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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
226/294

218.8

 メネルフル修道院の地下は想像していた倍近くの広さがあり、ホーンズビーの机を見つけられたのは僥倖という他無かった。





 純粋な疲労、と言うよりは恐怖や痛みが慢性化により麻痺した様な、何とも言えない違和感が身体に広がる。


 あの不気味なカラス達が消滅してからは左手の熱こそ楽になったが、胸の奥と眼窩の奥に根付いた黒い淀みは先程よりも随分と強く脈打つ様になっていた。


 幾度にも切り抜けた戦闘による疲労も勿論ある筈だが、それを別にしても身体に広がる違和感が酷い。


 絶対に、戦闘の疲労や任務の負傷に起因する感覚では無い筈だ。


 脈打つ左手の痣へ続く様に、眼窩の奥にも何かが脈打っている様な気がする。


 明らかに、今までに感じた事の無かった感覚だった。


 ウルグスの不気味な蒼白い双眸が、脳裏を過る。きっと良い兆候じゃ、無いだろうな。


 逃げ出した修道女達の物か、地面の此処彼処に点在するメイスやサーベル、クロスボウから視線と意識を切り、目の前の机を見据えた。


 事前の資料から察せられるホーンズビーの人物像から考えても、まず間違いなくこの机に俺達の求めている書類は入っていると見て良い。


 ただ、発見できたのは机だけで本人が見当たらない、と言うのは率直に言って芳しい状況とは言えなかった。


 だが、手はある。あくまで、即興の手ではあるが。


 資料によればオフィリア・ホーンズビーは正しく“盲信的”とも言える信仰を備える恩寵者達の中でも、群を抜いた信仰心を備えているらしい。


 恩寵者が怪物に“頭を食い千切られた”今でも、きっとホーンズビーだけは恐怖心に敗れる事なく、この地下で俺の首を狙っている筈だ。


 それこそ、壁を見透かしてでも俺を探しているだろう。


 俺から相手を探知するのは難しいが、向こうはこの地下においても容易に俺を探知出来るとなれば、現状で取れる策は1つ。


 俺の首を塩漬けにする気にしろ酢漬けにする気にしろ、襲い掛かってきた所を迎え撃つ。


 現実的な手は、それしかなかった。


 罠の1つも張りたい所だが、この地下において俺の付け焼き刃の罠がどれほど機能するかも分からない。何なら、逆手に取られるのも充分に有り得る話だ。


 何にせよ、机の中の顧客名簿と非合法証明書を回収しなければ話にならない。策を考えるのは、それからだろう。


 それに懸念は他にもある、ラシェルの現状は分からないが時間をかなり緩く見積もったとしても、陽動で稼げる時間を越えてしまっているのは間違いない。




 反応出来たのは、偶然だった。




 恩寵者の不気味な仮面が音も無く眼前に現れるのと殆ど同時に、腰の入った重いメイスの一撃が胸元に叩き付けられる。


 反射によって、偶然にも胸元に翳す事が出来たラドブレクの柄に重すぎる一撃が叩き付けられ、もぎ取られる様にしてラドブレクが横合いに弾き飛ばされていった。


 反射だけだった動きに、漸く意志が介入し始める。


 左手の反応に気付けなかったのは、既に業火の如く左手の痣が熱されていたからか、と理解するも目の前の恩寵者が再びメイスを振りかぶっている事に気付いた時には、遅かった。


 辛うじて構えた腕、左の前腕に尺骨を歪むでは無いかと思う程の衝撃で、メイスが叩きつけられる。


 左腕の黒革のガントレット、そのガントレットに取り付けられていたスパンデュールがまともにメイスの先端を受け止め、硬い音を立ててへし曲がった。


 張った弦が切れる様な音も聞こえる中、左手の熱と衝撃を無視して思考を急速に回転させる。


 痛む左腕と酸素を燃やす様にして相手のメイスを掴み、グリップを捻る様にして恩寵者の手からメイスをもぎ取るも、逆手のメイスを順手に持ち直す前に鎚の様な拳底が手に叩き込まれた。


 叩き落とす様に下げられた左手首に鋏の刃の如く、恩寵者の膝蹴りが命中しメイスが高く、遠くへと蹴り飛ばされる。


 真正面に向き直った視界と意識が、唐突に大きく揺れた。


 レイヴンマスクが歪む様な掌底で顎を打ち上げられたかと思えば、左腰のログザルが相手の手で素早く鞘から引き抜かれる。


 すかさず恩寵者の右手に握られたログザルの手元をブーツの底で突き飛ばす様に蹴り払い、相手の手からログザルを遠くへと蹴飛ばした。


 お互いに徒手、ではない。


 グローブ操作で素早くラスティを逆手に掴み取ろうとするも、左手の革のガントレットは何一つ稼働しなかった。


 違和感。


 スパンデュールだけでなく、ラスティの機構も破損している。


 その事実に気付いた事、その気付く時間が隙になる事。そして、その僅かな隙を相手が見逃す訳が無い事に気付くのは、同時だった。


 胸に2発、音が重なる様な速さで重い拳が打ち込まれ、此方が反射的に振るった腕と拳は恩寵者に一歩身を引く形で回避される。


 そして一歩引いた間を最大限活かす形で、まともに芯を食う形の直蹴りが胴の真ん中に入り、体重が浮く様な衝撃と共に蹴り倒された。


 仰向けに倒れた身体を何とか起こしながら、咳き込む。


 良くない咳だ。そんな事を考えながら、軋む身体で相手を見据えた。


 そこで漸く、倒れた俺に向かってくる恩寵者の身長が随分と背が高い事に気が付く。6フィート前後、恐らくは俺と数インチも違わない筈。


 その情報から浮かんだ答えに、胸中で自らを罵った。


 考えれば、すぐ分かった事だろ。


 長身に怪力、この実力。あれだけの事があっても、修道院地下から逃げ出さなかった信仰心。


 他の恩寵者と、僅かに造りの違う不気味な金属製の仮面。


 全て事前に目を通した、資料の通りだった。


 蒼白い濃淡で描かれる視界の中でも一際“色が濃く見える”事を別にしても、間違いない。


 オフィリア・ホーンズビー。


 今回の任務の暗殺対象であり、メネルフル修道院の恩寵者の中でも一、二を争う実力者が目の前に立っていた。


 その実力者が、猛然と俺の方へと距離を詰める。


 この状況から蹴り飛ばされた武器を拾いに行かず、俺が倒れた有利を手放さず俺の追撃、仕留める事を優先する辺り、ホーンズビーは資料通りの実力者らしい。


 倒れたままの俺の蹴りが躊躇の無い動きで払われ、そのまま関節に意識を取られるもその隙を突かれマウントポジションに移行される。


 そのまま、息も出来ない様な連打が始まった。


 腕で防御しつつ抜け出そうと脚でもがくも、ここまでの実力者が抜け技を知らない訳も無く、抑え込まれる。


 腕の防御をすり抜け、何度もレイヴンマスクや頭部に拳が打ち付けられた。


 まずい、まずい。


 レイヴンマスクがある分、顔面への攻撃には耐性があるものの窮地には間違いなかった。


 奴は抜け方を分かっている。


 奴がもっと重い一撃を打ち込む為や攻撃を回避する為に重心を移動させないと、俺はこのマウントポジションから抜けられない事も、分かっている。


 このまま殴り続けても俺を仕留める事は難しいが、仕留められずとも俺は殴られ続ける事も。


 そして、重い一撃をいれなくともこのまま続ければ俺が弱って行く事も。


 このままでは防御が出来ない程に弱った所を、重い一撃で仕留められる。


 何より俺自身もそうやって仕留めてきた、ならばこれだけの実力者がそうしない理由はまず無いだろう。


 状況を変えるには、賭けに出るしか無かった。


 レイヴンマスクに叩きつけられた拳の1つが、頭蓋にまで響いた様な演技で鈍い動きで頭を床に預け、意識が揺らいでいる様な動きで曖昧な防御を見せる。


 弱った俺をこのままゆっくりと殴り殺す方向に進む可能性も、有り得ない話では無かったが俺には1つだけ確信があった。


 そのまま俺を時間を掛けて死ぬのを待つ選択肢ではなく、急いで仕留めるだろうという、理由が。


 俺の様子から“瀕死”を感じ取ったホーンズビーが腰を入れて、躊躇無く腕を鎚の様に大きく振りかぶった。


 そうだ。


 俺を、出来るなら素早く片付けたい筈だ。カラスを呼び出して敵を攻撃させる様な怪物は、生かしておくだけで常に超常的な方法で逆転の手を産み出しかねない、リスクにしかならない存在なのだから。


 腰を入れたホーンズビーの背中を膝で押し、体勢と重心を崩させてから相手の腕を巻き込む様に掴み、横合いへ転がる様にマウントポジションから抜け出す。


 そのまま上下を入れ替えポジションを取り返したかったが、相手が転がる途中で床を蹴って回転を加速させた為に勢いが有り余り、更に転がった。


 勢いを利用してもう一回転、と思った辺りで蹴り飛ばす様に突き放され、硬く冷たい床を転がる。


 冷たい床を見ながら、咳き込んだ。咳き込む度に、自分の骨に黒い泥が染み込んでいく様な、妙な違和感が痛覚の隙間に滲んでいた。


 倒れたまま恩寵者、ホーンズビーの方を振り返ると意外にもホーンズビーは素早く立ち上がり、俺から素早く離れようとしている。


 まだ、俺は立ち上がっていない。相手が倒れている有利に代わる有利を何か見つけたのか、それとも相手も想像以上に消耗していたのか。


 咳き込みながら、思考を巡らせるが答えは直ぐに出た。


 修道女達が投げ捨てていった、床に転がる武器を拾おうとしているのだ。


 それも、よりにもよってボルトが装填されたクロスボウを。


 此方のスパンデュールは破損していて、この距離では妨害出来ない。


 遮蔽物は近くに無い、床の冷気が伝わった様に血の気が引いた。


 重く痛む身体を叱咤して無理に身体を起こそうとするも、まだ立ち上がるには時間が掛かる。


 フカクジラの骨を削り出した蒼白い刀剣、ログザル。


 その不気味な刀剣が偶然にも自分のすぐ傍、手近な位置に転がっていた。


 投げ飛ばされた偶然か、と胸中で呟きながら這う様にしてログザルに手を伸ばし、何とか柄を掴んで握り締める。


 そうして振り返ったその瞬間、冷たい空気が全身に張り付いた。


 ホーンズビーが、はっきりと此方にクロスボウを構えている。


 倒れた相手に外す道理は無い、頭ならまだしも胴か脚を狙えばよっぽどの愚者でも無い限り、まず命中させられるだろう。


 そして、ホーンズビーが愚者で無い事は分かりきっていた。


 太い木製の軸に金属製の鏃、ボルトの切っ先が銃口の様に俺を見据えていた。


 ログザルを盾に出来なくはないが、無傷で防げる確率は5割を切る筈だ。


 あと数秒で、俺は死ぬ。もしくは死に等しい結果がもたらされる。


 極度に引き伸ばされた時間の中で、相手がクロスボウを撃つ事がはっきりと感じ取れた。


 ホーンズビーの肩に、僅かに力が入る。

 その瞬間。






 胸の内と眼窩の奥から、黒い淀みが濁流の如く噴き出した。






 引き金によってクロスボウが作動したのが、張り詰めていた弦が解放されたのが、視認出来る。


 金属製の鏃が飛んでくるのが、鮮明に見えた。


 左手の痣が一際大きく疼き、思考と結び付いた反射がログザルを握った右腕を振るわせる。


 俺の胴を目指して空中を飛来してくるボルト、その太い木製の軸を叩き折る様にして、ログザルが金属製の鏃を切り払った。


 真っ二つに叩き折られたボルトが冷たい床で跳ねる音、転がる音が地下に小さく反響する。


 そんな小さな反響が、自分が今どれだけの曲芸を行ったのかを噛み締めさせている様だった。


 俺は今、ヴァネル刀ことログザルで、クロスボウのボルトを切り落としたのだ。


 それも、至近距離から自身に向けて放たれた高速のボルトを。


 そんな自身でさえ信じがたい光景にホーンズビーが、装填されていないクロスボウを握ったまま呆然としていたが、思い出した様にクロスボウを横合いに投げ捨てた。


 濁ったものが身体の隅々まで駆け巡るのを感じながらも、此方も溢れだしそうになる様々な疑念と思考を脳から締め出し、呻き声と共に床に手を付いて立ち上がる。


 その途中、咳き込むフリをしながら真っ二つに叩き切ったボルトの鏃側を後ろ手に拾い上げ、絶対に相手へ悟られない様に左手へと忍ばせた。


 左腕を後ろに引き、右腕のログザルを構えると相手も此方から視線を切らないまま素早く移動し、蹴り上げる様にして少し離れた場所に合ったメイスを拾い上げる。


 “黒い淀み”が自分の中を駆け巡るのを感じながらも、深く息を吐いた。


 考えろ。


 そう胸中で呟いた瞬間、ふと蒼白い視界に違和感を覚えた。


 蒼白い濃淡で描き出された風景が歪み、色合いが極端になっていく。


 何だ?


 自分自身が黒く濁っていくのを感じながら、再び咳き込みつつ眼を瞬かせた。


 いや。


 別の視点、左目では歪んでいない。


 右目の視界が、歪んでいるのだ。


 今までに経験が無かったそんな光景に眉を潜めたその瞬間、不意に眼の奥で何かが音を立てて弾けた。


 呻き声と共に、歯を食い縛る。


 右目の奥から何かが、熱いとも冷たいとも言えない不快な感覚を伴いつつ、濁った何かが眼窩から溢れ出した。


 レイヴンマスクの下で目元から頬へと伝う何かに、思わず顔を抑えそうになるも理性で辛うじて抑制する。


 眼前のホーンズビーが、ほんの僅かに首を傾げた。


 集中しろ、左目は見えるんだ。敵の前で弱味を見せるな。


 悩むのも後悔するのも、生きて帰ってからにしろ。今は、戦う事が優先だ。


 細く長く、息を吐いた。


 ………クロスボウこそ防ぐ事は出来たが、消耗の度合いから考えても此方の不利は相変わらず揺らがない。そこは、否定しようが無い。


 それに今メイスという武器を持ってこそ居るが、奴は素手でも十分に強かった。


 例え万全でも一筋縄では行かないであろう相手に、此方は連戦と長時間の“力”の行使、今もこの身体を巡っている“黒い淀み”によって、かなり消耗している。


 その上、今は右目もまともに見えない状態だ。


 左手のボルトを、静かに握り締めた。


 強者相手にこの状況を覆して勝利するには、賭けに出るしか無い。


 しくじれば今度こそ致命傷を負うだろうが、他に手がある訳でも無いのなら奇策だろうと博打だろうと縋る他無かった。


 右目を閉じたまま、息を吸う。


 ボルトの鏃を左手で逆手に握り締めつつ、右腕のログザルを大きく振りかぶりながら一気に距離を詰めるべく、踏み込んだ。


 ホーンズビーは俺の攻撃を阻むのではなく迎え撃つつもりらしく、重心を僅かに前に寄せてただ素早く振れる様にメイスを構えている。


 気付いて、くれるなよ。そんな祈りにも似た言葉が、胸中に転がる。


 相手の動きに注意を払いながらも右腕のログザルで注意を引きつつ、身体で隠していた左手のボルトに肩から力を乗せた辺りで、弾ける様な速度でホーンズビーがメイスを突き出した。


 姿勢からして急に体重を乗せるのは難しい筈だが、それでも腕力によって金属製の重いメイスがダガーかレイピアの様な速度で、俺の左手に向かって突き出される。


 俺の、隠していた左手のボルトに向かって。


 そのメイスを握ったホーンズビーの右手を、正確に言えばその指を、振りかぶっていたログザルで真正面から切り払った。


 数本の指が吐き出される様に宙を舞う中、はっきりと苦悶の声を上げる相手を尻目に左手の折れたボルトを床に放り捨てる。


 真後ろが見えるどころか壁すら見透かせる奴等が、俺が後ろ手に拾ったボルトに気付くのは分かりきっていた。


 だからこそ、奴等は“俺が隠し持ったつもりのボルト”を不意打ちに使うと確信していた筈だ。


 右手のログザルを振りかぶるのも、左手のボルトから意識を逸らす為の策だと信じていただろう。


 実際には、意識を逸らすどころか振りかぶったログザルこそが本命で、折れたボルトは握り締めて左肩を強張らせてフェイントに使う以上の意味は、まるで無かったのだが。


 相手が取り落としたばかりのメイスを、蹴り上げる様にして左手で拾い上げる。


 万が一、俺が“隠している事が知られている上で気付いていないフリをしている”と知られていたら、ログザルの方を迎え撃たれて相当まずい展開になっていただろうな。


 更に踏み込みつつ振り下ろしたログザルが、相手の左前腕で受け止められる。


 だが、今度のログザルは本命では無かった。


 ログザルに意識が逸れた隙を突いて、“今度こそ本命の”左手により、腰の入ったメイスが深々と脇腹に食い込み、鎖越しに肋骨の砕ける感触を伝えてくる。


 鈍い音、重い声と共に俯く相手の不気味な仮面に、真正面から投げ付ける様な勢いでメイスを叩き込み相手が倒れた瞬間、メイスを放り投げて跨がる様な姿勢になりながら、逆手に持ったログザルに両手を添えて喉元に突き刺した。


 鎖の抵抗を感じながらも杖の様に、全体重を掛ける形で喉と頸椎にログザルの切っ先を無理矢理に押し込んでいき、遂に押し切る様にしてホーンズビーの頸椎を砕き、確実に抹殺する。


 そのまま刀身を抜かずに肉を裂く様に捻り、肉と筋を引きちぎりながら首を切断した。


 そして血塗れの首を身体から少し離れた所へ放ってから、立ち上がろうとして不意に転びかけて片膝を着き、大きく咳き込む。


 限界だった。


 咳き込みながらも深い呼吸を何度も何度も繰り返し、辺りを見回してからレイヴンマスクを顔の上にずり上げ、右目の辺りを拭う。勿論、手の返り血を拭ってから、ではあるが。


 蒼白い濃淡の視界では色までは分からないが、粘度から察するにどうやら血涙の様だった。それも、かなり血が多い血涙だ。


 ………不意に飛来するボルトを視認して切り払う、なんて芸当を不意にこなしたのだからまぁ血涙ぐらい出るのも当然、と思うしか無いか。


 改めて確かめてみた所、蒼白い視界を含め、右目は随分と視力が弱まっている様だった。


 眼球及び眼窩から伝わる疲労感からすると、どうやら極度の疲労による一時的な視力減衰の様だが………


 何にせよ、今も眼球の裏と胸の奥で渦巻いている黒い淀みの事を踏まえても、良い兆候ではない。


 何にせよ、急ぐしか無い事に変わりは無いだろう。


 何とか身体を起こし、ログザルを鞘に収めた辺りでふとホーンズビーの生首を拾い上げて手近な布袋に入れ、腰の辺りに革のベルトとフックで結わえ付けた。


 今回、ホーンズビーに限っては隠蔽を防ぐ為に可能ならば、ホーンズビー抹殺を証明出来る物的証拠を持ってこい、もしくは隠蔽出来ない形で残せ、との事だったが少なくとも生首なら充分な証拠になるだろう。


 生首を腰に下げた後ラドブレクを拾って背負い、ホーンズビーの机に向かうと幸いにも顧客名簿、及び非合法証書は直ぐに見つける事が出来た。


 それを背嚢に入れて咳き込みながらも、走って地下の入り口へと向かう。


 静まり返った地下を、何とか走りながらも頭の中では最後の問題が渦巻いていた。


 メネルフル修道院からの、脱出。


 ラシェルが起こした弾薬庫の陽動の効果など、考えるまでもなく消えているだろう。


 それに修道院地下からすれば警報が鳴らされている上にかなりの人数、それも恩寵者を目指す程の実力者が我先にと地下から逃げ出しているのだから、修道院側としても警戒していない筈がない。


 俺が奴等に振り撒いた恐怖がどこまで効いたか、効いているのか、に掛けるしか具体的な手は思い付かなかった。


 暫く走った後にあの聖女レンゼルが彫刻された大扉を静かに潜り、漸く地下の入り口に辿り着く。


 念の為に気配を探ってみたが、鳴り響いている警報の反響を抜きにしても意外な程に気配は感じられなかった。 


 咳を抑えながら地上へと出る階段を上がっていき、念入りに気配を探りながら修道院内に再び踏み出す。


 だが、警戒されているどころか地下の入り口付近には警報が鳴り響いているだけで、まるで人の気配が感じられなかった。


 蒼白い眼を、元の視界に切り換える。相変わらず、右目の視力は減衰したままだったが。


 どういう事だ?修道女達は皆、他の場所を警戒しているのか?


 全員がこの周辺に居ない、この局面においてそんな偶然が有り得るのか?


 腰からログザルを抜き、神経を張り詰めながら修道院離脱に向けて歩き出そうとしたその時、不意な気配に素早く背後を振り返る。


 振り返り、少し考えて見上げた先には黒革の防護服を着込んだレイヴン、ラシェルが壁の装飾の陰に隠れる様にして立っていた。


 仕草から察するに、どうやら俺を待っていたらしい。


「ラシェル?」


 そんな俺の呼び掛けに応える事無く、ラシェルが滑らかな動きで俺の元へと、移動術で壁を降りてくる。


 黒革の防護服に、塗り付けた様な血糊が幾つも見える辺りラシェルの方もどんな目にあっていたか、察しが付いた。


「顧客名簿と証明書は?」


 隣に降り立つなり、不躾にそう聞いてくるラシェルに指で背嚢を指すと、納得した様な仕草を返してくる。


「ホーンズビーは?」


 腰に下げた布袋を指で指す。


 布袋に視線を落としたかと思えば少しの間の後、ラシェルが顔を上げた。


 レイヴンマスクで表情は分からないが、どうやら感心しているらしい。


「まぁ、仮面だけ拾うよりは確実な証拠になるわね」


「どうして此処に居るんだ?」


 此方がそんな言葉を返すと、ラシェルが表情の読めないレイヴンマスクのまま此方に向き直った。


 陽動の効果が切れているのは当然にしろ、ラシェルが此処にまで来て俺を待つ理由が見当たらない。


 今回の様な任務の場合、最悪の事態になればラシェルだけでも離脱するのが現場として適切な判断だろうし、俺はその事態も想定していたのだが。


 少し俺を見つめた後、神妙な声音でラシェルが呟いた。


「事情が変わったわ」






 どうやらラシェルの話では、最初に弾薬庫のディロジウムが起爆した際、出来る限り騒ぎを引き伸ばすつもりだったのだそうだ。


 しかし装置が起爆した後、大騒ぎになる筈の弾薬庫を屋上から眺めながら、ラシェルはふと気が着いた。


 警報が鳴り響き、大声を掛け合って騒いでこそは居るものの、件の弾薬庫には修道女、敵兵が大して集中していない事を。


 メネルフル修道院の屋上からその光景を見ていたラシェルは、違和感を覚える。


 騒ぐのは分かる。修道院から修道女、つまり兵士達がハチの巣をつついた様に飛び出してくるのも、納得の行く話だ。


 だが何故、その巣をつつかれたハチどもは均一に広がる?何故先程、更に巣をつついた弾薬庫に偏らない?


 と、そこまで考えた辺りで修道女達が修道院の内部を捜索する兵よりも、修道院の外壁を警戒する兵に人員を割いている事、注力している事に気が着いた。


 あんなにも念入りに外壁を警戒されては、離脱するのが難しくなる。


 ブロウズが地下室でホーンズビーの喉笛を食い千切って、目当ての書類を漁ってくるのにどれだけ掛かるのかは分からないが、陽動に無反応となると、レイヴンには余りにも不利な展開だ。


 そうして、ラシェルは全てに合点が行った。


 奴等は最初から、この爆発がレイヴンによる陽動だと分かっている。


 今回の一件、自分達がこのラクサギア地区で燃料保管庫を爆破した時から今回の騒ぎが修道院は黒羽の団、ひいてはレイヴン達による襲撃だと気付いていたのだ。


 その証拠に、余程今回の襲撃を重大視しているのか修道女だけでなく、修道院外の修道服を着込んだ帝国軍の兵士まで動員させているのが見える。


「その時点から勘付いていたってのか?」


 思わずラシェルにそんな言葉を投げるも、当のラシェルは飄々とした語気で答えた。


「連中もバカじゃないって事ね。おそらく燃料保管庫を陽動で爆破した時、トルセドールの痕跡が欠片も見えなかった事から察したんでしょう。これはギャングの抗争じゃなくレイヴンの襲撃だ、って」


 いずれバレるにしても、最初の1回目から正体がバレるなんてやってられないわね。


 そんなラシェルの自嘲にも似た言葉を聞きながらも、頭を巡らせた。


 ラシェルの言う通りの状況なら、と言うより実際そうなのだろうが、非常にまずい状況だ。


「修道院の外は今、どうなってるんだ?」


「座った便器から零れたクソが足元の床に飛び散ってる様な状況よ。少しでも動けば絶対にクソを踏む羽目になるわ」 


 念入りに囲まれている状態と言う訳か。


 胸中で悪態を吐いた。目の前のラシェルは実際に悪態を吐いていた。


「どう出ても網に掛かる訳か。内部の敵は?」


 良く見ないと分からない程に僅かではあったが、ラシェルが肩を竦めた。


「少し前までは修道院の外壁、及び出入口に殆どの人員が集まってひたすらにレイヴンを警戒していたけど、痺れを切らしたのか少しずつ中に集まり始めてる。恩寵者が殺されただけあって随分と慎重みたいだけど、もう少ししたら此処にも来るのは間違いないでしょうね」


 胸中ではなく、実際に悪態を吐く。少し咳き込んだ。


 その上、時間も無いのか。これだけ苦労して怪物どもを相手にして自分まで怪物になったのに、何も持ち出せずに始末されて終わりなんて、ジョークにもならないぞ。


 何も希望が無くとも、俺とラシェルで最後の最後まで戦うしかないか、と悲観的な考えが頭を過ったが不意に顔を上げた。


 そう言えば、何故こいつはわざわざ此処に居たんだ?それも、あの悪名高い地下の入り口に。


 離脱も難しい状況で、わざわざ俺を探していた理由は何だ?先述の理由から離脱が難しいにしても、何故此処に?


 そんな俺の視線に気付いたのか、ラシェルが納得した様な仕草と共に手を差し出す。


「1人で離脱しても良かったけど、折角生きてるなら使えるものは使うべきね」


 ラシェルが差し出した手の意味が分からず、首を捻る。


 今更この女が、任務中に握手でも無いだろう。


「ディロジウム手榴弾はまだある?1つで足りるかも知れないけど念の為、2つ使うわ」


 あぁ、手榴弾か。確かに1つ持ってはいるが、何に使うのだろうか?


 地下では特殊すぎる環境と自身の消耗により、正直に言ってブラフと自決ぐらいにしか使い道が思い付かなかったのだが。


 懐から取り出したディロジウム手榴弾を片手で放ると、同じくラシェルが片手で受け取る。


「幾らあんたがクソ野郎でも、図面ぐらいは頭に入ってるわよね?」


 唐突にそんな事を聞かれ、反射的に「あぁ」と答えるが正直に言って、今からラシェルが何をするつもりなのかまるで分からなかった。


 質問しようかと一瞬だけ思ったがよくよく考えてみれば今回の任務に置いて、方針を決めるのも指揮を取るのもラシェルだ。


 こいつに質問の答えを期待する程、楽天家では無かった。


 何を言うでもなくラシェルが走り始め、此方も特に何を言うでもなく追従していく。


 先程の話の通りなら、もうすぐ修道女達が大群で踏み込んできてもおかしくない筈だ。


 余り、時間は無い筈だが何処に向かっているのだろうか?


 メネルフル修道院内部にこの包囲を切り抜けられる様な、抜け道は無かった様に記憶しているが。


 ラシェルが走っている途中、迷わず談話室の様な部屋に入る。


 談話室?この修道院から離脱するんじゃないのか?


 ともかくラシェルを追って部屋の中に入ろうとするも、何か別の部屋に繋がっている様子は無く入り口は今潜った扉だけだ。


 この部屋で何を、と俺が疑問に思うのと殆ど同時にラシェルが室内の棚を開け、迷う事無く大型のディロジウム式ランタンを取り出しては、俺を突き飛ばさんばかりの勢いで部屋を出ていく。


 あの時は即興の案の様に言っていたが、まるで予め計画していたかの様に無駄の無い動きだ。


 頭に隅々まで図面を叩き込んでいるのだろう、修道院内部を見知った我が家の様に突き進んでいくラシェルへ感心に近い物を覚えながら追従していくと、不意にラシェルが扉を開き階段を降りていった。


 近くの名札には“第3資材倉庫”と記されている。


 また、傍の壁には“改装中、立入禁止”との札も掛けられていた。


 資材倉庫?


 ラシェルが階段を降りていった事からも分かる通り、第3資材倉庫は恩寵者達が住み着いていた地下程に深くは無いにしても、倉庫自体が全て地下に存在する小さな倉庫だ。


 換気状況も良くなく他の第1、第2資材倉庫に比べて狭い為、緊急性の低い布等の余剰物資を置く様な“取るに足らない”倉庫の筈。


 迷い無く階段を降りていき、簡素な鍵が掛かった扉を解錠どころか脚で蹴破るラシェルを見て、益々疑問は深まった。


 こいつは、何をするつもりなんだ?


 そんな事を考えながら後を追っていくと、倉庫は入り口に掛かっていた札の通り改装中らしく、倉庫内は基礎配管を変える為か壁紙どころか壁そのものが大きく取り外されており、本来壁に埋まっている筈であろう幾つかの太い配管が剥き出しになっていた。


 古い配管を撤去していないのか、それともその古い配管を撤去する為の改装工事なのか、随分と年期の入った配管も幾つか見える。


 そんな中ラシェルは配管に駆け寄り、中身を確かめる様に配管を叩いてはレイヴンマスク越しに耳を配管に付け、今度は壁に耳を付けてから、確かめる様に基礎材が剥き出しの壁に手を触れた。


「いけるわね」


 そんなラシェルの言葉に、眉を潜める。

 いける?


「倉庫の入り口まで下がって、衝撃に備えて」


 此方の意見などまるで聞いていないラシェルの指示に苦いものを感じながらも、言われた通りに入り口辺りまで下がって壁に張り付こうとしていると、ラシェルが件のディロジウム手榴弾を取り出しているのが見えた。


 おい、本気かよ。


 そんな俺の声などまるで気にしていない様子でラシェルが手榴弾のピンを2つとも躊躇なく引き抜き、円筒型の本体と時限ゼンマイバネを両手で目盛り一杯に捻ってから比較的新しい配管へと放り投げる。


 そしてもう1つも同様に捻ってから放り投げると此方の方、倉庫の入り口へと素早く駆け戻ってきた。


 ラシェルが俺と同じく衝撃に備えるが如く、壁に張り付いた瞬間。


 ディロジウム手榴弾の轟音が鳴り響き、舞い上がった砂埃の匂いと燃焼により気化したディロジウムの匂いが倉庫の入り口から吹き出す。


 轟音が終わって壁から離れようとした俺を、ラシェルが壁に押さえ付けた。


 その瞬間に、先程とは比べ物にならない轟音と砂埃が倉庫中、そして倉庫の入り口から吹き出した。


 完全に不意を突かれたお陰で頭を壁に打ち付けそうになるが、辛うじて堪える。


 何だ?何が起こった?


 砂埃がやや収まった辺りで壁から離れたラシェルに手招きされ、倉庫内に入る。


 倉庫の中は崩れかけている、とさえ表現出来る程の有り様だった。


 其処らの壁に深い亀裂が入ってるのもあるが、何よりラシェルが注目していた配管だらけで基礎材が剥き出しだった壁には、人が歩いて通れる程の大穴が開いていた。


 配管の幾つかを引きちぎり、他の配管をへし曲げて大穴を作った様な光景に、思わず呆然とする。


 何だ?どうやった?ディロジウム手榴弾だけで、こんな大穴は絶対に開けられない筈だ。勿論、言うまでも無いが2つ投げたからと言って、衝撃が乗算される様な事も無い筈だ。


 どうやらその大穴は下方に繋がっているらしく、ラシェルがその穴に躊躇無く入って行き下方に飛び降りたのか、急に姿が消える。


 砂利の様な着地音の後、穴の方から歩く様な音が聞こえ始めた。


 何も忠告が無いと言う事は今まで通り追従してこい、と言う訳か。


 幾らか躊躇したが、他に説得力のある離脱ルートを提案出来る訳でもない。


 意を決して壁に開いた大穴に入り、ランタンであろう灯りに照らされている下方へと飛び降りると、穴は思った以上に深く衝撃を吸収するのに少しだけ苦労した。


 よく見ると、砂利かと思っていたものは全て焼却待ちの廃棄物の様な物で埋め尽くされており、随分な異臭がする。


 煉瓦、と言うよりは瓦礫の様な物まで見受けられた。


 と考えた辺りで、1つ疑問が解ける。


 飛び降りる距離が想像以上に感じたのも、左目だけで物を見ているからか。


 当然と言えば、当然の話だ。


「行くわよ。先に言うけど、脚を挫いたら置いていくわ」


 そう言ってラシェルが瓦礫で脚や足首を痛めない様に気を付けながら、前に進み出す。


 ランタンで照らされた灯りは想像以上にラシェルの為にしか使われていないらしく、少し苦労して歩きながらも口を開いた。


「歩きながらで良いから、せめて説明して貰えると助かるんだがな」


 随分な異臭だ。そんな事を考えていると少しの間の後、呆れた様な溜め息と共にラシェルが口を開く。


「………まぁ良いわ。シャーウッドを始末した時、机の中に書類が何枚もあったの覚えてる?」


「書類?」


 ラシェルの言葉に、瓦礫を踏み越えながら記憶を手繰ると確かにラシェルはあの時、シャーウッドの“遺言”が真実なのか確かめる為に、恩寵者達から投げつけられた机の施錠を解錠して書類を確かめていた。


 だが、目当ての書類が無かったが為に不機嫌に放り捨てていた筈だ。


「あの書類に、改装中の第3資材倉庫について説明されてたのよ。壁の中の配管を整備する為に、壁を剥がして基礎材と配管を剥き出しにするってね」


 少しだけ舌を巻く。こいつ、あの一瞬でそんな所まで見ていたのか?


 それだけの情報で倉庫の壁を突き破って大穴に抜け出す、なんて発想が出るなんてな。


 だがそんな説明だけで納得する程、俺も騙されやすくは無い。


「なら、あの大爆発はどういう理屈だったんだ?ディロジウム手榴弾程度じゃ、どう考えてもあんな大爆発にはならないだろう。2つ使ってもな」


「何の為に配管を狙ったと思ってるのよ。基礎材だけの壁なら手榴弾で突き破れても、この地下道に続く煉瓦の土台を突き破れる訳無いわ」


 いや、そもそもこの地下道の存在すら、俺はまともに知らなかったんだがな。少なくとも、任務の資料には無かった筈だ。


 そこまで考えてから、ラシェルの言葉をもう一度反芻した。


 配管?


「………………ディロジウム燃料、か?」


「そういう事、あの配管にはディロジウム燃料が流れていたのよ。微かにディロジウムの匂いがしたの、分からなかった?鼻が潰れてるなら、見て分かる様に見た目も潰しておく事ね」


 そんな一瞬でディロジウムの匂いなど分かるものだろうか、と疑問に考えた辺りで漸くからかわれている事に気が付いた。


 配管からディロジウムの匂いがするなんて、改装中の予定を知ったあの段階で分かる訳が無い。


「この段になってからかうなよ。初めて来たお前がディロジウムの匂いなんて知ってる訳無いだろう、何であの配管にディロジウム燃料が流れてるって知ってたんだ?」


 俺がそんな言葉を投げると、ラシェルが急に脚を止めて振り返った。


 虚を突かれて、少しばかり動揺するも此方も脚を止めて向き直る。


「どうした?」


 ラシェルが長い息を吐いて、再び前に向き直って歩き始めた。


「………まぁ良いわ。あんたの役割はあくまで地下の怪物どもと共食いする事だから、他の事まで期待するのは専門外だものね」


 どういう意味だろうか。ラシェルの言葉にそんな疑問を抱いていると前方から、振り返らないまま言葉が返ってくる。


「次からは、資料の図面をもっと詳しく読む事ね。文字が読めないクズの世話なんて二度と御免だわ」


 随分な言われようだが、返す言葉も無かった。


 奴は明言しないものの何を言いたいのかは明白だ。ラシェルは、どの配管にディロジウム燃料が流れているかまで正確に記憶していたのだろう。


 現に俺は配管までは何とか覚えていたが、あの配管にディロジウム燃料が流れているなんてまるで記憶に無かったのだから、完全にラシェルの手柄だろう。


 こいつが居なかったら、この任務はどうなっていた事か。


 廃棄物らしき破片と煉瓦の欠片を踏み越えながら、溜め息を吐く。


 相も変わらず、恐ろしい女だ。


「………此処の道は何処に繋がってるんだ?あの修道院地下よりは浅い階層みたいだが。方角的に、街の方に向かってるのか?」


「ここはラクサギア地区の古い地下道よ。随分古い上にカビだらけで、この街では連中の祖父の代からのゴミ溜めになってるから、この地区の連中は誰も近寄らないのよ。今回の件でいよいよ崩落の危険まで出てきたから、益々近寄らなくなるでしょうね」


 ラクサギア地区の皆が見向きもしない地下道、か。


 そう言えばラシェルは元々この地区の出身だと、説明された気がするな。


 あの時、何故ラシェルがこの地下道に向かう前にディロジウム式のランタンを手早く取り出したのか、これで納得が行った。


 この古い地下道に街の連中が誰も近寄らない事、それによってこの道がまるで整備されておらず灯りが一切無い事を、ラシェルは知っていたのだ。


「地下道の先は?」


「修道院から離れた街中よ。一応言っておくけど、トルセドールの敷地内だから問題ないわ。奴等、随分とレイヴンに好意的みたいだし」


 そうか。こいつは確か、黒羽の団に入る前はトルセドールに居たんだったか。


 正直に言うと他にも聞きたい事はあったが、ラシェルが抜け道として決めていたのなら問題無いだろう。


 そんな事を考えていると胸の奥で不意に黒い何かが脈打ち、思わず咳き込むとラシェルが足を止めないまま振り返った。


 そして前に向き直り、何も言わないままレイヴンマスクの装着具合を確かめてから、改めて歩き出した。


 今の俺の咳がこの悪臭か、何ならカビにでもやられたのが理由と思っているのだろう。


 今も胸の奥と眼窩の裏で脈打つ、黒い淀みと未だ視界の歪んでいる右目に少しだけ、想いを馳せる。


 あの時、あの修道院長室で恩寵達と向き合った時。


 奴等は俺に「穢らわしい」「魂の淀んだ者」「堕ちた者」と言っていた。


 地下の修道女達の、怯えきった様子を思い出す。


 奴等はあの恩寵者達と同じく、眼では無いもので俺を“視た”結果、震え上がる程に俺に恐怖していた。


 今更、血だの刃だのに怯える様な連中ではない。


 そしてあの地下において、眼前にまで死が迫り、鼻先で死を嗅いだあの時。


 至近距離から放たれたクロスボウのボルトを、俺は飛来するボルトの軸と鏃を確かに視認した上で、狙った通りに軸をログザルで切り払った。


 何処にボルトが飛ぶのか、いつ放たれるのかも分かっていなかったのに。


 少し意識して握り締めると、左手の痣が直ぐ様蒼白い光を帯びる。


 一切の光が無い暗闇でギャングや“不敬者”を叩き潰してきた怪物の様な連中を、俺は一切光を灯す事無く連中を食い破りカラスに襲わせ、生首を引きちぎったのだ。


 俺はあの蒼白い、淀んだ力に引き返せない所まで沈み、侵され、本物の怪物となった。


 使命の為にこの身を堕とす事に、後悔は無い。少なくとも、今の所は。


 だが、だがもしも。


 俺がこのまま蒼白い力を使い続けて一線を踏み越え続け、俺を成している全てが、俺を俺足らしめている全てが、何もかも取り返しの付かない物に染まってしまったら。






 俺は一体、何者に成り果てるのだろうか?

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