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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 壁の向こうから、悲鳴が響いてきた。






 腕立て伏せの体勢のまま、不意に顔を上げる。


 が、直ぐに顔を戻して息を吐きながら再び身体を下げた。


 ここバスブルク強制収容所では悲鳴など、鳥の囀りの様な物だ。例えそれが、断末魔であっても。


 あの浄化戦争は今でも、昨日の様に覚えている。


 終戦時、ペラセロトツカの兵士だった自分は幸運にも五体満足のままレガリス、帝国の捕虜となり、数日の勾留の後に強制収容される事となった。


 勿論、わざわざ五体満足と言ったのはそうでない者も少なからず居たからだ。


 そんな者達は、自らの事を不満足ではなく“生きているだけマシ”だと言っていたが。


 そして生きているだけマシ、と言う者が居ると言う事は“そうでない者”が居るからだった。


 浄化戦争の頃は故郷、ペラセロトツカの泥と土、そして戦火で煤けた空気を嘆く者も少なくなかったが、今その泥と土の場所に戻してやると言われたら皆、どれだけの物を差し出すだろうか。


 下手すれば命の次に大事な物すら差し出す者が居るかも知れない。


 それほどまでに自分は、自分達はこの土地と空気に辟易していた。


 この残酷かつ冷酷な帝国、レガリスに囚われて一体どれだけの日が経ったのだろう。


 あの日、ペラセロトツカで引き摺られる様にして捕虜にされた者の中で、生き残っている者はもう多くは無い。


 レガリスに連れて来られた後、まず最初にまともな治療を受けられなかった怪我人と、若くない者の大半が死んだ。


 動かなくなった老人や怪我人を、まるで駆除した犬か野鳥の様に扱っていたあの連中の事は、今でも明確に覚えている。


 強制収容されて以来、随分と過酷な労働が連日続いた。


 ペラセロトツカ軍で過酷な訓練を耐え、帝国の連中と剣で切り結んでいた自分が“過酷に思う”程の労働だ。


 その過酷な労働、慣れない気候に充分とは言えない食事、見えない未来に疲れ果てて次第に仲間は減っていった。


 若く頑強な者であってもテネジア教への改宗課程に耐えられず、もしくは誇りと魂を守る為に自ら命を絶った者も居たが責める事は出来ない。


 過酷な強制労働、それとは無関係の理不尽な暴行、その上信仰心と誇りまで奪われた上で生きていける者はそう多くないだろう。


 そして最早、母国ペラセロトツカに我々を助け出す程の力は残っていない、と思い知った時の惨状は見るに絶えなかった。


 空気の抜けた様に生きる意義を失う者、怨恨を吐き散らす者、必要以上に攻撃的になった結果、看守に叩き潰される者。


 未来を信じて戦った我々にはもう、未来すら無いのか。


 そんな声は暫く耳の奥から離れなかったものだ。


 戦時中からレガリスにとって“好ましくない”人々が様々な言い訳と共に此処に収容され、そしてそのまま理不尽に生涯を終えていったこの強制収容所には、終戦後も様々な人々が収容されてはヤギの臓物でも捨てるかの様に平然と廃棄されていった。


 そんな中、生来ザルファ教を信仰しており終戦までペラセロトツカ軍に居た自分が、何故こんな強制収容所において今の今まで生きて来られたのか。


 勿論幸運もあるだろうが、自分が生きて来られた理由は何よりも希望を捨てていない、の一言に尽きた。


 どれだけ盲信だと言われようとも、非現実的だと言われようとも。


 自分は母国ペラセロトツカがあの時掲げたレガリス及びバラクシアにおける現政権の打倒、そして何よりも時代の変革を信じていた。


 必ず、時代は変わる。必ず、革命は起きる。


 例え一度敗れ倒れようとも必ず、必ず革命は起きる筈だ。


 どれだけの意地汚く見えようとも悪足掻きに見えようとも、自分は諦めない。


 その信念だけを支えに、自分はあの過酷な労働にも充分とも言えない食事にも、遂にはテネジア教への改宗課程にも耐えきった。


 テネジア教については其処らの連中より余程信心深い返答が出来るし、聖書の一説を話す事も出来る。


 だが、決して胸の内までザルファ教への信心、信仰を捨てた事は無い。


 愛国心や信念についても、同様だ。


 あの改宗課程の末、週に一度通わされる事になったあの粗末な礼拝堂についても、敬虔な信者を演じているものの心の底からレガリス、帝国に隷属した事は一度も無かった。


 狭い独房の中で遂に決めていた回数の腕立て伏せを終え、硬い床に崩れ落ちる。


 労働は過酷だったが、傷を負った時や特別な時を除き鍛練は欠かさなかった。


 自分の様に正義や革命の為に戦った訳でもない、体の良い排除と労働力として強制収容された“不穏分子”や“危険分子”の共食いから生き延びる、という意味もあったが鍛えていた真の理由は何よりも、いつか起こる革命に備えての事だ。


 勿論脱走を考えた事は一度や二度じゃないが、実行して失敗するリスクを考えると最後の手段である事、そして脱走が成功すると確証が持てるまで実行に移す訳には行かなかった。


 例え脱出出来たとしても、その後どうすれば良いのか、と言う問題も含めて。


 ペラセロトツカが無条件降伏によって敗れた後、辛うじて抵抗を続けていた抵抗軍も次々に炙り出されては踏み潰されていく等、奴隷法に反対する者や現政権に抗う者、帝国に立ち向かう者にとって旗色が良くない時代は続いた。


 旗がまだあるのなら、だが。


 只でさえ未来の見えない強制収容所において、助けが来る気配は無く希望もまるで無いという正しく悪夢の様な時代が続くにつれ、少しずつ同志達の志や信念も使い古された柱の様に削れていった。


 先が見えない中で目標を持って生きていく、と言うのは経験した事の無い人間が想像する何倍も苦しい。


 少なくとも、夕食の内容が昨日と被らない様に考えている様な連中に想像の付かない苦しみである事は確かだ。


 同じく祖国や同志の為に、革命を諦めていなかった筈の同志が時と共に眼が陰っていき、先月には外部の労働中に事故死した、と聞いた時にはある種の納得にも似た物が、胸の奥から溢れてしまった。


 勿論、同志が自死を選んだとは言わない。

 選んだとは言わないが内心、生きる事を諦めていたのでは無いか、と言われたら自分は否定する自信がなかった。


 自分はこんな時代になっても尚、現政権の打倒と革命を諦めていないが自分の様な人間が、もう多く残っていない事はよく分かっている。


 少なくとも、この時代では諦めた人々より諦めていない自分の方が希少な生き物である事は、疑い様の無い事実だろう。


 それでも悲願や妄執の様に希望を頼りに生きていた所、ある話を聞いた。


 つい先週の事。


 外の情報、それも政治的な情報となるとりわけ入手が難しいこのバスブルク強制収容所において、全くの偶然からある情報が耳に入ったのだ。


 浄化戦争において我等ペラセロトツカ軍に最後まで助力してくれていた謎多き強大な抵抗軍、“黒羽の団”が帝国を脅かしているという。


 終戦に伴い、あれほど強大かつ一時期は“帝国を打倒出来るかも知れない”とさえ言われていた黒羽の団も、終戦を機に大きく力を失い風前の灯火に例えられる程に弱ったと聞いていたが…………何故かここ最近は、まるで悪魔でも乗り移った様に息を吹き返し、帝国に血と暴力によって変革をもたらしているらしい。


 何でも、あれだけ磐石だったレガリス及びバラクシアの奴隷貿易において、貿易に関する緊急総会を開かせたどころか奴隷貿易そのものを衰退させる事に成功しているとか。


 聞いた所によると邪神グロングスか、それ以上におぞましい物を味方に付けたが故の結果らしいが、まぁ構わない。


 邪神グロングスを信じているとは言わないが、少なくとも聖母テネジアよりは余程信仰する価値のある神だろう。


 人を人とも思っていない帝国連中に悪夢を見せてくれるなら、万々歳だ。


 勿論、自分はあくまでも“改宗した敬虔なテネジア教徒”を演じていた為、どれだけ信じがたい話でも看守達やその他の連中に、その話を聞き返す様な真似は出来なかったが。


 その他にも確証こそ取れていないが、最近はこのレガリスにおいても民衆が次々に立ち上がり、帝国に反旗を翻し始めているとの情報も入ってきた。


 帝国の本拠地、バラクシア都市連邦の中心国たるこのレガリスにおいても、だ。


 過度な希望を持つのが愚かな事とは分かっているが、それでも考えずには居られなかった。


 終戦、もとい敗戦以来、元ペラセロトツカ軍の兵士だった自分はこの強制収容所で虜囚の身となり、ザルファ教から敵国の異教徒へと改宗させられ、敵国の為に働き続けるという、正しく“生き恥を晒す”人生だがそれでもまだ、このバラクシアで革命を目指せるかも知れない。革命を助力出来るかも知れない。


 自分にはもうこの諦めない心と兵士だった身体以外、何も残っていないがそれでも革命の際に兵士となれるなら、幾らでもこの身を捧げるつもりだ。


 鍛練の末に寝転んだ体制のまま、独房の天井を見つめる。


 独房は自身の手で掃除させられているものの、手が届かないせいで理由の考えたくない染みが数多くある天井を見つめながら、それでも拳を握った。


 壁越しに響く悲鳴はとうに止んでいたが、夜半にも関わらず今度は鳥の鳴き声の様なものが聞こえてくる。


 呼び掛ける様な、知らしめる様な声だった。


 自分は余り詳しい方では無いから、鳥の種類については断言出来ない。


 だが、凄惨な戦場で数多の日々を過ごしてきた自分には、聞きなれた鳴き声だった。






 確か、あれはカラスの鳴き声だった筈だ。

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