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骨は唄う、と聞いてどれだけの人間が信じるだろうか。
いつからこんな人生になってしまったのか、どこからこんなにも道を誤ってしまったのか。最早、思い出せなかった。
思い出せる事は多くない。同様に、私から言える事も多くは無い。
だが、これだけは言える。
私は他の道を選ぶ事も出来た。違う道、違う結末を選ぶ事が出来た。選ぶ事が、出来た筈なのだ。
骨と虚無に囚われる前、私は少しばかり裕福な家庭に生まれ育った。
上流階級からすれば小金持ち程度だが、それでも私が居た中流階級では上澄みだったし、労働階級からすれば羨む様な生活と人生を送っていた事は、間違いない。
そして、何処からか唄を聞いた。あの、祈る様な嘆く様な、たなびく様な唄を。
いや聞いたのかも定かでは無い。もしかすると骨ではなく、私が唄っていたのかも知れない。
どんな経緯にしろ、私は気が付けばひたすらに木材や石材を削り、塗料で奇妙な紋様を描く日々を送っていた。
豊かで満ちていた筈の人生に、自身の選択で背を向けて。
あの時。
壮大な坂道を降り始める時の様に、私は引き返す事が出来た。絶対に、その坂道を下る以外の道があった。
砂が転がり始める前に、坂が登れなくなる前に、私は引き返すべきだったのだ。
しかしあの時、私は追うべきでない物を追い、行くべきでは無い道へ行き、聞くべきではない唄に聞き入り、他の道や人生では到底触れられない物に触れ、酔いしれた。
“それ”が到底触れられない物ではなく、“触れるべきではない”物だと、気付かぬまま。
私は、頭の中に唄が聞こえているのか頭の中で自身が唄っているのかも分からないまま、ひたすらに彫刻を作り続けた。
ある日、骨に刻み付けると他の物より唄が幾らか大きく聞こえる事に気付いてからは、その誤った坂道は更に傾いていく。
そして彫刻を終えるまで寝食の全てを忘れ、指の肉が裂ける怪我を負っても滴る血を止めるより、骨に紋様を刻み付ける事を優先する様になった頃。
私は遂に白昼夢の中で、あの印に出会った。
印と言っても殆どに靄が掛かっており、明確に紋様が把握出来た訳ではない。
だが明確な形は見えずとも一目見ただけで、十分だった。
それからの日々は明確に覚えている。
印を理解しようと、何度も踠いた。印に触れられないかと、何度も描いた。
しかし幾ら跳び跳ねても天には届かない様に、幾度描こうとも刻もうとも印に近付く気配が全く無い。
どう印を描いても、何かが間違っていると頭の中で声がした。
だが、印の正しい姿が分からない。刻めば刻む程に、間違っている気がする。
それでも正しい姿を探る様に印を描き続け、正しい姿が見える事を祈りながら印を刻み続けた。
印が見える様にならないかと、今までより更に緻密かつ詳細な彫刻を、時折骨へと彫刻しつつ。
直接指や腕に刻めば理解が深まるのではないか、と思う事さえあった。
道を歩んでいる筈なのに、何一つ前に進まないままの様な日々。
その頃には、私はとうに境目を踏み越えてしまっていた。少なくとも、そう思っていた。
塗料に血を練り込む程度の事なら、まるで厭わなくなっていたあの日。
不意に、刻んでいた骨に小さな亀裂が走り、欠けた。
どう考えてもその部分に亀裂が入るとは思えなかったのだが、仔細は重要ではない。
問題は、私がその骨の亀裂と欠けた彫刻によって唐突にあの印の事を理解してしまった事だ。
年数を忘れる程に没頭していた今までの全ては、この為にあったのだと理解すると同時に自分がどれだけ選択を誤り続けたのかが、脳髄に焼き付けられる様にして理解出来た。
この印を理解した今なら分かる。“これ”を理解し、正しい形で刻み付ける事は、魂の全てを捧げる事を意味する。
未来永劫、虚無に全てを囚われる事を。虚無と繋がり続ける事を。
私は、今まで自身を正気に保ち虚無に飲み込まれない様、堕ちてしまわない様に自身を吊り下げていた鋼の命綱を、何とか断ち切れないかと日々削り取っては苦心してきたのだ。
私を私たらしめている物を打ち砕けないかと、寝食を忘れて私は努力を重ねていたのだ。
何と、おぞましい誤りだろうか。
遂に私は探し求めていた“道”こと、正しい印の姿を見出だしてしまった。
今まで描いていた印と僅かにしか違わない、知らぬ人間からすれば見分けが付かない程の些細な差。
だが妄執の果てに見出だした、正しい姿の印は今まで探し求めていた事を後悔する程に、おぞましい“道”だった。
だが、もう逃れられない。どれだけその道から離れようとしても、私はこの道以外を進む事も、立ち止まる事も出来ないのだ。
最早、魂を手繰られるこの虚無からは、どうしても離れられないのだ。
明確に“道”が見えてしまった今、それが何れ程恐ろしく冷たい道であろうと、私はもう道を進まずには居られなかった。
手が震える。
“これ”を刻めば、私は絶対に後悔するだろう。絶対に、死より恐ろしい目に合うだろう。
だが、私はもう進まずには居られない。
手の震えは、鳥類の骨を手に取ると直ぐ様落ち着いた。
まるで、何かが削って刻む事を命じているかの様に。
この彫刻が完成したら、私の魂はこの彫刻と印の奥にある虚無に奪い尽くされるだろう。
そしてこの骨の彫刻は周囲の魂を吸い、奇妙な鳴き声で唄い、私の様に道を誤った者を引き寄せて魂を捧げる様に、唆すのだろう。
骨を握り締めると、動悸が荒くなる。しかし手だけは別の何かに繋がっているかの如く、震えなかった。
私の恐怖も、後悔も、因果も、全て私から奪われていく。
全てを奪われた私の魂は虚無に囚われ、私から奪った全てが虚無を廻って脈動し、枝葉となって薪となるのだ。
そんな思いと共に、私は鳥類の骨を削り始めた。




