218.6
避けたい選択肢ではあった。
奴等に対して確実に不意を突けるカードは出来る限り温存したかった、と言うのが理由の1つ。
以前と同じ屋内とは言え、以前と違う状況では必ずしも上手くは作用しないのでは無いか、もしくは悪影響の方向に作用するのではないかと思っていた事が1つ。
そして何より、先程から脈打ち続ける痣から自身の中に溢れ出す、“黒く淀んだ何か”にこれ以上侵されてしまえば自身を見失い、俺は俺以外の“信念すら腐りきった何か”に成り果てるかも知れない、と言う理由が大きかった。
ラスティを握ったまま、砕かんばかりの力で抑えられている左手の痣に意識を集中させる。
歯を喰い縛りながら意識を集中させ、左手に熱を感じながらラスティに掛かった指を動かす事無く、何かを“抉じ開けた”。
焼き付く様な熱が以前に比べて随分と和らいでいる事、あの冷たく黒い淀みが俺の奥で馴染んで行く事に不安とも恐怖とも言いきれない感情を覚えながら、左手から黒い霧を噴出させる。
此方を抑え込みながら喉元に指先を差し向けているロラが、眼球が無いにも関わらずはっきりと顔を俺の左手に向けたのが見えた。
人の悲鳴と鳥の咆哮を織り混ぜた様な、奇怪な声で哭きながら黒い霧から次々に不気味なヨミガラスが数羽、羽ばたいていく。
足を踏まれ、片手を抑えられ片手が塞がったまま、眼窩を抉られた不気味なカラスに意識を集中させると予想通りに、カラス達は此方の望んだ通りに動いた。
カラス達が目の前のロラではなく、その背後のゼナイドへと一斉に襲い掛かっていく。
ストルケインでラシェルを貫こうとしていたゼナイドは、悲鳴こそ上げずストルケインで冷静にカラスを追い払おうとしていたものの、此方がカラスを“喚んだ”辺りから目に見えて動揺していた。
不気味な、濁った鳴き声と共に矢の様な突撃を繰り返すカラス達。それをラシェルから奪ったストルケインで、動揺しながらも何とか追い払おうとするゼナイド。
時間にしてみれば、数秒間。
その数秒間を逃がさず素早く立ち上がったラシェルが、此方のカラスに一切動揺する事無くゼナイドの手へ正確な後ろ蹴りを放ち、ストルケインをもぎ取る様にして蹴り払った。
音を立てて転がっていくストルケインには目もくれず、カラスの襲撃に意識を割かれているゼナイドの拳を片腕で払うと同時に、もう片腕の掌底で音がする程にゼナイドの顎を打ち上げる。
カラスを意識してラシェルの邪魔にならない様にしつつ、ゼナイドの意識や注意を割く様に攻撃させる中、更に追撃を掛けようとするラシェルの腹へゼナイドの拳が、抉る様にめり込んだ。
空虚な眼窩のヨミガラスに対する動揺も抜けきらないまま、それでも反撃するゼナイド、恩寵者に歯噛みする。
奴等には眼球、視界が無いのだからヨミガラスを目の前に持ってきて目眩まししても無意味だろう。
やはり、カラスの攻撃によって意識を割くしかなかった。
レイヴンマスクから呻き声を滲ませるラシェルの脚に蹴りが入り、そこから口火を切った様に鎖骨、脇腹、中心線に次々と拳を叩き込まれる。
連撃の合間、カラスに意識が逸れた所を突く様に放ったラシェルの肘打ちをかわし、ゼナイドが更に脇腹へ回し蹴りを放った。
おそらく奴は視界が無い故に常人なら視界外になる方向、真横や背後も常に“視えている”のだろう。
背中から急にカラスを突撃させても、動揺させる事は出来ない訳だ。
加えてカラスを突撃させた程度ではチェインメイルを着込んだ“恩寵者”には、大した負傷は見込めなかった。
頭部等を狙わせれば的確に防がれるか回避されるし、かといって正面にカラスを入り込ませればラシェルの邪魔になる可能性が高い。
回し蹴りを食らい、少し重い音と共に後退るラシェルに踏み込みながら、ゼナイドが放った拳を前腕で受けたラシェルが不意に跳んだ。
後ろに、では無い。
受けた拳からそのまま腕を掴んだラシェルが、不意に真上へ跳躍したかと思えば両脚をゼナイドの首と胴に巻き付かせた。
徒手格闘術、取り分け関節技を知っていればで知らぬ者は居ない、とまで言われる代表的なアームロックだった。
音が聞こえそうな程にラシェルがアームロックを掛けた腕を捻り、ゼナイドの肘関節を損傷させたのが俺から見ても分かる。
しかし背後が見えている筈の恩寵者、目の前で俺を抑え込んで命を奪わんとしているロラには、微塵の動揺も見られなかった。
毒牙の様に俺の喉を狙う指先も、まるで逸らせそうに無い。
それだけ信頼があるのか、と思った瞬間に不意にラシェルの身体が浮いた。
再び飛び上がったのではない。
と言うより、ラシェル本人でさえこの浮遊は予想外だっただろう。
当のゼナイドがラシェルを腕に絡み付かせたまま、肘を痛めたままの腕で持ち上げたのだ。
腕1本で、人間を。
ロラの毒牙の様な指先が、更に喉元へ近付く。
埃が立ち上がる程の音と衝撃でゼナイドが、持ち上げたラシェルをそのまま床に叩き付けた。
肺の空気を絞り出されたのがここからでも分かる様な声で、ラシェルが呻き声を上げる。
まずい。
腕こそ外れなかったものの、ゼナイドが力む様な声と共に再びラシェルを掲げる様に高く持ち上げた。
その瞬間、急にゼナイドが先程の力む声とは違う、足首を挫いた様な声を上げる。
アームロックを掛けたままのラシェルが、ゼナイドの指をへし折ったのだ。
叩き付けるとはまた違う、力が抜けた様に床に“降ろされた”ラシェルが気を入れ直す様な声と共に、背中を床に着けたままアームロックを掛けているゼナイドの腕を思い切り捻った。
腐った大木が折れる様な、渋い音と共に目に見えてゼナイドの肘関節が破壊され、はっきりと苦痛の叫び声が上がる。
その叫び声を、俺を抑え込んだまま“視ていた”であろうロラが遂に、僅かばかり動揺を見せた。
その一瞬、カラスを素早くラシェルとゼナイドの側から此方に呼び戻しつつ、動揺の隙を突く様に指先を逸らし相手の脇の下に自身の頭を通す様にして、ロラの胴を抱え込む。
左手を抑え込んでいる手が緩むのを感じながらロラの胴を抱え上げ、俺の背面にあるであろう頭部を床に叩き付けるべく、後ろの棚ではなく距離のある横合いへと、躊躇無く跳んだ。
高さと重力を利用する様にして自分ごとロラを床に叩き付けるも、上手く衝撃を逃がした相手が転がりながらも此方を遠ざける様に蹴飛ばす。
蹴り飛ばされ、転がる様にして距離を開けられたが、そのまま距離を取りつつ立ち上がった。
取られた距離を活かす様に、此方も背中からフカクジラの骨で造られた斧、ラドブレクを抜き放つ。
あの状況から投げに移行すれば相手が組み合いを避ける事は、先程ラシェルがゼナイドの肘を捻り折った事からも予想出来ていた。
同じ負傷、同じ事態を連想させる事からも、一旦距離を取るのは想定内だ。
出鼻を抑えられず、背中のラドブレクを抜き放つには絶対に時間、距離が必要だった。
一方、相手も足元からメイスを拾い上げるのを見ながら深く息を吸う。
ラスティを左腕のガントレットに収めつつ、両腕でラドブレクを振りかぶった。
相手も両腕でメイスを振りかぶり、お互いが一切の躊躇無しで互いの武器を、火花を散らさんばかりに激突させる。
金槌で金床を打った様な鈍く重い音と共に、お互いの武器をぶつけあった。
繰り返す様に再び互いが武器を振りかぶるも、相手が素早く防御の構えを取りメイス全体を使う様にしてラドブレクのピック部分を受け止める。
ラドブレクが切り払う様に弾かれ自由になったメイスが素早く振り上げられるも、すかさず叩き落とす様にして勢いの付いた打撃を食い止めた。
前回、カラスを呼び出した時に比べ随分と和らいでいた左手の熱が、不意に灯火が消える様に収まる。冷めきった、と表現しても良いかも知れない。
その途端、俺の意思から離れた後も自律的にロラを攻撃していたカラスが、不意に黒い煙へと解れて霧散した。
だが左手の熱の変動によって予め霧散とは言わずとも、カラスの消失を予期出来ていた為、すぐ意識を集中させる。
再び相手が振りかぶるのに合わせ、此方も打ち返すべく構えたが一瞬、妙な気配を感じた。
打ち込んでくるタイミングを僅かに遅らせるフェイント、そして巧妙な狙いの変更により胴の辺りで打ち合う筈だったメイスが顔面近くへと、勢いの付いた先端と共に迫る。
身体を引いてかわすべきだ、と刹那の中思ったがすぐに否定して前に出た。
こいつは、俺が咄嗟に身を引く事を見込んでいる筈。
思った通りの衝撃と共に、メイスをラドブレクの斧頭間近の柄で受け止めつつ、斧頭の鉤部分で掛ける様にしてメイスを絡めて斧頭ごとロラから引き離す。
相手が両手でその“引き離し”に対抗しようとした瞬間に片手を離し、ガントレット操作で逆手に掴み取ったラスティをロラの脇腹に突き刺した。
金属製の仮面をしていても分かる程に、身体を強張らせる相手がラスティを抑えようとする前に、ラスティを捩ってから素早く引き抜く。
反射的に振るわれたメイスを咄嗟にかわした瞬間、鈍い音がした。
俺達ではなく、ロラの背後から。
きっと拾い上げたのだろう、ラシェルが両手で打ち込んだメイスがまともに命中し、ゼナイドの膝を砕いた鈍い音が此方にまで聞こえてきたのだ。
声にならない声と共に転んだ相手に、確実に相手を仕留められる様、“万が一”を潰す為にラシェルがゼナイドの足首、踵の辺りを砕こうと迫るもゼナイドが仰向けに倒れたまま、背中で這う様にしながら近くのクランクライフルを咄嗟に拾い上げた。
ライフルの持ち主の事を考えれば、ディロジウム金属薬包が装填されている事は確かめるまでもない。
片腕にも関わらず、ゼナイドがピストルか何かの様に長いライフルを構えた。
ディロジウム銃砲の蒼白い火と、空気を突き破る様な銃声。
そしてライフルの先、銃口をラシェルがメイスで叩き払ったのは、殆ど同時だった。
片手でライフルを構えた事、そしてライフルが故の銃身の長さが、今ばかりは仇となる。
これがもし銃身の短い、レバーピストルでも握っていたならば、メイスで叩き払う音の代わりにラシェルが膝を付く音か、溢れた鮮血が床に滴る音がしていただろう。
だが現実には起きた事しか起きない。
ゼナイドが、窮地に陥った。
当然、ロラにもそれは伝わっている。
ラドブレクのピック部、ではなく斧部を大きく振りかぶった。
此方の全力を迎え撃つべくロラもメイスに両手を添え受け止める、何なら打ち返す気概と姿勢を見せる。
“視えている”が故のあからさまな動揺、脇腹からの無視できない出血、目の前の“グロングス”。
これだけの悪条件によって、“恩寵者”ロラはある1つの事を見逃した、もしくは対応を誤った。
俺がフェイントを交え全力で打ち込んだラドブレクの狙いが、メイスではなくメイスを握っているロラの手だと言う事。
小骨を折る音を交えた金属音が響き渡り、指と共に血塗れのメイスが宙を舞う。
それを掻き消す様な悲鳴が混じる中、振り抜いたラドブレクを返す刀で再び振りかぶった。
次に向ける面は、斧部分では無くピック部分。
更なる踏み込みと共に、渾身の力を乗せたラドブレクのピックがロラの腿側面へと深々と突き刺さる。
肉の感触以上に、大腿骨を捉えた感覚があった。
恐らくは骨を不完全ながらも砕いている。間違いなく、亀裂は入っている。
そんな手応えがあった。
ピックを引き抜き、蹴られた獣の様な悲鳴と共に砕かれた方の膝を着いたロラに、真上から斧を振り下ろすべくラドブレクを振りかぶる。
その瞬間、痣が呼応するかの如く一際強く脈打った。
左手の熱が伝わったかの様に、ラドブレクが革手袋の上からでも幾らか感じられる程に、熱を持つ。
フードに覆われていた頭頂部から鼻骨の辺りまで、深々とラドブレクの斧頭が食い込んだ。
歪み、中途半端に外れた金属製の仮面が血を伴って顔から離れ、音を立てて床に落ちる。
感触からしてどうやらフードの中にも被るチェインメイル、一部ではコイフとも呼ばれていた物を被っていた様だが、ラドブレクの勢いと威力によって編んでいた鎖が半端に裂けたらしい。
確かに首、頸椎まで割るつもりで打ち込んだにしては、鼻骨の上程度で斧が止まっている辺り効果はあった様だ。
ラドブレクの刃が食い込み、ロラの頭が膨らむ様に頭蓋が割れ、意識が完全に断絶された事を確認してから膝を着いた相手の肩を蹴り飛ばす様に、ラドブレクの刃を引き抜く。
血と共に僅かばかり、脳の欠片が斧頭にへばり付いたが適当に振り払って脳の欠片を床に散らすとログザルの時と同じく、微かな焦げる様な音と共にフカクジラの骨の刃が返り血を吸っていた。
再び不気味な光沢を見せる蒼白い骨の斧頭を尻目に、ゼナイドの方に加勢しようとしたその瞬間ラシェルの咆哮が響く。
そちらに顔を向けると、片肘と片膝を破壊したゼナイドの“動く方の腕”を踏みつけたラシェルが、逆手に持ったストルケインで胸を串刺しにしている最中だった。
文字通り血反吐を吐く相手に咆哮を上げながら、何度もストルケインの穂先を仰向けのゼナイドの胸に突き刺すラシェル。
繰り返し突き刺す内に動かなくなっていくゼナイドに対し、最後に一層ストルケインを振りかぶったラシェルが仮面を打ち砕く様に、両手でゼナイドの顔面を縫い止める様に床まで貫いた辺りで不意に部屋に静寂が訪れた。
と思ったら、直ぐ様その静寂を打ち破る様に警報が鳴り響いてくる。
この部屋へ入る際に両扉を机で粉砕した音、カラスが呼び出された時の人の奇怪なな哭き声、ディロジウム銃砲が発砲された音。
当然と言えば当然か。
俺がラドブレクを背負いログザルを拾い上げる間、修道院長ユーフェミア・シャーウッドは武器すら拾い上げず、立ち尽くしていた。
石膏か何かで塗り固めたかの様に動かない様子を見ると俺達レイヴン、邪神グロングスを崇拝する“忌むべき邪教徒”がかの崇高なテネジア教、その中でも取り分け敬虔な教徒“恩寵者”を打ち破ってしまったのが、本当に信じられないのだろう。
きっと、今も彼女の中では太陽が空の底から上がってくるより、信じられない事が起きているのは間違いなかった。
認めたくない事、受け入れたくない事とは違い、心の底から信じられない事は人の意識と時間を止めてしまう。
まぁ、信心深い者では無くとも目の前の奴が手からヨミガラスを産み出したりする様を見れば、心底驚くのも無理は無いが。
何にせよ時間が無い、問い詰めなければ。
空だったスパンデュールの弾倉にボルトを装填しつつ、いざ修道院長に詰問しようとした辺りで不意に顔を向けた。
ゼナイドの顔面からストルケインを引き抜いた体制のまま、ラシェルが立ち尽くしている。
片腕を踏みつけた脚すらも、動かさないまま。
レイヴンマスクの下が空虚になってしまったのかと思う程に、それこそ修道院長ユーフェミア・シャーウッドの様に石膏で塗り固められたが如く、ラシェルが立ち尽くしていた。
「おい」
返事は無い。反応も無い。
相変わらず動かないシャーウッドから視線を切り、ラシェルに幾らか歩み寄る。
「おい、大丈夫か?」
そこまで呼び掛けると、遠くから名前が聞こえた様にラシェルがレイヴンマスクに覆われた顔を微かに上げた。
「何?」
「大丈夫か?」
呆然としている、と言う言葉が的確に当てはまる様な様子のラシェルにそう呼び掛けると、ラシェルが思い出した様にゼナイドの身体から脚を離す。
「大丈夫………ええ、大丈夫よ。大丈夫」
正直に意見を述べるなら明らかに動揺している事や、何故よりによって今動揺しているのかについて質問したい所だったが、時間が無かった。
それにラシェル程の優秀なレイヴンならば、こういう時にすぐ目的と優先事項を思い出せるタイプだと言う事は知っている。
無意味だと分かっているだろうが、それでも区切りを付ける様にストルケインの穴が空いたゼナイドの顔面を踏みつけてから、ラシェルが修道院長の方へと向き直った。
先程、呆然としていたのが嘘の様な足取りでラシェルがストルケインを手に修道院長に歩み寄っていくのを見て、此方もログザルを片手にゆっくりと距離を詰めていく。
血塗れの防護服を着込んだレイヴン2人が歩み寄ってくる、というのは目が覚めるには充分な光景だったらしく修道院長、シャーウッドが思い出した様に後ずさった。
抵抗の意志が残ってないのが明らかなシャーウッドに対し、ラシェルが辟易した様な仕草で展開していたストルケインを格納し、背負う。
踵が引っ掛かったのか足が縺れたのか、躓いた様に後ろに転んだシャーウッドは座り込んだまま、未だに信じられない様な目をしていた。
警報が鳴っている中、グレムリンにボルトを装填し直したラシェルがいつもの調子で呟く。
「他の奴隷業者が“聖なるあんたら”を裏切らない為の、“非合法証明書”がこの部屋にあるんでしょ。何処にあるの?」
「非合法証明書?」
この部屋にあるのは分かっている、と此方が言う前にシャーウッドの顔面にラシェルのブーツが真っ直ぐにめり込んだ。
悲鳴と共に蹴り倒されるシャーウッドには見向きもせずにラシェルが身を翻し、ディロジウム金属薬包が装填されているであろうクランクライフルを拾い上げる。
俺のログザルは必要無さそうだな。
そんな考えが頭を過るも、表に出さない様にしつつ引き継ぐ形で質問を続けた。
「メネルフル修道院の非合法奴隷売買を、一方的に暴露されない為の“非合法である事をお互い認知していた証明書”だ」
俺の言葉に対してシャーウッドが何かを説明しようとした瞬間、ラシェルの握ったクランクライフル、その銃口に取り付けられていた銃剣が横顔を殴る様に叩き付けられ、またも悲鳴と共にシャーウッドの頭部が大きく揺れる。
どうやら銃剣の刃の部分で殴ったらしく、耳の辺りから口元まで頬の肉が深く切り裂かれていた。
「此方は何もかも調べてきてんのよ、ユーフェミア。“あったら良いな”でこんな事してると思う?」
血塗れの顔のシャーウッドが、ラシェルから此方に視線を向ける。
俺が1歩前に出ると、視線が伏せられた。
万が一にも、自分が助からない事を察したらしい。
「何処にあるの?“恩寵者”サマはもう助けてくれないわよ」
そんなラシェルの言葉に、頬の裂傷から真っ赤に染まった歯をちらつかせながら、話し難そうにシャーウッドが口を開いた。
「地下に、持っていった」
ログザルの刀身がが脛の辺りの肉を骨に当たるまで切り裂き、食い込む。
鋸を引く様にログザルを引き抜くとシャーウッドが苦痛の声を上げ、脛の辺りを押さえた。
「嘘じゃないわ、嘘じゃない」
苦痛に呻きながらもシャーウッドが言葉を続ける。
「………今朝、恩寵者様が地下に持っていったの」
これ以上顔を痛め付けると最悪、話せなくなる可能性があった。
もう片方の脚でも切り裂くか。
そう思いログザルを振りかぶろうとした辺りで、ラシェルが遮る様に俺の1歩前に出る。
「………恩寵者が?」
正直に言ってラシェルが真面目に相手の言葉を聞くとは、意外だった。
てっきり痛め付け過ぎて口が聞けなくならない様、自分が“手綱を引く”係かと思ったのだが。
「“何か恐ろしいものが此処に来る”、“念の為に地下にこれは持っていきましょう”って………」
シャーウッドが頬を押さえながら些か聞き取りにくい発音で話す言葉に、ラシェルがマスクの上からでもはっきり聞き取れる程の舌打ちを溢す。
「小便漬けの、糞売女どもが」
そう呟くとラシェルが銃口をシャーウッドの、血塗れの顔面に突き付けた。
「殺すつもりは無かったけど、嘘を吐く修道女なんて生かしてもしょうがないわね」
「嘘じゃないわ、嘘じゃない」
先程銃剣で切り裂いた頬とは反対側の頬に、クランクライフルの銃床が重い音と共に叩き付けられる。
真っ赤な歯が赤い線を引いて飛び、軽い音を立てながら床で跳ねた。
「嘘じゃないなら、あんたらが毎日ケツ舐めてるテネジアにでも誓ってみなさいよクソッタレ」
「いつもはあの机に入れてるの!!机の鍵もあるの、ほら!!ここにあるの!!」
胸元から首に下げていたであろう鍵を取り出し、血で鼻が詰まった声のシャーウッドが此方に見せつけながら懇願する。
「それがどうしたってのよ、地下に持っていったなら机の鍵が何の役に立つの?」
「確かめたら本当だって分かるわ!机の中にも入ってない!開けて!確かめて!」
シャーウッドの懇願に辟易した様子のラシェルが、再び顔面にライフルの銃口を突き付けた。
もう一段低く、冷たくなった声でラシェルが続ける。
「あんたらが人に信じて欲しいなら、方法は1つでしょうが」
警報が鳴り響く中、それでもはっきりとシャーウッドが血を飲み込む事が聞こえた。
「テネジアに、誓ってみなさい。あんたらが大好きな、あの聖女サマに」
レガリスでも有数の宗教地区たるラクサギア地区、そしてその地区内に存在するメネルフル修道院。
数多の“背教者”を相手にして、この修道女達は文字通り叩き潰してきた。
信仰の為ならばどれだけの血が流れようとも、またどれだけの血を流そうとも厭わなかった。
それだけの信仰の元に生きている者達が、信仰している神に誓う事がどれだけの意味を持つかは、言うまでも無い。
それでも修道院長、シャーウッドは迷わなかった。
「誓っても良いわ!!証明書は地下に持っていかれて此処には無いの!!」
「御託は良いのよ、誓ってみろ!!!!」
そんなシャーウッドに対して、意外な程の大声でラシェルが吠える。
濁った声のまま、血以外の物も鼻に詰まらせながらシャーウッドが必死に叫んだ。
「聖母テネジアに誓うわ!!」
轟音と共にディロジウム特有の蒼白い炎が、シャーウッドの顔と頭を幾らか食い千切る。
轟音の反響が警報の音に混じる中、銃口から煙を上げるクランクライフルをシャーウッドに放ったラシェルが、スラングで悪態を吐いた。
「面倒な事になったわね。帳簿も確か地下でしょ?」
ラシェルの言葉に、レイヴンマスクの下で苦い顔をする。
そう、元々メネルフル修道院の地下に非合法奴隷売買の顧客名簿、及び帳簿を保管しているという情報だった。
事前情報の正確性は、シャーウッドの“今朝になって証明書を地下に持っていった”という証言からも、信頼して良いだろう。
逆に言えば、直前までは情報通り“非合法証明書”はこの部屋にあったと言う事なのだから。
「予定通りにやるしか無い」
そう言葉を返しつつも、並列的に思考を巡らせる。
当初の予定としては俺が“恩寵者”達の巣くう地下にこのまま向かい、ラシェルが先程の弾薬庫の破壊工作を利用しつつ他の敵を引き付ける予定だった。
恩寵者達を、隠密性を保ちつつ排除する事は困難と当初から予想されていたので、隠密性を保っている内に修道院長を暗殺し、その後に隠密性を失う事を覚悟で地下に飛び込む予定だったが………
任務内容に大きな変更は無いが、大きく予定を詰める必要がある。
修道院長は排除したが、帳簿同様に証明書も地下に移動してしまっている上に、まだ修道院長室に居る時点で既に警報が鳴ってしまっていた。
只でさえ激戦が予想される上に、不確定要素が修道院地下での戦闘が更に条件の過酷な物になってしまった事は否めないだろう。
視界の端で、ラシェルがシャーウッドの首からもぎ取った鍵で先程投げられた机の中を確かめていた。
目当ての書類は本当に無かったらしく、何やら数枚の書類を不機嫌そうに宙に放り投げている。
そんな光景を尻目に、口から声が零れた。
「まずいな」
その瞬間、遠くの扉を蹴破る音に複数の足音が続き、俺とラシェルが素早く振り返る。
クランクライフルを構えた修道女が3人程、慌ただしい足音と共に扉が粉砕された廊下の先に現れていた。
発砲の機会を合わせる事も無く、先走った様に1人がライフルを構える。
お互いを弾き合う様に俺とラシェルが身を翻すと、思ったより近距離の“惜しい”場所の壁が弾丸で抉られた。
その1人が焦った様に素早くクランクを回し始め、金属薬包の排出に取り掛かった辺りで他の2人がライフルを構える。
「撃て!!」
その瞬間に床を蹴り上げる様に駆け出し、急速に修道女達へ距離を詰めながら素早くライフルを構えている1人の顔面に、スパンデュールのボルトを放った。
軽いが硬質な音と共にボルトを鼻骨から生やした修道女が、声も無く少し頭を仰け反らせる。
その修道女のライフルから蒼白い火花と共に、銃声を纏った弾丸が俺達の幾らか上の空気を貫いていく中、ラシェルが放ったであろう金属のボルトが同じ様に隣の修道女の眼窩を突き破った。
仰け反る、と言うよりは頬を殴られた様に横を向いた修道女が、疲れた様に床へ崩れ落ちる。
更に加速しつつ息を上げながら、クランクを回している修道女に向けて走りながらスパンデュールから、ボルトを放った。
風切り音と共に、喉を突き破られた修道女がクランクから片手を離して喉を抑え、俯いた辺りで加速した勢いと体重を乗せる様に跳躍する。
申し分ない勢いと理想的な加速を経た体重の全てが、片膝に集約される形で少し俯いていた相手の顔面にめり込んだ。
膝蹴りでありながら、両足蹴りを喰らった様な勢いで相手が仰け反り、後頭部を砕かんばかりの音と共に床へと叩き付ける。
「予定通りやるわよ」
おそらくは歯であろう欠片が跳ねる音が反響に混じる中、同じく走りながら加速していたであろうラシェルが後ろから呼び掛けてきた。
言葉は少ないが、何を伝えたいかは言うまでもない。
「ああ」
そう短く返しながら頭の中に描いた地図を、辿る様に駆けた。
ブーツが床を噛む音を鳴り響く警報に編み込みながら、素早く角を曲がりエレベーターへと向かう。
まだ奴等はエレベーターを通って俺達が侵入した、とは断言出来ない筈だから具体的な対処が無い事は分かっていた。
エレベーターに辿り着いた途端に両手を組んで土台を作り、素早くラシェルの方を向くとラシェルも直ぐ様俺の組んだ手にブーツを乗せ、俺の手を踏み台にする形で真上に飛び上がる。
飛び上がったラシェルが片手の握力、というより指の力だけでエレベーター上部の僅かな段差を摘まむ様に掴まり、片腕でぶら下がったままスムーズに片手で整備用ハッチを開けた。
指の力だけでぶら下がっているにも関わらず、棒でも掴んでいるかの様な安定性で身体の勢いを付け、ラシェルが足からハッチの中に飛び込む。
勢いのまま、付近の壁を蹴り上がり幾らかの高さを稼いだ後、開いたままの整備用ハッチをラシェルの後を追うように足から通りぬけ、ワイヤーに掴まると既にラシェルはエレベーターのワイヤーを上方に登り始めていた。
上方に向かっているとなると、先程の台詞からも考えられる通り、“予定通り”やるつもりなのだろう。
ネメルフル修道院の地下に単身突入し、“恩寵者”オフィリア・ホーンズビーを抹殺して“帳簿”と“非合法証明書”の2つを手に入れる。
状況によっては、と言うよりはまず間違いなく他の“恩寵者”達とも戦闘になる事が予想されるからこそ、ラシェルがあの弾薬庫の破壊工作も利用しつつ、地下以外の敵を引き付けてくれるのがこの任務で取り決められていた予定、作戦だった。
エレベーターのワイヤーを登るラシェルとは逆に、此方は下に滑り降りていく。
あの破壊工作を利用したラシェルが何処まで敵を引き付けられるのか、また自分が地下で戦う時間は何れ程あるのか。
ラシェルもやられてしまっては本末転倒だ、状況次第では時間稼ぎを切り上げてメネルフル修道院から外に向かい脱出を図る筈だが………
と、そこまで考えた辺りで複雑化し始めた思考を切った。
ラシェルの事で現状、俺が支援出来る事は無い。目の前の任務に集中しろ。
出来る限り迅速に、“恩寵者”達を排除し、目当ての物を手に入れ、脱出する。突き詰めた所、それ以上に優先される事は無い。
中々の距離を、革手袋や防護服の摩擦を頼りに下方へと滑り降りて行く中、ワイヤーの摩擦音を聞きながら地下で戦うであろう恩寵者の事を考えた。
左手の痣が、此方の思考に呼応する様に摩擦とは別の熱を脈打ちながら、蒼白い光を革手袋に滲ませる。
予想外のタイミングではあったが、院長室で実際に戦った“恩寵者”達はラシェルから聞いていた前評判に、勝るとも劣らない怪物達だった。
体躯に見合わない怪力もさる事ながらメイスを含めた熟達した戦闘技術、言わずとも伝わる場数を積み重ねたであろう動き、もしこの任務にラシェルが居なければ間違いなく、こう上手くは行かなかっただろう。
不意に、投げられた机が両扉を突き破った時の光景と状況が頭を過る。
不意の事態に時間が引き伸ばされた、あの時。
咄嗟に俺とラシェルは何とか切り抜けたが今考えてみれば、もう少しで俺達は無警戒のまま真正面から机を投げつけられる所だった。
あの時、寸前で警戒出来たのはこの左手の痣が反応したからに他ならない。
それも机を扉に投げつけるどころか、机を持ち上げる物音すら起きる前から。
あの時は他に考えるべき事が多すぎたせいでその事について深く考えなかったが、俺が襲撃を知覚出来る要素が何も無かったあの状況で、この左手の痣が反応したという事実は無視する訳には行かない。
黒羽の団に入ってからも、幾度と無く不意を突かれる形で襲撃は受けてきたが襲撃の直前に、左手が反応したのは今回が初めてだった。
となると、単純な状況比較をするまでもなく今までの襲撃と今回の襲撃の差は一つだけだ。
聖なる怪物、“恩寵者”。
正直に言って認めるのは不気味なものを感じるが、今回の件で左手の痣が反応したのは奴等に原因があると見て良い。
加えて言うなら、奴等と言うよりは奴等の“性質”に。
エレベーターシャフトの外から遠く響く警報の中、ワイヤーを滑り降りながら考えを巡らせた。
奴等の聖職者とは思えない戦闘技術もさる事ながら、眼窩に眼球が無いまま俺達を“視ている”事のみならず重厚な扉越しに躊躇無く俺達へ机を投げつけた事からも、少なくとも奴等の超常性は疑う余地が無い。
そして。
もし、“恩寵者”達の超常的な力がラシェルや任務に関する資料、このラクサギア地区の連中が言う様に、聖母テネジアへの信仰による物だとすれば。
奴等の力が“聖なる信仰”の末に得た物なのだとすれば。
恩寵者、ロラとゼナイドの言葉が脳裏を過る。
奴等は俺に「魂の淀んだ者」「堕ちた者」と言った。
聖なる信仰の末にそれだけの物を得た聖職者達は、“グロングス”たる俺の中に一体何を見いだしたのだろうか?
失った眼球と虚ろな眼窩を補って余りある程の、超常的な力と信仰を持つ聖職者には俺はどう見えていたのだろうか?
思考が、更に派生する。
カラスを左手の痣から“呼び出した”時も、考えてみれば違和感があった。
前回呼び出した時は、左手だけでなく左腕全体からあの黒い霧の様な物が大量に吹き出していたのに対し、今回は左手から幾らか吹き出た程度だ。
それに、結果からすれば不都合どころか好都合な点もあったが、今回呼び出したあの不気味な“カラス”達は普段に比べ、随分と数が少なかった。
カラスが少なかった為か今回呼び出した際、以前ほどの熱は感じなかったが正直に言って疑念は消えない。
それに実際、修道院長室でロラとゼナイドに遭遇した辺りから、左手の痣には疼く様な熱が、ずっと引かずに脈打っていた。
そんな事を考えていると、不意にエレベーターのワイヤーが終わりに近付いてきたのに気付き、思考を切り替えて速度を落としながらカゴの上にゆっくりと降りる。
エレベーターシャフトの外から警報が響くのを耳朶で感じながら、静かに整備用ハッチを内側から開き外を探った。
意外にも、気配は感じられない。
どうやら、上階の修道院長室に結構な人員を向かわせているらしいが、其処にはもう誰も居ない事はすぐに伝わる筈だ。
と、考えた辺りである結論に辿り着き、整備用ハッチを素早く潜り抜ける。
人気の無いエレベーター付近に、音を抑えつつハッチから滑り出る様にして床に降りた。
今、このメネルフル修道院には警報が鳴り響いている。
修道女か実質軍人か大差は無いとしても、それこそ血眼になって俺達を探し回っている筈だ。あくまでも眼窩に眼球がある奴は、だが。
だが奴等が現在分かっているのは恐らく、絞り込めても“修道院長室で襲撃があった”という事実だけだろう。
考えられる要素としても、ラシェルが陽動にしろ発見されたにしろ奴等の注意を引いている、と言う程度。
つまり。
これだけ警報が鳴り響きレイヴンが探し回られてる修道院内において尚、誰1人として俺が今、修道院の何処に居るのか把握している人間は居ないと言う事だ。
整備用ハッチから修道院の床へ静かに降り立って警報が鳴り響く中、改めて気配を探る。
俺もレイヴンになってそれなりの時を過ごしたが、まさか警報が鳴っている中で隠密行動をする事になるなんてな。
左腕のスパンデュールに、ボルトを装填していく。
この、4本のボルトで最後か。
延々と修道院内に鳴り響く警報の音響が聴覚を邪魔するものの、感じ取れる限りでは近くに修道女、兵士は居ない様だった。
元々の計画からして、地上階こと一階の中でもある程度は人気の無い通路を通る予定にはなっていたがそれは通常時、それも俺達の侵入自体が露見していない場合の話だ。
想定と現状が違うのである程度の賭けになる事は否めないが、元から“即興演奏”な事を考えると仕方無い話ではある。
元の計画からして、俺が今通ろうとしているルートを通るなら数人程度は始末しなければならない筈だが、どうなるか。
全く敵が居ない可能性もあれば、その真逆も有り得るだろう。
とは言え、上の修道院長室に俺達が居ない事に気付けば、連中が下に戻ってくる事は当然の摂理だった。
新しくルートを考える時間は無い。こうして居る瞬間にも機会を逃す可能性は高まっていく。具体的かつ効果的な対策がある訳でも無い。
「なる様になる、か」
半ば呆れにも似た色が滲んだ、そんな言葉を口から溢しながら貨物エレベーターからメネルフル修道院地下へと続く、ルートに足を向けた。
警報が鳴り響いている中で足音を抑えると言うのも妙な話だが、それでも警報の中に紛れる程度の足音と共にメネルフル修道院の地下へと向かう。
地図や図面で見た時はそこまでの距離では無い様に思えたものだが、いざ緊迫した状況下で進むと何と長く感じる事か。当初、このルートを図面で見た時はそこまでの距離では無い様に思えたものだが、いざこの状況下で進むと何と長く感じる事か。
理屈を捨て、今すぐにでも疾走したい感情を何度も胸中で押さえ付けながら、音を抑えながら出せる限界の速度で修道院の廊下を駆ける。
この状況下ではいつ敵が上階に見切りを付けて降りてくるか分からない、出会う前に辿り着かなければ。
そんな想いと共に、逸る感情を抑制しながら警報に足音を紛れ込ませつつ曲がり角を曲がる。
そうして俺の視界に扉がある通路が飛び込むのと、目の前の通路にある扉が開き、ライフルを背負った修道女が飛び出して来るのは、殆ど同時だった。
刹那。
咄嗟に動転した様子で肩からライフルを外して構えようとする修道女、そのライフルの銃口付近を反射的に左手で掴み取る。
思考と同時か、思考より速い反射が相手の喉、軟骨を素早く右手の第1指で突き潰した。
文字通り喉が詰まった様な顔のまま後ずさる修道女をライフルごと抱き寄せる様にして引き寄せつつ、息の止まった修道女の襟を手繰りながら背を向ける様に身体を反転し、肩から相手を背負い上げる様にして脳天から地面に叩き付ける。
肉の重さへ骨の鈍さを混ぜ込んだ様な音と共に、頭から地面へ激突した修道女は上下逆になったまま、空気が抜けた様に崩れた。
警報の鳴り響く中で、改めて顔面を踏み砕いてから修道女を床に横たえる。
此処に放置したら敵に見つかるかも知れない。そんな考えが頭を過ったが、先述の理由から天秤は何一つ違う方へと傾く事は無かった。
申し訳程度に壁に寄せ、先程よりも幾らか速く駆ける。
今の修道女は何とかなったが、いつ新たな敵が来てもおかしくない事を考えるとログザルを腰から抜いておくべきか、とも思ったが移動が遅くなるべきでは無いか。
いや、どのみち警報に紛れる程度の速さしか出せないのだから、速度を突き詰める必要は無いのであれば対応の幅を増やす為にもログザルは抜いておくべきか。
体力や心肺機能ではなく焦燥によって息が上がり始めた頃、地下への階段が漸く視界に飛び込んできた。
考えてみれば結局は構える事になるか、と胸中で溢しつつ腰からログザルを抜く。
事前の資料で分かっていた通り地下へと降りていく階段の入り口に扉は無く、下層方向の暗がりへと続く曲がり角が見えているだけだった。
警報が鳴り響く中、階段の近くを警戒しつつ見回してみるも一応敵は見当たらない。
上階の何処かから怒号に似た声が遠く聞こえた気がするが、生憎と考察する時間は無かった。
何にせよ、この警報が鳴り響く中でも地下へ向かう入り口付近が何一つ警戒されていない所を見ると、資料にあった通りメネルフル修道院の連中は地下に居る“恩寵者”達に、絶対の信頼を置いているらしい。
奴等が此方を襲撃し追い回す事はあっても、此方が奴等を襲撃して追い回す事は有り得ないと。
だからこそ逆に奴等も、わざわざ俺達がその恩寵者達の巣窟に自分から首を突っ込んでいくとは思っていないだろう、というのが黒羽の団の総意だった。
“その信頼の隙を突く”と幹部連中、及びラシェルは言っていたが、今更ながら随分な話だ。
奴等が信頼しているのは、今までどれだけのギャングや敵対勢力が飛び込んでも倒せなかったからこそだと言うのに。
“奴等は壁を突き破れないと思ってるから、壁を破れば奴等の不意を突ける”と言われても、肝心の“壁を破る”部分は俺が担当しなければならない、と言えばどれだけ無茶を言われてるか分かりそうなものだが。
修道院が揺らぐ程の、と言うのは流石に大袈裟な表現だがそれでも目の前の目標から一瞬、気を取られる程の轟音が聞こえてきた。
考えるまでも、確かめるまでも無い。
ラシェルが陽動してくれているのだろう、俺の仕掛けた爆薬がディロジウムに誘爆したのか、ラシェルが手榴弾でも使って起爆したのかは分からないが、想像以上の規模の爆発が起きているらしい。
幾らこの地下に絶対の信頼があるとは言え、此方に兵士こと修道女達が戻ってこない保証は何処にも無かった。
向こう同様、此方も相手が上手くやってくれる事を祈るしか無い。
息を吐いた。
何にせよ帳簿こと顧客名簿、及び非合法証明書は現に地下へと踏み込まなければ奪取出来ない。
無理も無茶も、今更だ。
そんな自嘲にも似た言葉を胸中で溢しながらも抜いたばかりのログザルを片手に、下層の暗がりに続く階段へ踏み出して行った。
階段を降りていく度に異様な気配、異様な雰囲気が防護服の革を撫でながら後方にすり抜けていく。
分かってはいた。あのラシェルが「レイヴンでも歯が立たない」と断言する、恩寵者の巣窟たる修道院の地下がどんな場所か、充分に知っているつもりだった。
それでも、書類で得た知識程度ではとても想定しきれない異様な雰囲気に、自分が総毛立っているのがはっきりと感じ取れる。
地下である事によってもたらされる、完全なる暗闇。
人類が理性と理屈を超えて古来から本能的に畏れてきた恐怖の原初とも言える暗闇が、地下の灯りを意図的に全て排除する事によって、現代の修道院の中に産み出されていた。
眼を凝らせば、耳を澄ませば、と言った次元を遥かに越えている完全なる暗闇。
このまま地下へと進み、今階段の入り口から射し込んでいる僅かばかりの光が無くなれば、比喩では無くこの両目は景色の欠片どころか、明暗の概念が溶けてしまう程に見えなくなるだろう。
ギャング“トルセドール”に始まり、このラクサギア地区の“不敬な人々”がこのメネルフル修道院を畏れる理由は、この地下にあった。
大の男を引き千切る様な“聖なる怪物”達が闊歩する、自身の手すら見えない程の暗闇。
一部の図面は意図的に廃棄され、道筋すらも不明瞭。
灯りを持ち込んだ所で、あの怪物を相手に灯りを片手に彷徨った所で出来る事など限られている。
夜の山を知っている者なら、分かるだろう。
闇夜の猛獣の縄張りの中で、手元の灯りを頼りに歩く事がどれだけ危うい事なのかを。
階段と言うよりは、巨大な獣の口腔を進んでいる様だという錯覚を理性で振り払い、左手を握り締める。
さぁ、本番だ。
疼き続けている左手の熱を意識しながら眼を固く瞑り、そして開く。
次の瞬間、先程の暗闇がまるで感じられない程の鮮やかな視界が、蒼単色の濃淡によって視界に映し出されていた。
先程は心許なかった、欠片の寄せ集めの視界が緻密な風景画の様に塗り替えられ、冷たく異様な雰囲気の中で杖を見つけた様な何とも言えない安心感が、心の隅に滲み出る。
この力で安心すると言うのも、考えてみれば妙な話ではあるが。
先程よりも遥かにしっかりした足取りで、鮮やかな蒼白い濃淡の世界を警戒しつつ進んでいくと、聖女レンゼルの彫刻が施された随分と大型の両扉が見えてきた。
きっと、常人なら本来は灯りを頼りに辿り着く場所と光景なんだろうな。
そんな皮肉めいた感想が頭を過る。
深い闇の中でテネジア達を闇の出口まで導き、闇の中から襲い掛かる悪魔とも戦ったという聖女レンゼル。
聖書の原本では、聖女レンゼルは盲目だった描写があったのを覚えている。
だがレンゼルは盲目でありながら周りの全てを感じ取り、どれ程の暗闇においても先を見据え、全てを見抜く事が出来たそうだ。
この聖レンゼル修道会が信仰しているのは、その部分だろう。
目隠しをした聖女レンゼルの彫刻が両扉に施された大扉。
その両扉は既に開いており、まるで巨大な獣の口腔を思わせる異様な空気を漂わせていた。
喰われるか、喰い破るか。
左手の痣が一層強く脈打つのを感じながら、妙な気配がする空気を改めて吸い込んでから扉の中へと踏み出す。
異様な程に冷えきった空気の中、鮮やかな蒼の濃淡に彩られた地下は形容し難い空気を漂わせていた。
このメネルフル修道院は元々軍事的な要塞だった筈だが、恩寵者の為に相当改修したのか地下においては、随分と趣のある造りになっている様だ。
………俺の瞳は今、あの不気味な蒼白い色に染まっているのだろうか。どのみち、レイヴンマスクで覆われている事を考えると何一つ意味の無い考えではあったが。
蒼の濃淡で描き出された、まるで歴史ある城の廊下の様な広い地下を、踏み締める様に静かに進んでいく。
事前情報から推測出来るホーンズビーの人物像から、非合法証明書と帳簿こと顧客名簿は同じ場所、ホーンズビー自身の机にある筈だった。
地下については一部を除き殆どの情報、図面が意図的に廃棄されている為に全体像は掴めていなかったが、それでも判明している情報、判明している一部の情報や図面、恩寵者やそれに倣う連中が寝起きする居住区としての性質、それらの条件や法則性から察するにホーンズビーの机がどの辺りにあるか、推測の域こそ出ないものの予想はある程度は付く。
侵入者が苦労する様に意図的に複雑化されている、とも聞いたがそれも予め分かっているなら対処のしようはあった。
奴らがこの地下に置いて強みとしているのは間違いなく、地下という性質を生かしたこの暗闇だろう。
ならば、灯りを頼りにこの地下を歩く者が最大限苦労する様に造られている筈。
俺がラシェルに試されたあの倉庫で、目の前の壁に掛かっていた鍵を普通に手に取った時も、もし俺が手探りなら目の前の鍵が見付からずに相当苦労していたのは間違いない。
視界が遮られている、もしくは制限されている人間が、最大限苦労する構造。
そういった敵の真意や構想が分かれば、そこから逆算する事は苦労こそするものの出来なくは無かった。
蒼の濃淡で描き出された世界。その大気に漂う“何か”が、左手の疼きと共に不意に揺れる。
過去の経験が染み付いた身体が考える前にログザルを掲げた瞬間、骨と金属を噛み合わせる奇妙な音と共に修道女のサーベルがログザルの刀身に激突した。
恩寵者、ではない。
咄嗟に切り払い身を引くも、此方が受け止めるのは相手も想定外だったらしくお互いに距離を取る形となった。
他の修道女とは違う服装と装備、そして何より目元に堅く巻き付けられた目隠し。
恩寵者を目指しこの地下で日々鍛練を積んでいた、部下か。
“聖なる怪物の子”と言う訳だ。
物陰から飛び出した人数は2人。サーベルと、もう1人は金属製の槍か。後ろに控えている修道女は、ローズスパイクの様な機構の無いシンプルな槍を構えていた。
向こうは日頃からこの暗闇のせいか地下のせいか、随分と気配を消すのが上手い。
認めるのは不本意だが、左手の痣と“何か”の流れが見えていなかったら防ぎきれなかったかも知れないな。
いや、事実そうだろう。
こうやってメネルフル修道院の地下に、どれだけの侵入者が呑み込まれていったか。
1つの懸念が、確信へと変わる。
ラシェルと修道院長室で恩寵者と対峙した、あの時。
恩寵者が壁越しに、“机を投げ付ける程の確信”が持てた理由。
幾ら暗闇の中とは言え此方が一切見えない筈の物陰から、こいつらに“余りにも理想的な”不意打ちが出来た理由。
こいつらは、恒常的にしろ局所的にしろ壁越しに相手が“視える”のだ。
常に左右や背後まで見えている事は先に戦ったロラやゼナイドで分かっていたが、机の件と言い今の不意打ちと言い、壁越しにも奴等は相手が視えると考えて間違いないだろう。
机を投げ付けられた時も、今の不意打ちも左手の痣のお陰で何とか防ぐ事が出来たが、壁の向こうが視える者と近付いた時に痣が疼く者、どちらが有利なのは言うまでもない。
胸中で悪態を吐いていると目の前の2人が、息が荒くなってる事にふと気付いた。
“不敬者”を罰する名誉による高揚か、と思ったが2人して自らを何とか奮い立たせている事に気付く。
かつて俺が帝国軍に所属していた頃、浄化戦争でこんな佇まい、こんな空気を漂わせている兵士が居た。
こんな兵士が近くに居ると、「新兵の匂いがする」と周りの兵士が揶揄したものだ。
小便の匂いは失禁に例えられ、“臆病者の匂い”と呼ばれていたが決して“新兵の匂い”とは呼ばれず、明確に区別されていた。
新兵の匂いは、嗅覚によるものでは無いからだ。
「レンゼルの名の元に!!!」
そんな“新兵の匂い”を振り払うかの如く、過剰に思える程の大声でサーベルを握っている修道女が叫んだ。
過剰な声が、地下に反響する。
恐怖。
戦場で初めて内臓と血の匂いを嗅いだ新兵の様に、修道女の節々から恐怖が滲み出ていた。
左手の痣が促す様に、獲物を前にした獣が唸る様に疼く。
感情故か直線的な踏み込みによって、距離を詰めながら打ち込んできたサーベルの刀身を咄嗟にかわし、振り下ろしたばかりの伸びきった修道女の腕を叩き落とす様にして、ログザルを打ち込み“骨割り”によって切り落とした。
前腕の半ばから先を無くした修道女が血を吹き出す腕に、悲鳴を上げた瞬間にその首も腕と同じく切り飛ばす。
地下の異様な空気に鮮血の匂いが明確に混じる中、“新兵の匂い”を濃密に漂わせているもう1人の修道女に向き直った。
首を落とした事に気付いた修道女の身体が疲れた様に膝を付いて崩れる中、1つの確信を得る。
唸る様に疼く左手、恩寵者たるロラとゼナイドの「魂の淀んだ者」「堕ちた者」と言った言葉。
そして、戦場には慣れている筈の奴等がこれだけ怯えているという事実。
間違いない。
“聖なる怪物”たる奴等には、この俺こそが“怪物”に見えている。
それも、これだけ場数を踏んだ熟練兵同然の修道女達が、一目見ただけで心底畏怖する様な“怪物”に。
俺に槍を構えていた修道女が、首と手を失い遺体となった目の前の修道女に顔を向け、怯えきった様な声色で叫ぶ。
「嘘、嘘よ!!」
そんな声と共に槍の穂先が徐々に下がり、此方が歩み寄ると遂には槍を取り落とした。
息を荒げていた修道女が殊更に息を荒くした後、気が抜けた様に座り込む。
その後、何かを小さく呟いたかと思えば修道女は冷たい床に倒れ込んでしまった。
信じがたい事だが、失神しているらしい。
………不意を突く演技の可能性も少しだけ考えたが、どう考えてもここで失神する演技をする戦術的な理由が無い。
“新兵の匂い”が“臆病者の匂い”に変わっている事からも、戦略的な理由でも無いのは明白だ。
またもや左手が呼び掛ける様に疼き、直ぐ様振り返った。
蒼白い濃淡の世界に描き出されるまでもなく、五感に伝わる大量の気配。
またも胸中で悪態を吐く。
隠そうともしない気配と同じく、隠す気の無い大人数の足音が急速に近付いてきた。
思った以上に、“聖なる怪物の子”は多く居るらしい。
失神している修道女から視線を切り、即座に脳内を加速させる。
少し息を吸い、蒼白い濃淡の中で向かってくる大人数に視線を向け、ログザルを回転させて握り直した。
「メラニー様!!居ました、奴です!!」
「嘘でしょ、リンジー!!」
「怯むな!!!レンゼルの名の元に!!」
サーベル、メイス。クランクライフルは、居ない。
地下で発砲する事が問題なのか、閉鎖環境で揮発性のディロジウムを使う事を良く思っていないのか。
理由はともかく、この地下の連中はどうやらクランクライフルを所持していないらしかった。
「「レンゼルの名の元に!!」」
いや。
駆け寄ってくる大人数の後ろでクランクライフルでは無く、肩を付けて構える大型のクロスボウを担いでいる者が居るのが見える。
1人ずつ対処する事も考えていたが、クロスボウが居るとなると話は別だ。
考えたくないが現実的な線として囲まれた際に背中でも打たれたら、非常にまずい事になる。
目隠しをした修道女達を前にした途端、左手の痣がまたも吠える様に疼いた。
その瞬間、俺の意思か反射か見分けるのが難しい程に、躊躇無く翳した左手から霧が吹き出す。
直ぐ様、人の悲鳴と鳥類の哭き声を練り合わせた様な独特の音と共に、霧はあの不気味なカラスを練り上げる様に形成し、カラスを見た修道女達からはっきりと悲鳴が上がった。
蒼白い濃淡の世界の中、またもや無視しがたい程の熱が左手の甲を炙っているのを感じながらも、黒く冷たい物が自身の全てをゆっくりと淀ませていくのが手に取る様に分かる。
長時間使っている為か、あの叫びだしそうな、火傷しそうな程の熱が以前よりも更に和らいでいるせいか。
それともこの状況下故に“選択の余地は無い”と自分に言い聞かせている為かは分からないが、徐々にこの力を使う事への抵抗が薄まってきているのを明確に感じていた。
また、以前よりも確実に“黒く淀んだ何か”が自分の中に根付いていくのを。
本来、この蒼白い“眼”1つ取っても長く使うべき力では無い。
この力はカンテラや爆薬と違い、人には許されざる異形の力なのだから。
悲鳴を上げる修道女達へと、むしろ自分から踏み込む形で一気に駆け出した。
左手から左腕、腕から背骨へと黒く淀んだ物が流れ込んでくる現状は、例え苦痛が以前より和らいでいたとしても決して楽観視していいものでは無い筈だ。
急ぐべきだろう。任務の状況を別にしても、“俺が俺である”内にこの力から早く離れるに越した事は無い。
はっきりと恐怖の悲鳴を上げる修道女達の間を駆ける様にしながら、目星を付けていたホーンズビーの机へと向かっていると不意に目の前の目隠しをした修道女が、悲鳴を押し込めた様子でサーベルを振りかぶった。
感情故に動きが大振りになっている。
“恐怖は時として、どんな流血をも越える武器になり得る”
そんな言葉が黒い淀みの合間を抜ける様にして、脳裏を過った。
予め示し合わせていたかの様に、滑らかな動きで相手のサーベルをログザルで受け止め、殆ど同時に逆手に掴み取ったラスティで相手の喉を空振りの如き素早さで掻き切る。
喉を掻き切られた修道女の濁った断末魔を掻き消す様にカラスの鳴き声と人の悲鳴が地下に響き渡る中、左手の熱がとうとう耐え難い程に強まり始めた。
蒼白い“眼”を使い続けながらあのカラス達を呼び出しているせいか、黒い淀みが今までの比じゃ無い勢いで俺の骨身に染み渡っていく。
左手の熱が不意に、肯定的に感じられた。
熱量は弱まっていない筈なのに、胸の奥まで冷え込む様な不気味な恐怖が俺に熱を、この超常的な力を、この黒い淀みを受け入れさせようとしている。
胸の奥まで明け渡させようと、俺に抗う事さえ止めさせようと。
まずい。
カラスが他の敵を怯えさせその上で攻撃しているのを左手と脳髄で感じながら、レイヴンマスクの下で顔をしかめた。
そんな時、俺の前を飛んでいた2羽のカラスが唐突に、大きく翼を広げる。
此方の視界を妨げる様な動きだ、と思ったその刹那、そのカラスの翼と胴体を貫いた風切り音が此方の背後へと、そのままの勢いで突き抜けていった。
俺の肩の下、脇腹の辺りを掠める様にして突き抜けていった風切り音がクロスボウのボルトだと言う事、それがカラスにボルトが当たったせいで軌道が逸れた事、そのボルトを放ったのが前方に居る恩寵者だと言う事。
それらを並列に理解すると同時に、目の前の恩寵者が躊躇なくクロスボウを床に投げ捨てる。
クロスボウが床に転がる中、恩寵者がメイスを手にするのを蒼白い眼で捉えつつ胸中で歯噛みした。
任務の事情、そして今も煌々と力を発しているこの左手のおかげで、益々時間が無いと言うのによりにもよって今、ホーンズビーでも無い恩寵者と対峙するとは。
奴等の実力を考えれば一筋縄では行かない、直接対峙して殺しあっても仕留めるには時間が掛かる。
色々と賭けにはなるがこの状況を打開するには装備の消耗、自らを餌にする戦法、負傷の危険と、リスクを取るしか無いだろう。
冷え込む様な空気を、静かに吸った。
恐怖を堪えているのか無言のまま、だが決して無音にはなれなかった修道女の1人が手元の槍を突き込む形で此方に駆けてくるが、音が聞こえてきそうな程の勢いでカラスの1羽がその側頭部へと、全体重を乗せる形で衝突し重心を崩させる。
此方もその崩れた体勢を捕らえる様に、自分から修道女の方へ距離を詰めた。
そのまま崩れた体勢の突き、及び槍の穂先を熱が唸りを上げている左手で掴み取ると同時に、相手の鎖骨を叩き割る様にして右手でログザルの刀身を打ち込む。
逸れた穂先から、熱を放っている左手を離して鎖骨に食い込んだログザルに添え、両手で更に刀身を押し込む様に割り進んでから、ログザルを肩口から引き抜く様に蹴り飛ばした。
音が響く程の勢いで倒れた修道女の顔を踏み付けてから、血を吸っている蒼白いログザルを回転させてから鞘に納め、背中からラドブレクを抜く。
相手が鎖を着込んでいると分かっているなら、手数が減ろうともラドブレクの方が良いだろう。
そして相手にラドブレクの存在を認知させる事で、“ある程度の刃なら鎖で受けられる”という発想を封じられる筈だ。
俺は時間が無い上に、この後にも任務が残っているのだから相討ちになる訳には行かない。
リスクと、消耗を選択する時が来た。
熱を放ち続けている左手に殊更に力を込め、周りに差し向けると眼窩を抉られたヨミガラス達が業火の様に吼えながら、業火に負けぬ勢いで周りの修道女に襲い掛かっていく。
俺が左手の痣にどれだけ力を込めているのか、どれだけ意識を向けているのか。
どれだけ“何か”を操っているのかが、恐らく奴等には“視えて”いるのだろう。
力を込めながら駆け出した俺に対して、恩寵者が一層気を引き締める様な仕草の後メイスを握り直しながら、迎え撃つ様に此方へと鋭く距離を詰めてくる。
恩寵者が此方の“射程距離”に入ったのを見計らい、手にしていたラドブレクを真上に大きく振りかぶった。
相手の防御を踏まえた上で、防御ごと叩き潰す構え。
その瞬間、恩寵者が前傾しつつ更に素早く踏み込みつつメイスを横合いに振りかぶる。
だろうな。引き伸ばされた刹那の中、胸の内にそんな声が漏れた。
相手が防御を叩き潰す、上段に大きく振りかぶった構えなら、更に素早く踏み込んで空いた胴に横から腰の入ったメイスを叩き付けるか、もしくは身を引くのが自然な答え。
実力者なら、導き出される最適解。
相手が踏み込んできたこの状況から俺に取れる選択肢は限られる。
1つは、俺が相手より速くラドブレクを振り下ろし相手を、薪の如く叩き割る事。
もう1つは振り下ろさずに上段から中段に構えを変え相手のメイスを、ラドブレクの柄で真正面から受け止める事。
俺が身を引く可能性は構えからは無い、と相手は踏んでいる筈。もしくは、此処から急に構えを変えてもその予備動作から対応出来る、と考えているだろう。
そう、考える筈だ。
ここまで辿り着く様な、実力者なら。
この地下から生きて帰る為にも、不意を突く為だけに不釣り合いなリスクを取る様な真似は、まずしないと。
刹那。
恩寵者が振りかぶったメイスを受け止めるべく、ラドブレクを素早く中段に構え直すと同時に、左手をラドブレクから離し下段辺りに向けスパンデュールを素早く2発放った。
片手で中段に構えたラドブレクに腰の入った重すぎる一撃が叩き込まれると殆ど同時に、金属製のボルトが床で跳ねる音へ混ざり込むが如く恩寵者の膝関節の辺りへ、別のボルトが真正面から突き刺さる。
片手で受けたせいか、衝撃を逃がしきれずラドブレクから身体に響くメイスの威力に、呻き声が漏れた。
鈍く広がる痛みと衝撃に体勢を大きく崩すも、崩れた体勢から立ち上がろうとせず、床を転がり素早く距離を取る。
恩寵者のメイスの先端が、先程まで俺の頭部があった場所に床を砕かんばかりの勢いで叩き付けられた。
倒れた体勢から身体のバネを使い、素早く跳ね起きてラドブレクを構える。
リスクを、取った甲斐はあったらしい。
膝関節を破壊、ないし損傷させられたらしく相対する恩寵者は明らかに動きが悪くなっていた。
焦燥感を滲ませながら、膝を庇う様に構え直す恩寵者の様子からしても、どうやら今回の賭けは成功した様だ。
………もし、スパンデュールのボルトが1本も当たらず奴の膝を損傷させられなかった場合、今転がった俺に素早く追い付いてメイスの先端を叩き付けられていた可能性も充分にある。
そうすれば致命傷を負わされるか、もしくは立ち上がれない程の負傷を負わされていただろう。
そして、相手もこれだけの実力者なら分かっている筈だ。
実力者同士の戦闘において、一方が膝を負傷する事がどれだけの不利になるのかを。
手の中の蒼白いラドブレクを握り直しながら、細く長い息を吐いた。
次なる狙いは、ただ一点。またもや賭けになるのは、違いないが。
これだけの実力者を、これだけ緊迫した状況下の中で、“素早く片付けよう”と言うのだ。何も賭けずに切り抜けられる段は、既に過ぎている。
気取られるな。今この瞬間の、策と動きに全力を注げ。
左手の燃え盛る熱を堪えながらラドブレクを、両手で大きく振りかぶった。
その瞬間、恩寵者が膝を庇う動きから素早く切り替え、弾ける様な動きで勢いの付いたメイスの先端を直線的に突き込んでくる。
振りかぶるフェイントの動きを素早く切り替えてラドブレクで受け止める、と言うよりはラドブレクを削らせる様な動きで辛うじて、メイスの重すぎる突きを身体の外へと逸らした。
突きを逸らすと殆ど同時に、意図的に体重を乗せてなかった片足をボルトの刺さった相手の膝へ、関節を捻る様に素早く蹴り込む。
蹴られた拍子に刺さったボルトが工具の様に膝の傷を拡げ、重い呻き声が不気味な仮面の下から滲み出た。
有利を、逃すな。自分が不利な状況に居る事を自覚しろ。
どんなに些細な利点にも、どんな刹那の先手にも、縋り付け。
即座にラドブレクの斧頭付近に両手を移動させ、柄の端に備えられた突起を短い槍の様に振りかぶる。
段に向けての突きの構え、狙いは明らかだった。
まずは、脚を潰す。
短い槍を最大限に活かす為、斧頭の上端に片手を添えて突起を押し込む様な構えを見せたその瞬間、膝に相手の意識が集中したのを逃さずラドブレクを真上に放るが如く手の中でスライドさせ、右腕で肩越しに振りかぶった。
それとほぼ同時に左手で逆手に掴み取ったラスティを、刀身を見せ付ける様に相手へと突き出す。
ラスティの刀身でメイスの柄を食い止めるのと、右腕で振り抜いたラドブレクが相手の側頭部を殴り飛ばしたのは、殆ど同時だった。
メイスの柄を食い止めたラスティが片手故か勢いを殺し切れず、革のガントレットにまで深く食い込む。
刀身を挟んでいるだけで、実質的に左腕の前腕でメイスを受けている様な衝撃に、腕どころか肩の骨まで軋んだ様な痛覚と錯覚が半身を突き抜けた。
だが、衝撃と引き換えに得た物はある。
ラドブレクで側頭部を殴り飛ばされた恩寵者は不意を突かれただけでなく、“打つ瞬間に打たれる”という意識の外から殴られた事も相まって、まるで酔って力が入らない様な動きで床へ仰向けに倒れ込んだ。
軋む左腕のガントレットにラスティを格納し、痣の熱と腕の痛みを堪えながら息も荒く両手でラドブレクを握り直す。
一切の躊躇無く全力で振り下ろしたラドブレクの蒼白い刃が、ボルトの刺さってない方の膝を鈍い音と共に打ち砕いた。
切り離された膝から下が血飛沫と共に転がり、恩寵者の不気味な仮面の下から地下中の人間が振り返る程の叫び声が、響き渡る。
いや、現にカラス達と格闘していた周囲の数人が振り返っているのが意識の端に見えた。
脚を切断された激痛に意識が行っている機を逃さず素早く相手のメイスを握った手首を、全力で踵を使って踏み潰す。
レイヴンブーツの底から骨が砕けた感触を感じ取ってから、メイスを余所へと蹴り払った。
硬く重い音を立てて転がるメイスを無視して、両足と片手を破壊された恩寵者に向かってラドブレクを振りかぶる。
目前に迫った“最期”を前にして、恩寵者が苦悶の声に混じらせる様に掠れた声で、怨嗟の言葉を吐いた。
「悪魔め………」
脳裏に、“あの男”の声が甦る。
“劣勢の相手からの罵倒は、称賛と思え”
息こそ上がっていたが、それでも少しだけ口角が上がった。
ラドブレクを振りかぶった体勢のまま、丁寧に言葉を返す。
「どうも」
頭部を守ろうとしたのか、何か抵抗しようとしたのか。
最期まで恩寵者が腕を翳した意図は汲み取れなかったが、恐らくは汲み取る程の意味も無かったのだろう。
ラドブレクで胸郭と心臓を叩き割り、身体から最後の息と生命が抜け落ちて腕すら動かなくなった相手の首を、再び振り下ろしたラドブレクで処刑さながらに叩き切った。
無抵抗故か、フードの下に着込んでいただろう鎖も一撃で千切れ、玉の様に転がる恩寵者の頭部に絶命を確信した辺りで、またもや叫び声が上がる。
カラスと格闘していた修道女達の、最後の心の支えたる恩寵者が目の前で砕け散った故だろう。
恐怖と絶望は時にどんな流血よりも、どんな疫病よりも軍勢を、死と敗北へと追いやる。
使える物は死体でも使え、とは良く聞く言葉だ。
文字通り、使うとしよう。
フードとフード下の髪を掴んで、恩寵者の生首を拾い上げる。
どう引っ掛かっているのかは分からないが、持ち上げた首から仮面は外れなかった。
他の仮面を見る限り、バンドの類いは付いてなかった筈だが。
そんな事を考えながらも持ち上げた首を、目隠しを巻き付けた修道女の方へと目を引く様に放り投げる。
一度、仮面の方から落ちたのか鈍い金属音と共に少し跳ねてから、生首が修道女達の中心へと転がった。
恩寵者の死、そして聖職者の斬首を持て囃すが如く、眼窩を抉られたカラス達が修道女から離れて地下の中を飛び回り、一斉に鳴き始める。
ラドブレクを回転させて握り直してから、首の無い恩寵者から修道女達の方へと、地を踏み締める様にして歩き出した。
カラス達の鳴き声が鳴り響く中、一言も喋らずラドブレクを握り締めたまま、左手から蒼白い光を滲ませながら。
聖職者を貪らんとする、血に飢えた怪物の様に。
その瞬間、遂に此方が狙っていた事が起きた。
数々の“不敬者”を信仰と刃、鮮血によって打ち払ってきた聖職者達の心が、折れたのだ。
修道女の1人が何を言うでも無く武器を放り出して、脇目も振らずにこの修道院地下に向かって全力で走り出す。
その瞬間に悲鳴の質が変わり、まるで吠えるカラス達に嘲られる様な形で次々に修道女達が武器を放り出し、我先にと逃げ始めた。
此方の歩みがとても穏やかなものにも関わらず、ハネワシかクロヒレザメにでも追われているかの如く修道女達が心底怯えた様子で、足音を輪唱させる様に響かせながら全力で逃げていく。
悲鳴を上げる修道女達へ丁寧に歩いていき、蒼白い修道院地下から一切の気配と悲鳴が消え失せて自分の息遣いが聞こえる程に地下が静まり返った辺りで、不意に片膝を着いた。
左手の灼熱に抑えていた呻き声が、口から零れていく。
こうして、上手く行ったものの実質はかなりの大博打だった。
恩寵者すら屠る“怪物”として修道女達の恐怖を煽り、如何にも「手当たり次第に今からお前らを食い千切ってやる」と言わんばかりの、絶対的捕食者としての挙動。
もし奴等が、この“恐怖”を理解出来ない、もしくは恐怖を乗り越えて此方に立ち向かってきた場合、かなりまずい展開になっていた筈だ。
力が尽き果てたのか、俺自身が無意識の内にそう命じたのかは分からないが、濁った声で嘲る様に鳴き続けていたカラス達が、一斉に黒い煙となって溶ける様に消える。
信仰を打ち砕かれた事に怯え、修道女達の殆どが逃げ出してくれなければどうなっていた事か。
胸の中で、心臓が跳ね回っているのが分かる。
四肢と肺と心臓が、これ以上はもう限界だと如実に訴えかけていた。
また、これ以上“黒い淀み”に自分を明け渡しては行けない、とも。
蒼白い痣の力は本来、決してこんな風に使い続けて良い様な力では無いのだ。
胸の奥に脈打っていた“黒い淀み”がこの蒼白く染まった眼球の裏、眼窩の奥まで這い登ってきたのを感じながら、幾らか咳き込みながら胸中で叱咤した。
自覚しろ。
俺は今、取り返しの付かない物を背骨に流し込みながら、濁った血泥を骨身に染み込ませながら戦っているのだ。
走り続けられていてもいずれは息が切れる様に、“真の暗闇にも関わらず蒼白い視界によって対等に戦える”という、今の状況は長く続かない。
俺がこうして奴等の縄張りの筈の修道院地下で戦えているのは、あのおぞましい不気味な蒼白い力に今この時も浸り続けているからだ。
この現状が相当な無理、そして無茶によって成り立っている事を自覚しろ。
俺は今、普通の人間なら脅かされる事すら無い物を削り取られながら、此処に立っているんだ。
唸り声を上げて、片膝を付いた体勢から立ち上がった。
忘れるな。
俺は今、許されざる力に身を染めている事を。




