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年が明けたばかりだと言うのに、随分と物騒な話だ。
レンゼル修道会所属のメネルフル女子修道院、その修道院長ユーフェミア・シャーウッドは静かに新聞を畳み、机の上に置く。
去年辺りから、レガリスでは抵抗団の残党だか何だかの劣等種、不敬者達が騒いでいるせいで新聞にも物騒な記事が増えてきていた。
情けない、と内心で呆れ返る。
シャーウッドは此度の抵抗団云々の騒動、ひいては亜人が身の程を弁えず暴れ始めた事や浄化戦争そのものに至るまで、正当人種ことキセリア人の信仰心の欠如こそが全ての原因だと、宣伝でも誇張でもなく本気で思っていた。
そもそも聖母テネジアを自分達に並ぶ程に信仰していれば、修道院内の信徒同士では流血沙汰の喧嘩が起きない様に、ここまでの深刻な問題が起きない筈なのだ。
人格の欠陥と言える、信仰の欠如。我等正当人種たる人間を人間足らしめている信仰の欠如によって、人々は信仰ある者へと襲い掛かる。または、“不敬”という欠陥のある者同士、獣染みた共食いを繰り広げる。
人々と“言葉で人を欺く獣”の違いは、聖なる主を誤らずに選び、心から信仰出来るかによって選別されるのだ。
浄化戦争に至っても信仰を怠り、自分達が管理すべきものから目を離した者達のせいで、獣との混血の様なおぞましい姿の亜人達が増長してしまったのがそもそもの始まりだろうに。
シャーウッドは、亜人ことラグラス人を“翼や牙、爪が無い代わりに狡猾に進化した獣”だと考えていた。
褐色の肌に銀の毛が生え、角や尾が生えるような獣の分際で、そもそも人として扱ってもらおうというのが烏滸がましい。
率直に言うなら我々から賜る侮蔑や誅罰でさえ、連中には過ぎた代物だろう。
だが、往々にして人類史ではそう言った連中こそ人々を欺き、血に飢えた獣の様に無辜の人々へと牙を剥くのが世の常だ。
悲しい事だが純粋で正しい事は、抗う術を持つ事と必ずしも結び付く訳ではない。
聖書を暗唱出来る無垢な子供が、穢れた亜人の暴力に対抗する術を持たぬ様に。
だからこそ、聖女レンゼル修道会たる我々が、無辜の人々の代わりに不敬な獣達、悪魔達を打ち払う為に剣と盾を研ぎ澄まし、力を持たぬ無辜の人々の為にその身を犠牲にしてでも、戦うのだ。
全ては聖母テネジアの光に照らされた、正しい世界の為に。
不意に修道院長室の扉が恭しくノックされ、シャーウッドが丁寧な言葉で中に招き入れる。
この時間に報告が来る事は本来稀なのだが、近年更に活動的になっているギャング“トルセドール”によって、シャーウッドは通常ではない時間帯に報告を受ける事に、慣れてしまっていた。
恐らくは、その報告だろう。
進歩でもあったのか、と考えた辺りでシャーウッドは不意に目を見開いた。
緊張しきった顔の修道女が数人で連れてきたのは、メネルフル修道院において荘厳と厳格の象徴とも言える、“恩寵者”だったからだ。それも、2人。
すぐ紅茶の用意をさせようか、いや失礼に当たるか、と考えを巡らせるシャーウッドを恩寵者の1人が静かに手で制した。
格調高い椅子に座り直したシャーウッドに、修道女が緊張した面持ちのまま一言断ってから口を開く。
「何でも………証明書?を地下に移すべき、との事です」
幾らかの若さと引き換えに剛胆さと強情さを備えたシャーウッドの心臓が、跳ね上がった。
証明書、この修道院が関与している奴隷売買が非合法である事を示す“非合法証明書”の事は、このメネルフル修道院の中でも一部の者しか知らない。
勿論、不敬者の排除及び誅罰が“抹殺”から“追放”に変わっただけなのだから、シャーウッドはその奴隷売買自体には何一つ後ろ暗いものを感じた事は無かったが、何故恩寵者様がそんな事を気になさるのだろうか?
不躾にならない様に、と言葉を選んでいると恩寵者の1人、ゼナイドが仮面の下から凛とした声を発した。
「今すぐにでも移すべきでしょう。絶対にここに置いておくべきではありません」
余りにも急いている上に、話が見えない。
修道女が言葉の意味を図りかねる様な表情を恩寵者様に向けていたが、シャーウッドは同じ感情を抱きつつも表に出さない様に堪えていた。
最も、本人が気付かないだけで顔には滲み出てしまっていたが。
「勿論、恩寵者様がそう仰られるなら構いません。信用出来る者に証明書を地下に持っていかせましょう」
「頼みますよ、シャーウッド。この件については私達の同意もありますが、オフィリア様が主導で発案しています。くれぐれも、その事を踏まえた上で行動する様に」
凛とした上で穏やかな、だが有無を言わせないゼナイドのそんな言葉にシャーウッドほ張り詰めた物を感じながらも、ある疑念を抱いた。
「………失礼、オフィリア様が?」
シャーウッドの口を突いて、そんな疑念が飛び出す。
オフィリア・ホーンズビー。聖女レンゼル修道会に属するこのメネルフル修道院において、厳格と荘厳と信仰の象徴たる“恩寵者”。
その恩寵者の中でも更に崇拝され、頂点に近い実力と信仰を持つ恩寵者こそが、ホーンズビーだった。
現に、目の前のゼナイドという恩寵者もホーンズビーには深い敬意を払っている。
本人はこういう表現を好まないだろうが、シャーウッドは恩寵者達の中でさえ崇拝されるホーンズビーをこのメネルフル修道院、及びこのラクサギア地区の実質的な支配者だと考えていた。
「ええ、オフィリア様の発案です。それが何か?」
恩寵者の声が凛としたまま幾分か冷たくなると、シャーウッドが多少食い気味に言葉を返す。
「いえ、何もありません。少しだけ驚いただけでして。あぁそれとシャーウッドでも構いませんが、もし宜しければユーフェミアとお気軽にお呼びください。1つ伺っても?」
失礼の無い様に考えすぎたのか、少し“話し過ぎている”傾向があったがゼナイドは特に指摘しなかった。
「では、ユーフェミアと。何か疑問でも?」
ゼナイドの声は子供に呆れる様な色合いが少しばかり含まれていたが、それに気付かない様子でシャーウッドが続ける。
視線を投げるも、恩寵者の傍の修道女は明らかにこの“証明書”の意味について知らない様だった。
「……その、私は修道院長に就任して以来、“証明書”については慎重に慎重を期して取り扱う様に先代からも言われています」
仮面の下の表情を何一つ察させないまま、ゼナイドが先を促す。
「何故今日、それも今から直ぐに“証明書”を地下に持っていくのです?」
「私もはっきりとした事は言えませんがこの修道院には今日、“何か”が来ます。オフィリア様もそう告げられていますし、我々としても同意見です」
淡々とそう答えるゼナイドの声は穏やかではあったが、有無を言わせぬ迫力が滲んでいた。
シャーウッドが、訳も分からず生唾を飲み込む。
「ええ、はい、分かりました。私に出来る事がありますか?」
「この修道院の信徒全員へ今日1日は武器を携帯し、気を引き締める様に厳命しておいてください。“証明書”の件にしても杞憂に越した事はありませんが、万が一を考えて数日は我々が管理します」
あの不敬なギャング達との抗争においてさえ、ここまで空気が張り詰める事はそう無かった。
傍に居る修道女2人に至ってはいきなりこんな空気と言葉を聞かされ、寝起きで戦地に投げ込まれた様な顔をしている。
シャーウッドは、幾らか躊躇した後に思いきって口を開いた。
「1つだけ聞かせてください」
「ええ、構いません」
恩寵者ゼナイドを見据えながら少しの間を開け、静かに訊ねる。
「今日、修道院に来るかもしれない“何か”とは一体何なのです?」
恩寵者ゼナイドは同じくもう1人の恩寵者と顔を見合わせてから、意を決した様な声音で答えた。
「それが何なのか、という質問には我々は明確に答えを持ちません。ただ、これだけは明言できます」
「とても、恐ろしいものです」




