終了しました。防錆も機能試験も異常無しです」
そんな事を考えていると、整備服を着た部下らしき男が、未だに手帳に万年筆を走らせているクルーガーに話し掛けてきた。
「えっ、あぁ、 はい。分かりました、異常無しですね?」
完全に不意を突かれた形で、多少戸惑いながら、それでもクルーガーが丁寧に返す。
「何の整備だ?」
少し話題を変えようと、話を振る。
「はい?あぁ、訓練装置ですよ。ウィスパーの操縦訓練に使うんです。流石に本物のウィスパーで操縦訓練をさせる訳には行きませんからね」
それでも手帳にまだ万年筆を走らせつつ、クルーガーが返す。
考えてみれば、あれだけ高速で空を飛び回る高速機動航空機をいきなり操縦させる訳にも行かないのは当然か。
一機製造するのに幾らかかるのかは知らないが、初めて操縦して五分で粉微塵に破壊されるのは、黒羽の団としても絶対に避けたい筈だ。勿論団員を失う事も。
クルーガーが手帳を仕舞いつつ、何時もの様に、人に好かれる顔で微笑みながら何気無く言う。
「折角です、ミスターブロウズも少し触ってみますか?」
ウィスパー操縦訓練装置から逆さにぶら下がったまま、あの後不用意に訓練に参加した事を後悔し始めていた。
まさか、墜落する様な操作をした途端に座席から身体を固定したベルトと、 そこに繋がっているアームで真上に吊り上げられる仕組みになっているとは思わなかった。
何も、わざわざこんな派手に失敗する仕組みにしなくても良かろうに。わざわざ、失敗した途端に大掛かりな装置で吊り上げられるこの機構、操縦主達には大好評らしい。普通に札とか、そういうのが飛び出る程度の仕組みで充分だと思うのだが。
クルーガーも何故か熱が入っている様子で、随分とまぁ熱心に指導してくれる。話題の一環程度のつもりで提案したのだが、最早、本格試験を受講する学生の様な扱いだ。
本来は、もっと講習やらを受講して知識を詰むものらしいが、クルーガー曰く「習うより慣れろと言うでしょう。感覚を掴むのが何より大事なんです」との事。
「あら、もう整備終わったの?」
アームにぶら下げられたまま、聞き慣れない女性の声に顔を向ける。
逆さに見える世界を見渡していると、女性が何やらクルーガーと話しているのが見えた。
女性と話しながらも、クルーガーがアームを操作して、重厚な音と共にまたもや地面に下ろされる。何度も跳ね上げられてる身としては、そろそろアームとベルトが夢に出そうだ。
「思ったより早く終わったのね、流石クルーガーじゃない」
「整備したのは私じゃなくて整備担当ですよ 、それに只の定期検査と防錆ですから」
漸く大地に下りた辺りで、自分を支えていた革のベルトを幾つも外す。世界の上下が元に戻り、肩を回しながら再びクルーガーに歩み寄った。
「あら?」
クルーガーと話していた女性が、此方に向き直る。キセリア人か。ブロンドの長髪を後ろで纏めているのを見ると、どうやらこの女性もウィスパーの操縦訓練に来たらしい。
「……誰かと思えば、“悪魔の遣い”様じゃないの。訓練装置でも壊しに来たのかしら?」
怪訝な眼で女性が此方を睨み付ける。俺を睨み付けているその左目は、白く濁っていた。
この団員も、きっと俺がガルバンの所有するナッキービルの大庭園で、黒魔術を発揮した事を知っているのだろう。クロヴィスの忠告が、脳裏を過る。
「壊す前に見つかってしまったから、その内な」
弁明した所で今更だろう。取り敢えずそう返すと、皮肉る様な鼻息を鳴らして、纏めた長髪を揺らしつつ、女性はクルーガーに「モチベーションが冷めたわ、またね」と言い残し、悠々と帰っていった。
………忘れかけていたが、本来は今の女性の様な対応が一般的であって、クルーガーの様に親切な対応をしてくれる事が希少なのだ。
「ミスターブロウズ………」
「良いさ、分かってた事だ」
気まずそうに言うクルーガーに、苦笑いで返す。ここまでじゃないにしろ、元々、気遣ってもらう為にこの島に来た訳じゃないのだから。
「……そうですね。それに、いえそれでも、私達一同はミスターブロウズの味方ですので。では、気を取り直して行きましょう!」
そんな言葉と共に、再びクルーガーがウィスパー操縦訓練装置を稼働し始めるのを見て、自分でも分かる程に顔が苦くなるのを感じた。




