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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 もしかしたら、この瞬間に死ぬかもな。






 そんな下らない考えを脇に追いやってから、深く息を吸って大型のウォーピックを掴む。


 もう一度だ。もう一度で良い。


 ゼレーニナが用意していた大型のウォーピックが、先程より重く感じた。


 血中のマナを何度か励起した影響か、という考えを否定する。


 これだけやってきたんだ、筋肉の疲労と考える方が自然か。


 改めて見ると、このウォーピックも随分と大型だ。これを背負って任務に出るとなると、色々と考えなければならないな。


 まぁ幸いというか何と言うか、大型の武器を背負って敵地に飛び込んでいくのも移動術を使うのも、ラドブレクを背負ってメネルフル修道院に飛び込んだ経験があるから、応用で何とかなるだろう。


 深く、深く息を吸った。


 無理をし過ぎるなというユーリの言葉が脳裏を過るが、無理をしなくてどうする、という言葉も同じく脳裏を過る。


 成功、させなければ。


 まだこの“マナの励起”とやらを成功させたのは、数回試して一度だけだ。


 それも、これだけ落ち着いた環境で邪魔をされないにも関わらず、だ。


 このまま実戦に赴けばどうなるかは、言うまでもない。


 少なくとも、カラマック島のそこかしこでパーティが開かれる事は間違いないだろう。


 だからそれまでには、このマナの励起を。ウォーピックによる、直接打撃のみによる装甲貫通を。


 確実とは言えないまでも、不発の確率が成功の確率を下回る様にしておかなければ。


 疲労と緊張で萎えそうになる自身の精神を叱咤しながら、ウォーピックを肩越しに大きく振りかぶる。


 心配そうな、というよりまず間違いなく俺の事を心配しているであろうユーリの眼差しが、視界の端に写った。


 試してみて初めて分かった事だが、命の危機では無いのに命の危機の様な力を出そうとするのは、想像以上に堪える。


 崖から空の底に落ちると思って眼の前の太い枝を握れ、と言われて本当に身体が浮くほどの力で枝を握る、いや握り潰せる程の力を出せる者がどれほど居るか。


 大半の人間が、精一杯握るだけだろう。何なら幾らかの者は笑ってしまうだろう。


 二つ返事で枝を折らずに枝を握り潰せる程の力を発揮出来る者が、果たしてどれだけ居る事か。


 その1人にならなければならない。勿論、頭では分かっている。


 だが、言うまでもなくそれが出来るなら苦労はしていない。


 頭の中であの強烈な、噎せ返る程の濃密な香が脳髄と脊髄を伝って全身に広がっていく様な感覚。


 香油が肺の中と頭蓋の裏に焼け付く様な、あの感覚が残り香の様に節々から蘇っていく。


 あの時、自分は間違いなく死にかけていた。


 口の中で命の味がする、あの総毛立った時の事を思い出さなければ、あの血潮の全てが沸騰する程の命の奔流を扱えなければ、自律駆動兵の装甲を突き破れない。


 だが、やれるのだろうか。


 今日何度も試したが本当に命が燃え上がる程の、眼の前が瞬く程の力を発揮できたのは正直に言って2回目だけだ。


 それ以外は苦しい事を思い出しながらやたらと力んだだけの様な、ただただ身体の筋肉を疲労させる行為にしかならなかった。


 準備日数も普段の任務より余裕があるとは言え、ブルーミード及びマナの励起の事を考えると正直言って全く足りない。


 ユーリに言わせれば、それこそ数カ月は欲しいそうだ。


 しかし、当然ながらやらなければならない事には変わり無かった。


 あの青い残り香を全身に巡らせながら、益々ウォーピックを握る手に力を込める。


 自分で選んだ道とはいえ、我ながら随分な無茶をしているものだ。


 しかし振りかぶっていたウォーピックに、成功した時の様な力は入らない。


 どれだけ血潮を沸かしてみても装甲を突き破った時の、ウォーピックの柄ですらへし曲げるのではないか、といった焼き付く様な力が手に宿らなかった。


 胸中で悪態を吐く。


 一日一回しか使えない力なら、ゴーレムバンカーを持っていった方が効率的だろう。


 歯を食い縛る。


 もう一回。もう一回だけで良いんだ。


 目の前まで死が迫ってきた事など、一度や二度では無いだろう。


 あのブルーミードの噎せ返る様な香が身体中に駆け巡った時だって、お前は死を覚悟したじゃないか。


 あれだけの覚悟を口にした癖に、決死の勢いでウォーピックを打ち込む事すら出来ないのか。


 不意に、頭蓋の奥で記憶が閃いた。


 青い残り香で呼び起こされた、様々な記憶。


 命を奪いかねない一撃が、頬や首筋を掠めた記憶。


 銃口やクロスボウの照準が突きつけられ、死そのものを鼻先で嗅いだ記憶。


 そうだ。漸く、気が付いた。


 あの香油を脳髄と脊髄に巡らせた様な、青い残り香はあの時、確かに俺の命を燃やし血潮を沸き立たせ、俺の全てを憤怒させている。


 だが、青い残り香はあくまでも門を潜る為でしかなく、ゼレーニナの言葉を借りるならばあくまで炉に火を入れる為の灯火でしかないのだ。


 重要なのは灯火ではなく、灯火によって燃え盛る炉そのもの。


 灯火によって一度こそ燃え上がる事が出来たものの、あくまで灯火は炉へ導く為の道標でしかない。



 ならば。



 あの青い残り香、灯火を炉にするのではなく、死が鼻先まで迫ってきた時の、あの生命の奔流こそ炉とするべきだろう。


 鼻先で死を嗅いだ事は、珍しくない。それこそ空気が張り詰め、息が凍る程の緊迫と刹那の中で、破滅的な死が頬を掠めた事だってある。


 数多の死を躱し、潜り抜け、飛び越え、捻じ伏せた。


 あの血が張り詰める刹那の、記憶。


 噛み締めた奥歯が軋む。


 数多の死と恐怖に覆われた奥で眠る、赤錆の様な記憶。




 あの、礼拝堂で、俺は。




 急にウォーピックの柄が指に噛み付く様に食い込んだ。


 いや、違う。


 指の方が柄に食い込まんばかりに、柄を噛み砕かんばかりに握り締めているのだ。


 深く吸った空気が、肺の中で赤く熱く燃え始める。それこそ、業火と言っても良い程に。


 自分の中で、火花が散っているのが如実に伝わってきた。


 加えて言うなら、それが成功の兆しである事も。


 振り被っていたウォーピックを鎖で勢いを付けた鉄球の様に、装甲板目掛けて腕を持っていかれるのではないか、という勢いで打ち込む。


 想像以上の手応えと想像以上の勢いを帯びつつ、ディロジウム大砲染みた轟音と共に、ウォーピックが装甲板の中央を食い破っていた。


 根元まで食い込むとは行かずとも、ピック部分は明らかに半分近く、むしろそれ以上が装甲板の裏側へと突き出している。


 ピックに突き破られ内側へと捲れ上がった装甲板の端は、とても手持ちの武器で破ったとは思えない程に分厚かった。


 これが自律駆動兵の装甲ならまず間違いなく、内部の駆動機関を損傷させている深さなのは間違いない。


 よし。


 そう、思った瞬間。


 急に地面が傾き、自分以外の全てが脚の欠けた椅子の様に揺らぎ始めた。


 強敵と戦う最中で血を流し過ぎた時の様に、目の前が急に霞み始める。


 土壌に杭を打ち込むが如く、改めて地面を踏み締めて頭と身体を支えた。


「デイヴィッド」


 呟くでも叫ぶでもなく、ユーリが静かに寄ってくる。


 それを手で制そうとしたが、元からユーリは此方を支えようとはしていなかった。


 分かっている。


 本番は間違いなく、支えて貰えないだろう。


 それどころか装甲板を突き破った直後に、壁を駆け上がる羽目になるかも知れない。


 だから、いよいよ助けられる訳には行かなかった。


 肺を痛めた様な、耳障りな咳が出る。


 幾らか嘔吐しそうにもなったが、当然堪えた。


 敵を倒しただけで、その都度吐いていたら話にならないどころじゃない。


 ユーリ曰く繰り返していればその内に馴染むらしいが、圧倒的に時間が足りなかった。


 最初から無茶だとは思っていたが、こんなにもはっきりした無茶だと笑いすら出ない。


 あの偏屈め、無茶させろと言ったら頭から爪先まで文句無しの無茶をさせやがって。


 寝起きで蹴飛ばされたまま全力で走らされた様に早鐘を打つ心臓を、何とか呼吸で宥める様に努めながら両足を地面に打ち込む様にして身体を支える。


 偏屈曰く、ここまでやってもユーリにはまるで及ばないらしい。


 何から何まで上手く行っても良くて7割、下手すれば同じ条件でも5割行くかどうか。


 俺に出来るのは、こんな血潮をそのまま浴びせて相手を火傷させる様な技法を任務までひたすらに鍛錬する事だけ。


 今のままでは敵の前でマナを励起出来るかどうかすら怪しい、少なくとも戦える様にならなければ。


「無理をさせてる手前、こんな事を言うのは烏滸がましいかもしれないが」


 ユーリが悔いている様な声音で続ける。


「本来なら、血が一滴残らず沸き立つ程の力など人々が殆ど一生知る事の無い、体得する事のない力なんだ」


 動悸を抑えるのも兼ねて、息を吸った。


 まぁ、言われてみれば分かりきった話ではある。


 普通の奴はどれだけ憤慨しようと歯を食いしばって相手を血塗れにするか、血塗れになるのが精々だろう。


 体中の血を沸き立たせ、装甲すら打ち破る程に憤慨するなんてまず縁が無い人生と言って良い。


「本来は使うだけで血が燃える、血と魂を燃やして命ごと叩きつける様な物だという事を忘れないでくれ」


「分かってるさ」


 また、少しだけ咳をした。


 幾らか考えた後にそのまま椅子の方に歩いていき、腰掛ける。


 どのみち、今日はこれ以上この鍛錬は出来そうに無かった。


 そんな俺の様子を見て、ユーリがどこか安堵した様に少し息を吐く。


「元々、この血を燃やすというのは全身の血が音を立てて沸き立つ程に憤怒した戦士から始まったといわれているんだ」


 分かりやすく表にこそ出さないものの、俺が今日の鍛錬を無事に終えた事で眼が柔らかくなったユーリがそう言葉を紡いだ。


 憤怒か。


「コールリッジの時のお前みたいにか?」 


 俺の言葉に一瞬間が開いた後、ユーリが咳払いした。


「そうだ。その…………本来、人は憤怒のままに行動するべきではないが、あの時の様に怒りは律すれば矛にもなる。憤怒の業火も律して振るえば、鉄をも鋳溶かす」


 鉄だけではなく装甲板の合金も鋳溶かして欲しいものだな、なんて言葉が浮かんだが流石に口には出さなかった。


 何を今更、と言われたらそれまでではあるが。


「だが命が危うくなる程の憤怒、そしてそれに伴う矛を、憤怒せずに引き出すんだ。まぁミス・ゼレーニナに倣う訳じゃないが、本来は血が沸き立つ程に怒って居なければ使うべき技術じゃないんだ」


 何とも言えない顔で此方を見ながら、静かにユーリが呟く。


 少し頭を掻いた。


 駆動機関の回転数や出力が足りないのに、無理矢理に航空機を離陸させようとする様なものか。


 前にもこんな例えを使った気がするな。気のせいか?


「それでも、俺達みたいな連中は体得した方が良い。死ぬ寸前の選択肢が増えるから」


 そう呟くとユーリがはっきりと同意を示しながら、此方を見据えて頷く。


「あぁ。もし許せない事や許されない事に対峙した時、選択肢が増える。それも、強大な選択肢が。運命を打ち破る程の選択肢が」


 無辜の人々が、身を焼く程の矛を振るえないと言うなら、俺達の様な人間が憤怒に身を焼いてでも矛を振るうべきだ。


 ユーリの双眸は確かにそう語っていた。


 椅子を軋ませながら天井を見上げ、幾らか想いを馳せる。


 憤怒も律すれば矛になる、か。矛として研ぎ澄ます前に、此方が焼き尽くされなければ良いが。


「ユーリ」


 天井を見あげたままそう呼び掛けると、視界の端でユーリが顔を幾らか首を傾げる。


「今更だとは思うが」


 少しの間が空く。


「本当に上手く行くと思うか?」


 期日まで余裕があるとはいえ、本来鍛錬するべき期間に比べれば遥かに時間が足りない。


 その上で、恐らく俺はユーリと同じく自律駆動兵に対する対抗策、新兵器として任務に駆り出される。


 率直に言ってしまえばこの作戦は安い詐欺師が考えた策の様な、何もかも俺が上手く行く前提の話でしかない。


 何を言いたいかはユーリにもはっきり伝わったらしく、ユーリが幾らか気が重そうな調子で口を開いた。


「………率直に言って良いのなら、賭けだろうな」






「それも、分が悪い方の」

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