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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
224/294

218.4

 弾薬庫内に、血の匂いが漂っていた。






 炸裂する予定のディロジウム金属薬包が詰まった容器、加えて修道女の死体を窓際に寄せて騒ぎが起きた際、目に付きやすくしてから弾薬庫を離れる。


 入った時と同様に窓を潜って建物を離れ、そのまま日陰から日陰に伝っていく様な動きで予定されていた門へと向かった。


 少し時間は掛かったものの、ラシェルの移動を考えてもそこまで計画とのズレは起きていない筈だ。


 益々影は長く、濃くなっている。このラクサギア地区にも、いずれ夜が訪れるだろう。


 暗いのは結構だが、影と日向の境界を失うのは捉え方によっては損失と言えた。


 我々の様な者が暗がりに身を潜めるのは定石ではあるが、日向があってこその暗がりというものもある。


 門を制圧した後、登っていく予定の修道院の側面においても日向があるからこそ影が一際濃くなる事を狙って、決めた方角だった。


 少し、急ぐべきかもな。


 そんな事を思いながら幾らか足を早め門に近付いていると、門の近くの物陰から不意に人影が現れた。


 思考を上回った反射が、直ぐ様気配を抑え近くの影へと身を潜めようとする。


 が、足を止めた。


 人影は武装した修道女だったが、様子がおかしい。


 足取りがおぼつかない修道女の胸と腹部が血に染まっている事に気付くのと、その頭蓋骨に背後から振り下ろす様に鉄棒が叩き込まれるのは殆ど同時だった。


 硬い果実を割る様な音と共に鉄棒、ストルケインの石突き部分が頭蓋にめり込んだ修道女が地面へと倒れ込む。


 革の防護服を着込んだレイヴン、ラシェルがストルケインの石突きを赤い滲みから引き抜く様に離し、血糊を払う様に回転させた。


「途中でクソでもしてたの?」


 呆れる様な声と共に、ラシェルがストルケインの柄を縮める様にして格納する。


 少し呆然としつつも辺りを見回した。


 4人、か。


 倒れて血が滲んでいる者、鎖骨の辺りから血が吹き出した形跡のある者、頭に分かりやすく金属のボルトが生えている者。


 そして、先程頭蓋を砕かれた者。


 ………呆れた様な様子のラシェルから察するに、こいつはどうやら俺が弾薬庫を制圧して門の制圧を手伝う予定だった所を、痺れを切らしたのか日没の時間を考えてか、自分1人で先に制圧してしまったらしい。


 レイヴンマスクの下で眉を潜めた。


 勝手に1人で門を制圧してしまった、というのはあくまで結果論だ。


 仲間が合流する前に1人で先走るリスクなど、今更ラシェルには言うまでも無い。


 燃料庫を襲撃する時の3人どころか、4人とは。


 他の者なら、決断を焦った未熟さを責めるべきかも知れないが……………


「どうした?」


 手信号でもなく、思わずそんな声が出た。


 ラシェルが話す時点で、声を出しても問題ないのは分かりきっている。


「何がよ?」


 ラシェルが不機嫌、と言うよりは意外そうな語気で返事を返してきた。


 こいつとは取り分け仲が良い訳じゃないが、こいつの実力は良く知っている。レイヴンとして、どれだけ優秀なのかも。


「任務中に軽口を叩くのとは訳が違う、お前だって優秀なレイヴンだろう。そんなに時間が押してるのか?」


 ラシェル程のレイヴンが、今更手柄に飢えた新兵の様な真似をするとは考えられない。


 そんな俺の言葉にレイヴンマスクで分かりにくいものの、ラシェルは幾ばくか虚を突かれた様な挙動を見せた。


 ラシェルがレイヴンマスクで覆った顔を、修道院へと向ける。


「ノロマなクソ野郎に合わせて遅刻しろっての?苦肉の策よ。わざわざ聞いてくるなんて、反省してる様で何よりだわ」


 先程ストルケインの石突きを叩き込まれて後頭部が砕け、明らかに絶命しているであろう血塗れの修道女の後頭部を思い切り踏み付けたかと思えば、ラシェルは会話を切る様にして駆け出して修道院の壁へと取り付いた。


 そのまま何の苦労も無い様子で修道院の壁面を登っていくラシェルの背中を見ながら、色んな想いが胸の中で絡み合う。


 ………少し想定外の事は起きていたが、門を制圧してその方角からの監視の眼を潰し、その方面から修道院を移動術でよじ登るのは予定通りだった。


 前述の理由から、まだ夕日が出ている内に修道院内でも影が掛かる方角から進んで行くのも、一応予定通りではある。ではあるが………


 頭を切り替える様に長く息を吐き、冷えた空気を吸った。


 何にせよ、今は任務に集中するべきだ。


 ラシェルの件が気のせいにしろ気のせいでないにしろ、任務が最優先である事には代わり無い。


 壁を登っていくラシェルを追う形で修道院の壁を勢い良く駆け上がり、重力が自分に追い付く前に手懸かりを掴んで自身の全てを支える。


 片手でぶら下がっている状態から両手で段差を掴み直し、両腕を伸ばし弓を引く様にして力を溜めてから、“真上”へと勢い良く飛び出した。


 飛び出す寸前まで両手を掛けていた段差を踏みつける形で真下へと蹴り、垂直に身体を押し上げていく。


 一見無謀、無計画にも思える垂直な“真上”への勢いによって、ただ手を伸ばしただけや跳んだだけではまず届かなかった、装飾の一つへと片手の指を掛けた。


 少し力む声と共に片手の指だけで全身を引き上げ、もう片腕で更に上の手掛かりを掴み体勢を安定させる。


 そこから振り子の様に勢いを付け、近くの垂直な壁に靴底を噛ませて振り子の勢いのままに手を離した。


 一瞬、垂直な壁に対する靴底の摩擦だけで全てを支えているその僅かな一瞬に、自由になった両手を上に振り上げて重力が気付く前に壁を蹴る。


 垂直な壁と摩擦を使って更に斜め上へと跳んだその瞬間に、更に段差を両手で掴み身体を引き上げた。


 レイヴンマスクの下で息を吐く。


 ラシェルを真下から追い掛ける様な形ではあるが、客観的に見れば俺達2人のレイヴンは修道院の壁面を順調に登っていた。


 近年の活発なレイヴン被害を鑑みた帝国本部により、帝国ことレガリスは民家の屋上に帝国兵用の通路を一方的に敷設するなどのレイヴン対策に、更に注力する姿勢を見せている。


 対策は数多くあるが、代表的な物の一つレイヴンの移動術を想定した要塞の建築が挙げられた。


 夜空を駆けるレイヴンの移動術を警戒し、重要部や根幹部を今までの高い塔や外壁の奥等では無く、屋根を走ったり壁を登った程度では辿り着けない深部、深い地下や複数の屋根や部屋の奥に根幹部を備えるなどの、大掛かりなレイヴン対策である。


 採算を度外視で提案されたこの方法は、確かに効果的ではあった。


 現実問題として地下深くや部屋の奥まで根幹部を備えられると、レイヴンとしては屋根を越えて重要部分へと辿り着く事に比べ、随分と手間が掛かるからだ。


 レガリスの全ての軍事基地や重要施設でこの方式が採用されたならば、黒羽の団としてはあの自律駆動兵が現れた時の様な窮地に陥るだろう。


 だが、言うまでもなく分かる通りそんなに都合良くは行かない。


 レイヴンの、しかも移動術の対策にだけ注力している訳にも行かないのは前提としても、そもそも建築物の構造から対策するとなると採算度外視と表現した通り、随分な費用が掛かるからだ。


 加えて言うなら、既存の建築物は当然ながら構造の変更は難しい。新規に基地や重要施設を建築するにしても、当然ながら必要な場所には既に施設は建築されている。


 結果、構造段階から対策が取られている建築物は未だ希少なのが現実だった。


 こうして現に、軍事目的で建てられた帝国軍の基地を改修して運用されているメネルフル修道院は、前述の様な構造的対策は為されていない。


 それに移動術さえ妨害してしまえばレイヴンの侵入を絶対に防げる訳でもない、と言う事は今までの被害報告が証明していた。


 結果、帝国本部は哨戒の増強や増員、警戒の強化という形でレイヴン対策を行っている。


 結果は、改めて調べるまでもなかった。


 端に掛けていた両手で身体を一息に引き上げ、そのままの勢いで屋根の上を駆ける。


 走る事を想定されていない屋根の上は例に漏れず走り易いとは言えなかったが、それこそ今更の話だった。


 先導しているラシェルが屋根の端から跳び、同じ高度の屋根へと跳び映ったのを確認してから此方も後を追う様に跳ぶ。


 レイヴンからすれば容易い距離を跳んだ後、屋根から無人の屋上と身を移したラシェルに追従した。


 屋上には幾つかの机と椅子、棚が備えてあったがどうやら野晒しで気遣われていないらしく、物も殆ど無い。


 ラシェルが屋上から屋内へと続く扉を気配を探る様な仕草で警戒しつつ潜り、屋上から階下へ続く階段、ではなく貨物用のエレベーターへと駆け寄る。


 殆ど使われていない、貨物用のエレベーター。


 メネルフル修道院は聖職者達が過ごす“聖域”ではあるが、元は軍事要塞として建築された建物からも分かる通り、軍事的な意味が色濃い。


 聖職者達による改修で幾らか霞んでいるが、それでも要塞本来の剣呑さは未だに建物と敷地から漂っていた。


 建築時に組み込まれていた貨物用のエレベーターは、聖職者達から評判が良くなく工事してでも撤去する案も出たそうだが、例に漏れず聖職者達も現代人であり合理化や利便性からは逃れられない。


 特に幅広い敷地と高い階層を持つ大掛かりな要塞相手に、石造りの階段だけで資材その他を運ぶのは無理があったのだろう。


 結果、“文明化”の波には抗えず時折使われる形でこの貨物用エレベーターは撤去もされず、整備もされながら残っていると言う訳だ。


 それでも貨物エレベーターを使用する為の呼び出しボタンを押すには、専用の鍵を差し込んで回し強固な蓋を開けてから、ボタンを押さなければならなかった。


 人間が行き来する為では無く、あくまで“貨物用”とし聖職者達が怠惰にならない為、と言った所だろう。勿論、警備上の意味合いも色濃いだろうが。


 何にせよ、普段このエレベーターを使う者は居ない。


 だが、呼び出しボタンが無いとどうにもならない、等と言うつもりは毛頭無かった。

 俺達はレイヴンなのだから、エレベーターシャフトに入れたらある程度は何とかなる。現に前回の任務で俺はエレベーターシャフトの中でワイヤーを伝って、階下へと降りていたのだから。


 その点、今回は他にエレベーターを操作する者がまず居ない。むしろやりやすいとも言えた。


 だが問題が無い訳では無い。扉だ。


 当初は前回のウィンウッドの時と同じく、エレベーターの扉の隙間にログザルでも捩じ込んで強引に開けてシャフトに入るか、とでも考えていたが事前の資料を読み込んでいる内に、その手は諦める事になった。


 貨物エレベーター用の扉は、一般的な人員輸送用のエレベーターとは扉の作りが違うのだ。


 両扉が左右から閉まる様な造りの扉ならログザルの刀身を捩じ込む手もあったが、この貨物用エレベーターは厚いシャッターが横向きに下りる様な扉をしている。


 扉の端が壁の奥に潜る様な形になっている為に、刀身を捩じ込む様な手は諦めざるを得なかった。


 ラシェルが、細長い工具の様な物を幾つかポーチから取り出す。


 言うまでもないが、エレベーター自体の呼び出しボタンを押す、と言う選択肢を取るのは論外だった。


 レイヴンが律儀にエレベーターに乗る、と言う選択肢がこの状況では論外と言うのは言うまでもないが、理由はそれだけでは無い。


 このエレベーター、密かに利用させない為かは知らないが呼び出す時とカゴが到着した時、とんでもない音量のベルが鳴るのだ。それも、特徴的な音のベルが。


 エレベーターの扉は開けない。呼び出しも出来ない。


 よって今回の任務で俺達は扉上部に取り付けられた、エレベーターの整備用ハッチを潜る事にしていた。


 不用意に入れない様にする為か、ハッチは不自然に高い位置に取り付けられているが俺達はレイヴンだ。


 扉枠と呼び出しボタンの頑強な蓋に足を掛け、脚立でも使っているかの様に平然とラシェルが整備用ハッチを弄っている。


 ハッチにも別の鍵が掛かっていたが、生憎とそこまで複雑な錠が掛かっている訳でも無かった。


 俺やラシェルの様に、鍵の“作法”を知っている者なら専用の工具を使って開ける事はそこまで難しい事ではない。


 ラシェルは不安定にも見える体勢のまま少し鍵を弄っていたが、不意に工具とは違う金属音と共に、ハッチが小さく軋みつつ開いた。


 秒数を数えていた訳では無いが、予想より早い。


 不安定な体勢のままラシェルが床にも降りずに工具をしまい、此方に手招きをしてから暗いハッチの奥へと消えた。


 少し綱渡りな所はあったが、こうして考えると任務順調に進んでいる事は確かだ。


 此方も先程のラシェルの動きをなぞる様に足や手を掛け、自分もハッチを潜ってエレベーターシャフトの中に侵入する。


 ワイヤーを擦る音と共にエレベーター内部を階下に向けて移動していくが、実際にはそれ程移動する必要は無かった。


 屋上から階下に移動する際、階段を利用するには余りにも遠回りになる上、警備も厚い所を通る必要がある為に今回はエレベーターシャフト内を通る必要があった、というだけで階層を幾つも降りる必要は無い。


 目標の部屋は、屋上の一つ下の階層にある部屋なのだから。


 シャフト内で少しワイヤーを滑り降りた後、自分の下に居るラシェルがシャフト内のワイヤーから貨物エレベーターの扉、その内側に跳び移った。


 そのまま整備用ハッチに移動するが、ハッチの施錠は内側からは工具など使わなくても容易に開けられる。


 軋む音を抑える仕草と共にハッチを開けたラシェルが、エレベーターの外を確認した後に静かにハッチを潜った。


 此方に合図は無かったが、辺りを見回した筈のラシェルが潜って外に出た辺り、周囲の敵等は問題ないのだろう。


 燃料庫の爆破による陽動でどれだけの兵、修道女がこの階層に居るのかは分からないが、手早く済ませるに越した事は無い。


 幸いにも目標の部屋は、貨物エレベーターから大して離れていない距離にあった。


 余程の不運に見舞われない限り、この時間帯と状況において修道院長が居ると思われる部屋には、途中で敵に出会う事無く辿り着ける筈だ。


 このハッチは少し狭いな。いや、俺がラドブレクを背負っている事が原因か。


 ハッチを潜りながらそんな事を考えていた、その瞬間。


 気配。微かな足音。


 胴を整備用ハッチに通した体勢のままラシェルに指示する、よりも早くエレベーター近くで周囲を警戒していたラシェルが、ピストルの速撃ちの様な動きで曲がり角の方角へとボルトを放った。


 ボルトを追う様に此方がスパンデュールを構えるも、曲がり角の先で静かに修道女がライフル片手に胸を抑えているのが見える。


 修道女が足をふらつかせながらも、それでもクランクライフルを構えた辺りで俺の放ったスパンデュールのボルトが、眉間の辺りに深々と突き刺さった。


 頭をぶつけた様に仰け反る修道女が床に倒れるよりも早く、駆け寄ったラシェルが手を掴んで此方に引き戻す。


 ストルケインで突き刺すつもりだったのか、それとも俺のボルトが仕留める事を確信して相手の身体を支えるべく駆け寄ったかは分からないが、少なくとも上手く行った様だった。


 俺がハッチを潜り抜けて床に降り立つと、ラシェルが肩に担いでいた修道女を申し訳程度ではあるが物陰に下ろし、此方に手信号を送ってくる。


 “こいつ、何でここに居たの?”


 “普段、人は居ない筈”


 少しだけ首を捻った。咄嗟に始末こそ出来たが、確かに妙だ。


 “陽動で今は、殊更に人員が必要な筈”


 手信号で返事を返した。


 “そろそろ陽動も収まって帰ってきても、おかしくない”


 ラシェルが少しの間を置く。


 それでも、納得行かない様に手信号が返ってきた。


 “それを踏まえても、修道院長室の前にこんな奴が彷徨く理由は無い筈”


 手信号によるラシェルの返事は、全て筋が通っている。


 何故、ここに今、修道女がやってきた?


 少し考え込みそうになったが、不意に思考を切った。


 “何にせよ、急ごう。次が来るかも知れない”


 グレムリンにラシェルがレイヴンマスクに覆われたまま、顔を上げる。


 “確かにそうね”


 そんな手信号を返したかと思えば、ラシェルは直ぐ様目標の部屋へ向かって進み出した。


 幸い、目標が居るであろう修道院長室は曲がり角を曲がれば、すぐ見える程に近い。


 2人で気配を抑えながら、目標の部屋へと向かっていると先導していたラシェルが曲がり角で止まり、先程の事もあってか慎重に曲がり角の先を探った後に手招きした。


 重厚な両開きの扉。この先に目標の1人、ユーフェミア・シャーウッド修道院長が居る筈だ。


 扉の両脇に護衛や兵士は無し。目立った出入口は、両開きの扉のみ。


 扉に近付くと聞こえる、僅かな物音。覗くまでも無く分かる、中に人が居るのは間違いなかった。


 修道院長かどうかは特定出来ないが事前の情報からも、ここに居る可能性はかなり高い。


 静かに扉に触れながら、同じく扉に触れているラシェルと顔を見合わせた。


 これと言った手信号は無かったが、それでも“一気に突入する”つもりなのがラシェルの仕草から伝わってくる。


 話し合った訳でも無いのに俺は片手でログザルを腰から抜き、ラシェルも片手でストルケインを展開させていた。


 息を吸う。


 無言のまま扉を押し開けるべく、押し入った先で素早く相手を制圧、抹殺出来る様に身体を引き全身を“振りかぶった”。


 両開きの扉に触れた左手で、扉を押し開けるその瞬間。


 扉に触れている左手の甲へ、脈打つ様な疼きと共に痣が蒼白く浮かび上がる。


 反射的に、同じく身体を“振りかぶって”いるラシェルを手で制した。


 ストルケインを握ったままのラシェルが、怪訝な雰囲気を纏いながら此方に目をやる。


 力を込めている訳でも無いのに、疼きと共に浮かび上がった痣。


 不本意ではあるが、俺はこの痣がどういうものかをある程度は分かっていた。


 この扉の奥に左手の痣が反応を示す程の、“何か”がある。


 未だ怪訝な様子のラシェルにその事を伝えようとしたその瞬間に、扉の奥から物音がした。


 重い物を引き摺る様な、床を削る様な音。

 頭の中で、理屈が組み立てられる前に自身の全てが、警戒態勢を取る。


 ラシェルも同じ結論が出た事を、視界と意識の片隅で捉えたその刹那。






 目の前の扉が、雷鳴の様な音と共に砕け散った。






 床で背中を打つと共に時間が引き延ばされ、情報と事実が並列に頭へと流れ込んでくる。



 自身が、衝撃で後ろへと倒れ込んだ事。警戒のお陰で、咄嗟の防御は成功した事。


 扉の破砕は、爆薬や火薬による物では無い事。目的にしていた修道院長室、部屋に敵が居る事。4人。奥に1人。目標の修道院長。


 4人の内2人がライフルを持っている事。その2人が、倒れた俺とラシェルに狙いを定めた事。




 咳き込んだ。


 扉が破壊され仰向けに倒れた数秒間、情報の把握と処理と対処を並列に行っているせいで、頭の中が複雑に絡み合う。




 確かめるまでもなく磨り減っていく猶予。




 動け。撃たれるぞ、動け。




 分析と決断を並列に行え。




 靄が掛かり、情報の処理で脳内が揺れているまま、スパンデュールの狙いをライフルを持った兵士、修道女へと定める。


 今、正にライフルを此方に構えている相手の胴へと狙いを定めるも、少し上向きに狙いを変えてからボルトを放った。


 照準より感覚と経験に頼った方法ではあったが、上手く行ったらしくボルトが修道女の下顎の辺りを突き破る様にして命中する。


 もう1人も、殆ど同時にボルトが眼窩を貫き頭を打った様に仰け反った。


 この数秒でラシェルも、同じ様な結論に至ったらしい。


 引き延ばされていた時間から引き戻される中、手から飛び出しかけていたログザルを握り直し、脳内を再び加速させる。




 破片と俺達の後ろの状況を見る限り、重厚な両開きの扉を突き破り俺達を突き飛ばしたのは、木製の大きな事務机だという事。


 その事務机は、あれだけの重量にも関わらず投げ付けられたらしいという事。


 位置的にそれを投げたであろう修道女が、不気味な金属製の仮面を着けている事。


 倒れている俺達2人は今、非常にまずい状況だという事。




 メイス片手に距離を詰めてくる相手へ、反射的にスパンデュールを放つ。


 外れた。いや。


 上半身の動きで、自身への動体予測を欺いたのか。


 更に、距離が詰まる。時間が足りない。


 視界の端でラシェルが身体を回転させる様にして、距離を取りつつ体勢を立て直しているのが見えた。


 相手の実力を加味して脳内の動体予測を修正。


 欺かれる事を踏まえた上で放ったボルトが駆け寄る相手の右腕、二の腕の辺りに突き刺さる。


 一瞬にも満たない、隙。


 ボルトを放つと同時にログザルを握った手を床に突く様な形で、素早く後ろへ身体を引き摺りつつ立ち上がった。


 倒れていた俺の踵や脛辺りを狙った、大振りなメイスが重量を感じさせない素早さで空を切る。


 メイスの先端が、掠める様にして床を僅かに削り取った。


 ラシェルのストルケインが、展開されてもう1人の修道女に向けられているのが視界の端に見える。


 事も無げに右腕からボルトを引き抜く相手に、内心歯噛みした。


 大した負傷にはなっていないらしい、いやボルトの刺さり方が浅かったか。あの修道服の下に何か着込んでいたのかも知れない。


 長く、長く息を吐いているのが聞こえた。


 自身の息では無い、隣のラシェルの呼吸だ。


 修道女2人が平然と、暴れる子供を見ている様な仕草でメイスを構え直す。


 手の中のログザルを回転させて、握り直した。


 靄の掛かっていた頭から不明瞭な靄が晴れ、少しずつ細部が見え始める。


 金属製の大振りなメイスと、不気味な金属製の仮面。


 衝撃が頭から抜けていなかった上、“此処に居ないだろう”と勝手な固定概念がこびりついていたせいで、事実を理解するのが遅れた。


 左手の痣が、またもや疼く。


 そうだ。この仮面は。仮面を付けているという事は。仮面を付けてメイスを振り回しているという事は。




 こいつらが、“恩寵者”だ。




 今回の任務において、恩寵者との戦闘が避けられない事は分かっていた。


 戦う計画も恩寵者を相手取る想定も、準備している。勿論、決意と覚悟も。


 だが、修道院長室でラシェルと共に2人の恩寵者を相手取るのは、言うまでもなく想定外だった。


 どうしてここに居るのか、という疑問は直ぐに捨てる。


 現に目の前に恩寵者が立っている、外れた仮定の話をする段階では無かった。


 唐突に隣から、火花が散る様な金属音が聞こえてくる。


 ラシェルが見紛う様な速度で突き出したストルケインの穂先を、別の恩寵者がメイスで削る様にいなしている所だった。


 金属製の不気味な仮面が、飛んできたかの様に眼前へ迫ってくる。


 1歩か2歩、踏み込みを省いた様な静かさと素早さで距離を詰めてきた恩寵者が直線的な軌道で、金属メイスの先端を突き込んできた。


 手に染み込んだ反射で振るったログザルの刀身が辛うじてメイスの突きを横に押し退け、レイヴンマスクに食い込む筈だったメイスの先端を、頭の横へと流す。


 重い。体格と体重差は俺の方が有利な筈だが、今の突きの重さはとても体格差を感じさせない威力だった。


 ラシェルが槍とメイスを激突させた金属音に、拍子を合わせて真正面から意識の隙を突いて踏み込んでくる実力からも、事前に聞いていた以上の相手である事は間違いない。


 事前に幹部連中や資料で聞いていた実力、ラシェルから悪態混じりに説明されていた恩寵者の特徴が、吹き荒れる様に脳内へと溢れ出した。


 レイヴンマスクの下で、相手に悟られない様に深く息を吸う。


 向き合っているレイヴン2人、恩寵者2人の後ろで怯えきっている中年の修道院長へと僅かばかり意識を向けた。


 俺とラシェルで1つずつ今回の任務に持ち込んでいる、ディロジウム手榴弾を使えば恩寵者は無理でも修道院長だけは排除出来るか、とも思ったが胸中で却下する。


 この状況で手榴弾はリスクが高過ぎる、この部屋で手榴弾を此方に被害が及ぶ可能性も高い、こいつらの未知数の実力を考えれば最悪手榴弾をなげ返される、もしくは利用されて俺達が不利になる事も考えるべきだ。


 それに、この部屋において俺達の任務は修道院長の抹殺だけでなく、この部屋に隠されているであろう証書も必要になる。


 メネルフル修道院の地下で厳重に管理されているであろう“顧客名簿”も必要だが、非合法の奴隷売買が“向こうも承知の上で”取引されている証拠、取引相手に裏切らせない為の弱味となる証書をこの部屋で見つける、もしくは場所を吐かせるとなると恩寵者2人を片付けない訳には行かなかった。

 つまり。


 真正面から、こいつらを打ち破るしかない。かの悪名高い、“恩寵者”を。


 視界と意識の端でラシェルのストルケインと金属のメイスが金属音と共に弾きあっているのを捉えながら、ログザルを肩の上から後ろへ振りかぶる様にして構え直した。


 仮面に阻まれて表情の変化は分からず、加えて相手の動きや構えに変化は見えないが、此方の考えと意味は充分に伝わる筈だ。


 一般的なサーベル等を握っていたなら、金属製のメイスの一撃を刀身等で受ける事は難しいだろう。真正面から受ければ、刀身が折れる事だって有り得る。


 また、同様の理由で此方の打ち込みをメイスで防がれる訳にも行かなかった。


 つまり一般的な刀剣ならば、攻め手を欠く事になる。また、防ぐ手も。


 だがログザル、フカクジラの骨は硬化処理によって高密度合金並みの強度を誇る筈だ。


 刀剣として、リッパーと同等かそれ以上の強度を持つログザルなら、メイス相手に攻める手立ても幅が広がる。


 右肩の後ろへと振りかぶっていたログザルに左手を添える様に両手で握り直し、踏み込みと共に力を乗せ振り下ろす形で斬り掛かった。


 両手剣の如き打ち込み、だがこれだけの予備動作からの力が乗った切り込み、振り下ろしが容易に通じる程、恩寵者の実力は低くないだろう。


 相手の恩寵者が頭上から降ってくる此方の刀身、ひいては腕を叩き払う様に素早くメイスを振るう。


 が、ログザルは恩寵者の肩も腕も狙う事無く相手から見て右側、すぐ傍の空間を縦に裂く形で空振った。


 当てるつもりの無い剣を追う様に、肩の上辺りを払う様に、メイスがまるで関係の無い所を素早く通り抜けて振り下ろされる。


 1秒にも満たない、僅かな空虚の時間。


 その時間は、打ち込みがフェイントとして察されるには充分な時間であり同時に、実の所それほど打ち込みに力は入っておらず空振りに見せ掛けていたログザルの刀身が、素早く下段から右脇と右脇腹を狙うには充分な時間だった。


 脇腹、加えて言うなら理想は脇の動脈。充分な出血による致命傷、もしくはそれに準ずる負傷。


 “空振った”刀身を床に近い下段から素早く跳ね上がらせる様な動きで、先程のフェイントとは違う芯の入った剣筋で急所に斬り込む。


 右手に左手を添えた両手持ちでログザルを振り下ろすと同時に、両手持ちを介して右手から左手に持ち変えたログザルを、手の持ち替えのフェイントを絡めた素早い切り返しによって、相手に致命傷を負わせようとしたその瞬間、気付いた。


 自身と同じく相手の、空振って下段に下ろされた右手のメイスが斬り込むログザルの刀身を阻害する、邪魔な位置にある事。


 それが、意図的な物だという事。


 メイスを振るにもログザルを振るうにも、近すぎる程に距離を詰められている事。


 最初から、此方のフェイントに合わせられていた。


 至近距離から即座に頭突きを考えるも、此方のレイヴンマスクは兎も角としても相手の金属製の仮面を考えると、鼻骨を狙う頭突きは有効とは思えない。


 不気味な金属製の仮面に“目元の穴が開いていない”事に気付くのと、此方の胸に相手の左掌底が触れるのは殆ど同時だった。


 此方が反射的に後ろへ跳ぶより速く、革の防護服の胸へと相手の掌底がめり込む。


 相手の練り出す様な突きを胸に受けた身体が此方の跳躍も相まって、まるで大袈裟な演武の様に後ろへと吹き飛んだ。


 何とか受け身こそ取れたものの、それでも良くない咳が口から零れる。


 自分から跳んで軽減した事を差し引いても、胸の奥には重い痛覚が染み込んでいた。


 相手が握っているメイスで攻めるには、遠い距離。軽減目的で掌底を喰らった際に後ろへと跳んだが、結果からして倒れたり体勢を崩したりした所に追い討ちを掛けられる様な、まずい事態は防げたらしい。


 最悪な場合、相手の実力から考えるとその追い討ちで致命傷を負わされていた可能性だって、充分に有り得ただろう。 


 恩寵者2人の後ろに隠れる様にしていた修道院長が逃げようとしたのか、応援を呼ぼうとしたのかは分からないが咄嗟に俺達の脇を抜ける様に、駆け出す。


 この修道院長室の出入り口は出入り困難な窓を除けば、俺達の後ろの扉だけだ。


 死なせる訳には行かないが、当然ながら逃がす訳にも行かずスパンデュールから最後のボルトを放つと脚に命中し、悲鳴と共に修道院長が激しく転倒した。


 修道院長がボルトの飛び出した脚を引き摺る様にして恩寵者の後ろに隠れる様に距離を取るも、騒いでも無駄と判断したのか何か行動を起こす様子は無い。


 何一つ動じない辺りを見ると恩寵者の方も、自分の後方で起きている修道院長の騒ぎにまるで関心が無いらしい。


 切り札の1つにするつもりだったスパンデュールが、打ち止めか。


 胸中で悪態を吐く。


「ゼナイド、やはり間違いありません」


 距離を置いて此方が立ち上がりつつログザルを構え直している合間、相手の恩寵者が不意に、仮面越しとは思えない程に通る声で言葉を発した。


「ええ。私から見てもそう思います、ロラ」


 ラシェルと向き合っていた方、“ゼナイド”と呼ばれた恩寵者が、肉厚の剣の様に振り下ろされたストルケインをメイスで受け止めつつ、同じく通る声で返す。


 削る様な金属音と共に受け止められていたストルケインが引き抜かれ、すかさず胴へと穂先が突き込まれるも脇の下を通す様にしてかわされ、その上でメイスで大きくストルケインを打ち払われたラシェルが、後ずさる様にして距離を取っていた。


 ストルケインの穂先を向けていた構えから、穂先を自身の斜め上に向ける様な構えへとラシェルが構え直す。


 相手を攻める構えでは無く、相手の攻撃を受ける構えだった。


 分かってはいたが、戦況は芳しいとは言えない。


 ログザルを回転させて握り直していると、俺の目の前に居る相手………“ロラ”と呼ばれた恩寵者が、穴の無い仮面が見据える様に此方を向いた。


 気を張り詰める様に細い息を吐く。


 そう、奴等………“恩寵者”の不気味な金属製の仮面には、一般的な仮面の様な視界を確保する為の穴が空いていない。


 最初にその事実を聞いた際、視線を読ませない為、と言った戦術的な理由を想像する者は少なくないが、実際の理由はもっと奇妙で、不可解な物だった。


 恩寵者には、一切の視力が無いのだ。


 あくまで定義によって呼称するなら全盲、と言っても良い。


 当初、にわかには信じがたい話ではあったが恩寵者と呼ばれる者達は鍛練と信仰、そして伝統の末に、精神力によって意図的に視力を喪失させたらしい。


 心因性による視力減退、及び喪失を本人の意思によって精神力だけで引き起こした、とも予想されているが詳しい仕組みは勿論分かっていない。


 そして完全に視力を喪失した後、外科的に眼球を摘出した上で“特製の義眼”を両の眼窩に埋め込んでいるとの事。


 信仰の末に辿り着いた、狂気とも言える、むしろ狂気としか思えない奇跡。


 勿論、それだけでも充分な狂信ではあるがギャング達や我々レイヴンの様な、“拳と刃が物を言う”連中が奴等を脅威に思う理由は別にある。


「何と穢らわしい…………こんなにも、魂の淀んだ者がこのレガリスに居ようとは」


 自分の目の前に居た恩寵者、ロラがはっきりと此方を“見据えながら”、澄んだ声で言葉を紡いだ。


 そう、奴等の眼窩には眼球が無い。無論、視力と視界も。


 だが奴等は、その上で周囲と景色を“視ている”のだ。聴覚と嗅覚で“感じ取る”のはまた訳が違い、相手が何一つ音や風を発しなくても全てを“視る”事が出来る。


 言うまでもなく理屈では説明の付かない事だが、生憎と“理屈では説明出来ないが、実際に実利と実害がある超常的な力”には心当たりが幾らでもあった。


 仄かに熱を感じている左手に、力が入る。


「えぇ、全くです。そこまで堕ちた者には最早、赦しも救いも過ぎた物でしょう」


 ゼナイドがラシェルと対峙しながらも、落ち着いた様子で言った。


 間違いない。奴等に俺達がどう“視えている”のかは知らないが、奴等は俺が何者なのか気付いている。


 黒革の防護服を着込み、レイヴンマスクで顔を覆っている俺がかの悪名高き“グロングス”だと気付いている。


「随分とカラスが嫌いみたいね。髪にクソでも落とされたの?」


 ゼナイドと対峙したままラシェルがそう毒づいたのを聞いて、レイヴンマスクの下で目線を向けた。


 カラス。


 今回の任務中に予め決めていた隠語、暗号の一つであった。


 グロングス、正確に指すならグロングスが及ぼすその力。


 今回の任務中、敵を前にして文面や文法に関わらず、“カラス”と“クソ”という単語がラシェルから発言された場合、「その超常的な力を行使しろ」という合図でもあった。


 恩寵者達の本拠地とも巣窟とも言える、修道院地下。


 その地下に辿り着くまでは、俺が超常的な力を振るうグロングスだと露見しない様に、所謂“如何にもグロングス”といった力は使わない。


 そういう計画だった。


 だがどんな任務にも“想定外”はある。


 窮地かつ、相手に悟られない様に指示を出す必要性に駆られた場合へ備え、合図を決めていたのが功を奏した。


 予防は治療に勝る、だ。


 ラシェルがストルケインを振りかぶった瞬間に鋭く息を吸い、先程から痣が脈打っていた左手に意識を集中させて空気中を漂う、見えない“何か”を絡め取った。


 目の前のロラと呼ばれていた恩寵者が、僅かに首を動かす。


 左手の甲に覚えのある熱を感じながら、眼で距離を図りながら微細な調整を意識しつつ左手に絡めたものを“手繰り寄せ”た。


 急に部屋が後ろに伸びた様な、目の前の景色が急に突き出してきた様な錯覚。


 右腕でログザルを振りかぶると同時にロラとの距離を一瞬で詰め、勢いと体重を乗せてログザルの刀身を打ち込む。


 左手の痣の力を用いた“手繰り寄せ”による、相手には間違いなく経験の無い超常的な急接近。


 深く踏み込んだ、咄嗟の身体の振り程度では到底逃れられない肩口への斬り込みによって、ログザルの刀身は此方の想定通りに相手の身体へと、噛み付く様に食い込んだ。


 だがその食い込んだ刀身からは、微塵も出血や負傷が感じられない。


 盾の様に掲げた相手の左手前腕が鉄柱の様にログザルの刀身、刃を食い止めていた。


 この不意打ちを左腕1本の代償で防ぐか、という想いと骨の様な堅い前腕への違和感が同時に頭を駆け抜ける。


 相手の右肩の動きに直ぐ様、身体が閃く様に反応した。


 左手前腕で此方のログザルを受け止めたまま右肩、右腕で振るわれたメイスをガントレットから逆手に掴み取ったラスティで、辛うじて受け止める。


 ラスティの刀身からも伝わってくる打撃の重さから見て、メイスの掴み取りを選択しないのは正解だった。


 超常的な痣の力によって、予測出来ない形で不意を突いたが相手の左前腕に刀身が食い込んだ程度で、致命傷は与えられていない。


 刀身が食い込んだ前腕も、大した出血や負傷は望めないと見て良いだろう。


 だが、まだ此方の“不意打ち”は終わって居ない。


 引き切る様に相手の左前腕からログザルの刀身を引き下ろすと同時に、まだメイスの重さの感触が抜けていない左手のラスティを、左足で踏み込みながら脇腹から胴を切り裂く様に切っ先を走らせた。


 逆手にラスティを握った拳で相手の腹を殴り付ける様にして、切り裂いたラスティから返ってくる手応えは余りにも、硬い。


 ログザルの刀身が食い込んでも、出血も負傷も感じられない前腕。同じく、ラスティの切っ先で胴体部分の服を切り裂いた際の硬い感触。


 間違いない、こいつらは。


 腹を切り裂かれた筈の相手が、踏み込みながらメイスを振りかぶっている事に気付くのと、恩寵者“ゼナイド”と戦っているラシェルが叫ぶのは殆ど同時だった。


「こいつら、鎖を着込んでる!!!」


 鎖、つまりチェインメイルと呼ばれる防具を修道服の下に着込んでいる。


 ウィンウッドの時と同じく斬撃は通じない、ラスティは切り裂くべきでは無く突き立てなければ。


 身体に染み込んだ反射が、左肩を庇った。


 咄嗟にログザルの刀身で軽減しタイミングを逃がしたとは言え、金属製の重厚なメイスが革の防護服を嘲笑う様に刀身ごと左肩へめり込む。


 意思より先に、呻き声が口から零れた。


 ロラが、再びメイスを振りかぶる。


 今この肩では受けきれない、まずい。


 靴底が床を噛む音と共に床を蹴り、脚を突き出す様にして身体を素早く後ろへと押し出した。


 その瞬間、革の防護服のベルトや固定金具、レイヴンマスクの端を金属製の重厚なメイスが削り取る様にして、振り抜かれる。


 振り抜いたメイスを抑える、いや無理だ。


 切り返す様に再び振るわれるメイスを、風切り音を聞きながら更に身体を後ろへと引き込んだ。


 触れてこそいないが背中のすぐ後ろに壁を感じる。壁際、いや棚か。


 安易に後退したせいで身体を引き込み過ぎたか、とも思ったが直ぐに否定する。


 目の前の恩寵者がこの棚を知らない筈は無い。意図的に、追い込まれた。


 逃げ場の無い空間で、ロラが猛然とメイスを両手で振りかぶる。


 マスクの下で、玉の様な汗が吹き出した。


 大きく振りかぶった、両手持ちのメイス。


 この肩でなくとも左手のラスティで受け止めるのは無理だ、かと言ってまともに喰らえば骨が砕けかねない。


 革手袋のワイヤー操作でラスティをガントレットに素早く格納し、右手のログザルに左手を添えて握った。


 指が引きちぎられる。


 一瞬とは言え、そんな錯覚を覚える程の衝撃と共に手元のログザルが叩き落とされ、意外な程に大きな音を立てて床で跳ねた。


 ロラが1歩引いて床のログザルを、遠ざける様に蹴り払う。


 確実に相手を仕留める為の、徹底した順序。勿論、視線は俺から離れなかった。


 だが。


 その順序の一瞬、武器を取り落とした俺から意識が、足元へと移る。


 微かな意識の揺れ。


 その一瞬に手を突き込む様にして即座にロラの右手、メイスを握っている前腕をログザルを取り落としたばかりの此方の右手で掴み取った。


 同時にグローブ操作していた左手でラスティを逆手に握り、掴んだままロラの右手の手首と第1指の付け根の辺りを鋭く切り裂く。


 相手の声と出血を見るまでもなく、手袋の下の相手の皮膚と肉を切り裂いた事が分かった。


 切り裂いたばかりの手を右手で下方へと引き寄せながら、肺の酸素を燃やしながら片足で跳ぶ様に膝蹴りを放つ。


 防護服からも伝わる硬い感触と共に、膝がロラの手からメイスをもぎ取った。


 メイスが手から離れ、宙を舞う。


 お互いがお互いの武器を叩き落とした上で、此方の手にはラスティ。


 勝機。


 疼く左手で逆手に握ったフルタングダガー、ラスティをすかさず相手の急所に全力で突き立てようとした瞬間に、そのダガーを握っている左手首が切り裂いたばかりの、それも俺が前腕を掴んだままの右手で万力の如き握力で掴まれた。


 左手を抑えられたまま、強引に下方へと下げられていく。


 ログザルは他所へ追いやられ、ラスティを持った左手はロラの手によって握り潰すが如く抑えられていた。


 ロラが右手で俺の左手を抑えたまま、空いた左手で素早く喉を潰そうとしてきた所を、咄嗟に相手の左手を離した右手で掴み止める。


 相手の指先が喉に触れそうな所で辛うじて止めていたが、相手は体格からは想像の付かない怪力で掴まれた左手を押し込んできた。


 少しずつでも喉元に指先を近付けようとする相手に、喉の軟骨を握力で潰す戦法が頭を過る。


 そのまま片足を踏まれ、身体を引けなくなった辺りで脳裏に嫌な悪寒が伝った。


 左手のラスティは掴み止められ、右手は迫りくる手を防ぐのに精一杯だ。


 骨が軋む程の握力で掴まれてる左手の事を考えると、今食い止めている手が喉を掴んだら例え俺がその手を掴んでいようとも、そのまま軟骨を砕かれる可能性は充分にある。


 何せ、この俺自身がそうやって相手の喉の軟骨を握り潰し、敵を行動不能にした経験があるのだから。


 足を踏まれたまま、背中が棚に付く。壁じゃなく棚だったか。


 喉に迫る手を別方向に逸らそうともしてみたが、まるで鉄柱でも相手にしているかの様に逸れる気配が無かった。


 体格も体重も此方に利がある筈だ。なのに、目の前の修道女………“恩寵者”ロラは信じられない程の怪力で此方に手先、指先を押し込んでくる。


 通常ならば此方が体格と筋力に物を言わせて採用する様な戦法で、だ。


 左手のラスティは動かせない。ログザルは蹴り払われて手が届かない。


 背中のラドブレクは取り出せる状況ではない、この状況で背中から斧を取り出すのは確実に出鼻を抑えられる。


 掴まれている左手首が軋んだ。


 今俺を教え込んでいるロラの背中、後方で戦闘の音がする。


 ロラの肩越しに視線をやると落石の様な音と共にラシェルのストルケイン、その石突が棍棒の如くゼナイドの側頭部に叩き込まれているのがロラの肩越しに見えた。


 その直後にストルケインの穂先を向け直したラシェルが腰を入れた突きを放とうとするも、頭を石突で殴られたばかりのゼナイドが即座に反応しメイスで穂先を叩き落とそうとする。


 が、腰を入れた突きどころか見越した様にメイスに穂先が触れる直前で、逆にストルケインを引いたラシェルが自分を軸に回転させる様にして、柄の反対側の石突をメイスを握っているゼナイドの手に叩き込んだ。


 相手の手で弾ませた石突の対極、穂先が切り込んだ剣の切っ先の様にメイスを握っている手へと斬りつけられる。


 くぐもった呻き声と共に、ゼナイドの手からメイスが弾かれた様に抜け落ち重い音を伴って床を転がった。


 メイスの蹴り払いより攻撃を選択したラシェルが、若干のフェイントを入れつつ両手でストルケインを握り、腰の入れた突きを相手の胴へと突き込む。


 充分に勢いを付けたストルケインの穂先と、ラシェルの技量があればチェインメイルを貫く事も充分に可能だろう。


 武器を取り落とした相手に、確実な傷を負わせるべく胴を貫こうとするのは、戦略的に見て堅実な選択と言えた。


 俺でも同じ選択をする可能性は充分にある。


 だからこそ、相手が示し合わせた様に両手で自分の胴に向けられた穂先を掴み取る事は、予測出来た筈だった。


 ラシェルも当然ながら、相当の力で押し込んでいる筈なのにその穂先を胴の手前で“掴んで止める”という事実に、相手の握力を踏まえて恐ろしい物を感じつつ明確な予想が頭を過る。


 そのまま吊り上げられるのでは無いか、という腕力と技巧でストルケインがゼナイドの手元で、立てる様に無理矢理に持ち上げられ攻め込んでいる筈のラシェルの身体が浮きそうになった所に、余りにも芯を喰った直蹴りがラシェルの胴に入った。


 力がまともに伝わったらしく、人形の様に吹っ飛んで後ろに転がるラシェル。


 苦しそうな咳を漏らすラシェルにゼナイドが止めを刺すべく、すかさずストルケインを刺突に向けて握り直す。







 あの蒼白い双眸が、脳裏を過った。

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