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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 私は、何の罪を犯したのだろう。





 正式に落伍修女への降格が言い渡され、メネルフル修道院内でも日陰に位置する特別贖罪棟、通称“落伍棟”へと移動させられながらラシェルはそんな事を考えていた。


 治療に関して簡素な医療用の眼帯こそしているが、左目はもう物が見える兆しは感じられない。


 その上、落伍修女ともなれば誰一人としてラシェルの病状を気遣ってくれる者は居なかった。


 メネルフル修道院、ひいてはラクサギア地区において、現在ラシェルはラグラス人奴隷の次に階級の低い存在となっているのだ。


 身体が鉛を呑んだ様に重く、頭の中では先週の事が騒音の様に乱反射していた。


 これからはラシェルには聖職者ではなく神の名に恥じる罪人として、償いの為に祈り、償いの為に労働し、贖罪の為に生きる日々が待っている。


 落伍棟に移り、眼に光が感じられない修道女や疲れきった顔をしている修道女の中で、ラシェルは天を仰いだ。正確には、落伍棟の天井を。


 胸中でラシェルは聖女レンゼル、ひいては聖母テネジアへと縋る様に祈った。


 嗚呼、聖女様。聖母様。私は、それほどまでに至らなかったのでしょうか。


 私は、そんなにも重い罪を犯していたのでしょうか。これほどの仕打ちを受ける程に私は罪深い女だったのでしょうか。


 片目のラシェルが何れ程祈ろうとも聖女、聖母から返事は来る事無く、当然ながら修道院からも返事は無いまま、朝が来た。


 雑務に始まり畑仕事、周りから遠巻きに蔑む目を向けられながらの過酷な労働。


 何れ程の雑務や労働をこなそうとも、出来の悪い見習いの様な扱いから変わらない、それこそ奴隷の様な階級。


 終わりの見えない、実際に終わりの無いそんな生活が延々と続いた。


 届かない事、救われない事を知っていながら、それでも償いと後悔の為に祈り続ける。


 傷が塞がった後も、左目は濁ったままだった。


 直ぐに適切な処置を受ければ良かったのかも知れないが、現実には起きた事しか起きない。


 それに、幾ら思い返してもラシェルには右目を気遣われた記憶が思い当たらなかった。事件の直後でさえ、だ。


 片目が見えるなら、労働は一通り出来る。


 眼帯から血を滲ませたラシェルに修道女達が掛けた言葉は、それだけだった。


 落伍修女達は最初の案内以来、全くラシェルを気遣う事は無く、ラシェルの味方は居ない。


 落伍棟で眠ると、決まって悪夢を見た。


 過去の記憶、と言い換えても良いかも知れない。


 重く暗い、冷たい雨の記憶。


 石に石を打ち付けた様な音と共に、視界の半分が赤黒く暗転した記憶。


 雨の音に負けない程の、下卑た笑い声。


 何度も何度も殴られ蹴られ、自分自身が粉々に砕け散ってしまったあの時。


 大切な物を何もかも失った、あの瞬間。


 悲鳴と共に起きては、汗と涙を拭う日々。


 もう塞がっている筈なのに、悪夢から目覚めると左目からは必ず血涙が流れていた。


 何度か、嘔吐した事もあったが周りが決してラシェルの病状や体調を気にする事は無い。


 何度も何度もあの雨の記憶が悪夢となって甦り、悪夢の中で粉々にされる度に見えない左目からは血涙が流れた。


 自分は何を償わなければならないのか。本当に償うべきなのか。


 何一つラシェルには分からなかった。


 聖母様、どうしてなのですか。


 どうして信仰の道はこれほどまでに、私を過酷な目に合わせるのですか。


 私は無辜の信徒ではないのですか。人々は、救われるべきではないのですか。






 拭った傍からまた額に汗が滲む様な、暑い夏の日。


 ラシェルは修道院内の畑仕事をしている最中に、ふと修道院に来たばかりの頃の事を思い出した。


 このメネルフル修道院を説明されながら修道女と共に歩いていた時に見掛けた、影の差した落伍棟と空虚な眼で畑仕事をしている落伍修女を見た時の事を。


 あの時は聖母の名を汚す、恥ずべき存在だとしか思わなかった。


 神に償わなければならない程の罪を犯さない事が、そんなに難しいのか。


 信仰と敬虔の道を志した身でありながら、自身のやる物事の良し悪しすら判別出来ないのか。


 そんな人間は、償い続ける人生を生きて当然だ。


 畑仕事をしている落伍修女達を見て、ラシェルは確かにそう考えていた。


 だが今では、まるで見え方が違う。


 ラシェルは手を止め、周りの落伍修女達を見回した。


 勿論、彼女達の都合は知らない。そもそも最低限の会話しかしないのだから、彼女達も話すつもりがない事は分かっている。


 だがもし、彼女達も自分と同じく“神に償わなければならない程の罪”に心当たりが無いまま、この落伍棟に押し込められているとしたら?


 余りに理不尽な運命の先にこの落伍棟に押し込められ蔑まれ、数多の聖職者から贖罪を強いられているとしたら?


 神に祈る聖職者、修道女達でさえ。人より神に近付いた恩寵者様でさえ、これ程の理不尽な贖罪を敷くのなら。


 それが咎められず、許されるのなら。


 聖母が、聖女が、修道会が、それこそ正しい世界だと説くのなら。


 私の人生を捧げてまで神を信仰する意味など、本当にあるのだろうか?


 ラシェルは天を仰いだ。聖母を、讃える事なく。


 その夜、ラクサギア地区には季節外れの大雨が降った。


 大雨の音が棟の中にまで響いていた、あの夜。


 雨音に引き摺られる様に、またもや心身を抉る様な悪夢を見ていたラシェルは過去の記憶の中で、不意に喉が張り裂けんばかりに叫んだ。


 悲鳴ではない。断末魔でもない。


 身体中の骨がへし曲がり、頭蓋が弾ける程の、憤怒だった。


 指が折れようと骨が砕けようと一切構わず、ラシェルが顔を殴り付けると頬骨が砕け帝国兵の顔が粘土細工の様にひしゃげる。


 有り得ない勢いで血塗れの歯が飛び散り、脛椎がへし曲がった。


 残りの2人が凄惨な光景に後ずさっている所に、首の折れた兵士を押し退けたラシェルが飛び掛かる。


 直ぐ様脇腹を殴り付け、横合いに蹴飛ばすと人形の様に吹き飛んだ兵士が、レンガ造りの壁に叩きつけられて様々な骨を折りながら潰れた。


 憤怒を口から叫び続けながらラシェルは最後の兵士に襲い掛かり、骨の砕けた拳で相手の胸を突き破る。


 そして、噴水の様な血を浴びながら相手の心臓を引き摺り出した。


 降り頻る雨の中で血塗れのまま、憤怒のままにラシェルが天に向かって叫び続ける。





 目が、覚めた。


 悲鳴というよりは、咆哮の様な声と共に飛び起きる。


 その咆哮によって起こされた数人の落伍修女は、皆ラシェルに迷惑を越えた畏怖の様な物を向けていたが、ラシェルはまるで気にしていなかった。


 熱い、生命の象徴の様な血潮が自身の中に噴き出している。生きる意思が、身体中を廻っている。


 もう一度産湯に浸かり、生まれ直した様な気分だった。


 苦難と理不尽に満ちていた世界が、苦難と理不尽に満ちた“まま”澄み切って見える。


 疲れはて、萎えきっていたこの世界が明瞭に澄んで見えていた。


 外から聞こえ続ける雨音の中、ラシェルは頭を抱える。


 苦悶ではない。歓喜でも無い。


 思い出したのだ。


 あの忌まわしい日の事を、全て。


 極限状態の中、奪われ続けたあの記憶。


 ラシェル自身がラシェル自身の為に抑え込み封じ込めていた記憶が、水滴の一つまで明確に甦ったのだ。


 あの3人の顔、指の傷跡。髭と髪型、3人が歩いてきた方角と道、時間帯と日付まで。


 何より、あの3人が“最中”に1度だけ呼びあった名前。


 閉ざされた記憶の中で、ラシェルは顔と名前を明確に覚えていた。


 歯を食い縛り、拳を握り締める。


 聖母も聖女も修道会も誰一人、ラシェルを救おうとしなかった。ラシェルに償いと苦行を課すのみで、手を差し伸べなかった。


 追い詰める。


 ラシェルが胸中で誓った。修道会への誓いよりも深く、堅く。


 どれだけ掛かっても、必ず奴等を追い詰める。神の名に背こうとも、神の名に恥じようとも、絶対に。


 それから、数日経った頃。


 落伍修女は普段、仕事以外で他人に気を配る事は滅多に無いが、それでもラシェルの変貌ぶりには戸惑いを隠せなかった。


 祈りこそすれど、労働こそすれど、まるで以前とは様子が違う。


 落伍棟で寝起きする修道女からは信じられない事だが、最近のラシェルには明らかに生命力が漲っていた。


 生への執着、と言い換えても良い。


 毎日の食事にしても、明らかに以前とは食べる勢いが違った。


 非常に悪い言い方をするならば、飢えた悪漢の様な勢いと目付きで毎日の食事へ食らい付いているのだ。


 もし、ラシェルが修道女の服を着て食事の礼節を守っていなければ、周囲は彼女を修道院に入り込んだギャングだと思っただろう。


 そして雑務等の労働の合間に、彼女は少しずつ鍛練をする様になった。


 腕立て伏せや屈伸など、鍛練の内容は基本的な物な上に強度もそれ程では無かったが、それでも時間の合間に差し込む様に鍛練を続ける。


 周りの落伍修女が本格的に彼女を避け始めたのは、彼女が単純な鍛練以上の事をやり始めた時だ。


 1日の終わりに寝床を抜け出し、拳に厚い布を巻いて改築予定の古い倉庫の壁を殴り付け、毛布と木材と革で拵えた粗末なカカシを蹴り付ける。


 それも路地裏の飲んだくれや現実に対する鬱憤を晴らす様な物ではなく、丁寧に磨いては積み重ねる様な信念を感じる動作だった。


 監獄の中で生き抜く為、自身を鍛え続ける囚人の様に。


 あれは、おかしくなってしまったのだろう。


 心が壊れた人間はああなってしまうのだろう。


 弱さにまともに向き合う事が出来ない者は、逃避する先を探すものだ。


 あれは、自傷だよ。


 落伍修女の間でさえそんな言葉が囁かれる様になる中、当のラシェルは一つずつ計画を作っていた。


 あの3人の帝国兵を、殺す計画を。


 少なくとも此処には居られない、此処に居ても腐っていくだけだ。このラクサギア地区の帝国兵は、抗争の件があるから鍛えられているだろう。


 其処らの女の様に甲高い声を上げながら包丁を振り回した所で、歯を折られて“悲惨な事故”に巻き込まれておしまいだ。


 特定の帝国兵を、殺意を持って探すなら素人の付け焼き刃じゃ話にもならない。


 抗争においてはメネルフル修道院の修道女のみならず、帝国兵にも死傷者が出ている事は知っていた。


 このラクサギア地区で帝国兵を殺したいなら、もっと手慣れた連中が居る。


 敵の敵は、味方。


 帝国兵を殺す為に、トルセドールに加入する。


 有数の宗教地区と呼ばれるラクサギア地区において、“祈りと敬意を忘れ道を誤った愚者”の集団へ。


 このメネルフル修道院に入った時から、何かの度に言われていた。


 仮に落伍修女が修道院を逃げ出したとしても、そうなれば落伍棟ではなく監獄に収まるだけだと。


 帝国兵に追われ、取り抑えられ、落伍棟より酷い監獄で祈る事になるだけだと。


 例え行き着く先が監獄でも、構うものか。


 鍛練の最中、汗を滴らせつつラシェルが歯を食い縛った。






 どちらにせよ、神と無縁の場所には代わり無い。

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