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高価な姿見に、ロドリグ・ユングランの傷跡だらけの身体が映っていた。
新しく彫った腰のタトゥーは、念入りに選んだ為か腕の良い彫師を呼んだからか、思った以上に他のタトゥーと馴染んでいる。
シャツを脱いだ上半身には、タトゥーの裏を這い回る様にして幾つもの深い傷跡が刻み込まれていた。
姿見に映ったタトゥーから視線を外し、ロドリグが傍にあった瓶からビールをグラスに注ぐ。
ロドリグは周囲に広まっている噂とは裏腹に、自身を不死身とは全く思っていなかった。
確かに常人なら致命傷であろう傷を何度負っても、幾度となく起き上がりそのまま勝利した事は否定しない。
だが常人なら絶対に助からないであろう致命傷から立ち上がる度に、自身はいつか酷い最期を迎える事になるだろう、とも心の何処かでいつも思っていた。
“その界隈”に入れば分かるが、人々から「不死身」と呼ばれる者は思った以上に居る。
重体や重傷から回復し、再び前線に出た者。
大事故に数度巻き込まれ、その上で無事だった者。
過酷な戦場を何度潜ろうとも、必ず自分の足で帰ってくる者。
また、不死身を冠する為にタトゥーで自らにそう彫る者も居る。
だがロドリグは、その大半が“死ななかっただけの奴が「俺は一度も死んだ事が無い」と嘯いてるだけの連中”だと思っていた。
本当の意味で、“不死身な”者などそうは居ない。
そのロドリグから見ても立ち上がれない程の傷を負って尚、平然と立ち上がっては相手に切りかかり溢れる血を焼いて塞ぐ男に出会った事があったが、嘯いている連中に比べれば一握りに満たないのは間違いないだろう。
この世には、そういう連中が居る。
トルセドールの構成員は、きっとロドリグもその一握りに入ると思っているだろう。
だがロドリグは、自身の“不死身”は他の連中のそれとはまるで毛色が違う、と思っていた。
自室で1人、思った以上にグラスを持つ手が進まないロドリグの胸元で、首から下げた奇妙なアミュレットが揺れる。
鳥類か、魚類の骨を彫刻し仕上げた、不気味な骨の大きなアミュレット。
彫刻と仕上げこそ丁寧だが、奇妙な生物や気味の悪い鳥類、同じく気味の悪い魚類が覆う様に彫り込まれたそのアミュレットを、ロドリグは正直良く思っていなかった。
夢見が悪くなる様な造形をしている上に単なる悪趣味とは言い切れない緻密さ、まるで製作者の執念が染み付いているが如くそのアミュレットは丁寧かつ手の込んだ造りをしている。
そんな不気味なアミュレットを良く思っていないにも関わらず、ロドリグが普段から肌身離さず首から下げているのには理由があった。
この骨を削り込んで造られたであろうアミュレットこそが、ロドリグの“不死身”の源泉だったからだ。
初めてこのアミュレットを見つけたのは、ロドリグがまだ十代だった頃だった。
貧しさの代わりに若さが身体に溢れ、路上や路地裏で返り血を浴びる合間に、違法な廃棄処理の仕事を手伝っていた時の事。
公には出来ない廃棄物、また“本来あってはいけない”廃棄物を保護用の粗末な手袋を頼りにコンテナへと廃棄物を詰め込んでいた若いロドリグは、不意に廃棄物の中から奇妙な物を拾い上げた。
違法処理したヤギやシカ、魚類の骨に混じっていた“それ”は他の骨と違い、表面を覆い尽くす様な彫刻が施されていたのだ。
何処かの土産屋が作った安い工芸品でも紛れ込んだのか、とその骨の彫刻を何気無く手に取ったロドリグは、不意に身震いした。
この骨の彫刻は、単なる工芸品などでは無い。
如何なる経緯にてこの彫刻がこの廃棄物の中に紛れ込んだのかは分からないが、1つだけ言える事がある。
この骨の彫刻は、製作者が魂をそのまま刻み込む程の執念を持って造られたものだ。
それも歯が折れる程の、血が滲む程の、背骨がねじ曲がる程の執念を。
無根拠のまま、手元の骨の彫刻に対して汗ばむ程の確信を持ったロドリグは、何を思うでもなく上着のポケットにその彫刻を入れた。
奇妙な骨の彫刻を持って帰る事に対して、一切の躊躇は無い。
そのまま見ぬフリをする発想、廃棄する発想はまるで無かった。
手放すべきでは無い。
とりわけ気に入った訳でも験担ぎにする訳でも無かったが、そんな確信めいた意思がロドリグにはあった。
家に帰り、まるで元々そんな予定があったかの様に数本の革紐を取り出し、首から下げられる様に骨の彫刻へと革紐を結わえ付ける。
十代も終わる頃、ロドリグは皆に言わないだけで常に骨の彫刻、アミュレットを首から下げて歩く様になっていた。
忘れもしない、あの日。
生き延びる為、戦っている内に喧嘩の相手がどんどん大きくなっていき、気が付けば金と大義の為に武装した帝国憲兵やレンゼル修道会の連中と、血塗れの抗争を繰り広げていたあの頃。
戦場を駆けていた頃、仲間が胸を撃たれて血を吐き、倒れた事があった。
直ぐ様駆け寄ろうとしたロドリグも、別の者に胸を散弾で撃たれ仲間以上の血を吹き出し、傍に倒れる。
今考えれば当たり前とさえ言える結果だったのだろうが、あの頃のロドリグは咄嗟に気付けなかった。
あぁ、しくじった。
死ぬとは、こういう事なのか。
客観でしか無かった言葉が、遂に主観になった。
飽和した痛覚の中、胸腔と口腔から熱い血を溢れさせるロドリグが咄嗟に思ったのはそんな、陳腐とも言える感想。
煙が上がりそうな、灼熱とも言える程に熱い鮮血がロドリグの灯火を全て吐き出そうとしているかの如く、胸から脈打つ様にして噴き出していく。
その瞬間。
熱い鮮血が噴き出していく中、不意に胸の銃創からロドリグの胸へと何かが流れ込んだ。
流れ出す、のではなく。
失った鮮血を別の塗料や粘液、蜜で補うかの如く、濁った冷たい何かがロドリグの胸に流れ込んできた。
ロドリグは最初、死が冷たいとはこういう事なのか、と考えていたが途中からある事に気付く。
身体に、活力が戻り始めたのだ。
熱病から快復するかの様に、強過ぎた薬や酒が抜けていくかの様に。
最初は、錯覚かと思った。
その次に、弾は急所を外したのかと考えた。
そしてその後に、そんな訳が無い、と気付いた。
心肺と胸に力が戻り、咳き込み、血反吐を吐いてから血糊を地面から剥がす様にして、ロドリグが遂に起き上がる。
目の前に倒れた、閉じられないままの仲間の瞳には砂が張り付き、既に事切れていた。
戻る予定があるのか戻る予定が無いのかは知らないが他の仲間は次の戦場に向かったらしく、周囲に生きている者は誰も居ない。
ロドリグ・ユングラン、ただ1人を除いて。
呆然としつつ、それでも自身の赤黒い血に浸された服を捲ると、胸の傷は既に塞がっていた。
言うまでもなく、有り得ない事だ。
あれだけまともに胸へ散弾を喰らえば、獰猛な大型鳥類でも無ければまず助からない。
だが、答えは直ぐに出た。
胸元で血を吸い、赤黒い血がこびりつくどころか油を塗り直した様に光沢を放っている、骨の彫刻。
革紐と鎖を用いて首から下げられる様にして身に付けていた、骨のアミュレットが胸元で不気味に輝いている。
最早、痛みも無い胸に触れながらロドリグは1人、実感した。
この骨のアミュレットは、異形の力を授ける物なのだと。
そして、その力は人の身には赦されざる力なのだと。
あれから随分と経つ。
ロドリグはあれからも幾度か致命傷を負い、その度に血反吐を吐きながら平然と立ち上がった。
命を奪った筈の深手や致命傷は、溶接された様な不自然な形で瞬く間に塞がり、何か冷たい“人の身には有り得ないもの”が欠けた肉や骨を補う。
トルセドールの誰もがロドリグを不死身と呼ぶ。銃で撃たれようと胸を貫かれようと腹を裂かれようと、息を吹き返し立ち上がる男だと。
だがロドリグは確信していた。
自分は、不死身では無い。
胸を貫かれようと腹を裂かれようと立ち上がるが、首を切り落とされたら恐らく自分は命を落とすと。もしくは、自分自身でなくなると。
そして、今まで死を欺いてきた報いが、自身に返ってくると。
自身は不死身ではない。ただ、他の者が死ぬ様な傷でも死なない事が多々あるだけだ。
あのオフィリア・ホーンズビーの様に、首を切り落として塩漬けにされてしまえば、確実に生き返る事は難しいだろう。
ロドリグが、恩寵者の生首こと塩漬けのホーンズビーの首へ想いを馳せた。
トルセドールにホーンズビーの生首が渡されたのは、メネルフル修道院の襲撃事件から数日後。
数日間の考慮の後に、人伝に塩漬けの瓶がトルセドールの構成員の元に届いたのだそうだ。
その人間は単なる使い走りだった様だが、そんな物を“発注”出来る人間などこのレガリスにそうは居ない事を考えれば、ホーンズビーの首を切り落として贈ったのが誰かなど、辿るまでもない。
巷を賑わせているレイヴンこと、黒羽の団が我々に名指しでホーンズビーの首を届けたのだ。
これから黒羽の団がどう動くつもりなのかは読みきれないが、少なくともホーンズビーの生首を何故トルセドールに贈ったのか、ロドリグには分かっていた。
メネルフル修道院の痛手と衰退をトルセドールに周知させ、攻勢に出させたいのだ。
どういう意図があるにせよ、黒羽の団はトルセドールにラクサギア地区とメネルフル修道院を支配させる事を望んでいる。
罠の可能性は幾らか考えたが、構成員から入ってくる情報でメネルフル修道院が衰退している事は裏が取れていた。
つまり少なくとも、この話に乗ってトルセドールこと我々に具体的な損は無い。利害の一致にしろ何にしろ、奴等はトルセドールが強大になる事を望んでいる。
奴等にも狙いがあるのは間違いないが、その狙いがどんな物にせよ我々の損失や破滅でないのなら、好機に乗ってやるのも良いだろう。
奴等がもし我々に恩義を売るつもりなら、その時にまた考えてやれば良い話だ。そんな事を考えながら、ロドリグが胸から下げた骨のアミュレットに触れる。
ロドリグには1つだけ、損得とは一切関係無い事柄で引っ掛かっている事があった。
今回、ラクサギア地区の勢力図が塗り変わる転機となった、ホーンズビーの首の塩漬け。
いずれ誇示も含めて塩漬けの首は何処かに掲げようとは思っているが、それはそれとして1つ気になる事がある。
ホーンズビーの首を切り落としたのは、実力から考えても間違いなくレイヴンだろう。加えて言えば、十中八九“グロングス”が切り落とした筈だ。
ならばあの首が、メネルフル修道院の襲撃事件で切り落とされたのは間違いない。
そして、トルセドールの元に塩漬けの首が届いたのは修道院襲撃から数日後。
黒羽の団やレイヴン達が何処に居るのかは分からないが、元から届ける予定ならもっと早くトルセドールに届いた筈だ。
つまり、ロドリグの元に生首を届けようと決めたのは、修道院襲撃が終わった後だろう。
そこで生首が腐って崩れて意味を失わない様に、塩漬けにした。
そこまでは良い。
ロドリグが、骨のアミュレットを何をするでもなく眺めた。奇妙な彫刻で埋め尽くされたアミュレットの中心には、翼とも掌とも言えない不気味な紋様が刻まれている。
問題は、余りにも塩漬けの状態が良すぎると言う事だ。
丁寧に塩漬けにされている状態から見て拠点に持ち帰った後、直ぐ様処理して瓶に入れ塩漬けにしたのだろう。
上部からホーンズビーの生首をトルセドールに渡す命令が来る前から、迷わず人の生首を塩漬けにした奴が黒羽の団、恐らくはレイヴン達の中に居る。
実際、ロドリグ自身も人の腕や首を塩漬けにした経験があり、だからこそ生首の保存には確信と自信を持っていた。
切り落としたばかりの生首を、手早く塩漬けに。言葉にすれば簡単だが、実際に人の遺体や生首を自分の手で塩漬けにするのは思った以上に、気概と覚悟が居る。
そんな気概と覚悟を持った者はそう多くは無く、それを命じられる前から躊躇無く出来る者は更に少なかった。
今のトルセドールにそれを出来る者が何人居るだろうか。
トルセドール内に居る人間でも、恐らくは一握りの人間にしか無理だろう。
勿論、レイヴン達の胆が据わっていないとは夢にも思わないが、ロドリグにはある確信があった。
あのホーンズビーの生首はロドリグが見て分かる程に、“人を塩漬けにする”事に手慣れた奴が作ったのは間違いない。
具体的に言うと瓶の塩を足したり塩を換えたりといった痕が見られた上、頚椎の辺りから丁寧に脳が掻き出されていたからだ。
我々が日頃、凄惨かつ残酷な事を行っているのは否定しないが、仮にも人の生首を相手にこれだけ手慣れた作り方をする奴、しかも命じられる前から平気で首の塩漬けを作る奴に、ロドリグは心当たりがあった。
首の穴から直接脳を掻き出して、状態良く塩漬けの首を作る方法をロドリグが教えたのは、またその教えを躊躇無く実行出来るであろう人物は、1人だけだ。
浄化戦争の最中だった頃、ラクサギア地区へ唐突に現れては“復讐の為”とトルセドールに加わり、仕事となれば他の構成員が縮み上がる様な事だろうと、平然とこなしていたあの女。
目的の為ならばどれだけ血腥い事でも躊躇せず、そして復讐を果たしたかと思えばまるで煙の様に、ラクサギア地区とトルセドールから消えていったあの女。
あの隻眼の傑物だけだ。




