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カラスが、低く濁った声で鳴いていた。
そんな声を遠巻きに聞きながら、かなり高い屋根から幾らか低い屋根へと降り立つ。
まぁ低いと言っても相対的に見た場合の話で、此方の屋根も高い事には変わり無いだが。
レガリスの中でも比較的、南方に位置する地区だからだろうか。まだ厳寒たる夜霜の月だと言うのに、寒さが随分と柔らかい気がした。
何にせよ気温が和やかなのは、レイヴンには好都合だ。
特に、今から修道院を襲撃しようという“不敬者”のレイヴンには。
屋根の上から広く、街全体を見回す。
ラクサギア地区が有数の宗教地区とは予め聞いていたが、正直な感想としては想像以上に現代的な町並みである事に、少々驚いていた。
見た限りでも分かる程にディロジウム式の駆動機関が広く普及・浸透しており、辺境都市にありがちな、蒸気機関に大きく頼っている様な節も見当たらない。
他の地区に比べれば数が少ない事は否めないが、洒落た装飾の店も幾つか見受けられる。
屋根から見た限りではあるものの、蒼白いディロジウム灯もラクサギア地区の街へ自然に組み込まれており、暗くなりつつある黄昏時の街を文明的に照らしていた。
そんな暗くなりつつある街へ紛れる様に気配を抑えながら、屋根の上を歩いている歩哨に目と意識を留める。
建物の屋根に組まれた対レイヴンと思われる監視や哨戒用の足場に、まるで聖職者の服の上から軍の装備を付けた様な風貌の兵士が、クランクライフルを片手に彷徨いているのを見るのは妙な感覚だった。
帝国軍に在籍していた頃から、宗教地区に配置された帝国軍の兵士が“聖職者風”に染められてから配置される事は知っていたし、事前の資料でも勿論知っている。
テネジア教を信仰する事を義務付けられる事からも分かる様にレガリスの帝国軍は軍隊でありながら、修道院を保有する程の宗教団体でもあった。
実際、レガリスに現存する修道院の大半は大なり小なり、帝国本部からの管理・支援を受けている。
その影響から基本的に、修道院及びその修道会に属する聖職者は帝国軍から傘下組織として扱われる事が殆どだ。
勿論、“殆ど”と言うからには例外もある。それが、このラクサギア地区だった。
帝国本部から高名な、有数の宗教地区と認められた地区においては奇妙な事に帝国軍と修道会のパワーバランスは、逆転する事がある。
修道院が帝国軍の傘下となるのでは無く、帝国軍が修道院から指示を受けて行動する、といった様に。
現にこのラクサギア地区では、帝国軍の兵士はテネジア教徒である事も相まってまず修道院及び修道会に対する厳格な信仰を求められ、その上で帝国からの軍務を考慮される形となっている。
かつて帝国軍の前身として、“修道騎士団”という信仰の名の元に戦った者達が居たそうだが、こうして実際に見ると納得の行く話ではあった。
軍の全てがこのラクサギア地区の様になっていたのかと思うと、少し考える所が無い訳では無いが。
「あんたそれ、本当に持っていくつもり?」
そんな高い声が背中に掛かり、長考に入りかけていた思考が不意に引き戻される。
わざわざ振り向くまでもなかった。
ラシェル・フロランス・スペルヴィエル。
黒革の防護服を着込みレイヴンマスクを被った、ラシェルが自分のやや後方で静かに追従していた。
元々、このラクサギア地区及びメネルフル修道院の任務は、ラシェル自身が幹部直々に命じられたものだ。
本来はラシェル及び数名のレイヴンによって遂行される筈の任務だったそうだが、ラシェル本人によって今回の様な形になったらしい。
何でも聞く所によれば、元々このラクサギア地区が誇るメネルフル修道院、加えて言うならその地下に攻め込むに際してラシェル本人が、「他のレイヴンでは踏み潰されて終わりだ」と断言したとの事。それも、幹部達に向かって真正面から。
そして、その恐らく優秀であろう数人のレイヴンの代わりに、よりにもよって俺が指名されたそうだ。
“あの不吉なクソッタレなら、地下に潜む怪物どもに対抗出来る”と。
あのラシェルが俺をそんなに評価しているのは意外に思う所はあるが、勿論ながら地下の怪物達と“共食い”させる為にグロングスを呼び出した事を考えると、気が晴れる話でも無かった。
まぁ気が晴れる話など、言う程ある訳でも無いが。
そんなラシェルの眼は俺の背中に背負われている斧、ラドブレクに向けられていた。
「そのクソ気味悪い斧、クジラの骨で出来てるんでしょ?それともその方が“グロングスらしい”とでも思ってるの?」
子供の強がりに唾を吐く様なラシェルの言葉に、振り返らないまま言葉を返す。
「ヘアピンで殺せるなら、ヘアピンで戦うさ。グロングスに似合うヘアピンあるか?」
罵倒を意味するスラングが、背中に浴びせられた。
その後、微かな気配と共に音も無くラシェルが自分の隣に現れる。
「まさかとは思うけど万が一、あんたが地下の“恩寵者”どもを装甲兵みたいな、よく吠える犬程度だと勘違いしてたら任務失敗、私まで死ぬ羽目になるのよ。そのクソ気味悪い斧、振り回してる最中に折れたりしないでしょうね」
そんなラシェルの言葉を鼻で笑って返し、遠目からもう一度修道院を見渡す。
予め説明こそ受けていたものの、やはりメネルフル修道院は軍事的な意味合いを帯びている事もあってか、無視出来ない程には広かった。
たまに修道院を礼拝堂の様な、“大きな一軒家”の様に捉えている者が見受けられるが、信仰に興味の無い者にありがちな間違いだ。
必要な時だけ立ち寄る施設とは違い修道院は修道士及び、修道女が暮らしていく為に自給自足の性質を備えている。
人から聞いた例えにはなるが、修道院は施設と言うよりは聖職者のみで構成された、小さな村の様に考えた方が良いだろう。
メネルフル修道院に限っては“小さい”という表現は間違いかも知れないが。
「歩哨の数も練度も、事前の想定内ね」
レイヴンマスクに望遠レンズを組み込んだラシェルが、改めて周囲を確認しながら辺りを眺めつつ言葉を溢した。
事前の想定内である事はそのまま、侵入ルートに変更が無い事も示している。
つまりは、計画自体に変更は無しか。
ラシェルは“想定内”としか発言していないが、俺に伝えたい意図はそれで間違いないだろう。
此方が実行を提案するよりも前に、視界の端でラシェルが屋根から屋根へと静かに跳び移っていくのが見えた。
革のフードに覆われた頭を掻く。
実行するにしてもせめて一言ぐらい欲しいものだが、仕方の無い話ではあった。今回の任務において現場指揮を取るのは、ラシェルなのだ。
元々計画されていた数人のレイヴンも、本来ならばラシェルの下について任務を遂行する予定だった。
その数人の部下がラシェルの提案によって、かの悪名高いグロングス1人に差し変わる形となっている。
数人分の働きをしろと嫌味を言われた事もあったが、裏を返せばレイヴン数人でも難しい事をさせると言う意味でもあった。
まぁ、事前の任務説明や暗殺計画を聞いた限りでは確かに、“邪神グロングス”でも居ないと難しいだろう、という計画なのは確かだ。
少し息を吐いてから、助走を付けて屋根から屋根へと大きく跳ぶ。
欄干を直接踏んで大きく跳び移るラシェルに続く様に、此方も更に加速しつつ欄干の手摺をブーツの底で噛む様に踏み付けて、鋭い息を欄干の軋む音に混ぜ込む様にしながら大きく跳んだ。
音を抑える様にしながら、衝撃を逃がす様に勢いのまま転がる。
背負っているラドブレクに加えて携行性重視で設計された小型背嚢、それらの背負った装備が干渉しない様に地を転がる術は勿論、身に付けていた。
屋根を跳び回り戦うレイヴンなら、当然の事ではあったが。
段差を素早くよじ登り、太いパイプの下を滑り抜け、煉瓦作りの壁を重力を騙す様な動きで道にし、駆ける。
先に出発した事もあるが、元の足の速さも相まって中々に先を行っていたラシェルが、不意に屋根を低く滑る様な体勢になり高台から縄がほどけて下に伸びていく様な滑らかさで、屋根の下に消えた。
言うまでもないが、計画的な動きだ。
そのラシェルを追う様に此方も低く屋根を滑り込み、端から身体が落ちる瞬間にぶら下がって勢いを軽減させてから、屋根の端から真下へと落下する様に移動していく。
下へ下へと手掛かり足掛かりを伝う様に移動し、降りている途中で掴まっている壁を蹴る様に大きく跳んで少し離れた建物の屋上に着地した。
勢いのまま屋根の端から跳んでも届いただろうが、この高さから屋根に叩き付けられたとしたら例えレイヴンでも耐えられない高さなのは間違いない。
レイヴンの移動術はよく軽業や曲芸に例えられるが、個人的な感想としてラシェルの移動術は群を抜いていた。
レイヴンとなった俺でさえ、“足を踏み外したら”と考えてしまう様な足場を、間の開いた階段の様にラシェルは駆け抜けていく。
跳躍の末に辿り着く足場が、ブーツの底ですら余る様な細い足場であろうと平然と駆け抜けていく姿を追従するのは正直に言って、俺でも時折胆が冷える移動ではあったが優秀かつ効率的な行動である事は間違いなかった。
クソ度胸め。
水平に身体を横たえないと潜り抜けられない様な圧力パイプの間を、容易く空中で通り抜けるラシェルに内心舌を巻きながらも唸る様な声と共に同じルートを跳び、パイプの間を空中で潜り抜ける。
そうして計画通りとは言え、安全より迅速と効率を“とても”重視するルートを通り抜けた後、漸くラシェルが足を止め屋根の端で屈んだ。
そんなラシェルに付き従う様に俺自身も、周りを偵察するラシェルに続く様に隣へ屈む。
予め目星を付けておいたディロジウム燃料保管庫、その周辺へと辿り着いた。
今の目の前で数人の兵士に管理されている燃料保管庫はラクサギア地区の軍部が管理いる保管庫でもあり、つまりはメネルフル修道院の管轄になる燃料庫でもある。
勿論、幾らメネルフル修道院の管轄の燃料庫といってもこの場所にラクサギア地区の、ディロジウム燃料がこの1ヶ所に集められている訳でも無かった。
取り立てて特異性がある訳でも、他より大量の燃料が備蓄してある訳でも無い。
何なら、この燃料保管庫はディロジウム燃料の備蓄量で言えば他より少ないぐらいだ。
加えて言うなら他の燃料庫より修道院に特別近い訳でも無く、此処に破壊工作を仕掛けたとしても修道院関連の施設を破壊出来る訳でも無い。
別の、もっと修道院に近い燃料保管庫を破壊すれば関連施設に効果的な破壊工作が出来るのだろうが、当然ながらそれだけの重要性を持つ施設ならば警護も厳重になるのが世の常だった。
それを証明するかの様に今、こうしてラシェルと俺が目を向けているこの保管庫も、ラクサギア地区のストリートギャングが不用意に侵入できない様、施設警護に必要な程度の憲兵を揃えているという程度でしかない。
施設破壊に貢献出来る訳でも無く、重要度が高い訳でも無い上に、生半可には攻撃出来ない様に警護の憲兵が付いているディロジウム燃料保管庫。
何故そんな燃料保管庫が、レイヴン含め黒羽の団に目を付けられたのか。
それは前述の理由から成り立つ燃料保管庫の、万全では無いが手抜きでも無い警護度合い。もう一つは、修道院との距離にあった。
関連施設の破壊に効果的な訳では無いが、修道院の連中及び“修道会色の”兵士達が駆け付ける程度の距離。
“万が一”破壊工作、具体的に言えば爆薬等で爆破された結果、無視出来ない距離。
それでいて、重要性の低さから警護はあくまで“抑止”の為であってギャングの襲撃の様な、あからさまな攻撃は想定されておらず普段以上に警護を増員する様な事態も同様の理由でまず考えられない場所。
それが、この燃料保管庫だった。
ギャングが良からぬ気を起こさぬ程度の警護、近くは無いが遠くも無く万が一があれば修道院から兵士が駆け付ける程度の距離。そして、決して高くない施設の重要性。
それらの全てから産み出される、“これは抑止目的だから滅多な事ではギャングの襲撃は来ない”という憲兵及び修道院の、意識の隙。
その意識の隙を突く。
聖職者の服装に軍用の装備を重ねた様な、兵士達はクランクライフルを握っていたものの気が抜けているのは眼差しから見ても、明らかだった。
最も、注意深く観察しないと気が抜けてる事を悟らせない程度には、気を付ける意識はあった様だが。
頭を巡らせる。
この場に居るのは5人。具体的には2人と、3人。
全員が、全員を把握出来る位置。全員を殆ど同時に、もしくは危機を多くの者に伝えさせず始末しなければならない。
2人の方は距離が近い分、1人を仕留めると同時にもう1人にボルトを浴びせれば何とかなるかも知れないが、3人の方は少し距離が離れている分少し考えなければならないだろう。それに加えて3人が不規則に、顔の向きを変えている様子なのも問題だ。
以前、自分もイステルの任務の際に3人を隠密のまま制圧した事があったが、あの時とは顔の向きも状況も違う。
そんな事を考えていると思考に割り込む様に、ラシェルが手振りと共に視界へ入り込んできた。
手信号の様だ。
“3人、自分が片付ける”
簡素な信号ではあったがラシェルの意図は、充分過ぎる程に意図は伝わった。
改めて3人の兵士に視線を走らせるが、仮に自分がスパンデュールを使っても確実に仕留めるには少しばかり不安が残る距離だ。
コールリッジの邸宅に侵入した際、顔にボルトが刺さったままの兵士にライフルを向けられた事からも分かる様に、ボルトが刺さったからと言って確実に意識が断絶出来る訳では無い。
勿論、殆どは上手く行くし“万が一”は万物に有り得る話なのだが。
それにしても単発式のグレムリンと手持ちの武器で、同時に3人を仕留めるつもりか?
“上手くやれるのか?”と手信号で意図を伝えるも“合図に備えて”と信号を返したきり、屋根の上から“3人”の方に移動を始めてしまった。
眉を潜めたが、此方も2人の方へ移動を始める。
どのみち指揮を取るのはラシェルだ。それに、内面は抜きにしても奴は任務で無責任を言う様な奴じゃなかった。
幸いにも、“2人”も“3人”も忍び寄れる物陰が近い。
まず1人は確実に仕留められるだろうし、もう1人も何とかなるだろう。
だが、更にもう1人となると流石に手数が必要だ。スパンデュールを連発するにしても、流石に間違いなく意識を断絶させられるとも限らない。
言うまでも無いが、この時点で潜入と作戦が連中に露見すれば任務自体はかなり厳しい物となる筈。
屋根から滑り落ちる様に壁を降り、“2人”を確認出来る位置、かつ“実行”出来るまで移動する。
距離こそあるが、“3人”も一応は確認出来た。
ラシェルがどんな作戦を立てているにしろ、合図を待つとしよう。
少しばかり、待つ。
2人だけなら確実に、隠密に仕留める自信はあるがラシェルはどうやって………いや、自分が仕留める相手に集中しよう。
あいつが3人を隠密に仕留めた所で、俺が取りこぼしたら元も子も無い。
そんな事を考えながら息を潜めていると、不意に視界の端に何かがちらついた様な気がした。
意識と焦点を遠くに向けると“3人”の奥と言えば良いのか、レイヴンマスクのラシェルがかなり遠目にだが確認出来る。
ラシェルの姿は此方が身を潜めている所から確認出来る上、“3人”からも上手く隠れていた。
分かってはいたが、ラシェルも相当手練れだな。
そんな事を考えているとそのラシェルが、明らかな意図をもって小さく腕を動かす。
手信号だった。
“私に合わせて実行”
少し息を吐いてから、了承の信号を返す。
硬化処理したフカクジラの骨で造られたヴァネル刀、ログザルを腰から静かに抜いた。
“3人”もそうだが、“2人”の兵士も特に装甲を着込んでいる様な様子は見当たらない。
相手に刃は通る、特別な対処は必要無いだろうが…………無駄と分かっていても再度考えた。
ラシェルはどうするつもりなのだろうか?
そんな考えに耽っていると、不意にラシェルが小さく手を振る。
それが決行の合図だと理解した瞬間と、ラシェルが音もなく物陰から飛び出したのは殆ど同時だった。
胸中の僅かばかりの悪態と共に、自身も想定していた動きを遂行するべく勢い良く物陰から躍り出る。
躍り出た勢いのまま、路面を駆けながら左腕の方向と位置を意識しつつ右腕でログザルを振りかぶった。
静穏性を意識しながらも素早く兵士の1人に距離を詰めていき、真後ろとは言わずとも兵士の後方から頚椎の辺りへと、首を刈り込む様に刀身を打ち込む。
割り切れない薪の様に、頚椎の中心まで食い込んだ刀身が深々と動脈を喰い千切り、食い込んだ刃を伝わせる様に塞き止め切れない鮮血を溢れさせた。
ログザルの、骨の刀身が割れた頚椎と肉を“噛む”のが手に伝わってくる。
片手の振り込み、打ち込みでも頚椎を切断する事は出来なくも無かったが、断ち切らなかった事には理由があった。
1つは、この状況なら命を断ち切るには首を切り落とさずとも、頚椎に深く打ち込むだけでも充分だと言う事。
もう1つは、この敵の位置と状況の中、首を断ち切る形で振り抜いた場合はスパンデュールを放つ事に対して体勢が崩れる事。
最後の1つは、ログザルの刀身が骨と肉を“噛む”事にあった。
ログザルの刀身が兵士の身体から離れず、致命傷を与えた敵を刀身を通じて、そのまま制御出来る事。
断ち切らなかった理由は、そこにある。
肉に食い込んだログザルの刀身で鉤の様に敵の身体を制御し、まだ理解が追い付いていない敵を引き寄せつつ体勢を崩させた。
そしてその崩させた体勢から、指を指す様に左腕かつ左手で照準を定め、左手のグローブ操作でスパンデュールからボルトを放つ。
理解が追い付くと共に、急速に命を失いつつある敵の肩越しに狙う形で放たれた金属製のボルトが、聞き逃しそうな風切り音と共に兵士の側頭部、加えて言うなら耳孔の辺りに深々と突き刺さった。
兵士の頭が衝撃で揺れたが、目眩か何かの様に兵士が頭の位置を持ち直す。
現実を理解出来ない様に耳の辺り、そして突き刺さったボルトに手を触れて、疲れた様な声と共に口を開けた。
ぼんやりと兵士が此方を振り返るも、既に出来る事は無い。
数秒足らずの出来事。
目の前の敵からログザルの刀身を引き抜きつつ、頭からボルトの生えた兵士に素早く距離を詰めようとした辺りで、不意に目を見張った。
自身と同じく、“3人”の奥から飛び出してきたラシェルが、展開したストルケインを素早く横凪に振るい、空を鋭く走る穂先で手近な1人の喉を掻き切ったのだ。
ストルケインを突くのではなく肩越しに大きく振り抜き、まるで長剣の切っ先の如く敵の喉を掻き切った直後、そのストルケインとほぼ同時とも言える素早さでラシェルが左腕から、グレムリンのボルトを放った。
1人が掻き切られた喉を押さえている間に、気配に何気なく首を向けたもう1人が眼窩から頭蓋を貫かれ、意識と生命を断絶される。
ラシェルは今、右腕の槍の穂先で敵の喉を真横に掻き切り、殆ど同時に左腕のリストクロスボウでもう1人の頭、更に言えば顔を撃ち抜いた。
これが例え、備え付けられた標的を切断し撃ち抜く演武だとしても、かなり高等な技術だ。
そして実際に人を斬った事がある者ならば、誰もが知っている。演武で出来た事を実戦で兵士相手に行う事が、どれだけの度胸と技術が必要な事なのか。
演武の如き、流麗かつ理想的なラシェルの動作と結果に内心舌を巻くが、それでも“3人目”の事が頭を過る。
ラシェルが流麗に2人を片付けた事は称賛に値するが、それと3人目を素早く仕留めないといけない事実、その3人目が今この瞬間も生きている事実に変わりはなかった。
自分の目の前の、ボルトを頭から生やしたまま呆然としている兵士から意識を直ぐ様切り、意識とスパンデュールの照準を“3人目”に向け始めた瞬間。
敵の喉を裂く形でストルケインを横凪に振り抜いたラシェルが、次の行動に移っている事に気が付いた。
いや、正確には“ラシェルの行動はまだ続いている”と言うべきか。
ラシェルが先程振り抜いたストルケインが、横凪の勢いそのままに凪ぎからラシェルを中心とした回転へと移り、回転させた棒を逆手に持ち変える、演芸染みた動きで槍投げの体勢へと変わる。いや、繋がる。
横凪が瞬く間に槍投げへと繋がり、金属のボルトを眼窩から生やした兵士が膝を付くより先に、ラシェルがストルケインを一切の躊躇無く投擲した。
振り返った3人目。声を上げようとした3人目、行動を起こそうとした3人目の顔面に、命中した的当ての様にストルケインが深々と突き刺さる。
金属の重量と、理想的な勢いの乗ったストルケインはそのまま兵士の顔に食い付くが如く、抉れた頭蓋に支えられる様にして姿勢を保ちつつ、兵士と共に地面へと倒れ込んだ。
声は無い。怒号も、悲鳴すらも。
予め敵の兵士達と演武の打ち合わせでもしていたかの様な動きで、“3人”を素早く片付けたラシェルに胸中で舌を巻きながら、目の前の耳孔から赤黒い血を染み出させている兵士に向き直る。
ぼんやり両膝を付いた兵士の喉を、そのままログザルで鋸を引く様にして切り裂いた。
耳と喉から鮮血を溢れさせる兵士をそのまま蹴り倒し、仰向けの顔を踏み潰しながらふとラシェルに目を向ける。
実戦で、しかも下手すれば任務自体が難航しかねないこの状況で、あんな曲芸染みた動きと戦法を選択し実行するなど、とんでもない度胸だと言う他無かった。
ラシェルがストルケインを引き抜く間に辺りを見回し、他の敵が居ないか確かめるも想定通り燃料保管庫には、他の兵士は居ないらしい。
ログザルの刀身が鮮血を吸うのを奇妙に思いつつ血糊を振り払い、ラシェルの方に手信号を送る。
“敵影無し、問題無し”
当のラシェルはそんな俺を横目で見た後、返事も無くストルケインを適当に振って血糊を払っていた。
改めてみると任務序盤、それもメネルフル修道院にさえ入り込んでいない内から随分な綱渡りだったが、以前も言った様にリスクを取って成果を出す方針には基本的に賛成だ。
あくまで成功すれば、ではあるが。
展開していたストルケインを短く格納しつつ、ラシェルが手信号で此方に聞いてくる。
“爆薬は?”
そんな手信号を見て、背嚢に手を入れた。
眺めていた懐中時計を閉じる。
先程、ラシェルと制圧した燃料保管庫を高く、遠い屋根の上から見下ろす形で監視していた。
「もうじきだ」
そう小声で呟くとラシェルが、レイヴンマスクに装着した単眼式の望遠レンズでメネルフル修道院の方角を覗きながら、同じく小声で淡々と返してくる。
「子供でも出来る事を、あんたがしくじってなければの話よ」
皮肉る様にも呆れる様にも聞こえる口調だったが、少なくとも同意か賛同と見て良いらしい。
燃料保管庫を遠距離から監視しつつ、予定通りの“進行ルート”も確認出来、かつ直ぐにでも進行ルートへ突撃出来るポイント。
それが、この高い屋根に設定した監視ポイントだった。
前述の理由から理想的なポイントではあるが、同じ理由でここを導き出すのは少し鼻が利く者なら難しくない。
だからこそ存在が露見した後では使えないポイントだったが、まだ隠密性を保っている今の状況では非常に優秀なポイントだった。
そんな事を考えていた、その瞬間。
設定した時間通りに燃料保管庫から、轟音と共に屋根が打ち上げられた様に高く上がる。
万が一の際は衝撃を空中に逃がせる様、壁を堅牢に屋根を脆弱に造っていた甲斐あって、燃料保管庫の周囲には此方が想定していた以上の被害は出ていなかった。
勿論、その気になれば燃料保管庫を中心に広範囲に被害を生み出せる事を考えれば、この程度の被害に収まっているのも想定内ではあるのだが。
「来たわ」
そんなラシェルの声に、顔を上げる。
予め幾つか予測していたルートの1つを通る形で、メネルフル修道院から派遣されたと思われる武装した修道女、同じく修道服を着込んだ上で武装したと思われる兵士が次々と駆け出していくのが、望遠レンズを使うまでもなく遠目にもはっきりと見えた。
ギャングの襲撃か何かと思っているのか、それとも本格的な襲撃と思っているのか分からないが、俺達が予定していた通りの陽動効果は引き出せた様だ。
計画通りに事が進んでいるという実感に対して、幾ばくかブラフである可能性が頭を過るが具体的な対処法がある訳ではない。
不測の事態は付き物、かつ織り込み済み。現場判断は今に始まった話では無い。
「行くわよ」
そんな言葉を皮切りにラシェルが此方の了承も取らずに、屋根の上からスチームパイプを踏み台にする形で勢い良く跳んだ。
胸中に様々な思いが去来するも今更かと見切りを付け、後を追う形で跳ぶ。
長い距離を跳躍した末に、衝撃を逃がす様に平たい屋上を転がるも勢いは一切衰えさせぬまま、ラシェルが再び跳んだ。
もう少し飛距離が足りなければ、ラクサギア地区の染みになって終わると言うのに、まるでそんな素振りは見えない。
何人ものレイヴンと任務をこなしてきたが、相も変わらずラシェルの移動術は群を抜いていた。
速度が速い、いや。速度ではない。
移動術のルート選択が、随分と肝が座っていると言うか大胆と言うか。
何一つ振り返らず屋根や高所を駆けていく様子からも、ラシェルは俺が付いて来られるかなど、まるで気にしていない様だった。
重力を騙す様な動きで壁を数歩、道にしたかと思えば素早く壁を蹴って端に飛び付き、一息に身体を引き上げては直ぐ様駆ける。
俺が追い付くのを待たず、段差に手をついて跨ぐ様に飛び越えたラシェルは速度を落とす事無く走り続け、屋根から跳んだ。
そうして壁と壁の間に飛び込んだかと思えば、窓枠や装飾を手と足で伝いつつ建物の間を泳ぐ様に、道すら無い空中を通り抜けていく。
そんな、まるで重力が遠慮している様な動きのラシェルについていくのは正直骨が折れる所も多かったが、それでも何とか移動術で追いかけていると不意にラシェルが屋根の上で足を止めた。
幾らか息が上がっているのを自覚しつつ、辺りを見回しながらラシェルの傍へと歩いていく。
少しだけ背中に背負った骨の斧、ラドブレクの位置を確かめて何一つ問題無い事を確かめてから、予め計画に組み込んでいた位置からメネルフル修道院を眺めた。
修道院に兵士が住み着くのではなく、兵士が闊歩していた城を聖職者が乗っ取ったのだろう。
そんな、印象だった。
確かにメネルフル修道院は帝国本部から線の太い支援を受け、帝国からの信頼も厚い。
このラクサギア地区自体も、前述の理由で聖職者の服を着込んだ兵士が、此処彼処を闊歩していた。
だが実際に聖職者の服を来ている兵士を見るとまた違った様に、情報で知っていたメネルフル修道院も随分と違う。
元々、メネルフル修道院が軍事目的で作られた要塞に軍が入る前に修道女達が住み込む形で始まった修道院、という事は情報で知っていたが改めて自分の眼で見ると修道院は予想より大分大きく見えた。
息を長く吐きながら、修道院の壁を見据える。
当初、要塞を兼ねて建築されたと言う情報通り、修道院を囲う様に高く聳える正しく城壁の様な壁。
下から手の届かない高所に幾らかの装飾と設備の跡がある事を除けば、その厚い壁はレイヴンでも昇る手掛かりを見つけられない程に堅く締まっていた。
壁の内部、修道院の敷地へと繋がる入り口こそあるが勿論の事、警備は薄くない。
その入り口及び警備を通り抜けたとしても、入り口を通った先は修道院側から見晴らしが良すぎると言う問題があった。
警備が薄い訳でも無く、逆に取り分け警護が厚い訳でも無く、通り抜けた先も敵からの見晴らしが良すぎる場所。
修道院の連中とて勿論考えている。
他にもっとレイヴンの侵入に向いている場所もあるにはあるが、当然ながら警戒しない訳が無かった。
かと言って警備の厚い場所を隠密のまま通り抜けるには、今の俺達には難しい。
ならば、何故この場所をメネルフル修道院への侵入ルートとして選んだのか。
警備に不足が無い場所への意識が薄くなる点も利点にはなるが、付け足し程度の利点にしかならない。
何も、他に無いのなら。
侵入の観点から見てこの場所に特筆すべき事項、利点が無いのは事実だったが、それはあくまでもこの場所を単一で見た場合の話だ。
入り口、及び壁面の状況を見ていたラシェルが、言葉こそ発しないものの納得行った様に幾らか肩を回した。
最低限の動きだが、言いたい事もしくは考えている事は十二分に伝わってくる。
下から這い上がる様にして壁へ掛かっている、深い影。
建物から伸びた、黄昏時の濃く際立った影が壁の高所まで掛かっているのを確認して、胸中で幾ばくか安堵した。
帝国軍及び修道会がラクサギア地区に近年建築した高い建物による、深い影。
連中にとって想定内か想定外かは分からないが、その影によってメネルフル修道院を囲む高い壁の一部に、随分と濃く長い影が掛かる様になっている。
改めて息を吸い、少し足首を回した。
勿論、そこまで重要視する事項で無い事は否定しようが無い。
建物から長い影が掛かっていようとも、現に修道院の壁が堅く締まっている事や手掛かりが無い事から、如何に重力を欺けるレイヴンであってもこの壁面を真下からよじ登るのは無理と判断したのだろう。
現に俺が真下からあの壁を駆け上がれと言われたら、まず無理だ。少なくとも、どう頭を捻っても解決策が思い付かない程度には。恐らくは、ラシェルも同じ筈だ。
だが、俺がマクシム・ドゥプラを暗殺する時に感じた様に、レイヴンには常人が思い付かない様な道筋から目的地に達する事がある。
確かに影が掛かっていようとも、真下からあの壁面を登るのは確かに不可能だ。
だが、それは真下からの話であって“それ以外”の方法で壁面を登る事を、帝国軍及び修道院は想定していない。
端的に言えば、跳躍。
黒羽の団に所属するレイヴン、その中でもカラスの懐中時計を授与される様なレイヴンともなれば、其処らの兵士が眼を擦る様な距離を跳躍する事が出来る。
勿論、運動自慢や軽業師が自慢する様な跳躍距離より更にもう一伸び、という程度ではあるが人の感覚においてその一伸びが、何れ程の差を生むのかは、俺は良く分かっていた。
現に、この建物と壁の距離を見て修道院及び兵士達はこう思っている筈だ。
“流石に奴等もこの距離を跳ぶ様な、命知らずな真似はしないだろう。第一、万が一届かなければ愉快な自殺にしかならないのだから”、と。
レイヴンたる我々が、奴等の不意や虚を突ける理由は、そこにある。
敵の想定以上の行動と度胸。
それは想定と比べて劇的な差では無いにしても、差がある事が深い意味を生んでいた。
時間帯による影は想定通り、理想的な位置に掛かっている。
あの壁面においてレイヴンが数少ない手掛かりに出来そうな部分、幾ばくかの装飾と設備の跡。
あの部分に手さえ掛かれば、レイヴンがそこから壁面の上へとよじ登って行く事は難しく無い。
入り口付近に居る兵士達も壁の高所には余り意識を向けていない上に、俺達が手を掛ける予定の場所は高さと方向も相まって、兵士達からは死角となっていた。
「幹部連中にも言ったけど」
ラシェルが唐突に口を開いたので、少しばかり意外に思いながら顔を向けた。
「届かずに地面に落ちたら見捨てるわよ。わざわざ助けには行かないから、そのつもりで居なさい」
返事代わりに音を立てて息を吐く。
随分な言われ様だが、何よりも恐ろしいのはこれを本心で言っているであろう事が一番恐ろしかった。
屋根の端を確かめてから距離を測る様に歩いたラシェルが、少しの呼吸の後に今までの動きと大差無い様な、気軽にさえ思える所作で走り出す。
移動術にあれだけ習熟しているのだから当然と言えば当然だが、そのままの勢いで大きく跳躍するラシェルの姿は、まるで黒羽の団本部、カラマック島で訓練でもしているかの様な気負いの無さだった。
現地で実際に任務をこなしているとは思えない、技法の練習と見紛う様な理想的な加速と共に、ラシェルが勢い良く跳躍する。
音と、呼吸の概念が無くなる様な数秒間。
それは僅かな時間ではあるが、傍目から見ても誰1人否定出来ない程に、確かにラシェルは“翔んでいた”。
そして欺いていた重力に追い付かれたラシェルがメネルフル修道院の高い壁、その壁の設備の跡に少しばかりの物音と共に手を掛ける。
手を掛けてぶら下がったまま、一息入れる様な仕草で体勢と息を整えた後、先程の命懸けとも言える数秒足らずが嘘だったかの様に、ラシェルは此方を振り返る事も無くメネルフル修道院の高い壁を登り始めた。
修道院、帝国軍が“まず登れないだろう”と思っているであろう、あの高い壁を。
レイヴンマスクの下で息を吸った。
振り返る様子が無い事からも、先程の俺がどうなろうと構わないという言葉が、どれだけ本心からの言葉だったのかが良く分かる。
信頼の現れかも知れない、と肯定的に考えようとしたものの、あいつがそんな女とは思えないのも事実だった。
濃い影の中を這う様に壁を登っていくラシェルを意識の片隅で捉えながら、助走で勢いを付ける為に屋根の端から幾らか距離を取る。
個人的な感想を抜きにすれば、ラシェルの言う事は間違っていない。俺がここで落ちたら見捨てるのは当然の話だからだ。
イステルの時、空中で“手繰り寄せて”長距離を跳んだ事を思い出し、少しだけ左手の痣を意識したがすぐに意識を切る。
着地点、と言うより壁に掴まるであろう手掛かりを見据えた。
すべき事に頭の中を集中させつつ息を吐き、徐々に駆け出していく。
自分の周囲の景色が前方に収束していくのを僅かに感じながら、自身の走る姿勢と跳ぶ姿勢を意識した。
加速と速度、そして最高速になった瞬間に踏み切れる様に足取りを意識しながら駆けていき、最大限の高さと距離を発揮できる角度と強さで、大きく跳ぶ。
足取りや踏み切りを誤るだけで直ぐ様死に直結する様な世界で、こんなにも冷静に高所から踏み切って跳べるからこそ、レイヴンは恐れられるのかもな。
レイヴンとしての跳躍に、騙された重力が飛翔に気付くまでの数秒間、少しだけそんな事を考えた。
足や手といった四肢のみならず胴体や全身、身体の中に縫い込まれた筋肉や臓腑までもが地から離れて浮き上がる、“翔んだ”者のみに許される幻想的な数秒間。
そして、その浮き上がった全てが幻想の代償として、飛べぬ人間が翔んだ事に対する負債として重力に引き戻される。
身体が、遥か下の地面へと曳かれ始めた。
まるで滑る氷の様に、空中を進んでいく身体の行く末をレイヴンマスク越しに見据え、意識を集中させる。
予想通りと言うよりは、予想以上の衝撃と共に壁へと叩き付けられる様な形で壁の手掛かりに手を掛け、壁に張り付いた。
音は辛うじて抑えたつもりだったが一応、手掛かりにぶら下がったまま入り口の方に視線を向ける。
下の方に見える兵士達は此方の高さと位置が死角になっている上、まるで此方に意識を向けていない様だった。
正直に言って想定よりも幾らか低い場所に手を掛けたせいで、これ以上下部には手掛かりが無く内心肝を冷やしていたのだが、レイヴンなら何とかよじ登れなくも無い辺り問題は無いだろう。
一応は、だが。
爆薬を使って軽くなった背嚢と共に、背負っていたラドブレクに意識を向ける。
この距離を跳んで分かったが、ラドブレクを背負ったまま今の様な長距離を跳ぶ際には、普段とは違う重心移動を意識する必要がありそうだ。
僅かな差ではあったが、こればかりは現場だからこそ得られた気付きだろう。
訓練とはまた違う空気だからこそ、とまで考えた辺りで自分より上方を登っていたラシェルが、これまた身軽な調子で壁の上端から壁の上に姿を消した事に気が付いた。
結局、一度も振り返らなかったな。
そんな思いを思考の片隅に滲ませながら、自分もラシェルを追う様に濃い影の中を這う様にして静かに、かつ素早く登っていく。
日頃と違う重心は充分に染み込んだ、これなら次、ラドブレクを背負って長距離を跳ぶ事になっても先程以上に上手く跳べる筈だ。
修道院を囲う高い壁の上端に手を掛けて一息に身体を引き上げると、足場や道こそ出来ているものの明らかに普段人が通らないであろう、“壁の上”へと辿り着いた。
頭の中の図面と実際の図面を擦り合わせる意味も兼ねて、壁の上から修道院を眺める。
元々要塞として建築されたという情報に誤りは無く、随分と宗教色に染まってはいたもののメネルフル修道院そのものは、やはり堅牢な要塞の面影を残していた。
目標が居るであろう要塞、もとい修道院の中心部には情報通りの高い塔が聳えている。
燃料庫の爆破による陽動から修道院への接近ルート、高い壁へと掛かる影。
ここまでは、情報通りだった。
壁の上からメネルフル修道院を眺めつつ、幾らか眉を潜める。
修道院の壁も影も塔も、情報通りだった。
ただ、想定していた弾薬庫の場所だけが違っている。
いつ建物を替えたのかは分からないが修道院内の遠方に見える、別の建物と配置を入れ換えた様だ。
傍目には弾薬庫の位置に変更は無い様に思えたが、注意深く見ると建物の壁面、あるべき場所にディロジウム及び弾薬類を扱っている事を示す、警告マーク及び標識が無い。
全てが情報通りに行く訳では無い、とは重々承知していたが弾薬庫の場所に限っては、任務の遂行に支障をきたす可能性があった。
幸いにも、入れ換えた建物の特定こそ容易に出来たが………
壁の上から壁内の修道院を眺めつつそんな事を考えていると、隣から肩を小突かれる。
ラシェルのレイヴンマスクからは当然ながら表情は読み取れないが、どうやら大方同じ事を考えていたらしい。
“場所は変わったが弾薬庫を回り、門の奴等も排除する形のルートで、要塞中心部に侵入する”
手信号でそんな言葉を投げ掛けてくるラシェルに、此方も手信号で了承を返しつつ変更ルートについて幾つか細かい事項を聞く。
ある程度は予想こそ付いていたものの、やはり弾薬庫は修道院の中心部へと近付く前に、侵入するつもりの様だ。
此方が了承の手信号を返すと少しの手招きの後、ラシェルが再び壁の上の粗末な道を駆け始めた。
決行、という意味に捉えて問題ないだろう。
従うしか無いのは事実だが、ここまで此方の了解を取らずに決行されると取り分け自分に当たりが強い様な、私情が大いに挟まっている気がしてならなかった。
勿論ラシェルもレイヴンなのだから、任務より私情を優先する様な心配はしていないが。
そんな事を考えながらも、ラシェルを追う様にして自分も壁の上を駆ける。
どちらにしろ、修道院の中心部に侵入する前に弾薬庫へ入らなければならない事は、元々の計画通りだった。
しかし、元々の弾薬庫の距離なら壁の内側を途中まで降りてから問題なく跳び移れたが、今の弾薬庫の距離で考えると跳躍は問題なくとも着地の際、周りに気取られる可能性が出てくる。
そうなれば修道院中心部に侵入する前から存在を気取られる事になる、言うまでもなく暗殺任務としてはかなり都合が悪い事となるだろう。
ラシェルもそれは把握している筈だが、何か代替案はあるのだろうか。
そんな事を考えながら壁の上、粗末な道を走っていると徐々に件の弾薬庫が近付いてきた。
弾薬庫を迂回する代替案があるのか。それともあの距離を跳躍して静かに着地、またはあの距離を移動して尚、静かに辿り着く案があるのか。
仮に弾薬庫の周りに兵士が居なくとも弾薬庫の中に兵士が居る可能性は高く、そいつらも隠密に始末する事を考えるとあの距離を跳躍する選択肢は悪手の様に思えるが………
そんな思考を気取ったかの如く先頭を走っていたラシェルが不意に速度を緩め、足を止めた。
そのまま何気無い描写で、ラシェルが弾薬庫を眺めた後に振り返る。
そして、手信号を此方に送った。
“壁を途中まで降りて、壁から弾薬庫まで跳び移って”
何だって?
声が出そうになった所を何とか、顔をしかめるだけに堪えた。
言葉が出なかった、と言い変えても良かったが。
そのまま質問しそうになったものの、少し息を吸って意識を落ち着けてから手信号で質問する。
“壁を途中まで降りてから、弾薬庫までは跳ぶのは無理だ。殆ど直線だ、壁の上から助走を付けて跳ぶしか無い”
そう手信号で返すも、ラシェルが鼻で笑うかの様に肩を竦めた。
そしてラシェルが自身の頭を指で小突いてから、左手の甲を此方に翳す。
そのまま頭の時と同じく、左手の甲を指で小突いて示すラシェルに合点が行くのと、レイヴンマスクの下で顔をしかめたのは殆ど同時だった。
そういう事か。
確かに俺は、壁から弾薬庫までは殆ど“直線”だと言った。いや、手信号で示した。
確かに普通なら壁に掴まった状態、助走無しの状態から空中を真横に、それこそ直線的に移動するなんてまず不可能な話だろう。
そう、“普通なら”。
足を止めたまま、左手を胸の前で左手を握り締めた。
革手袋から滲む様にして、左手の甲に蒼白い紋様が浮かび上がる。
わざわざ“グロングス”として任務に連れてきたのだから役に立て、と言う訳か。
革のフードに覆われた頭を掻いてから、了承の手信号をラシェルに示す。
そんな手信号を受けたラシェルは両手を腰にやったまま納得した様な仕草を見せた後、再び手信号を此方に示した。
“弾薬庫を制圧したら順序通りに破壊工作。その後、機会を待って私が門を制圧するのを手伝って”
門、と言うのは当初から予定に組み込まれていた、メネルフル修道院から見て日陰の方角となる門の事だろう。
その門は外部から攻め込む、及び制圧するのには向かないが内側から制圧するならレイヴン2人で可能だ。
本来は2人で弾薬庫を制圧した後に門を制圧する予定だったが………話を聞いた限り、ラシェルは壁の上を伝いながらそのまま門まで辿り着き、上方から襲撃するつもりらしい。
門の内側を、レイヴン2人で上下から襲撃か。
色々と予定とは違う、“即興演奏”だがそもそも現地の状況が違えば柔軟に対応しなければならないのは当然の話だった。
了承を示す簡素な手信号、と言うか仕草を返すとラシェルは鼻を鳴らした様な仕草を返しただけで、振り返りもせずに壁の上を駆けていく。
レイヴンマスクの下で少し息を吐いた。
分かりきっていた事だ、元々頼み事の度に紅茶とスコーンが出る様な間柄でも無い。
元から、こんな扱いになる事は分かっていただろう。
そんな自嘲を胸中で溢しながら、壁の上から手掛かりに目を付け、静かに這い降り始めた。
壁の修道院側、壁の内側を這い降りていると思った以上に壁が堅く締まっており、手掛かりの間が遠いお陰で正直少し肝が冷える所があったものの、何とか壁を途中まで這い降りる。
そして、弾薬庫の屋根と殆ど水平に近い位置、高度まで壁を降りた頃。
右手で壁の手掛かりにぶら下がりつつ壁をブーツの底で踏み締め、辿り着くべき屋根を見据える。
左手を屋根に向かって、静かに掌を翳すと蒼白い紋様が黒い革手袋に滲む様にして、浮かび上がった。
………いつも、“痣”を頼りにするこの瞬間は、血が冷たく濁っていく様な感覚がする。
少し息を吸って左手を握り締めると、暖炉に暖められているが如く微かな熱と共に、左手の指に“何か”を絡め取ったのを感じた。
この位置、この体勢から助走無しに、これだけの距離を跳躍で水平に移動するのは殆ど不可能だ。
やるしかない。
若干の躊躇の後に左手、正確には左手の指に絡め取った“何か”を手繰り寄せた。
飛び出したとも弾き出されたとも取れる、周囲の景色が後ろへと素早く流れていく感覚。
胸の奥に濁った冷水が流れ込んできた様な不気味な冷たさ、崖の淵から夜空を覗き込んだ様な恐怖。
理解より先に目の前へ近付いてきた屋根の端を、考えるより先に身体が掴んだ。
頭で身体を従えるのではなく、身体に思考を追い付かせる形で屋根の端から上へと自身を引き上げる。
無論、隠密を意識しながら。
屋根の上で、屋根を踏み締めながら蒼白い光を払う様に左手を振った。
胸の奥で微かに脈打つ、黒く冷たい淀みに棺を抉じ開けた様な不気味な感覚。
正直に言って、“痣”から自分の中に流れ込む例の黒い淀み、濁りは思った程では無かった。
レイヴンマスクの下で、僅かに眉を潜める。
間違いない。俺はこの痣を使う度に少しずつ、あの黒い淀みが自分に馴染んで来ている。
感覚的な僅かな差ではあるが、以前程に比べてあの“黒く冷たい淀み”に対して感じる、あの何とも言えない恐怖や不気味さを感じなくなってきていた。
感覚的な錯覚なのか。回数や機会をこなした事による、慣れと言えるのか。慣れだとしても、こんな超常の力に慣れ等と言って良いのか。
不安とも焦燥とも呼べるものが、静かに脳裏へと滲む。
覚悟はしていた。何が出来る訳でもない、と自分に言い聞かせた事もあった。
それでも、何もかも平気とは割り切れない。
俺は、この先どうなってしまうのだろうか。
そんな沈みかけた思考を、不意に引き戻した。
集中しろ。
黒くなろうと何処までも濁っていくのだとしても、まずは目の前の任務が最優先だ。
そうでなければ、そもそも俺がこうして黒く濁っていく意味すら無くなるではないか。
屋根の上を静かに移動しつつ、自身が先程よじ登った屋根とはまた別の屋根の端へと、低い姿勢のまま音を抑えながら向かっていく。
弾薬庫は本来、施錠されている入り口等を除いて平時はまず無人、つまり弾薬庫内部に兵士等はまず居ないだろうと言う情報だったが、現に弾薬庫の位置が変わっている事からも分かる通り、事前に聞いた情報は絶対では無いのだ。
気を抜いて良い現場など無い、と自分に言い聞かせる。
そして屋根の端から、滑る様にして身体を降ろして弾薬庫の壁を這い、大きな窓の窓枠へ手を掛ける形で身を寄せ、手と足を間違えた様な妙な体勢のまま気配を探った。
窓の反射等から中の気配を探ろうかと思っていたが、長い影が伸びる夕暮れなだけあってもう弾薬庫の内部は中々に暗い。
この窓は嵌め込み式ではなく、開閉式の窓な事からも内部に侵入は可能だろうが、それにしても内部の状況ぐらいは探りたい所だ。
せめて、内部に兵士が居るかどうかだけでも分からないものか。
そう考えつつも耳を澄ませ、窓を見つめながら気配を探っていると不意に室内の、灯りが点いた。
窓枠に手を掛けた妙な体勢のまま、身体の筋が強張る。
強固な壁に遮られて大分微かになってはいるが、触れている壁から音が伝わる様に窓の向こうから仄かな気配を感じた。
灯りが点いたという事実から、自分が気配を錯覚しているだけの可能性も捨てきれないが。それにしても、今この場に人が居るのは事実の筈だ。
スパンデュールのボルトで静かに制圧出来るだろうか、音を立てて倒れた場合に万が一、他にも兵士が居れば言うまでも無く隠密性を維持するのは難しいだろう。
数秒間、考えた。
随分と間を取ってしまった様な感覚を覚えるが数秒は数秒、錯覚に過ぎないと自分を抑制する。
経験上、こういった状況を変えるなら自分から動くべきだ。
窓の内部を探る事よりも内部から悟られない事を重視しながら、建物の内側から見えない様に窓枠の上の辺りから、枠の脇を抜ける様に身体を下ろしていく。
呼び掛ける様な音では駄目だ。“誤って出た音を、偶然聞き付けた”と相手に思わせる事が、肝要だった。
一度だけ、窓枠の下部を小突く。一度だけだが小さすぎず、中にも聞こえる様に。
その瞬間に素早く、窓枠の下部辺りに居た自分の身体を微かな軋みと共に、窓枠の上部へと移した。
聞き間違いの様に微かな足音、それも怪訝な雰囲気が伝わる様な足音が壁から伝わる様にして聞こえ始め、窓枠へと気配が急速に近付いてくる。
人間はこの様な状況で、特別な理由が無い限りまず左右か下方を確認するのは分かっていた。
施錠を解除しているのかそれとも思った以上に開閉式の窓が固着していたのかは分からないが、想像以上の音と時間を掛けて自分の身体の下にある、窓が大きく開かれる。
修道女らしき女性兵士、いやこの場合は本当に“修道女”か。修道女が開いた窓から怪訝な様子で窓枠に触れ、窓から下を覗き込んだ。
窓枠から頭を出して下を覗き込んでいる修道女と殆ど同時に、自分も屋根の端と手掛かりを利用しつつ窓枠の上から逆さにぶら下がる様にして、修道女ともう少しで頭が触れあいそうな至近距離の中、上下反転した視界で窓の中を確認する。
弾薬庫の名に違わず、室内にはディロジウム弾薬と思われる容器が大量に積まれていた。
それに、その弾薬に適した口径かつ規格であろうクランクライフルも。
そこまで考えた辺りで意識が並列にもう一つの事実を指し示す。
部屋の奥、階段の辺りに兵士。いや修道女か。
室内の奥に腰からサーベルを下げ、武装らしきベルトをした修道女が急に現れたレイヴンに、意識が追い付いてない様な顔をしていた。
呼吸が止まる、僅かな時間。
相手が息を吸いながら幾ばくか動こうとするよりも、俺が左手のスパンデュールを放った方が速かった。
修道服を縫い留める様にボルトが胸へと刺さり、動こうとした相手に更にボルトが突き刺さる。
急に酒が回った様な、気だるげにも見える動きで修道女が膝を着いた。
床が、膝と反発し軋みながらも硬い音を立てる。
右手と両足で身体を支えつつ、窓枠の上部から上半身をぶら下げた体勢のまま、左手のグローブ操作でラスティを逆手に掴み取った。
スパンデュールとラスティの作動音が幾ら静穏性に優れているとは言え、頭のすぐ上で機械仕込みのガントレットが作動した音は流石に聞き付けたらしく、修道女が虫でも探す様な素振りで顔を上げる。
真上を向いた修道女の喉へ、服のボタンでも外す様に素っ気ない動きで、かつ念入りにラスティの切っ先を突き刺した。
直ぐにラスティから左手を放すとラスティの刃を根元まで喉に突き刺された修道女が、肘か膝でもぶつけたかの様な小さな呻きと共に小さく後ずさる。
喉にフルタングダガーことラスティが深々と突き刺さった修道女は亡霊でも見た様な、信じられない顔をしていた。
自由になった左手で上下逆さになったままスパンデュールの狙いを付け、金属のボルトを放つ。
気だるげに両膝を着いていた修道女の口の辺りにボルトは吸い込まれる様に飛び込み、砂利を踏んだ様な音と共に頭を後ろに仰け反らせ、それきり糸で吊られた様に動かなかった。
両手で窓枠を掴み直し、ぶら下げた身体を窓の中に振り込む様な動きで音を抑えながら部屋の中へ入り込み、相手の思考が遅れる様に敢えて素早くない動きで顔見知りの様に歩み寄り、修道女の身体を支えつつ喉に刺さったラスティを掴み捻る様にして、喉を抉る。
顎の動脈を深く切り裂く様にしてラスティを引き抜き、底が抜けた様に溢れ出る鮮血に厭わずゆっくりと修道女の身体を血塗れの床へと横たえた。
ラスティの刀身を修道女の服で丁寧に拭い、ガントレットに収める。
横たえた後も修道女は大きく眼を見開いたまま、恐怖と驚愕に染まった表情を崩さなかった。
頭を踏み砕くべきか、とも思ったが修道女が眼を見開いたまま既に事切れている事に気付き、意識を他へと向ける。
音と気配を探るも、周りにそれといった気配は感じられなかった。
部屋の奥には階段が見えていたのでゆっくりと気配を抑えながら、階段へと近付いていく。
細心の注意を払いながら階下、1階へと降りてみるも敵は見当たらずまた痕跡や気配も無かった。
少し考えたが屋内の灯りは消さない事にして2階に戻り、スパンデュールにボルトを装填してから背嚢へと手を入れる。
燃料庫を爆発させた時よりも小さな爆薬、爆薬と言うよりは“起爆剤”の様な代物だったが、もうあれほどの爆発や火力は必要なかった。
“修道院の連中から見ても弾薬庫に問題が起きている”と思わせれば、それで充分だ。
ディロジウムの弾薬、ディロジウム金属薬包が詰まっているであろう容器に視線を投げた。
クランクライフル等に装填されるディロジウム金属薬包は、先端部に同規格の弾丸を組み込む事で弾薬として成立する。
同規格、同口径ならば先端を組み換えるだけで別の弾薬、散弾等も装填出来る仕組みだが今は組み換える必要は無かった。
ただ、弾丸が組み込まれる前のディロジウム金属薬包、金属に包まれただけのディロジウムを“暴発の危険がある形で”容器に詰め替え、起爆剤を取り付ける。
予定通りに行けば、俺達相手に増員が押し寄せるタイミングでこの起爆剤が起爆し、あいつらの注意と人員を多少割いてくれる筈だ。
あくまで予想通りに行けば、だが。




