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一時期はどうなる事かと思ったが、過ぎてみれば降雪は随分と収まってきていた。
除雪作業そのものはまだ続いているが、それ程苦労している様子も見受けられない。
道行く整備員達の余裕のある表情から見ても、どうやら難所は乗り越えたと見て良いだろう。
騒々しい、とは言わないまでも少しずつ普段の技術開発班の空気が戻ってきていた。
何人かは通りすがりに、“今度は何の用だ”と言った視線を向けてきていたがそんな視線も、日常に余裕があるからこそだろう。
勿論、良い気分では無いが。
そんな無遠慮な視線も、歩いている自分の肩にまたもシマワタリガラスが留まった瞬間、一気に畏怖の視線へと変わってしまった。
隣を見るも、当のカラスは止まり木にでも留まっているかの如く、平然としている。
まぁ、今に始まった話でも無いか。
そんな受け身な気分で、自身の待遇と肩に留まったカラスを受け入れるも、少しばかりの心当たりが不意に胸中から顔を出した。
不気味な蒼白い双眸。
あの虚無の夢が、脳裏を過る。
冷たく冷えきった空気、濃霧に遮られた薄暗い空。
嘴から紡がれる老人の様な嗄れ声、フカクジラの嘆く様な独特の低い声。
薄く、小さな溜め息が漏れる。
考えても仕方無い事だとは分かっていたが、それでも考えずには居られなかった。
左手の痣、それに伴う黒魔術を行使した際に、自身に流れ込んでくる冷たく濁った“何か”。
そんな黒く淀んだ何かが、胸の奥に小さな欠片として燻っていた。
流水に晒しても抜けない染みの様な、拭き取り切れない油の様な、“あるべきでは無い”何かが胸の奥、そして付け加えるなら左手の甲に残っている。
寒空の下を歩きながら少しばかり、眼を細めた。
本来有り得ない事、あるべきでは無い事。人としてあってはならない事が、俺の中で起きている。
そんな奇妙な確信を、黒い何かと共に胸中を巡らせながら道を歩いていた。
肩に、寛いでいる様にさえ見えるカラスを乗せたまま。
技術開発班の中を肩にカラスを乗せたまま歩くという事は、想像以上に威嚇の効果があったらしい。
技術開発班の中を歩いている際、此方を睨み付けながら真っ直ぐ此方に向かってくる大柄な作業員が1人居たが、俺の肩に留まったカラスがそちらに顔と嘴を向け、濁った声で鳴くと足を止めた。
先日見たラシェルの行動をなぞる様で本意じゃないが、向こうがその気なら応じるしかない。
そう思っていたが、カラスがもう一度鳴くと少しの間の後に忌々しそうな舌打ちの後に、何も言わず引き返して行った。
少し拍子抜けの様な気分ではあったが、この後で先程の男がどんな風に俺の事を話すのかを考えると、手放しに喜べる様な話でも無いな。
少なくとも、明るい話にはならないだろう。
諦め混じりに歩き続けていると、嗅覚が少しばかりの煙草の匂いを嗅ぎ付ける。
匂いのした方に目を向けると無愛想な顔をして煙草を吸っていた作業員の1人が、肩にカラスを留まらせたまま道を歩く自分に気付いて少し咳き込んだ後、今すぐ駆け出したいのを堪える様な仕草と共に、此方から目を離さないままゆっくりと煙草を揉み消し、身を引いていくのが見えた。
以前の様に、煙草を取り落として走って逃げた作業員の事を考えれば、かなり親身な対応になったと言わざるを得ない。
相変わらずグロングスとして誤解されている様だが、まぁ今更俺自身がどうこう説明しても逆効果にしかならないか。
それにこう言っては何だがカラスが肩に留まっていなければ、先程の大柄な作業員が近寄ってきた際にはきっと、面倒な事になっていただろう。
どこぞのカワセミよろしく失禁するまで殴り倒す事も出来なくも無いが、当然ながら控え目に言っても穏当な方法では無い。
折角グロングスとしてカラスを従えているのなら、たまには利用させてもらっても咎められないだろう。
咎は既に受けている、という考えは放っておくにしても、だ。
幸か不幸か、今日はクルーガー及びロニーは不在らしい。いや、ロニーは元々技術開発班の人間ではなかったか。
少しばかり雑談するのも悪くなかったが、居ないなら仕方無い。
聞こえてないつもりなのだろう、幾つかの囁き声が背後から聞こえてきた。
どうやら俺が“魔女の塔”に向かって歩いている事に気付いたらしく、カラスがどうのグロングスがどうの、魔女と怪物がどうのと好き勝手に囁いているのが、微かにだが聞こえる。
………気に入る空気ではないが、石を投げられたり処刑の署名を集められるよりはマシだろう。
そう、思うしか無い。
技術開発班の中をそんな思いと共に暫く歩き、相も変わらず巨大で奇妙な、表面に配管を織り込んだ灯台の様な外見をした“魔女の塔”に踏みいる。
両開きの武骨な扉に手を掛けた辺りで、ふと肩に留まったカラスへ目を向けた。
このままカラスを連れていって良いものだろうか。
言うまでもなく、塔の中にはヨミガラスのグリムが居る。
だが、グリムが居るからと言って俺がカラスを持ち込んで良い、とは言いきれないだろう。
左手に少し意識を集中させ、カラスに飛翔を促す様に緩く左手を振る。
意図が伝わるか少し不安だったが、カラスは思った以上に意図を汲み取ってくれたらしく少しの間の後に、気が変わった様な動きで俺の肩から空へと飛び立っていった。
………カラスに意図がすぐ伝わってくれたのは有り難いが、自分がウルグスに痣を焼き付けられたグロングスだと言う事を考えると、良い気分とも言いきれない。
考えても仕方無い事だ。そう自分に言い聞かせながら、両開きの武骨な大扉を押し開き塔の中へと踏み込む。
色んな理由で見慣れた昇降機の呼び出しレバーを引き、降りてきた昇降機に乗り込んで稼働レバーを引いて、轟音と共に上層に昇っていく中、肩に掛けていた鞄を掛け直した。
ゼレーニナからザルファ教の本を借りに来たが、少し鞄が小さかったかも知れない。
いや、この鞄が小さく思える程に借りない方が良いのか?
轟音と共に上層階へ到着した昇降機から踏み出し、赤い開閉ボタンを押してシャッターが上がったのを確認してから部屋の中に踏み出して行く。
「ゼレーニナ、居るか?」
見慣れたとは言え、相も変わらず工業的な武骨さと貴族の様な格調高さが入り雑じった酷く奇妙な部屋を幾つか抜けるも、ゼレーニナの姿は見当たらない。
返事も無い。留守か、とも思ったが先程の昇降機は俺が呼び出しレバーを引くまで、上層階に上がっていた。
単純な物理法則から考えても、ゼレーニナが外出していたとは思えない。
もう一度呼び掛けようとした辺りで、不意に声が聞こえた。
ゼレーニナの声では無い。
「イイノ?デイヴィッド、キテルヨ」
グリムの声だ。
丁度目の前の扉から聞こえている、丁度良いだろう。
丁寧に扉を開くと、机に留まっているグリムと呆れた様に顔へ手をやっているゼレーニナが立っていた。
「呼ばれて居ないのに顔を出すのが本当に得意ですね、ブロウズ」
「タマネギをそのまま食べたら、辛いのは当たり前だろ」
「そのままではありません。ポタージュなんですから茹でた後に決まってるじゃないですか」
「缶詰のボイルばかり食べるからだ。そのまま茹でるだけじゃ辛いのは当然だ」
「鍋で加熱するんでしょう?何が違うんです?」
技術者としての才覚を見ていたらある程度想像は付いていたが、ニーナ・ゼレーニナという人間の才能は、想像以上に“偏って”いたらしい。
タマネギを刻んでいる最中も、隣のゼレーニナは不機嫌な眼を向けてくるが、一応話を聞くつもりはあるらしく何か言おうとしては口を噤んでいた。
「…………鍋で煮る前に、炒めるんだよ」
「鍋で加熱される前にタマネギをフライパンで加熱するのですか?後に鍋で加熱するのなら、二度手間ではありませんか?」
何故そんな事を、と言わんばかりに不思議そうな顔をしてるゼレーニナの隣で、刻み終わったタマネギをフライパンで火に掛けて炒める。
色が変わっていくタマネギを、納得の行って無さそうな顔で眺めているゼレーニナを尻目に、考えを巡らせた。
まぁ、こいつの言いたい事は少しだけ分かる。
こいつには鍋で煮る事とフライパンで炒める事が、同じ“加熱”というカテゴリーに入っているのだろう。
問題点はそこだけじゃないんだが、取り敢えず作り方を知らないまま、想像力だけでポタージュを作った事だけは聞くまでも分かる。
いや、本人からも聞いてはいるんだが。
炒めたタマネギを使って少し簡単なスープを作り、適当な皿でゼレーニナに差し出した。
「ここまで炒めれば、辛味は出ないんだよ。ほら」
スプーンを添えて差し出されたスープに、ゼレーニナが分かりやすく不満そうな顔をするも、鼻を鳴らしてからスプーンを手に取る。
そしてスプーンで口に運んで、少し確かめる様な表情をしていたが意外そうな顔に変わり、もう一口食べた。
そのまま、またも不可解そうな顔で少し上を見上げている。
「トレイを置いても良いか?」
未だトレイを持たされたまま棚か机の様に扱われている自分に対して、ゼレーニナはまるで目もくれずスプーンを見つめながら考え込んでいた。
が、納得した様子でスプーンを俺が持っているトレイに置く。
数式でも書いている様な顔のまま、ゼレーニナが口を開いた。
「大体の理屈は理解しました。片付けておいてください」
そう言ったきり、ゼレーニナは何か考え込んでいる様子で離れていく。
少し口を開いたが何も言う事なく、口を閉じた。
ゼレーニナ相手に、礼の言葉を期待する程間抜けじゃない。
「喜んで貰えた様で何よりだよ」
そんな言葉を背中に投げるも、気にする様子も無くゼレーニナは歩いて行ってしまった。
少し息を吐いてから、皿と調理器具を片付ける。
「デイヴィッドー、ポタージュツクッタノ?」
そんな声に振り向くとそこにはシマワタリガラスより大柄な体躯のヨミガラス、グリムが机に立っていた。いや留まっていた、というべきか。
「スープをな。まぁ、次こそ多少はまともなポタージュが出来る筈だ」
「ヤッパリゴシュジン、リョーリダメダモンネ!!アリガトネ!!オレイシナイトネ!!」
そんな俺とグリムの会話を聞き付けたのか、何故か首だけ伸ばす様にして振り返ったゼレーニナが、忠告する様な口調で言葉を投げてくる。
「グリム、ブロウズは礼なんて無くても怒りませんよ。他の連中の様な面倒事は起きません」
「信頼してくれてどうも」
随分な扱いだ。きっとゼレーニナの頭の中で、俺は“雑に扱っても面倒事が起きない奴”と分類されているのだろう。
しかし、そんなに割って入る様な口調で言う事だろうか。まるで、グリムと俺が話すのを阻害しているかの様な口振りに思える。
考えすぎか、と考えを変えようとしたその瞬間。
「ゴシュジン!!ヤッパリ、ポタージュノオレイ二“オノ”アゲヨーヨ!!」
「グリム!!」
グリムの発言にゼレーニナが火を吹く様な勢いで叱り付け、グリムは蹴飛ばされたような悲鳴と共に飛び立った。
“オノ”?
グリムのそんな発言も不思議だったが、何よりゼレーニナが、よりにもよってあのゼレーニナがそんな大声を出すと思って居なかったので、随分と驚いてしまう。
「おい、どうしたんだ?」
飛び立って窓際に行き何とか窓を抉じ開けようとしているグリム、銀髪を逆立てんばかりにゼレーニナがそのグリムへ歩み寄って行くので、思わず間に割って入った。
このままじゃ、グリムがローストにされかねない。勿論、ゼレーニナはローストなんて喰わないだろうが。
「邪魔です、ブロウズ」
「落ち着けよ、グリムはそんなにまずい事言ってないだろ?」
そんな俺の言葉に、此方を喰い殺さんばかりにゼレーニナが睨み付けてくるものだから、思わず1歩引いてしまう。
だが、それにしたっておかしい。“オノ”とやらが原因か?
「斧が嫌いなのか?」
両手でゼレーニナを宥めながらそう聞くと、ゼレーニナは何か言いたそうな顔をして現に何かを言おうとするものの、言葉にならない様で暫く声も無く口を動かした後、空気が抜ける様な長い溜め息と共に肩を落としてしまった。
疲れきった様な素振りで、顔に手をやるゼレーニナ。
怪訝な顔にはなったが下手に話し掛ける事は、やめておく。
経験上、こういう時は向こうが話し始めるのを待った方が良い。
「…………少し、いえかなり不本意な形になりますが、この際ですのでもう紹介してしまいましょう。グリム、大丈夫です。もう感情的になっていません、大丈夫です」
顔から手を離し、そんな宥める様な声でゼレーニナがグリムに呼び掛けると、窓を抉じ開けようとしていたグリムが此方に顔を向け、一難去った様な様子で羽の音を立てながら部屋の中へと飛び立った。
少し頭を掻く。
何が何だか分からないが、どうやら落ち着いたらしい。
「………落ち着いたなら聞かせて貰うが、“オノ”ってのが原因か?何か斧が関係してるのか?」
ゼレーニナが大失敗でもしたかの様に両手で顔を覆い、そのまま指の間から此方を見つめる。
そして両手を離して、ゼレーニナが一息吐いた。
「仕方ありませんね、付いてきてください」




