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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 眠れなかった。





 眼を閉じる度に瞼の裏にあの不気味な双眸が、あの蒼白い双眸が甦る様な気がしてならない。


 寝床に居たが余りにも寝付けず、しまいには1人で出歩く事にしていた。


 流石に森に入るつもりこそないが夜中の道を、何をするでもなく歩く。


 今不審だと呼び掛けられたら、弁明は難しいだろうな。


 そんな、自嘲混じりの想いが胸の奥を掠める。


 長い冬が漸く収まり、春の兆しが此処彼処でちらついているとは言え、夜道はまだまだ冷え込んでいた。


 考えても、答えが出ない事は分かっている。


 あの不気味な巨大フクロウが、少し考えた程度で解ける様な問いを俺に投げてくる訳が無かった。


 謎かけに興じる訳では無いが、一理あるのは否定しようが無い。


 この革命は、本当に帝国及びレガリスを、ひいてはバラクシアを変えるのだろうか。


 変える事に意味がある。それはそれで良いだろう。


 だが、その変えた先は本当に良い未来なのか?


 国を変えようとする余り国中で革命の炎が上がった結果、国自体が燃え尽きてしまった話は歴史を紐解けば幾らでも見つけられる。


 そして、革命を志す者は皆が思うだろう。


 “自分達は違う、自分達こそ真に国を救う革命家なのだ”と。


 だが少し考えれば分かる事だ。国を焼き尽くしてしまった、かつての革命家達も同じ言葉を胸に革命へと突き進んでいたに違いない。


 ならば今手に掛けている、この走り出した革命の炎が、本当に国を良い方向に変えるという確信は何処にあるのだろうか?


 国を焼き尽くしたかつての革命家、そして革命軍達が同じ言葉と志の元に戦っていたと言うのなら。


 俺達が今、手にしている革命の炉が国中を焼き尽くさないという保証は、どこにあるのだろうか?


 奴は言った。結果でしか、人々は語れないと。


 あの戦争においても、そうだ。


 俺はあの礼拝堂において赦されざる罪を犯し、その末に国から黄金の椅子を約束された。


 間違いなく、どんな贖罪も生ぬるい様なあの罪深い所業を、国は勝利と呼んだのだ。


 不意に不必要な感情が溢れだし、歯を食い縛った。


 人々は必要ならば、自分達に利があるならば、あれ程の事でさえ褒め称える。俺の様な人間にさえ、一世代では食い尽くせない程の栄誉と財宝と権力を与える。


 あれが輝かしい英雄の所業だと言うのなら。


 英雄を称える者など、1人として生きていて良い筈が無い。


 荒い息と共に感情を無理に切り替え、意識的にあの夢へと思考の矛先を向けた。


 あの、修道院での虐殺。恩寵たる信仰と宿業たる因果の衝突。


 聖なる力と邪悪な力をどう区別するつもりなのか、と奴は言っていたが、逆に言えば単なる力に聖も邪も無いという事ではないだろうか。


 冷たい空気を肺に詰めるが如く、息を吸う。


 そうだ。


 メネルフル修道院で戦った恩寵者も、類い希な信仰の末に超常的とも言える能力を得ていた。


 だが、それらを厳密に切り分けて考えれば盲目と引き換えに得た、異常な察知能力、視界と視力以外で幅広く周囲を“視る”能力、体格差を圧倒する怪力、戦闘力、そして人の内面を看破する能力だ。


 仮にグロングスたる俺が、同じ事をしたら果たして人々の眼にはどう映るか。


 まず間違いなく、数十年は子供を寝かし付けるのに使われる程の恐ろしい悪魔として、語り継がれる事だろう。


 逆に俺が任務で使っている超常的な力を、修道院の信心深い敬虔な教徒が発揮したらどうなるか。


 祈りがもたらす恩寵として、敬虔な信仰の末に為せる奇跡として、さぞ大々的に神々しく掲げられる事だろう。


 力とは刃であり、騎士が握れば誇らしく、野盗が握れば穢らわしい。


 人々は、聖邪も善悪も無い刃に値札と名札を付けているに過ぎないのだ。


 白いのか黒いのかも分からない刃を、薄明なのか落陽なのかも分からない戦いで振りかざす俺達に、出来る事は一つしかない。


 例え、戦いの果てにどんな結末を迎えようとも、どんな末路を辿ろうとも。


 どんな未来が待っていようとも剣と斧を握り締め、自身の全てを掛けて戦い続けるしかないのだ。


 立ち止まる事も迷う事も、今までの全てを踏みにじり、無に帰す行為だ。


 誰が何と言おうとも誰から何を言われようとも俺はあの時、黄金の椅子ではなく血塗れの剣を取ったのだから。


 俺は、最期の瞬間まで歯を食い縛って戦わなくてはならない。


 積み重ねてきた犠牲の為にも。決して償えない、赦されない罪の為にも。


 生死を分ける刹那に、二度と躊躇わない為にも俺は。


 上着の懐から、皺の寄った煙草の紙箱を取り出す。


 アマンダの一件を、完全に割り切らなければならないんだ。


 この団に入って以来、全てを贖罪に捧げてきたと思っていた俺が、真に全てを贖罪に捧げる為に。


 指に馴染んだ動きで煙草の紙箱を破り、煙草を1本取り出し咥えると、予め団員に言い付けて用意させていた安物のオイルライターを取り出す。


 硬い音と共にフリントを数回擦ると、小さな淡い火が付いた。


 そして、咥えた煙草にライターの淡い火を近付けようとすると喉の奥が張り付いた様に、塗り固めた様に動かない。


 吸い口を吸いながらライターの火を灯すだけで、最期の境目は容易く途切れる筈だった。


 なのに喉の奥は塞いだ様に吸い込む事を拒み、ライターを握り締めた手は錆び付いた様に灯す事を拒む。


 気温以外の理由でも、身体が芯まで冷えきっている様な気がした。


 拒んでいる。


 俺は、この段に到っても尚、レガリスに居た頃の俺を、デイヴィッド・ブロウズを忘れられない。


 こうして煙草を吸おうとして初めて、自分自身が何か縋る理由を、この煙草を吸わない理由を、吸わずに済む理由を何処かで探している事に気付いた。


 俺は、まだ自分が惜しいのか。以前の俺のままで居られる事を、何処かで望んでいるのか。


 レガリスに居た頃の欠片を、捨てられないのか。


 大罪を犯し、弟のアルフレッドを亡くし、帝国軍を抜け、黒羽の団に入り、ウルグスから奇妙な力と痣を焼き付けられ、様々な物を失った今になっても尚、俺は自分から何かを捨てられないのか。


 オイルライターの蓋が俺の指で閉められ、淡い火が直ぐ様消える。


 そのまま何を考えるでもなく、ライターを仕舞い煙草を紙箱に戻した。


 皺が寄った煙草の紙箱を握っている手に、力が入る。


 煙草の紙箱を見つめていると、空気が冷え込んでいるにも関わらず、左手に微かな熱を感じた。


 そして、聞こえる羽音。


 何が起きるのかは、もう分かっている。


 多少の重みと共に俺の肩に、野生のシマワタリガラスが留まるも、目線さえ向けなかった。


 隣のカラスが手元を覗き込んでくる。


 そのまま暫く紙箱を見つめた後、何かを促す様に肩へ留まったままのカラスが鳴いた。


「分かってる」


 煙草の紙箱を手にしたまま、口から声が溢れる。


 再び、カラスが鳴いた。


「分かってるさ」






「ブロウズ?」


 そんな、ゼレーニナの声で我に返った。


 微かにコーヒーの匂いがする。煙草の匂いではなく。


「どうした?」


 そんな俺の言葉に、目の前のゼレーニナが分かりやすく怪訝な顔をする。


 少しして、俺は今“魔女の塔”に居る事を思い出した。


 ああ、とゼレーニナの雰囲気に胸中で納得する。


 今日はスパンデュール及び、ラスティ展開・格納機構の改良型について、完成品の試験という名目で呼び出されていたんだったか。


 糸がほどける様に、編み上がっていく様に、数十分程の記憶が頭に甦っていく。


 自身の左腕に視線を向けた。


 こうして今も左手に装着している革製のガントレット、前腕部の装甲も兼ねた頑強かつ軽量の特殊な装備。


 この改良型の装備、ゼレーニナの自信作は、前腕部の外側に軽量装甲を集中させ、引き換えに前腕の内側に武装、全自動小型クロスボウたるスパンデュールと、特殊フルタングダガー“ラスティ”の展開・格納機構を、完全に一つのユニットとして一体化させた新装備だった。


 以前は別々のユニットとしてガントレットに組み合わせる形で装着していたが、前回の任務での破損を切っ掛けにユニットの全体的な構造と構成を見直し、装備として著しい合理化と軽量化に加えて頑強性と武装としての威力を一切落とす事無く、レイヴンの個人兵装として大幅に能力を向上させている。


 革製のグローブを着けた左手を特定の手順と挙動で動かし、そのグローブ内部に仕込まれたワイヤーでガントレットの機構を操作すると、即座にラスティのグリップが逆手で掴み取れる様に素早く飛び出した。


 それを逆手で掴み取り、フルタングダガーのラスティの刀身を一通り眺めてから、同じくグローブのワイヤー操作で素早く機構の中へと格納する。


 ラスティ格納機構と一体化している、改良型スパンデュールを適当な本棚に向けてグローブを操作した。


 即座に所謂クロスボウの弓部分、リムが本体から展開され正しく小型のクロスボウとして、素早く弦が張られる。


 室内にある、大型機械に対して狙いを定めグローブを操作すると、微かな空を切る音と共にボルトの射出機構が作動した。


 勿論、新規格の小型ボルトは装填されていないのでゼレーニナの大型機械に対して、ボルトが射出される事は無い。


 再びグローブでワイヤーを操作すると、展開されていたスパンデュールのリムが静かに畳まれる形で格納される。


 以前の速射に近い射出方に加えて、先程のリムを展開してから精密に射出する等、今回のユニット及びワイヤー操作には幾つか新機軸が組み込まれており、ゼレーニナ曰くこの機構に寄って対応出来る状況が更に広がったとの事だった。


 最も、そのゼレーニナは俺が仮想とは言え大型機械に狙いを定めたせいで、何とも言えない眼をしているが。


「特に、問題は無い。ただし、前も言っていたこの………新規格のボルトだけ心配だな」


「心配?」


 怪訝なままのゼレーニナに、淡々と説明する。


「以前と違う規格のボルトを使う訳だろう、他のレイヴンとボルトの共有が出来ないのは正直に言って、作戦の可塑性………幅を狭める様な気がしてな」


 そんな俺の声にゼレーニナの大きな目が、幾らか細くなる。


 そして手元のコーヒーをマイペースに一口飲んだ後、口を開いた。


「貴方は元々単独作戦、レイヴンを連れていくにしても1人が殆どの筈です。ワーディーボンディッツ地区での任務、コールリッジ暗殺の際には数人のレイヴンと任務に赴いた様ですが、それは貴方も分かっている通り普段から見れば、特例の筈です。共通規格から外れようとも、貴方専用の装備として能力を向上させる方が理に適っている様に思いますが?」


 そんなゼレーニナの言葉に対して何か反論しようとしたが、考えれば考える程に改めて俺が指摘する程の反論では無い様な気がする。


 言われてみればゼレーニナが指摘する通り、俺がボルトを共有する状況などかなり限定的だろうし、俺の任務の性質上から言って単独任務の方が機会は多いだろう。


 ならば、尚更ゼレーニナが言う通り新規格の軽量小型ボルトの方が都合が良い事になる。


 威力も落ちないなら、尚更だ。


「まぁ………それもそうだな、確かにお前の言う通りだ」


 理は向こうにある。こればかりは、ゼレーニナが正しいだろう。


 ガントレットと一体化ユニットを眺めながら言葉を投げると、視界の端でゼレーニナが妙な顔をする。


 そんな挙動に不意を突かれて目線を向けると、視線がはっきりと交差した。


 相手の顔は、怪訝ではなく不思議そうな顔へと変わっている。


 手元のカップをソーサーに置いたまま、ゼレーニナが口を開いた。


「どうかしましたか?いつもより、何かに気を取られている様な印象を受けますが」


 苦笑に近い物が口許に浮かぶ。


 これはまた、随分とはっきり言ってくれるものだ。


 だが今回に限ってはこいつの指摘は正しい。


 ライター片手に煙草を咥える所まで行ったのに吸えなかったあの時から、自ら迷いを捨てる事が出来なかったあの日から、どうにも焼き焦げの様な物が何処かに残っていた。


「いや…………何でもない」


 何を考えるでもなく、口がそう呟く。


「気にしないでくれ」


 そんな時、右目の違和感が見ている光景を修復した絵画の様に塗り替えた。


 いや、俺の認識が揺らいだ、と言うべきか。


 自身でも分かる程に、幾らか表情が険しくなった。加えて言うなら、目元の辺りが。


 反射的に、何を言うでもなく右目を押さえる。


 改めて意識すればする程に違和感は無視出来なくなっていく、考えたくは無いが前にゼレーニナの言っていた通り、俺は戻れない道を進んでいるのだろう。


 そこまで考えて不意に、ある言葉が脳裏に浮かんだ。


 そうだ。もう俺は、充分に様々な物を失っているのではないか。


 現に俺は今、何を支払っているのか分からない重い代償と引き換えに、超常的な力を使い帝国軍を脅かしている。


 俺はもうこれ以上、自分から捨てる必要は無いのでは無いか。むしろ、俺はこれ以上失ってはいけないのではないか。


 そんな考えが浮かんだ。


 もう充分に失ってきたのだから、改めて何かを捨てなくても良いのでは無いか。


 そんな中、不意に目の前のゼレーニナと目が合った。


 右目から見るゼレーニナは精巧な騙し絵の様な、無視できない違和感を漂わせていたがそれでも、俺の方を不思議そうに見ている。


 過去の言葉が、甦った。


 そうだ。


 彼女は俺のこの奇妙な痣にも超常的な力にも、そして人として許されない領域にさえ踏み込んでいく事に対しても、“覚悟した上で踏み込むのなら付き添いましょう”と言った。


 ゼレーニナ自身も、俺が怪物になる事に関して背中を押した意味と、責任を背負うと。


 選択したのだ。


 重荷を背負わされたのではなく、失ったのではなく。受け入れたのでもなく、重荷を背負う事を自ら選んだのだ。


 自身の判断による、自身の選択によって。


 背負わされる事と背負う事がまるで違う様に、失う事と捨てる事はまるで違う。


 俺は様々な失い、失う事を幾つも受け入れてきた。


 だが、明確に自分の意思で捨てた事があっただろうか。


 最期の瞬間に躊躇しない覚悟は、自身の決断と選択によって培われる。


 その“捨てる事を選択する”決断こそが、俺がすべき事だったのではないか。


 不意に、目が覚めた気がした。いや、事実覚めたのかも知れない。


 目元から手を離し、右目の違和感も構わずに口を開いた。


「ゼレーニナ」


 椅子に座ったままのゼレーニナが、仕草と目線だけで先を促す。


 そんな相手を見返しつつ、ゆっくりと言葉を続けた。


「煙草を吸わせてくれ」





 正直に言って、印象から嫌煙家だと思っていたのだが意外にもゼレーニナは嫌煙家では無いらしく、吸うのは全然構わないとの事だった。


 むしろ此方が気にして、こうしてバルコニーに出ているのだから何とも言えない気分だ。


 当然ながらガントレット及び装備を外して“問題なし”として箱に納め、バルコニーに出てから静かに紙箱から煙草を取り出した。


 指に染み付いた動きで煙草を咥え、取り出したディロジウム式の安物オイルライターのフリントを擦る。


 少しだけ、爽やかな風が吹いた。


 もう数回フリントを擦る。


 そのライターのオイルが丁度切れたのだと、理解するまでに少し時間が掛かった。


「クソ、よりにもよって今かよ」


 俺は確かに悪運以外は酷い物だという自覚はあるが、それにしてもここまでとは。


 廃材の再利用みたいな代物だが、一応手持ちの蓋付き灰皿さえ用意していたと言うのに。


 あの時は思わなかったが、良く見ればライターのフリント含め、ライター自体の質も随分と酷い。


 これではディロジウムオイルを足した所で、余り期待出来ないだろう。


 長い溜め息を吐いた。


 折角オイルなら直ぐ調達出来そうな奴がすぐ傍に居ると言うのに。


 この手の事は経験上、思い立った時に片付けておかなければ後々、更に面倒になるからこれを機に済ませておきたかったのだが。


 と、そこまで考えた辺りで不意にバルコニーから室内のゼレーニナの方へと振り返った。


 そうだ。


「お前ライターか何か、点火装置みたいな物って作れないか?」


 室内で本を手にしていたゼレーニナが、分かりやすく嫌な顔をする。


「ライター?手元のそれではいけないのですか?」 


「団員に用意させたんだがその、随分と酷い安物でな。もしお前が持ってたら、貸して欲しいんだが」


 考えたくないが、これにオイルを入れて手か指でも吹っ飛んだらたまったものではない。


「その手の、雑貨屋紛いの仕事はクルーガーの担当ですよ。大体ライターなんて」


 そこまで言った辺りでゼレーニナが何か思い当たった様に、口を噤んだ。


 そんなゼレーニナの様子に、僅かに眼を細める。


 そして口を噤んだかと思えば席を立ち、指を立てて“少し待っていろ”と言った仕草をした後、静かに部屋を出ていった。


 数分後。


 部屋に戻ってきたゼレーニナが、何を言うでもなく此方に何かを放り、こいつが物を放ってきた事に幾らか驚きながらもそれを受け取る。


 円筒状の、オイルライターだった。


「燃焼比率と効率実験の副産物ですが、充分に使えるでしょう。日常的な使用にも問題ない筈です」


 腰に手をやりながら、少し鼻を鳴らすゼレーニナに意外な物を感じつつ仕草で礼を言ってから、再びバルコニーに向かう。


 バルコニーで爽やかな風を浴びながら煙草を咥え、静かにオイルライターのフリントを擦ると、一度でライターに火が点いた。


 そして。


 以前は塗り固めた様に動かなかったのが嘘の様に、自然な動きで咥えていた煙草に火を灯す。


 まるで前々から、今日煙草を吸う事を決めていたかの様に、滑らかな動きだった。


 好みの味では無かったがそれを別にしても、久々の紫煙は随分な感慨を伴って喉を弄ぶが如く、燻していく。


 煙草を吸うのは、いつ以来だろうか。


 喉を燻していく紫煙が、頭の奥から様々な過去の記憶を想起させていく。


 アマンダの事は最初に浮かんだものの、意外にもその記憶は直ぐに、紫煙に霞む様に消えていき。


 それよりも重く、明確に頭を過っていくのは隠密部隊での事だった。


 嗅覚と結び付いた紫煙が、戦争の過去を手繰り寄せていく様に記憶が甦っていく。


 浄化戦争では、煙草を吸わない兵士の方が珍しかった。


 適当な連中に呼び掛ければ、必ず誰かが火を持っていたものだ。


 バルコニーの欄干に肘掛けたまま、暫し何をするでもなく時間を掛けて煙草を吹かした。


 手持ちの灰皿に灰を落とす。


 無辜の人々もそうでない者も、死を覚悟する様な強敵もそうでない兵士も、数えきれない程に殺してきた。


 あの頃と同じ剣を俺は今、逆の相手に振るっている。


 いや、あの時には無かった力もか。


 左手の明瞭な痣に視線を向ける。あの蒼白い光こそ出ていないが、少しでも意識を向ければこの痣は直ぐにでも、超常的な力を発揮する筈だ。


 俺は様々な物を失ってきたし、これからも更に失うだろう。


 おそらくは、常人ならば絶対に払う事が無い恐ろしい代償も含めて。


 それでも俺は、この道を選んだ。


 贖罪の為に様々な物を失い、戦い続けるこの道を。


 蓋付き灰皿で煙草の火を揉み消し、吸殻を灰皿の中に押し込む。


 過ぎて見ればこんなものか、と言う思いが胸の奥から真砂の様に零れ落ちていった。


 煙草をたった1本吸っただけなのに、随分と身軽になった気がする。


 これで最期の何かを失ったのか。いや違う、捨てたのか。


 勿論、何一つ赦された訳では無い。失った物が軽くなった訳でも、これからの戦いが易しくなった訳でもない。


 この戦いが正しい保証にすらならないだろう。


 それでも以前より、幾らか身軽に戦う事は出来る。


 少なくとも、捨てきれなかった物によって躊躇している内に殺されるよりは、大分マシな筈だ。


 そんな事を思いながらふと何気無くライターを見ると、オイルライターの側面には緻密なカラスの彫刻が入っていた。


 いつの間にか傍にまで歩いてきていたゼレーニナが、そんな様子を隣から覗き込んで来る。


「機能には問題無さそうですね。元々忘れかけていた代物ですし、もう代替品もありますのでそのまま処分しておいてください」


 そう言ったきり、俺の返事を待つ素振りも無くゼレーニナがバルコニーから部屋の奥へと戻っていくのを見て、少し苦笑してからもう1本煙草を取り出した。


 食えない女だ。そんな感想と共にもう1本咥えた煙草に火を点ける。


 何はともあれ、これで最期の瞬間に迷う様な心残りも減った。


 どんな戦いが待っているのかは分からないが、少なくとも以前のまま死ぬよりは良い方向に進んだのだから、喜ぶべきだろう。


 紫煙に混じってあの蒼白い不気味な双眸が、脳裏に浮かぶ。


 俺達が進もうとしている先が薄明なのか、落陽なのかは未だに分からない。分かるとも思えない。


 加えて言うならこの革命の辿り着く先が薄明にしろ落陽にしろ、俺に何か明るい物が待っているとも思えなかった。


 だがそれでも、思い切り戦い抜く事は出来る。


 全身全霊で夜空を跳び、敵を打ち倒す事は出来る。


 戦争で赦されざる罪を背負い、全てを失った末に反旗を翻し、血と鉄によってレガリスの至る所で街を脅かし、街中から怪物として畏れられている俺に出来る事は、それだけだ。


 長い息と共に、紫煙を燻らせる。


 だからこそ俺は最後まで駆け抜けて、戦い抜くしかない。






 その先に、どんな結末が待っていようとも。

次回更新日は9月4日です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 9月4日!?少し間が空きますがずっと更新まってます。 いや、そもそも更新し続けていただけるだけでも嬉しいんですが。
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