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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 汗が滲む。





 帝国軍に入隊したばかりの新人の兵がラクサギア地区に配置され、メネルフル修道院の修道女に歯向かって立てなくなるまで殴られた話を、自分はとても気に入っていた。


 その後、即座に配置替えを申請するも上官から“信心を取り戻せ”と逆に配置を延長され、怯えきった顔で敬語しか喋らなくなった話も、同じぐらい好きな話だ。


 勿論、あからさまに言うのは品が無いので胸の内に秘めたままにしていたが。


 息を吐きながら、目の前の床を押し離す。

 メネルフル修道院の修道女に取って、肉体の鍛練は日常的な事だった。


 相当若い宗徒か見習い、労務修女などの一部を除いてラクサギア地区の修道女は、日々の祈りと同じく鍛練を欠かさない。


 こうしてやっている腕立て伏せに置いても、鍛練内容の強度は其処らの兵士に勝るとも劣らなかった。


 少なくとも、通りすがりの亜人から“紫煙のついでに考えた税”を徴収しては酒と娼婦の話をしている兵士に比べれば、余程芯の入った鍛練をしているだろう。


 当たり前だ、と胸中で呟きながら息を吸いもう一度地面に身体を近付ける。


 第一線で聖母テネジア、及び聖女レンゼルの名の元に日々祈り、罪深い不敬者達と戦っている我々が弛んでいる訳が無い。


 身体が震え、筋力が限界に近付いているのが分かったが勿論止めるつもりは無かった。


 決めた回数までは絶対に止めてはならない。強さとは、厳格な規律から来るものだ。


 古来より全身を鍛え上げた戦士は、片腕で自分自身を“扱う”事が出来ると聞く。


 片腕での腕立て伏せや懸垂、片手での逆立ち。片手で逆立ちしたままの、上下。


 帝国軍の限られた精鋭達や、我がメネルフル修道院で日々戦っている誇り高き“恩寵者”の方々は、この離れ業を単なる鍛練の一環としてやっているそうだ。


 真の強者を目指すなら、片腕で自分自身を“扱えて”漸く、強者として一人前だなんて言葉もあるらしい。


 歯を、食い縛る。


 それならば我々の様な、使命に燃えている誇り高き戦士達こそ“一人前”かつ頂点であるべきだ。


 聖女レンゼルの名を冠して日々戦っている我々が、信心を失った連中などに劣って良い筈が無い。


 女性がその域まで辿り着くのは難しいと仲間の修道女に言われた事もあるが、ならば私がその言葉を覆してやる。


 恩寵者様を除けば、ここまで鍛練に精を出している女性はレガリスにそう居ないだろう。


 唸りが混じった息を吐いた。


 やるんだ。聖人の名を背負う事からも分かる様に、我々に課せられた使命は生半可な物ではない。


 ならば、我々こそ頂点で居るべきだ。


 聖母や聖女の綴りも間違える不敬な連中や、レガリスに居る事すら烏滸がましい様な外道や愚民。


 そして自らが神に愛されなかった事を認められず異教の穢れた神にすがり、奴隷の範疇を超えて暴挙を繰り返す亜人こと劣等種。


 そんな奴等に我々が劣るなど、あってはならないのだ。


 鍛練を終え、汗の滴った床に座り込みながら何とか息を整える。


 祈りと同じく鍛練は時間を定められていたが、その時間にどれだけ自分を追い込んでいるか、自分の時間にも鍛練を心掛けているかが如実に現れていた。


 修道女一同が鍛練の場所に集まり、幾つものグループに別れて鍛練をしていたが、目に見える範囲だけでも疲れはてている修道女が何人も居る。


 自分より強度の低い鍛練をしていたにも関わらず、だ。


 腕立て伏せや懸垂に深い屈伸、壁に対しての逆立ちを含め皆、自分より上の強度でやっている修道女は誰も、見当たらなかった。


 同じく、自分と同じ強度で鍛練している者も。


 隠さずに言うならその事実と光景に誇らしい物を感じたが、少しだけ寂しい物も感じていた。


 以前は同じ志の元にラクサギア地区、ひいてはメネルフル修道院の修道女として、過酷な鍛練を共にして切磋琢磨する仲間が居たのだが。


 息を整え、次の鍛練内容を意識しながらふと、そんな過去の仲間に想いを馳せた。無駄な事だと理解しながらも。


 その仲間の1人はこの広い青空に誇り高く散ったが、もう1人は今も此処に居る。この、メネルフル修道院に。


 このメネルフル修道院で、落伍修女(らくごしゅうじょ)として今もその修道女は祈りと雑務に勤しんでいる。


 だが、彼女達が決して敬われる事は無い。


 落伍修女。


 正式な役職では無いものの、この修道院の関係者なら“落伍修女”という言葉の意味は、誰もが知っている。


 聖職者でありながら、神の名に恥じる重い罪を犯した者。利益から不敬者に加担したり、聖なる戦いから逃亡するなど罪深い過ちを犯した者。


 修道院長、及び恩寵者達の御意志により贖罪と落伍を命じられた者。


 聖職者となった上で罪を犯し、罪を悔いて償う為に修道院内部で修道女として生活しつつ、聖なる道ではなく償いの為に祈りと労働、そして生涯を捧げ生きていく者達。


 神に尽くす身でありながら、神へ尽くすには相応しくない罪人。


 そんな彼女達の修道院内での階級は、見習いか見習い以下でしかない。


 何年も、何十年も雑務をこなしながら見習いから昇格する事もなく修道院で罪を償い続けるのだ。


 落伍修女に任命する事は、罪を犯した聖職者に下す罰としては、監獄への収監の次に重い罰とされていた。


 どれだけ惨めな扱いだろうと、彼女達にこの修道院以外の居場所は無い。万が一、落伍修女が罪の重さに耐えきれず修道院から逃げ出したとしても、此方は帝国本部に捜索願を出す事も出来る。


 そうなれば、落伍修女達はこの修道院より遥かに劣悪な監獄で祈る事になるだろう。聖書も礼拝も尊厳も秩序も無い、獣達の巣窟で。


 獣達の巣窟で餌食になる事を思えば、悪辣で残酷な監獄ではなく修道院で生活し、値札の付いた残飯ではなく整った食事を摂り、悪臭のする悪漢達に殴られながら過ごすのではなく神の名の元に過ごせる落伍修女としての生活の方が、まだ良いだろう。


 落伍修女となった元戦友に、少しだけ想いを馳せた。


 …………あの時。彼女がもし修道院長に異議を申し立てず、恩寵者様に直談判などしなければ、今も共に鍛練出来ていたのだろうか。


 今も切磋琢磨しながら聖女レンゼルの名の元に、戦えていたのだろうか。


 新たな鍛練内容に再び身を投じ、汗が糸を引く様な遅さで屈伸を始める。


 落伍修女が赦されて一般的な修道女に“復職”する事は、余程の目覚ましい成果を出した時などの特例を除き、まず有り得ないと言って良い。


 彼女と共に並ぶ事は、もう無いだろう。


 メネルフル修道院における、落伍修女の結末は主に2つ。


 1つ目は、全ての髪が白髪になって老婆になって尚、修道院で償い続ける事。


 言うまでもない、単純明快な結末だ。


 2つ目はこのメネルフル修道院から、別の修道院や施設に“派出”を命じられる事。


 このメネルフル修道院を去り、様々な修道院や施設で償いを兼ねて別の地を転々としながら、“流れ者の修道女”として生きるそうだ。


 何でも聞いた話によると、テネジア教が軽んじられている地区や治安の良い軽犯罪の監獄に派遣され、修道女として聖母テネジアの尊さを説くらしい。


 それも、一人前の修道女として。


 しかし勿論、落伍修女である事には変わり無い。“派出”を命じられた修道女は、もう二度とメネルフル修道院には戻れないそうだ。場合によってはある程度の待遇と引き換えに、監獄に修道女として勤める事もあるらしい。


 この“派出”は“追放”と同義だ、と言う者も居る。現に、私もそう思う。


 このメネルフル修道院から“派出”された落伍修女からは、ごく稀に手紙等が来る事もあるが基本的には殆ど音沙汰が無くなるのが常だった。


 時折、メネルフル修道院には更正の意味も兼ねて、他の地区で罪を犯した修道女こと“落伍修女”が送られてくる事がある。


 そう言った修道女が、この修道院で長らく暮らす事はまず無かった。


 私が知っている限りではあるが、数ヶ月もすれば余所の修道院から送られてきた修道女達は、遠い地へと1人残らず“派出”される。


 話に寄ると、レガリスの端の様な辺境に送られるそうだが、生憎と自分は落伍修女の行き先については教えて貰えなかったし、興味も無かった。


 無駄だと分かっていたが、それでも少しだけ彼女を哀れに思う。


 彼女は確かに罪人かも知れないが、個人的な意見を言わせてもらうなら生涯を通して見習い以下の扱いを受け、聖母からも見放された者としてこの修道院で過ごし続けるのは余りに過酷ではないか。


 “派出”が“追放”と同義とは知っているが、それでも彼女は“派出”されるべきではないか。


 メネルフル修道院に、このラクサギア地区に戻る事が出来ずとも、他の地区で修道女として生きていく事は出来る筈だ。


 監獄に派出されるかも知れないし、故郷のラクサギア地区から遠い地区へと派出されるかも知れない。


 それでも、それでも此処で蔑みの眼で見られ続けるよりはマシな筈だ。


 メネルフル修道院で、落伍修女として生きていくよりは例え此処より程度の低い地区だろうと、悪臭がする汚い監獄だろうと感謝されながら敬われながら生きていく方が絶対に幸せだろう。


 再び、額に汗が滲む。





 落伍修女となってしまった彼女が、少しでも早く“派出”を命じられるのを願うばかりだ。

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