044
煙草が欲しかった。
頑丈そうな煉瓦造りの壁に、幾分か錆の浮いた鉄格子。異臭のする汚れた便所に、綻びだらけの布を束ねただけのベッド。
少なくとも、任務を終えたばかりのレイヴンが心休まる様な部屋で無い事は確かだ。
鉄格子の外に置かれた手持ちランタンが、心許ない明かりを四六時中投げかける。昼夜問わず照らすおかげで、どれ程経ったのか分かりゃしない。体内時計である程度は分かるものの、いずれはズレが来るだろう。
黒羽の団の本部、廃鉱山の島と呼んでいたこのカラマック島に、まさか地下牢まであるとは驚いたものだ。正式な独房まで備わっているとは、流石浄化戦争で最後まで帝国軍を苦しめただけの事はある。
まぁそんな驚きも、任務を終えて帰還した途端にレイヴンを含めた戦闘員、数十名にライフルと大型クロスボウを向けられた時程では無かったが。
時折、看守らしき団員が確認に来る。ディロジウムライフルを握り締め、まるで猛獣でも見るかの様な怯えた目で、此方を睨み付けてくる。俺がどう見えているのかは知らないが、恐らく今まで以上に立場は悪くなったらしい。
………まぁ、怯えられてる理由は心当たりが無くも無い。
左手の痣を見やる。型を取ったかの様に明確な、まるで刺青の様な紋様の痣。十中八九、奴等が気にかけているのはこれだろう。
何せ、当人の俺でさえ到底理解出来ない程の超常的な力を、この痣は持っている。それこそ帝国の装甲兵を圧倒出来るほどの力を。
庭園での事を思い出すも、何一つ理解出来る事は無い。どんな高名な学者様にも説明出来る様なもので無い事だけは分かるが。
あの時は非常時故に理由を考えもせずにその力を使っていたが、考えてみれば上手く行く保証など何処にも無かった。
突然この力を得た時の様に、突然この力が消えた事だって有り得る。もし、その力が消える瞬間が銃砲隊の目の前だったら?きっと俺は無事には帰って来れなかっただろう。
それに、そもそも俺はこの力がどういう原理なのか何一つ知らない。あの時は前回と同じ事が起きる仮定で能力を行使していたが、考えてみればそんな保証は何処にも無い。此方の理屈が通じるとは限らないのだ。何せ、元々が理解出来ない理屈の力なのだから。
跳ぶつもりであの力を使った途端、その場で訳も分からず八つ裂きになってしまうかも知れない。そう考えると、如何に自分が危ない橋を渡っていたかが染み渡る。
補食動物が偶然自分の敵を補食した様な、爆発物が偶然敵を吹き飛ばした様な、そんな偶然だったのでは無いか?
いや、それならあのカラス達はどうなる?あのカラス達は確実に自分が召喚した物だ。そして、疑い様の無い程に俺の味方をしてくれた。何より、自分の意思に感応して動いていたのだ。これが味方で無くて何だと言うのか。
頭を掻く。こんな超常的な力を、此方の常識で測る事がそもそもの前提として間違っているのかも知れない。
次もあのカラスを喚べるのか。そしてカラスが味方をしてくれるのか。此方の意思に感応して動いてくれるのか。何一つ保証は無い。
結局の所、リスキーな力には変わり無い。その上、考えてみれば代償の有無さえ分かって居ないのだ。今こそ何も変化は感じられないが、俺が気付かない、感知出来ないだけで途方もない代償を求められるかも知れない。あくまで万が一だが、勿論無いとは言い切れないのも確かだ。
そんな事を考えながら左手の痣を眺めていると、物音に意識を呼び戻される。
相変わらず、ライフルを握り締めた看守が足音と共に現れた。
格子に備え付けられた、差し入れ口から食事が金属のトレイに乗せられて差し出される。
食事と言っても、要するに缶詰だ。何の意図か、ラベルは剥がされていたりそもそも貼られていない缶だったりで、中身は開けてみるまで分からない。
粗末な小さい缶切りとフォークが同じくトレイに置いてある。食べ終わったら、トレイに置いておけば缶は回収されていく。缶切りも同様だ。
尚、当初差し入れ口が開いたので近寄ったら警告と共にライフルを向けられた。完全に猛獣扱いだ。その上、缶切りとフォークも返さなければライフルを向けられる。缶切りで壁でも掘ると思っているのだろうか、警戒にも程があるだろう。
用は済んだ、と言わんばかりに看守が足早に去っていく。早く離れたい事を隠そうともしていなかった、俺がこの隙に壁を掘る事は考えないのだろうか。まぁこの地下牢から逃げた所でどうするのか、という話でもあるが。
仮に俺が航空機を操縦出来ても、レガリスにはもう俺の居場所は無いし、行く当ても無い。どの道、あの物置に閉じ込めた二人も見つかって殺人騒ぎになっているのは間違いない。あの住居には俺の名前が登録されているし、何せ殺したのは帝国軍の暗部の連中だ。見つかれば只では済むまい。
少しばかり気分が重くなったが、まぁ今考えてもしょうがない事だ。どの道、大した措置が取れる訳でも無い。
ラベルの剥がされた缶詰を缶切りを使って開けていく。缶を開けた途端、酢の匂いが鼻についた。一つ目の中身はどうやらザワークラウトらしい。“これがメインじゃないだろうな”と思いながら粗末なフォークで口に掻き込んで行く。奴等が少なくとも商品名を確認してからラベルを剥がしている事を切に願う、後二つ残っている缶詰もザワークラウトだったらと思うと気が滅入るどころじゃない。
これまでは一応メインと副菜が決められている様だったが、一度何かミスがあったのかそれとも無頓着だったのか、三つともトマト缶詰だった事があった。
あれには参った、自分は野菜は好きな方だがトマトだけの缶詰を三つ立て続けに食えと言われると辟易するのも事実だ。その上食事はそれだけ、と言われたら尚更だ。まぁ、囚われの身である以上、文句は言えないのだが。
餓死するよりは立て続けにトマトを食べた方がマシなのは言うまでもない。回収に来た看守に抗議してやろうかとも思ったが、今は囚われている理由が理由だけに複雑な状況だ。下手に干渉して心証を悪くする事も無いだろう。
食べ終えた缶を他所に、もう一つの缶に取り掛かった。一度に三つとも開けた方が良かったか、とも思ったが一つ目がメインでもない限り特に拘る必要も無いか、と思い直す。どの道、缶の中身が変わる訳でもない。
ザワークラウトの缶をトレイに転がし、もう一つの缶に取りかかる。少しばかり先程より大きな缶だったがどうやらこの缶は単に、塩漬けのヤギ肉の様だ。一先ずは、安堵した。何の工夫も無い只の塩漬け肉だろうと、肉があるのは大いに有り難い。
ヤギ肉は魚肉、鳥肉に並ぶ三大食肉としてよく宣伝されるが、魚肉や鳥肉には無い独特の臭みがある、と嫌う者も少なくない。そうは言っても勿論、一般的に普及する程には受け入れられており、レガリスにおいても三大食肉はどれも欠ける事なく円満に流通しているのだが。
勿論、俺としては全く気にならない。風味程度の違いしか感じないし、何一つ抵抗は無い。もしかすれば、ヤギ肉を振る舞う事で多少は此方の気分を害する目論みもあったのかも知れないが、それなら検討外れも良いところだ。此方は何せ、狩猟で仕留めた肉をその場で生のまま食べた事すらある男なのだから。
嗚呼、何と言ったのだったか、三大食肉に掛けた慣用句もあった筈だ。肉の塊を雑に口に入れながら、少しばかり考えて漸く思い出した。“魚肉は乞食の餌、鳥肉は蛮族の糧、獣肉は愚鈍の元”か。要は「文句を言う奴は何を貰っても文句を言う」という意味だ。だから何だ、と言われたらそれまでだが。
塩漬け肉を立て続けに食べた為に少しばかり喉が乾いたが、結構腹が膨れた。もう十分な気がしないでも無いが、どうせ残しても回収されてしまうのならば、残りの缶詰も食べてしまおう。
最後の缶を手に取る。思ったより重い、中身は結構ありそうだ。最後にメインディッシュを引き当てたのかも知れないな、これは。
そんな期待混じりの思いも、蓋を開けた途端に溜め息と共に霧散してしまった。あれだけ重かった缶詰の中身は何と、全部只の豆の水煮だったからだ。何てこった。
こんな事になるのなら、先程の塩漬けヤギ肉を開けた時についででも何でも良いから此方の缶も開けておくべきだった。それなら多少は味も気分も良くなっただろうし、あの塩味にも飽きずに食べられただろうに。
まぁ、悔やんでも仕方ない。今さらどうしようと豆に味は付かないし、どうせ残す選択肢も無かった。あの時開けていれば云々も、先程の自分が“一つ目がメインでも無い限り拘る事も無い”と考えたのだから。
最後の最後に味気ない食事を終え、缶と缶切りとフォークをトレイに乗せて差し入れ口の近くに置いておき、布を束ねただけのベッドに適当に寝転ぶ。
今日の日課が終わった。暫くすれば看守がトレイを回収に来て、それで終わりだ。これ以上は本当にやる事が無い、缶詰を食べる以外には寝るか、考えに耽るか、自己鍛練が精々だ。
まともに人と話す事すら無く、ただただ餌だけを配られる日々。自己鍛練も、鍛練と言うよりも精神的に安定させる意味合いの方が強い。隠密部隊の時に学んだ、捕虜にされた際に長期間拘束されても不安に心が折れない様にする為の技術の一つだ。
考えた所で、進歩が無い事は分かってる。だが、今後の為に俺に出来る事はそれだけだ。
黒羽の団は今後、俺をどうするだろうか。不安要素、危険因子として捉えられてる事は間違いない。もし質疑応答の機会があれば、それで俺の身の振り方次第で俺の命運が決まるのかも知れないが………今更、俺の応答一つで命運を劇的に変えられるとは思えない。助かる機会を潰さない、せいぜい俺が出来るのはそれぐらいだ。
左手の痣を再び眺める。奴等は、あの力をどう思うだろうか。脅威に思われてるのは間違いないが、制御出来ると捉えるだろうか。それとも、爆弾の様に捉えるだろうか。奴等なら、あの力を制御出来た場合の俺を使える利点に気付かない訳が無い。試験的にしろ、俺を生かして様子を見ようという動きは必ずあるだろう。だが、問題はメニシコフ……ヴィタリーだ。
あいつは根っからの軍人だ。そして、軍人は必要なリスクを取る分、不要なリスクは避ける。制御出来るかどうか分からない俺を作戦に組み込む事に、奴は少なからず反対するだろう。そしてリスクは排除すべきだと、進言する可能性も十分にある。最早、これだけの成果を挙げたのだから、今後は既存の戦力で十分にやっていけると。
もう、こいつは十分に働いたと。もう切り捨てるべきだと。そう奴は続けるだろう。
奴はプロだ、それも自らが前線に立ってきたタイプの。プロの考え方はよく知っている、だからこそ、プロなら俺をどう扱うかも予測が付く。こうなっては、俺が切り捨てられずに“今後も価値がある”と進言するのは残り二人の幹部しか居ない。
アキムとクロヴィス。奴等は、軍人のヴィタリー程には実質主義者ではない。助けられる仲間が居れば、助けたい筈だ。老いて走れなくなった猟犬を、暖炉の傍で最後まで飼う様な、そんな連中だ。毛皮にして、新しい猟犬の頭金にする様な真似はしたくない、そういう奴等だ。
机の上で、奴等がヴィタリーを説得すれば、首輪が付くかも知れないが俺は生き延びる。ヴィタリーが奴等を説得すれば、俺は吊るされたハトの様に、感謝されながら殺されるだろう。勿論、此方には何一つ有り難くない話だが。寄りによって今更、供物側の心境になるとは。
結局は、奴等の天秤次第だった。そこまで考えて、出たのはその程度の結論だった。
何にせよ、今は待つ事と耐える事以外に、俺に選択肢は無さそうだ。瞼が重くなり、少しずつ、意識が微睡みに呑み込まれていく。何時間経ったかが分からない、寝る時間なのかどうかすら分からない、おそらく奴等の尋問技術の一つだろう。
時間感覚を失わせて、尋問対象を精神的に疲弊させる。しかし俺は隠密部隊の時に、尋問に耐える訓練と精神を安定させる訓練を受けている。まさか仲間内で使う事になるとは思わなかったが。
そんな皮肉めいた意識も、ゆっくりと零れ落ちる様に微睡みに溶けていった。
血錆びだらけの古びた玉座に、腰掛けていた。
辺りに頭蓋骨や人骨、鳥類らしき骨が隙間無く敷き詰められている。頭蓋骨や歯、人の物らしき顎も見かける辺り、人骨も相当量混ざっているらしい。
塗り潰した様な深い闇夜の中、俺と玉座を照らす様に松明が数本掲げられており、数人の骸骨達がすがり付く様に松明を支えている。
何だ、此処は。
朧気だった意識が、急速に編み上げられていく。視界と意識が冴えていき、靄のかかっていた頭が急速に澄み渡っていく。
夢の中にしては、余りにも確かな意識と記憶。澄んだ視界に、指先一つにまで染み込んだ現実感。余りにも、意識が明確すぎる。眠る前と、何一つとして変わらない程の現実感。
違和感が、あった。
いつも悩まされていた昔の彼女の夢や、弟の夢とはまるで違う、違和感が。
そんな中、左手の痣が不意に光を放ち始める。微かな熱を持ちながら何かに呼応するかの如く、左手の熱が脈打ち始めた。
怪訝な顔をして蒼白い光を放つ左手を掲げていると、松明に照らされた明かりの中に急に巨大な顔が現れる。
その巨大な顔は、梟だった。
塗り潰された闇から顔を出した梟は、その巨体からは信じられないほど静かに明かりの中に踏み込んでくる。全身が明かりに照らされたその梟は足元の骨の欠片を踏み砕きながら、身を乗り出し俺を上から覗き込んだ。
「虚無に馴染んだか」
そんな、老人の様な嗄れ声が嘴から響いてくる。
巨大な梟の挙動一つ一つに、左手の痣が共鳴するかの如く脈動する。そんな左手を掲げ、見つめた後、梟を見据える。
脈打つ左手を尻目に、何一つ無根拠のまま、心から確信する。
これは、ただの夢では無い事を。俺の見ているこの梟は妄想でも空想でも悪夢でも無く、人智を越えた何かだと言う事を。
「血を浴びた英雄が真に讃えられる様になるには、条件がある」
繋がる様に、ほどける様に、記憶が呼び起こされていく。
「一つは死を迎え、本と記憶の中にしか現れなくなった時。本の表紙に名前が刻まれ、像が立てられるだろう」
俺が黒羽の団に入った時から、いや、この革命に関わる事を決意したその夜から。この不気味な梟は、俺の夢に現れていた。
「もう一つは役に立たなくなった時。老いて錆び付くか、歩けもしなくなるか、理由は好きにすると良い。英雄が英雄である以上、必ず畏怖はついて回る」
出来るだけ、考えない様にしてきた。精神的に消耗した末の悪夢だと。これは、自分の疲労や憔悴が呼び寄せたものだと。だが、そうでないなら?これが疲労や憔悴の末の、只の悪夢でないなら?この全てが、俺の妄想ではなく、此処に確かにある物だとしたら?
「英雄を欲する輩は多いが、実際に目の前に英雄が現れた時、殆どの者が怯えるか、牙を剥くかだ。罪無きまま、畏怖故に民に噛み殺された英雄も少なくない」
この夢は、この場所は。今までの夢は、今までの全ては。焼き付けられた、蒼く脈打つこの謎の印は。
「せいぜい仲間の牙に気を付けろデイヴィッド、奴等はお前が錆び付くか本に乗るまで容赦しないぞ」
傾けた顔で梟が覗き込み、痣と同じ蒼白い奇妙な光をその巨大な眼の奥で揺らめかせながら、嗄れた声で淡々と言葉を紡ぐ。
「お前が英雄のつもりなら、だがな」
“こいつ”は、何だ?




