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汗が床に滴った。
息を吸いながら、真下の地面をゆっくりと近付ける。
身体を落下させるのではなく、完全に制御する事が大事だった。
身体を振り回すのではない。弾ませるのでもない。
緻密に制御するのだ。全身を、余す所無く。
片手、片腕だけでこのラシェル・フロランス・スペルヴィエルの身体を、頭から爪先まで“扱い”、司る。
それこそが強者の条件であり、強靭な戦士の“作法”でもあった。
想定していた部分まで床が近付いた辺りで、弾みを殺す為に身体を、止める。
先程吸った息を緩やかに吐きながら、一度止めた身体を静かに押し上げた。
壁も使わない、片腕での逆立ち。それでいて、制御したまま身体を押し下げては再び押し上げる。
片腕での逆立ちや片腕での腕立て伏せ、片足での深い屈伸に片腕での懸垂。
身体を鍛え始めたばかりの新兵や路地裏の喧嘩自慢、ひいては棒を振り回している子供から太った腹の突き出した、階段を上るだけで汗が吹き出る中年どもはこの所業を“離れ業”と呼ぶが、こんなものは鍛練の一つに過ぎなかった。
本当の戦士なら、それこそ国を変えようとする戦士なら、この程度の鍛練は日課の様にこなせなければ話にならない。
再び、息を吸いながら身体を押し下げた。
少しだけ、マリーの事が頭を過る。
自分があのジェフリーの骨と歯と根性を、古くなった安物の鍵みたいにへし折った時もマリーは笑っていた。
だが、思う所があったのだろう。
マリーはジェフリーが見えなくなるまで2人で歩いた辺りで、不意に聞いた。
“どうしたの?この頃、何か気に入らない事でもあるの?”と。
この自分の恋人なだけあって、魅力的なだけでなく聡い子だ。
細かい事情を話した訳でも無いのに、どう隠そうともやはり伝わるものは伝わってしまうらしい。
決めていた回数を終えてもいきなり投げ出す様な事はせず、最後まで身体を制御しながら2本の足で床に丁寧に降り立つ。
そこまでやって、漸く床に崩れ落ちた。
吊るしたパンチングバッグが、甲高い音を立てる。
ベアナックルの選手がトレーニングに使う様な、人の背丈程もあるパンチングバッグに腰の入れた拳を、次々に叩き込んだ。
再び汗が滲み息が上がるのを感じながら、それでも一突きごとに気を入れつつ実戦を想定し、左右にステップを入れる。
自分が荒れているのは、分かっていた。
ここ最近は認めざるを得ない程に、自分は攻撃的になっている。
掌底を使い、肋骨を砕くイメージと共にパンチングバッグの脇を抉る様に突いた。
平手打ちの音を重くした様な音が、部屋に響く。
自分が荒れている理由など、わざわざ考えるまでも無かった。
今回の任務。いや今回の任務の地、ラクサギア地区。
あの忌まわしい修道院。あの呪われた修道女ども。あの恐ろしい、“恩寵者”。
歯を食い縛り、更にパンチングバッグへ拳を打ち込む。
もう過去の事だ。もう、過ぎた事だ。解決した事だ。
パンチングバッグが、またも音を立てて揺れる。
あいつらは、死んだ。もう死んでいるんだ。
パンチングバッグへの殴打と先程の鍛練を別にしても、息が上がっていた。
任務にあいつらは関係無い。いつもはこんなに荒れていなかったのだから、制御出来る筈だ。
いや、制御ではない。解決するべき事案ではなく、解決している事案なのだから悩むまでもないのだ。
過去は乗り越えたとあれだけ思っていたのに、まさかこの自分にラクサギア地区の任務が来るなんて、夢にも思わなかった。
必要以上の力が入った回し蹴りが、パンチングバッグの側面にめり込む。
幹部達が、ラクサギア地区の任務に自分を抜擢した理由は、自分がラクサギア地区に詳しいからだ。
想定以上に息が上がっている。無駄な力を込めすぎている。
自分をラクサギア地区の任務に抜擢した幹部達は、自分がラクサギア地区のトルセドールだった事しか知らない筈だ。
トルセドールに所属する以前の事を、知っている筈が無い。
白く濁っている左目が、汗が入った以外の理由で疼いた。
息は上がりきっていたが自身を叱咤する様に唸り声を上げ、相手の顎を打ち抜く想定と共に打ち上げる様な掌底をパンチングバッグに浴びせる。
深く打った隙を突く様に手の甲を叩き付け、鋭い息と共に身を翻し、足をしならせる様にしてパンチングバッグの下方を蹴り付けて、バッグの中心に肘を打ち込んだ。
そして、全力の飛び後ろ蹴り。
吊るしていたパンチングバッグが鎖の音と共に大きく後ろに揺れ、少しして此方に戻ってきたバッグを足の裏で受け止める。
汗が額から顔を伝い、顎の先から滴り落ちた。
構えたまま、何度も何度も大きく呼吸する。
歪んだ蓋から滲み出る様に、忘れようとしていた過去が心の奥底から滲み出してきた。
黒羽の団に入る前、レイヴンとなる前の記憶。ラクサギア地区での過去。トルセドールだった頃の記憶。トルセドールに、入る前の記憶。
年端も行かない内から、自分を値踏みしてくる大人達。
喜んで悪事に手を染める施設の子供達。中年の機嫌を取る子供達。
自分を撫でる、煙臭い手。見定められている視線。
グース・ガーデン。
少女から娼婦へと変貌していく女達。
自分の年齢を周囲へしきりに聞いて回る、悪臭のする男達。
かき集めた金貨。列車の音。
雨の音。全身を打つ雨。隅々まで濡れた服。
右目だけの世界。
拳の痕が残っている壁。
鍛練の日々。
トルセドール。
滴る、鮮血。
もう、あの頃の私とは違う。
深く息を吸い、再びパンチングバッグを打った。
肌から吹き出していた汗が、動きに合わせて散っていく。
パンチングバッグに想定の敵を重ね、攻撃をかわす想定を交えながら鋭くバッグを打った。
今回の任務で、あのメネルフル修道院を襲撃する。トルセドール達が数えきれない程に喰われている、あのメネルフル修道院を。
分かっている。自分の個人的な事情を全て抜きにしても、難解な任務だ。
修道女どもはまだ何とかなる、幾ら鍛えていると言っても奴等は帝国軍の兵士と変わらない。
兵士やそれと同等の連中程度ならば、幾らでも相手取った事はある。今更、悩むまでも無かった。勿論、だからと言って侮るつもりは毛頭無いが。
問題は修道院地下に潜む、あの怪物達の方だった。
恩寵者。
聖母の名の元に不気味な仮面で顔を覆い、全てを見通し、自分と同じ神を信仰しない“不敬者”達を叩き潰して踏み潰す、荘厳な怪物。
再びパンチングバッグを打った。
業腹ではあるが、あの恩寵者を修道院の中で相手にするとなると、自分1人では手に余る。
いや、と胸中で訂正した。
あの修道院、恐らく対峙するであろう地下で恩寵者と争うのなら、殆どの仲間が手に余るだろう。例え、それがレイヴンだったとしても。
あの荘厳な怪物は日向でもそこらの戦闘員を蹴散らす程に強いが、修道院の地下においては敵を掴んで2つに引き千切る程に強靭な“怪物”となる。
あの不気味な仮面が、脳裏を過った。
すかさず、パンチングバッグに鋭い前蹴りを入れる。
現に最近もラクサギア地区で、あの怪物達の1人が市街での抗争においてギャング達をまとめて叩き潰したそうだ。
それも四方八方をギャングに囲まれた、真昼の日向で。
奴等は戦局を変える程の、いやねじ曲げる程の力を持っている。
息を鋭く吸い、身を翻した。
圧倒的に相手が有利な状況から戦局をねじ曲げる事は、当然ながら容易い事ではない。
戦場の兵が直接戦局を変える、と言う事は戦場を経験していない者が想像する数倍、数十倍は過酷な上に経験から裏打ちされる実力が必要だ。
それこそ、“怪物”と呼ばれる程の実力が。
パンチングバッグにフェイントを組み込みつつ、脇腹に固めた拳を打ち込んだ。
普段なら、例え幹部からの命じられた任務であろうと恩寵者に地下で対決する、なんて作戦には同意しなかったであろう。
だが。
更に拳を数発打ち込んでから、息を吸う。
恩寵者と修道院、ラクサギア地区が廻っている頭を、カラスの濁った鳴き声が不意に過った。
……不本意ではあるが、今回は此方にも“戦局をねじ曲げる”怪物が居る。
それこそ人数、戦力が圧倒的に不利な状況を実力で覆し、我々の団を劣勢から優勢に持ち直させた“転換点”とも言える、怪物が。
メネルフル修道院の地下において、我が団の中で恩寵者を真正面から倒せる可能性が最も高いのは恐らくあの怪物、“グロングス”ことデイヴィッド・ブロウズだろう。
個人的な感情を任務に持ち込むべきではない、と頭では分かっていた。
自分がラクサギア地区に思い入れがあろうと、リドゴニア出身だろうとニーデクラ出身だろうと、任務には関係無い。
だが、自分があのラクサギア地区でメネルフル修道院を襲撃し、任務を遂行して生きて帰る事が出来たなら。
パンチングバッグが、鎖の音と共に揺れた。
きっと私は、過去と決別出来る筈だ。
環境変化とクオリティの維持の為、次回更新は来年の1月3日になります。




