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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 右眼は随分と回復した。





 正直に言って、もう右眼の異常はもう回復しないのでは無いか、と内心悲観していた時もあったがどうやら杞憂だったらしい。


 あの任務を終えてからも右眼の視界が歪んだり、妙に焦点が合わなくなったり、と言う事が暫く続いていたが幸いにも症状は一時的だったらしく、日を跨ぐ頃にはあれだけ歪んでいた視界も既に回復し始めていた。


 任務の後、古い地下道からラシェルの言う通り街へと抜け出し、そのままいつも通り屋根から屋根へと抜け崩落地区まで戻ってきたあの時。


 報告を終え、崩落地区の基地内でレイヴンマスクを外した途端に、傍に居た団員とラシェルが凄い顔をしたのを覚えている。


 俺の顔を見ていたラシェルが訝しむ様な表情のまま、呟いた。


「あんたその眼どうしたのよ?」


 まぁ、眼から血が流れていたら驚くのは無理も無いよな。


 そう思いながら右手で顔を拭うと、革手袋に付いていたのは血涙などではなく、黒いインクと何かの蜜を練り合わせた様な、気味の悪い真っ黒な液体だった。


 そこからは随分と、不安になったものだ。


 右眼の視界は歪んだまま、黒い蜜の様な液体の検討も付かない。


 この眼が元に戻らなかったら俺は、これから戦闘の際も移動術の際も全て左眼だけを頼る事になるのだろうか。


 今では過去として落ち着いて話せるが、当時はそれこそ冗談では無かった。


 それに回復したとは言え、何もかも元通りと言う訳でも無い。


 メネルフル修道院の地下において、直ぐ傍にまで這いよってきた死の匂いを嗅いだ、あの刹那。


 あの瞬間、濁流の様に俺の内へ噴き出した例の冷たい濁りは、俺を更に変えてしまった。


 こうして道を歩いていても、右目だけは見える風景が以前とは何かが違う。


 具体的に違う箇所や内容が挙げられる訳では無いが、どうにも違う気がするのだ。


 今まで見えていた風景、及び今も左目に見えている風景を絵画だとすると、右目には別人が修復した絵画が見えている、とでも表現すれば良いのか。


 麦だと思っていたものが全て生き物の卵だった様な、大粒の砂利だと思っていた物が全て甲殻類の殻だった様な、何とも言えない違和感と不気味さがいつまでも意識の片隅に染み付いていた。


 眼から血涙どころか、黒い蜜が出たのだから言うまでもなくカラマック島に戻り次第医者にも掛かったが、別段何か目新しい事実を言い渡された訳でも無く、かと言ってこの違和感を説明しても伝わるとも思えない。


 伝わった所でじゃあどうしろと言うんだ、という話にもなるだろう。


 結局の所、他人には伝わらない違和感云々を抜きにすれば、右目が回復した俺に出来る事は次の任務を待つだけだった。


 そしてそんな俺が今向かっている先は、ゼレーニナの住処こと魔女の塔。


 ザルファ教の本を返す為にも元々行く予定ではあったものの、正直に言って少し、いやかなり気は進まなかった。


 グリムを使って、粗雑に呼び出されるのが嫌なのでは無い。


 この寒空の中に外へ出るのが億劫な訳でも無い。


 俺の部屋に来たグリムから聞く限り、俺を呼び出す時のゼレーニナは理由こそ不明だが不機嫌だったらしい、と言うのが気の進まない主な理由だった。


 元から無愛想、怪訝、不機嫌しか表情の持ち合わせが無い様な女だ。


 不機嫌らしい時に呼び出されるなど、良い予感がする訳が無い。


 それと余り考えたくないが、気が進まない事を別にしても俺にはゼレーニナの塔に行かなければならない、明確な理由があった。


 ゼレーニナに特注し製造してもらった専用装備、グローブのワイヤー操作により稼働する全自動クロスボウ、スパンデュール。


 同じくグローブのワイヤー操作により稼働し、逆手にフルタングダガーことラスティを掴み取らせる、ガントレット内蔵のラスティ収納機構。


 この2つがメネルフル修道院の戦闘により変形、破損してしまった事だ。


 最初、破損した装備に関しては何処から聞き付けたのかクルーガーが「うちの者に修理の手配をさせましょう。私も興味があります」と言ってきていた。


 なので、此方も言葉に甘えさせてもらうつもりだったのだが、どうやらゼレーニナには随分と気に入らない話だったらしい。


 俺がクルーガーの元へ向かう前にこれまた何処から聞き付けたのか、グリムを通じて「改良型を開発するから他の奴の修理品など使うな」とはっきり厳命されてしまった。


 因みにその様子を見ていたグリム曰く、「タブン、モウチョットデ、スッゴクオコルヨ」との事なので逆らわない方が賢明なのだろう。


 俺とて度胸こそあると自負しているが、無意味に度胸試しをする歳はとうに過ぎている。


 そしてその改良型開発についての呼び出しが、とうとう今日来たと言う訳だ。


 クルーガーや他の者を頼るな、と言われていたので単純な消去法で考えてゼレーニナが解決するつもりなのは検討が付いたが、よりによって呼び出した本人が何故か不機嫌らしい、と聞いてはもうお手上げだった。


 今度は、何を言われるのやら。


 こうして寒空の下を魔女の塔に向かって歩いていても、気温以外の理由でも気が萎えていく様な気がした。






「だからよ、レイヴン訓練の時はこんなキツい訓練なんて二度とやりたくねぇ、と思ってたんだよ」


 紅茶のカップを丁寧に置きながら、ロニーが椅子を軋ませつつ呟く。


 技術開発班、屋内。


 魔女の塔に向かう途中で何故かロニーに捕まった俺は、何故か共に茶会に招かれていた。


 ゼレーニナに呼び出されている最中ではあるが、急いで来いとは言われていない。


 こうして見ると言い訳染みた考えだが、正直な所気が進まないのもあって、俺が断らなかったのも大きな原因なのだが。


「ところが、いざレイヴンになってみたら訓練と同じどころかそれ以上の訓練が続くんだよ。とんでもねぇよな」


「まぁ、当たり前と言えば当たり前ですね。レイヴンにはレイヴンたる理由がありますから。貴方だって、レイヴンになれば楽が出来ると思っていた訳じゃないでしょう?」


 ロニーの隣の席に座っていたクルーガーが、笑いながら丁寧に宥める。


 そんなクルーガーに、ロニーが唇を尖らせつつ返した。


「そりゃ楽が出来るとは思ってませんでしたが………」


 そんなロニーを眺めつつ、紅茶を一口飲んだ。


 過酷な訓練は、いつまでも続く。選抜の時や試験の時を終えても、鍛練と無縁の戦士など居ない。


 かつて古代、今では過酷な訓練の代名詞や強靭な戦士の代名詞となっている事で有名な、“1人で100人を相手に出来る”と呼ばれる程の戦闘民族が居た。


 強靭、勇猛で知られる彼等は、他国との戦争が始まるとむしろ安堵したと言う。


 戦争の間は、強靭な仲間達を相手にいつもの過酷な訓練や演習をしなくて良いからだ。


「今日より楽なのは昨日だけ、ってやつだな」


「でもあんただって、毎日毎日が訓練だった訳じゃないだろ?」


 俺がそんな言葉を溢すと、即座にロニーが食い付いてくる。


 まぁロニーが言いたい事は分かるが、分かるだけだな。


「仕事以外、ずっと食っては寝ている奴がラクサギア地区の任務を遂行出来たと思うか?」


「あぁそうだラクサギア地区で思い出した、修道院の話も聞きたかったんだよ。あんた修道院でも化け物相手に戦ったんだろ?聞かせてくれよ」


 ロニーの急な食い付きにテーブルが揺れ、それに伴ってカップも僅かに揺れる。


 クルーガーが目線と仕草で窘めると幾らか自重したが、それでもロニーの眼は輝いていた。


 そんなロニーの眼を見て騎士物語を読んでもらう子供の様な眼だ、と心の何処かで苦笑に近い物を感じる。


 以前も清廉と忠義を尽くす騎士より、鮮血と内臓にまみれながら戦う戦士の方がクールだ、といった調子の事を言っていたし今もその考えは変わっていないのだろう。


 生首を斬り飛ばしたり、骨や頭蓋を叩き割って脳や内臓を引き出す事に憧れる気持ちは分からんが、率直に言わせて貰うなら「そんな物に憧れるのは未経験の奴だけだ」と言うのが俺の意見だった。


 もう少し俗な言い方も出来たが、流石にクルーガーも居る場でこの言い方は良くないだろう。


 …………ラシェルなら、迷わずその言い方で返しただろうが。


「別に任務報告に書いてあるさ。気になるならお前も申請すれば読めるんじゃないか?」


「ある程度は聞いたさ、報告書に書かれた文字じゃなくて生の声が聞きたいんだよ。もっとこう、無いのか?切り落とす時はこんな感触がするとか、首を失った奴は変な動きをするとかさ」


 クルーガーが、些か眉を潜めた。


 まぁ、気分の良い話ではない。


「自分が任務に出た時にでも斬ってみりゃ良いだろう。そんなに面白い物でもないぞ」


「何だよ、そりゃないぜ。じゃあ一振で切り落とすコツとか、そう言うのは無いのか?」


 小さく首を振ると、ロニーが悪態を吐くもクルーガーに目線だけで叱られたらしく、バツが悪そうな顔で席に座り直した。


「そう言えばメネルフル修道院の任務の件で思い出しましたが、ミス・スペルヴィエルから貴方宛に伝言を預かっているんです」


「………ラシェルが?俺に?」


 誤魔化す様に紅茶のカップに手を付けるロニーを尻目に、クルーガーとそんな会話を始める。


 ラシェルが俺に伝言を?それも、わざわざ技術開発班に来てまで?


 そんな俺の疑問を先読みしたかの如く、クルーガーが言葉を紡いだ。


「何と言うか………ミスター・ブロウズならいずれ技術開発班に来るだろうから、と言う理由で此方に、と言うより私に伝言を残していったんです」


 表情と言葉の間を見るに、脚色しているだけでもっと悪い言い方だったのだろうな。


 そんな予想が、脳裏に過る。


「それで、内容は?」


 俺の言葉に何故かロニーの方を一瞥し、咳払いをしてからクルーガーが口を開いた。


「また日付は後々指定するそうですが指定した日の夜、酒場に来て欲しいそうです」


「酒場?バーで奢れってんなら、正直遠慮したいんだが。噂でしか聞いてないが、あいつ大分飲むんだろ?」


 親睦だの何だのを理由にしてあいつの酒代を払わされる、なんてのは御免だぞ。


 クルーガーが僅かに肩を竦める。


「………ミス・スペルヴィエル曰く“どうせ、気付いてるんだろ”と言えば伝わる、との事ですが……何か心当たりは?」


 何の事か、まるで分かって無さそうなクルーガーに対し、思わず歯噛みした。


「成る程な」


 誰に言うでもなく、静かに言葉が漏れる。





「酒を溢す程度で済めば良いが」

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