026
鎖で繋がれていた。
暗い曇天の中、冷たい雨が全身を打つ。
両方の膝を付かされた体制のまま、顔を上げた。
暗く小さな浮遊大陸の孤島に一人、打ち込まれた鉄骨とそれから伸びる鎖が、俺の両腕を広げる様な形で、何重にも縛り付けている。
目の前では、あの巨大な梟が此方を穴が空くほど見つめていた。
巨大な梟が首を傾げる。
不意に、身の毛がよだつ様なカラスの声が聞こえた。それも一羽二羽では無い、夥しい数だ。
鎖に縛られたまま、どうにか首を動かしてカラスの声の聞こえる方へ視線を巡らせる。
予想通りの、予想以上のカラスの大群に、繋がれたまま呻く。カラスの大群は最早、不定形の巨大な塊の様にさえ見えた。
「凪の時は終わった」
巨大な梟が気味の悪い両眼で此方を見つめたまま、嗄れた声を紡いだ。
「お前は再び血に浸り、大義を胸に空を駆けている」
そんな中、黒い霧の様なカラスの大群が此方に近寄ってきて、個々がはっきりと目に見える様になった。
“ある事”に気付き、壮絶な寒気と戦慄が縛られたままの背筋を駆け抜ける。
「お前のもたらした判断が、鮮血が、街を、国を、全てを揺るがせている」
目玉が、無い。この羽ばたいているカラスの大群、一羽一羽全て、目玉に当たる部分がくり貫かれていた。
空虚な眼窩を携え、気味の悪い声で鳴きながら一心不乱に此方に羽ばたいてくる。
「国をどうする気だデイヴィッド、変えるのか?それとも壊すのか?」
目の無いカラスの一羽が空中で羽ばたきながら、何やら棒状の物を器用に両足で構えた。先端が赤く光っているのが見える。
いや、違う。先端が赤く光っているのは熱のせいだ。目の無いカラスが持っているのは、真っ赤に熱された焼きごてだ。雨を蒸発させているらしく細い煙を引きながら、薄く音を立てている。
雨音の中、何かを、問われた。
冷たい雨が身を打つ中、梟からの言葉は無かったが、その奇妙な大きな眼で重大な選択を問われている事だけは分かった。
その選択が、俺に“何か”をもたらす代わりに、俺の“何か”を削り取る事も。
その眼を睨み返し、小さく頷く。得る覚悟と、失う覚悟があった。それが何かも分からぬまま。
唐突に左手が、鎖に縛られている上からカラス達に押さえられた。少しして“ある事”に考えが行き、雨とは違う水滴が頬を伝う。
直ぐ様抵抗しようとするものの、カラスの癖に恐ろしい程の力で腕は微塵も動かせなかった。
「これからの大いなる運命の全ては、お前に掛かっている」
煙を上げる焼きごてが、手の甲に押し付けられる。肉の焼ける匂いと共に焦げ付く激痛が頭を塗り潰していく。
意識の片隅で、絶叫する俺の声を無視したまま梟が呟くのが聞こえた。
「贈り物だ。好きに使え」
殆ど悲鳴に近い声を上げながらベッドから飛び起きた。
荒い息の合間に、玉の様な汗が額を伝う。今起きた出来事が夢だと理解するまでに、暫くかかった。
呻き声と共に身体を再び横たえ、深い、そして重い溜め息を吐く。畜生、最悪の目覚めだ。
顔の汗を掌で拭いながら、身体を起こす。
何とも酷い夢を見たものだ、自分でも気付かない内に精神的に参ってるのか?
肩を回しながら窓を見れば、日も既に昇っている。どうやら寝過ぎたらしい。
胸中で悪態を付きながら服を着替えた。身体も気もとんでもなく重いが、今日は昨日から決めていた予定がある。
今後の為にも、出来るだけ詳しく、黒羽の団に付いて知る必要があった。装備、資材、資金、理解出来るかどうかは別にして、手の届く事は全て。
本は読まされる前に読め。相手が隠そうとしている本なら、尚更読め。俺が色んな出来事の中で悟った、物事を好転させる信条の1つだった。
その為にも、昨夜聞いたウィスパーとやらの事に付いて聞く必要がある。
昨日、クロヴィスにはクルーガーには質問しない様に言われたが、クルーガーがその事を聞かれたくないのは果たして本当なのか。俺に質問させない為の方便か。
方便ならば敢えて真正面からクルーガーに聞いてやるのも良いが、もし本当にクルーガーが聞かれたく無かった場合、最悪、この団の数少ない味方を失いかねない。
それは、非常に不都合な事になる。
取り敢えずは、クルーガーに直接問い質すのは止めておいた方が無難だろう。方便だと確証が取れるまでは、他所を当たって行こう。
と言っても、黒羽の団に来たばかりの俺がそこまで団内に知り合いが居る訳でも無く。
必然的に質問出来る連中は限られる。技術者としては、クルーガー以外には気味の悪い少女ぐらいしか知り合いは居ない。
クルーガーに聞く以上に気は進まないが、生憎と後者なら多少無礼な形になっても大丈夫だろう。先日、あれだけ無礼を貰ったのだから、切れ端を返した所で文句などあるまい。
あの夢のせいか、疼く気がする左手を揺らす様に振りながら、そんな事を考えた。
重かった気分は、塔を目の前にすると更に重くなった。
相変わらず気の進まない所だ。正に魔女の塔だなと一人胸中で呟きながら、ディロジウム駆動式昇降機の土台に乗り込み稼働レバーを引く。
上に昇っていく景色を見ながら、ふと「グリムにでも話を通した方が良かったか」と思いが過ったが、グリムに呼ばれた俺が前回どんな対応をされたかを思いだし、直ぐにその考えを捨てた。招待されてあの対応なら、招待されずに行った方が早く済む。
轟音と共に最上階に辿り着き、目の前のシャッターに手を伸ばした辺りで静かに手を引いた。
一息着いて、周りを良く見回すと思ったより大きなボタンが、壁に取り付けられているのが直ぐ様目に入る。こんな大きなボタンが見えなかったが故に、俺は苦労して人力でシャッターを開けた訳だ。全く、我ながら間抜けという他無い。
ボタンを強く押し込むと、駆動機関の重苦しい稼働音と共に、シャッターが振動しながら持ち上がっていく。
身を屈めてまだ上昇を続けているシャッターを潜り、部屋に入るなり、辺りに呼び掛ける。
「ゼレーニナ、居るか?居たら返事しろ」
返事しろ、と言っておかないとあいつは返事すらしないからな。先手は打っておくに越した事は無い。
前に居た書斎を目指し、人の部屋だろうと何だろうとどんどん先に進む。前回学んだあいつと付き合うコツの1つは、遠慮をしない事だ。
「何です?」
そんな中、聞き逃しそうな程に素っ気ない声が部屋の向こうから聞こえてくる。
小さく息を吐き、声の方へ向かう。そして扉を潜った辺りでゼレーニナを見つけた。
大きな二本の巻き角と腰まで届く長い銀髪を携えたまま、サイフォンで黙々とコーヒーを淹れている。何故かその細い首には、何やら頑丈そうな防護ゴーグルをかけていた。そして勿論、此方には視線すら向けてこない。
「聞きたい事があるんだが、良いか?」
「内容によります」
サイフォンを見つめながらの、声だけの返事。ここまで想像通りだと逆にやりやすい。
「……クルーガーの作った物について聞きたいんだが」
「私はゼレーニナであって、クルーガーではありませんが」
淡々と言葉が返しながら、当のゼレーニナは加熱用ディロジウムランプの小さな火を見守りながら、僅かにサイフォンを覗き込んでいた。
驚く程此方の話に興味が無いらしい、もしこのまま此方が何も言わずに帰ったとしても、何一つゼレーニナは反応を返さないだろう。全く、喋る石像か何かと話している様な気分だ。
「そのクルーガーに聞きづらい事だから、お前に聞くんだ」
そこまで言って初めて、視線がサイフォンから剥がれ、此方を向いた。
「………………私に、ですか?」
随分と意外だったらしい、此方を向いた顔は怪訝な表情をしている。
「クルーガー以外には、お前ぐらいしか科学者の知り合いが居ないもんでな」
「新しく知り合いを作ってはどうです?」
呆れた様にゼレーニナが言う。どこか疲れを感じながら、それに返す。
「……出来たらとっくにそうしているし、こんな所に来ない。俺がどれだけここの連中に歓迎されてるか知らないのか?」
道を尋ねただけで訓練場に連れて行かれた身としては、今更自分から其処らの奴に話し掛けるのは随分勇気がいるものだ。
「…………面倒ですが、それなら仕方ありませんね」
本当に面倒くさそうに、ゼレーニナが大きな溜め息を吐く。多分だが、本当に面倒なんだろう。こいつはそういう奴だ。前に情報収集がどうとか言っていたし、グリム辺りにでも、俺の評判は聞いているんだろう。
「それで?何が聞きたいんです?」
小さなバルブを捻ってディロジウムランプの火を止め、両手を腰に当てゼレーニナが銀髪を揺らして此方に向き直る。
あぁ、やっと本題だ。先が思いやられる、全く。
「幾つか聞けば直ぐに帰る、安心してくれ」
「御願いしますよ、本当に」
この際細かい棘は無視して、一気に本題を切り出す。
「ハチドリ……じゃない、ウィスパーに付いて詳しく聞かせてほしい。性能でも構造でも何でも良い」
正に不機嫌一色だったゼレーニナの顔が、その言葉を機にきょとんとした不思議そうな顔に変わった。
「ウィスパー…………ですか?」
余りにも意外な表情に、こいつこんな顔も出来たのかと内心思いながらも、言葉を繋いでいく。
「本当に何でも良いんだ、こっちはウィスパーを開発したのがクルーガーって事ぐらいしか知らないんでな」
取り敢えず紡いだそんな言葉に、さっきまでの表情が嘘の様に一瞬にしてゼレーニナの表情が怒りに染まった。
勘弁してくれ、今度は何が気に入らないんだ。
「ウィスパーを開発?あのクルーガーがですか?あぁもう、冗談にしても最悪です、全く」
急に苛立った様子で声を荒げながら、ゼレーニナが其処らを歩き始める。率直に言って、訳が分からない。
「…………差し支え無ければ、どういう事か教えて欲しいんだがな。ウィスパーを開発したのはクルーガーじゃないのか?」
此方のそんな問いにゼレーニナが振り向くなり、鋭い両眼が直ぐ様俺を射抜く。その辺の帝国兵より鋭い眼だ。
「えぇ、ウィスパーを開発したのはクルーガーなんかじゃありません、私です。ウィスパーは、私の、一番の、傑作なんですよ。分かりましたか?開発したのは、クルーガーじゃなく、私です。ここに居る、私」
余りの気迫に、思わず身を引いてしまう。5フィート余り程しかない少女にも関わらず、とてつもない剣幕だ。こいつが斧を持っていたら、負ける事は無いにしろ確実に俺は剣を抜いていただろう。
其処まで言い切ってから、片手で顔を押さえて大きな溜め息を吐くゼレーニナに対し、ゆっくりだがようやく状況が飲み込めてきた。
「つまり、なんだ。ウィスパーを開発したのはクルーガーじゃなく、実際にはお前だって事か?」
「…………そういう事です。全く、とんでもない事を教えられていますね、今はそういう事になってるんですか?」
「“今は”も何も、俺はクロヴィスからそう聞いただけだ。周りがどうか何て知った事じゃない、グリムにでも聞いてくれ」
戸惑いながらもそう返すと「グリム?……あぁ……発明を横取りとはそういう事ですか……」などと呟きながら腰に手を添え、疲れた様子でゼレーニナが俯いた。
どうやら俺がした何気無い質問は、随分と失礼な質問だったらしい。しかし、生憎とその辺りの論争には興味が無い、こっちはこっちの用件を通させて貰おう。
「ウィスパーが誰の発明かは、またの機会にでもしてもらえないか?俺はクロヴィス達が隠そうとしている、ウィスパーの事を詳しく知りたいだけだ。誰の航空機だの、誰の盗作だの、触れ回るつもりは毛頭無い」
そんな俺の言葉にゼレーニナが床に視線を落としたまま、長く息を吐いた。
「……業腹ですが、良いでしょう。私の発明を蔑ろにされても困りますからね」




