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グラスの中のテキーラを、一息に煽った。
そんな俺を尻目に、ラシェルが何本目か分からない紙巻き煙草に火を付ける。
聞き始める前は余り酒が入らない様に、と思っていたが聞き終えた今となっては、むしろ幾らか酔いが足りなかった。
「成る程な」
そんな感想が口から漏れる。
後付けや結果論にはなるが、こうして過去を聞くと納得が行く所は幾つかあった。
無宗教、では説明の付かない程のテネジア教徒に対する敵意。
帝国軍はまずテネジア教に入信し、テネジアの名の元に戦う様に訓練されている事から、黒羽の団にはテネジア教を良く思っていない奴が数多く居る。
だが、それを踏まえてもラシェルから滲むテネジア教徒への敵意は、何処か毛色が違った。
帝国軍の連中はテネジア教を信仰しているのだから、テネジア教徒は帝国軍に加担している連中だ。テネジア教は、圧政者が敷く宗教だ。
そんな、理屈に紐付けた嫌悪や敵意とは違い、ラシェルから滲む敵意は根本的な色をしていた。
敵味方や政治に紐付けられていない、純粋な嫌悪と敵意。憎悪、と言い換えても良い。
日頃からラシェルが聖職者やテネジア教徒に対してしきりに見せる嫌悪は、かつて聖なる道を信じていたからこその失望でもあったのだ。
ふと、ラシェルとウィスパー訓練装置の辺りで出会った時の事を思い出す。
俺に絡もうとしていた、マルセルを体重差があるにも関わらず叩き潰した後にラシェルは俺の事も同じ様に、叩き潰そうとした。
その次の瞬間、こいつは俺の肩に留まったカラスを見て、先程まで衝突寸前だった空気が嘘の様に大笑いしている。
そして、言った。
「本当に悪魔なのね」と。
あの時は随分な皮肉しか思わなかった。
だが、ラシェルの過去を聞いた今となってはあれだけ大笑いしていた理由は、幾らか察しが付く。
信仰の道を志した末に残酷な目に合わされ、凄惨な復讐の業火に身を焼き焦がしながらも内臓を引き摺り出すような報復を終えて。
テネジア教徒、及びテネジア教を盾にする圧制者達と散々戦ってきた末に、よりにもよって本物の“悪魔”に出会ったのだ。
復讐の業火故に神の名と道に背き、神の子を語る連中をこれだけ殺してきた末に、よりによって巡りあったのが神ではなく悪魔の方だったとは、思わず笑うのも無理の無い話だった。
神と悪魔は、表裏一体と巷ではよく言われている。
コインの表となるテネジアと教徒達に失望し、宗教と信仰、神罰の全てを象るコインその物にも失望し。
本来は人を導くべきなのに圧制を許容する信仰を、人を救うべきなのに圧制を肯定するテネジア教徒達を、コインとコインの表を否定するべく、血塗れになって戦い続けてきたのに。
よりにもよって“悪魔”に出会ってしまった。
それも、政治の為の信仰ではなく本当に人や軍を破滅させる程の超常的な力を持った、本物の悪魔に。
皮肉な巡り合わせだが、あれだけテネジア及び教徒というコインの表を否定してきたラシェルが、グロングスと言う明確な“コインの裏”に出会ってしまったのだ。
少し考えれば分かる事だが、裏だけのコインなど存在しない。
両方が同じ柄のコインがあるなら、それは両方“表”のコインとなる。もしくは、“裏表の無い”コインとなった筈だった。
“表”は、裏がある事の証明にはならない。だが、“裏”は表が無ければ生まれる筈が無い。
灯り無くして影が無いのなら、影はその存在自体が灯りの証明でもあった。
政治的な虚飾の信仰や圧制の為の腐った教徒の様に、矛先を向ける為の空虚な邪教や踏みつける為に認定された異教徒ではなく、本物の悪魔が居るのなら。
それは本物の信仰と本物の教徒、そして本物の神が存在する事に他ならない。
結果論ではあるが、俺がウィスパー訓練装置の傍でラシェルと出会った、あの時。
現在の政治によって腐敗した信仰と教徒達を嫌い、真の尊き信仰は別にあると何処かで信じていたラシェルが正しかった事を、俺は“グロングス”たる自分の存在によって逆説的に証明していたのだ。
それも黒羽の団の宿敵たる、レガリスから来た全く知らない元帝国軍の大罪人が。
あの時、ラシェルが何故大笑いするのかまるで分からず、俺とクルーガーは顔を見合わせていたが今なら分かる。
今考えれば、笑わない訳が無かった。
「さて、ご感想は?」
煙草の火を灰皿で揉み消したラシェルが、上機嫌そうに言った。
だが、眼は笑っていない。
凄惨な過去を伝えられた末の、言葉。
ここを踏み間違えれば、冗談抜きにこの状況から殺し合いになる可能性は充分にある。
息を吸って数秒、言葉を選んだ。
ラシェルの首の筋肉に、少しだけ力が入る。
「皆、理由があるんだな」
俺のそんな言葉を境に、不意に静寂が訪れた。
少しして、幾らか椅子が軋む。
ラシェルが組んでいた足を組み換え、少し間を置いてから答えた。
「それだけ?」
少し肩に力が入ったのが、自分でも分かる。
笑みを止め、真っ直ぐ射貫く様な眼を向けてくるラシェルに、真っ向から睨み返した。
「泣いて寄り添ってやるべきなんだろうが、演技で涙は出せないタチなんでな」
そう言いながら身を乗り出してテキーラの瓶を取り、自分のグラスに幾らか注ぐ。
テキーラを注ぎながらも急に相手がグラスを投げる、テーブルを蹴り上げる等した場合にも対応出来る様に意識しつつ、注意しながら注いだ。
俺が相手に殴り掛かる気なら、絶対に相手がテキーラに気を取られている瞬間を狙う。
だが、全く相手にはそう言った動きが見られないまま、テキーラを注ぎ終えた俺は意識を再度ラシェルへ向けた。
怪訝な表情が、自分の顔に滲み出る。
「…………もしあんたが一言でも謝ったら、前歯をブーツの底でへし折ってやろうと思ってたんだけどね」
満足。
ラシェルの顔には僅かとは言え、確実に“満足”の表情が浮かんでいた。
そこに些かの“上機嫌”を混ぜながらラシェルが再び、椅子を軋ませる。
正解を、引いたらしい。
「誰しも戦う理由はある。お前にも、俺にもな」
正直に言うとこの選択においては賭けの部分もあった事は否めないが、俺の予想は当たっていた。
ラシェルが団結を目的にしたにしろ親睦を目的にしたにしろ、彼女は決して同情や譲歩を目的に今の話をした訳では無いと言う事。
いや、と胸中で否定する。
ラシェルの目的は、親睦や団結ではない。
抽象的な答えにはなるが、少なくとも親和や協調、理解ではなくどちらかというと“試験”の方向性を示していた筈だ。
ラシェルが、自身のグラスに改めてラムを注いだ。
「あんたの戦う理由なら知ってるわよ。山程人を殺して役に立って、褒め称えられるのに飽きたから今度は、山程人殺して役に立っても貶されて、皆から嫌われる方を選んだんでしょ?」
「まぁ、そんな所だ」
取り分け否定出来る内容でもない。
そう適当に返すと、今更になってラシェルの眼が不機嫌な色を帯びた。
「少しは言い返しなさいよ。本当、一言一句ムカつくわねあんた」
「嫌われる方を選んだ事も、褒められるのが嫌になった事も、全部本当だからな。俺は、俺の意思で此処に居る」
そんな俺を見ていたラシェルの不機嫌な眼と顔に、更に怪訝な色が付け足される。
自分も煙草が欲しくなったのを、テキーラを少し舌に置いて転がしつつ誤魔化した。
「俺をどう思ってるのかは知らないが、元々どうあっても赦されちゃいけないんだ、俺は」
喉から出た声は自分が思っていた以上に低く、冷たい。
そうだ。
胸の奥から、赤黒く錆び付いた記憶が軋みながら滲み出る。
お前はどうあっても赦されてはいけない。
黙れ、分かっている。
錆び付いた記憶を呼吸法によって、意識的に抑え込む。
俺が、裁かれるべきだと言う事ぐらい、ずっと分かっている。
グラスを見つめていると、ラシェルの溜め息が聞こえ、視線を上げた。
「罪のある奴も無い奴も殺して回ってるバケモノの癖に、随分と辛気臭いわね」
呆れた様に、というか実際に呆れているのだろう。
素人の劇でも見終えた様な顔で、ラシェルがラムを煽った。
「まぁ、それだけ辛気臭いなら私の過去を聞いても野暮な真似はしないだろうから、その辺は大丈夫かしらね。全く、これで私の事はもう嗅ぎ回らないだろうけど、調子狂うわ」
ラシェルのそんな言葉に、乾いた笑いが零れる。
そんな事をしても俺には何一つ利が無い、それどころか今まで以上に背後に気を付けて道を歩かなくてはならないだろう。
「…………それと、私の事を話したついでに聞くけど」
そんな言葉に顔を上げた。
呆れた様な顔のまま、ラシェルがラムを片手に言葉を紡ぐ。
「あんたの女、妊娠だの何だの言われて殺せなかったらしいけど、元々は結婚するつもりだったって?」
「あぁ、その事か」
それなら全部本当だ。
そう繋げようとして言葉を止めた。そんな事をわざわざこいつが聞くか?処刑騒動でその手の話はクルーガーやロニーが、島中に広めていた筈だ。
今更、真相が気になるとは思えないが。
「禁煙もその時の女から命じられたって?」
少し、間が空いた。
その事について触れられる事はこの島に来てから余り無かった為、虚を突かれる。
禁煙か、確かにな。
「あんたがどうしようもない程に偏屈なクソ野郎なのは分かってるけど、それでも理解出来ないわ。自分を捨てた女の為に未だに禁煙してるって?」
「禁煙は身体に良いと聞いたんでな」
「ふざけんじゃないわよ、そんな訳無いでしょ。クソみたいな言い訳すんじゃないわよ」
またもや乾いた笑いが零れる。
改めて言われると、返す言葉も無かった。
禁煙する理由はもう無い。ニーデクラの方の煙を肺まで吸い込んで燻す一部の煙草ならいざ知らず、レガリス及びバラクシアに一般的に流通してる煙草は喉を燻す事はあっても肺を燻す様な事は無い為、心肺機能をあからさまに下げる事は無い。
勿論、身体に良いとは言わないがそれにしても、今の俺が禁煙を続ける理由は無かった。
もうアマンダは上流階級の人間と結婚し、俺を罠に嵌めてまで生き延び、それで今も高いワインとチーズをつまみながら談笑していると言うのに、一方の俺はいつまでも過去の女を忘れられずに居る。
小さく溜め息が漏れる。我ながら、本当に惨めな話だ。
「あんた、次にその女に出くわしてもまた言い訳しながら団に迷惑掛けて、逃げるつもりなの?向こうはもうあんたを焼いた鼻クソ程度にしか思っていないのに?」
ラシェルのそんな言葉に、僅かに想いを馳せた。
次に会ったら、か。
確かに言われてみれば次に会った時こそ、俺はアマンダを殺せるのだろうか。
もう、相手が俺を排除する事に躊躇が無いのは分かっている。
もう一度同じ事を言われるにしろ、違う事を言われるにしろ。
俺に、アマンダを殺す覚悟があるだろうか?
「…………私はあの恩寵者、聖母の小便を煮詰めて毎朝顔に塗って聖女の靴とケツを舐めてるクソッタレ、ゼナイドをこの手で殺したわ。もし殺す事があれば、絶対に躊躇しないって決めてたから」
何処か諭す様に言うラシェルのそんな言葉に想いを馳せる。
確かに、あの時。
ラシェルはメネルフル修道院の院長室において、殺した後に幾らか動揺こそ見えたものの任務に具体的な影響は無く、何より殺すまで一切の動揺を見せなかった。
俺はあんなにも冷静に、他の標的と同じくアマンダを殺せるだろうか?
未だに、禁煙にすがっている様な俺が。
排除しなければならないという理由だけでアマンダの首を、ログザルで切り飛ばす様な事が出来るだろうか?
テキーラのグラスを見つめながらそんな事を考えていると舌を打った様な音が数度聞こえ、ふと顔を上げるとラシェルが紙箱を放ってきた。
反射的に受け取ると、それは封の開いていない紙巻き煙草の紙箱。
余り好みではない銘柄の煙草だった。
煙草?
「禁煙だなんだと惨めな言い訳するぐらいなら、禁煙なんて止めちまいな」
「吸う気にならねぇよ」
「次、あんたが殺すべき人間をあんたの事情で殺せなかったら、あんたの処刑じゃ済まないわよ。このカラマック島の存在が帝国軍に露見したら、黒羽の団その物が危機に晒されるんだから」
真っ直ぐな眼と躊躇の無い言い方に、口を噤んでしまう。
確かに、前回は捜索部隊が特設されたもののカラマック島の位置こそ露見しなかったが、逆に言えば俺の影響でこの団自体が発見される可能性も、充分にあった。
この現状で帝国軍に黒羽の団の本拠地の場所、それも移動出来ない島の存在が露見すれば、容易に破滅するのは想像に難くない。
手に取ったままの紙箱を眺めていると少しして椅子が軋む音がして、ラシェルが席を立った。
「帰るわ。適当に片付けてさっさと店出るわよ」
「何だって?」
思わず声が出る。余りにも、急な答えだ。
そりゃ確かに用件は済んだかも知れないが、正直に言って此方は複雑どころではない。
「これ以上何話せってのよ」
呆れた様な、面倒臭いといった視線。
どうやらラシェルの中では、既に終わった話らしい。それにしても、余りにも急だ。
「代金は?」
反射的に言葉が出た。
此方に対して、言い合いに飽きた様な顔でラシェルが口を開く。
「リージャに私から払っておくわよ。私が呼び出したんだから」
そんな言葉と共に、ラシェルが手の中で大きな鍵を回しながら、悠々と店の出入口に向かって歩いていくのを見て、何とも言えない気分で席を立った。
まぁ向こうがもう話す気が無いと言うのなら、此方にはどうしようもないが。
口から、拍子抜けの様な息が漏れる。
それから結局、普通に席と机を片付けて“クルラホーン”の入り口に大きな鍵で錠を掛けた。
そして適当に鍵を放るとラシェルが片手で受け取り、道に幾らか残った雪を踏む様にしながらラシェルが歩き出すが、少しして振り返る。
「あんたが中途半端な覚悟で戦ってると、次こそ私達が破滅するかも知れないから言っておくわ」
余りにも不躾な言い方ではあったが、その言葉には無視できない芯と誠実さがあった。
ラシェルが、話の途中で紙巻き煙草を咥える。
「さっき渡した煙草、1本で良いから吸っときな。あんたがそれからどうするにしろ、少なくともそれであの女との縁は切れるわ」
手元にある、好みの銘柄ではない煙草を静かに見つめた。
あの女との縁は切れる、か。
コールリッジの任務の際に戦死したレイヴン、パトリック・ケンジットの時にも思ったが、俺はどんな死を迎えたとしても後悔するだろう。
かつての帝国軍の隠密部隊に居た頃ならまだしも、今の俺には心残りが幾つもある。
今の所、そう言った経験は無いが生死を分ける一瞬、その刹那に心残りが浮かぶかも知れない。
その浮かんだ心残りによって、判断が僅かでも鈍るかも知れない。
本当に戦うのなら、心の底から、魂の底から戦うべきだ。
叶うにしろ、叶わないにしろ、正しいにしろ、正しくないにしろ。
覚悟も決断もとうに済ませている筈、ならば俺は最後の最後まで、迷い無く戦い抜かなければならない。
決して赦されるべきではないにしても、いつか必ず裁かれるべきだとしても。
俺は最後に倒れるその時まで、この革命を戦い続けなければならないのだ。
迷う事無く、持てる力の全てを使って。
ラシェルが煙草に火を付け、紫煙を燻らせながら呟く。
「あんたも私もまず生き残れないし、いつかはこの革命で死ぬ」
安酒が不味かったかの様に、世間話の様にラシェルが言葉を紡いだ。
その右目は寒さのせいか空気のせいか、左目の件を抜きにしても随分と澄んでいる。
「何かの間違いで生き残るにしろ、少なくとも死ぬ覚悟を決めて戦いなよ。“何もかも”ね」
何もかも、死ぬ覚悟を決めて戦え。
分かりきった言葉な上に、聞き飽きる程に聞いた言葉でもあったが、それでもラシェルの言葉には充分な重さがあった。
少し味わう様に、ラシェルが紫煙を吸って喉を燻してから再び口を開く。
「そうすりゃ最後の瞬間まで手は震えないし、あんたみたいに昔の女が殺せなくて大事になる様な、クソ情けない事も無くなる」
言葉は罵倒の類いだったが、その言葉には助言の色が隅々まで染み込んでいた。
例え道半ばに倒れるとしても、最後まで戦い抜くにはどうすれば良いか。
ラシェルの言葉は誇り高き“戦士”の言葉として、俺の耳朶を打った。
「……あぁ、そうだな」
言葉と共に吐き出した息が、幾らか白く染まる。
そう俺が溢すとラシェルはもう一口紫煙を吸って煙を吐き、踵を返して歩き始めた。
言葉はない。何か、言う訳でも無い。
歩いていくラシェルの背中、防寒着から視線を切り、何を言うでもなく懐から紙箱を取り出す。
防寒着の背中を、土と雪を踏む足音が追い掛けていくのを聞きながら、想いを馳せた。
禁煙の事、アマンダの事。あの任務の事、黒羽の団の事。帝国軍の事、浄化戦争の事。
隠密部隊の事、礼拝堂の事。
いつもの溜め息とは違う、淡雪の様な息が口から冷えた春前の空気へと流れていく。
“覚悟”と言う言葉が、いつまでも頭の中で跳ね返っていた。




