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それは、不気味な程に鮮やかな色をしていた。
もし中身や効能、評判を知らなければ美麗だと思ったかも知れない。
手頃な大きさのガラス瓶に詰められた“蒼の蜂蜜酒”(ブルーミード)は、どういう理屈かは知らないが人為的に着色されていない事が信じられない程に、鮮やかな青色を放っていた。
何なら、その青の眩さは毒々しいと表現してもいいぐらいだ。
青色を警告色に使う動物が居たら、きっとこんな色だろうな。
そんな下らない事を考えていると先程ブルーミードの小瓶を机に置いた、ゼレーニナが咳払いをした。
「以前、実験の一環で製作した物が未開封で残っていて好都合でした。仮に今から材料が仕入れられたとしても、製造と加工含めてそちらの任務までに間に合うかは分かりませんから」
大きな瓶に詰めずに幾つかの瓶に分けて詰めたのは、小分けに実験に使う為だろうか。それとも、ブルーミードとやらの製作失敗を見越してだろうか。
蜂蜜酒に明るい訳では無いが、確か本来の蜂蜜酒は水と蜂蜜をかき混ぜて発酵させる、最古の酒だと聞く。
勿論、こんな不気味な物が蜂蜜酒と全く同じ製造過程を辿っているとは思わないが、今から製造していたら間に合わないというのは事実なんだろう。
「別目的とは言え、僥倖とはあるものですね。まさか今になってヒツギバチの蜜を任務で活用する事になるとは」
「俺も見掛けた事は無いが、そのヒツギバチとやらはそんなに希少なのか?」
俺のそんな言葉に、ゼレーニナが呆れた様に目を細める。
「………ヒツギバチは下層空域、及び下層付近の中層空域にのみ確認される種です。当然ながら、ヒツギバチの蜜も非常に希少な物になる事は理解出来ますね?」
「そうそう見掛ける様なハチじゃないって事か。ヒツギバチが生息してるのは下層空域と下層付近の中層空域、って事だがそれならこのカラマック島には居ないのか?この島も他の島より大分、瘴気に近い筈だろ。それこそ、帝国の連中が探すのを嫌がる程度には」
「…………ヒツギバチが確認される様な環境及び高度は、このカラマック島よりも更に瘴気に近い、言ってしまえば瘴気層間際の浮遊大陸だと思った方が良いでしょう。余程の命知らずならまだしも、現代の調査員ならまず間違いなく防護装備を備える必要がある様な高度です」
目を細めたまま呆れた事を隠す様子もなく、ゼレーニナが溜め息を吐く。
何というか、相変わらず自分の知っている事を知らないなんてどうしようもない奴だ、という考えで生きてるらしい。
それか、俺が知らないだけで瘴気層間際に生息する希少なヒツギバチの生態は、知らない事で恥をかく程の一般常識なのだろう。
どちらかと言うと、後者は少し信じがたいが。
ユーリとしてはどちらの意見だろうか。
そんな事を考えながらユーリの方に視線を投げるも、当の本人は俺達の会話がまるで聞こえていない様に机の上のブルーミードに見入っていた。
そのまま1歩前に出たユーリが、恐る恐ると言わんばかりの慎重な手つきでブルーミードが煌めく小瓶の1つを手に取り、向きを変えたり少し揺らしたりしつつ照明に翳す様な仕草で眺める。
実物は初めて見るらしい。
「実物を見たのは初めてだ」
俺の胸中の言葉を聞き取ったかの様に、ユーリがそんな言葉を溢した。
俺の時とは違い、幾らか感心した様な仕草と共にゼレーニナがユーリに目線を向ける。
「只でさえ希少なヒツギバチの蜜を、特殊な製法で加工した物ですからね。成功例だという事を含めても現代にはそうそう無い代物でしょう」
またもや少しだけ饒舌な色が言葉の節々に滲んだ。
このブルーミードとやらの希少性について話すのは、どうやら楽しいらしい。
「ですが硬化処理したフカクジラの骨と同じく、希少かつ貴重なだけで古代から製法は存在していた筈ですし、また実物が存在した記録も多く残っている筈です。貴方はご存知でしょう?」
そんな言葉と共にゼレーニナがユーリの方を見るも、当のユーリはまるで反応する事なくブルーミードの小瓶を眺めている。
随分と目の前の小瓶に、目を奪われている様だった。
「…………話には聞いていたし、まるで意見を変えるつもりも無いが」
先程のゼレーニナの話にはまるで興味が無かったらしく、ゼレーニナの話がまるで関係無い流れかの様な口振りでユーリが呟く。
随分と大きなユーリの手の中で、小瓶が揺れた。
「随分と、綺麗な色をしているんだな」
「色、ですか?」
全く予想外だった、と言わんばかりにゼレーニナの目線が渋くなる。
どうやらそんな所を注目されるとは、夢にも思ってなかったらしい。
先程丁寧に説明したヒツギバチの特性について、何も分かりやすい反応が無かったのが不満だったのかゼレーニナが幾らか目を細めた。
本当に、不機嫌な表情には事欠かない女だ。
「………ヒツギバチ特有の酵素と特殊な蜂蜜、大型魚類の血液、特に血中のマナが強く作用した結果その様な色合いになると言われています」
ヒツギバチの蜜やその特性、蜂蜜の加工法について大して興味を持たれなかった事について少し考えた様だったが、まぁそれはそれで、と言わんばかりの表情と共にゼレーニナがブルーミードの色合いについて説明する。
緑がかった青色のディロジウムが、血中のマナを抽出、精製して製造される事を考えると、色合いこそ違えど何やらマナと青色に関連性を感じなくも無かった。
「皮肉な物だ。これだけ恐ろしい物が、こんなにも綺麗な色をしているとは」
ユーリにしては珍しく、随分と皮肉った声音で呟きながら小瓶を振ると照明の光を受けて小瓶の中のブルーミードが青く煌めく。
確かに、事情を知らず美しいカクテルだと言われたら、きっとカクテルにしか見えないだろう。
それ程にブルーミードは鮮やかな青色を放っていた。
「悪魔は悪魔の顔をしていない、という言葉はこういう時に使うんだろうな」
感嘆している様にも恐怖している様にも聞こえる言葉と共に、ユーリが小瓶を机に置く。
此方を振り返った所を見るとどうやら、もう充分らしい。
「その口振りだと、このブルーミードとやらはレガリスのみならずリドゴニアにもあったらしいな」
「勿論。言ってしまえば本来、ブルーミードは古来からリドゴニアやペラセロトツカで継承、伝承されてきた文化でもあります。一部でのみ継承される、秘匿された技術ではありましたがね」
「それなら俺も聞いた事がある。古代から存亡を掛けた戦や勝負において、力を何よりも求めた戦士が自らの全てを捧げる覚悟で求めたとか。だが一方で身体と魂が耐えられず、身を滅ぼす事も多かった為に殆どが禁じられていたそうだ」
ゼレーニナとの会話に挟まってきたユーリの声に、幾らか振り向いた。
身を滅ぼす事も多かった、か。
天井を見上げる。
当たらない矢を当てなきゃならない、2人に勝てない奴が3人に勝たなければならない、5日以上掛かるだろう拠点を3日で落とさなければならない。
実際の勝負、そして戦は自分や仲間の命、陣営ひいては国が絡んでくる程に、無理難題を要求される事が増えてくる。
想像以上に理不尽な、一見すると滅茶苦茶な要求が。
まぁ考えてみれば単純な話だ。自分以外、自分以上の人々の為に戦う人間が、勝てる相手とだけ戦い続けるなど、有り得る訳が無かった。
時には自分が勝てない、到底敵わない相手にも挑み、勝たなければならない。
だからこそ戦士は鍛練を続けなければならないし、勝てない敵に勝つ為に戦わなければならない。
そして強大なもの、壮大なものが絡んだ戦においては挑もうとすら思えない相手と戦わなければならない事もあっただろう。
だからこそ、自身の全てを捧げても勝利する為にその“負けられない戦士”は、悪魔の代償などと呼ばれる物を用いてでも力を求めた。
理解出来ない話では無い。そのせいで、多くの戦士が自らを滅ぼした事も含めて。
「いつの時代も、勝てる訳無い相手に勝たなきゃならない奴ってのは、居るんだな」
つい、そんな言葉を溢すとゼレーニナが何を今更、と言わんばかりに小さく鼻を鳴らす。
「浄化戦争を戦い抜いた貴方には、むしろ馴染み深い話かと思いますが。むしろそんな相手に勝ち続けてきたからこそ、今があるのでしょう」
此方も幾らか鼻を鳴らした。
随分とはっきり言ってくれるものだ。まぁ、それこそ今更か。
息を吸い、細長く吐いた。
ずっと話していても仕方無い、いい加減実行するとしよう。
「一応聞いておくが、これを全部飲み干せば良いんだな?」
そう言いながらブルーミードの瓶を手に取ると、横からユーリの「あぁ」と緊張した言う声が聞こえた。
密封されていたせいか、思ったより硬い小瓶の蓋を開ける。
考えてみればゼレーニナはああ言ったものの、これを飲んだら奴の計算違いで俺がこのまま身を滅ぼす可能性もある訳か。
古い、湿った香炉の様な匂いがする。
これに似た匂いを、最近嗅いだ様な気がした。何処で嗅いだ匂いだっただろうか?
下の緩衝材を信じて、生身では助からない高所から飛び降りる様な気分だ。
不意に、ユーリと目が合った。
「自分を見失うなよ」
自分が戦場に出る様な面持ちのユーリが硬い声でそう呟き、それに頷いて返す。
口元に小瓶を持っていった辺りで、ゼレーニナと目が合った。
刹那の間の後、押し掛けてきた来客に上着をコートハンガーへ掛ける事を促す様な、随分と気軽な仕草でゼレーニナが俺に飲む事を促す。
とても、今から俺に身を滅ぼすかどうかの博打をさせる表情には見えなかった。
まぁ良いさ。無茶をする、と言い出したのは俺だ。
ここで負けたら全てが終わりだとしても、この博打で勝たなきゃ話にならない。なら結局は、勝負するしかない。
何度だって、俺はそう考えて勝負してきた。
やるしかないんだ。
少しの覚悟を添えて一息に瓶の中身を飲み干すと、意外にも糸を引く様な事は無くブルーミードはエールか何かの様に、容易く喉を通った。
てっきり、もっと粘度が高い、それこそ水で溶いた蜂蜜の様な物を想像していたが、予想していた様な粘りは全く無い。
その代わり香油を直に飲んだ様な濃密、というより強烈な香にも似た物が少しの間を置いて鼻から脳髄へと、侵すように突き抜けていった。
喉に引っ掛かって咳き込む、のでは無く焚きすぎた香に息が詰まるかの様に咳き込み、口元を抑える。
「デイヴィッド!!」
口元を押さえた俺に思わずユーリが駆け寄るのと、それを片手で丁寧に制止するゼレーニナが視界の隅に見えた。
立ち眩みの様に片膝を床に着くも、身体を廻る強烈な“香”は徐々に動悸を帯びて脳髄から脊髄、全身へと広がり始める。
咳の収まった喉から収まらない動悸が発作の様に、荒い呼吸となって溢れ出した。
目の前の視界が、弾ける様に瞬いているのが分かる。
俺は片膝を着いて座っているだけにも関わらず、全身全霊で激昂しているかの様に脳髄と血潮が沸き立っていた。
いや、激昂しているのではない。
これは奔流だ。死を指先と鼻先で嗅いだ時の、沸き立つ命の奔流だ。
動悸と奔流によって、火球の様に熱せられた息が口元を押さえていた俺の掌に浴びせられる。
口の中に、“命”の味がした。
死が鼻先まで来た時の、命の灯火が風に吹き消されそうになり一層燃え上がった時の、あの味が。
そのまま訳も無く歯を食い縛り、訳も無く拳を握り締め、死の匂いと生命の奔流に骨身を炙られている。
このまま、訳の分からないまま身体中が燃え上がり、脳と血液が指先まで煮えたぎった後に湯気を吐いて力尽きるのだろうか。
そんな考えが頭に過った瞬間、生命の奔流とは別の、赤黒い錆の様な濁流が身体の中心から、脊椎から一気に広がった。
ふざけるな。
お前はこんな所で容易く倒れて良い人間ではない。
あれほどの大罪を犯しておいて、贖罪すら道半ばで倒れるつもりか。
決してお前の罪は許されない。その命を持ってすら。
死に逃げるな。贖罪を放棄するな。
例え贖いに耐えられないとしても、いずれ倒れるとしても、お前は償い続けるんだ。
生きて戦う事を罰として。生きて苦しむ事を贖いとして。
いつか倒される為に、いつか裁かれる為に、お前は生きなければならない。
こんな所で、死ぬなど許される訳が無い。
分かっているさ。
声にならない事は分かっていたがそれでも、口元がそう呟く。
そうして奔流と濁流に暫し炙られている内、何度も呼吸している内に漸く死の匂いが鼻先から離れ、徐々に身体が崩壊を切り抜けたのだという実感が沸き上がってきた。
床に着いた左手の痣が何故か蒼白く発光し、脈動しているのが分かる。
何度も咳き込み、息を吸い、またも咳き込んでから、床に張り付いていた焦点と意識を先程の事、自分の変化、この部屋へと向け、もう一つだけ咳をしてから床が崩れない事を確かめる様な動きで、ゆっくりと立ち上がった。
ユーリが何かを言おうとして言葉にならなかったのか、何も言わず称える様に俺の肩を叩く。
ゼレーニナは腰に手をやった体勢のまま、何故か俺じゃなくユーリの方を見て上機嫌そうに呟いた。
「ほら」
「死ななかったでしょう?」




