208
路面に、鮮血が滴った。
かつての聖職者は、争いの際に血を流す事を禁じられていたと言う。
その戒律の為に聖職者は争いにおいて、血を流さない鈍器、メイス等を用いたとされていた。
だが、それは正確には誤りである。
しかし、それは聖職者が戦争等の争いへ積極的に参加する事を禁じ、聖職が軽んじられる事を防ぐ為のものであり、実際の聖職者たちは騎士とまるで変わらない武器、剣に槍、弓を平然と用いていた。
悲鳴と共に、筆が滑った様に路面へと赤黒い斑点が散る。
このラクサギア地区において、聖職者が血を流さないなど、皮肉にもならなかった。
現にこうしてラクサギア地区に派兵された帝国軍兵と、武装した修道女はサーベルを振るいギャング“トルセドール”のメンバーを、鮮血に染める形で切り捨てている。
サヴァナ・ウィールライトも、そんな血飛沫の舞う戦いに身を投じる、修道女の1人だった。
聖母テネジア、ひいては聖女レンゼルの為に身を捧げると誓ったのは、勿論本心からの言葉だ。
だが、正直に言う事が許されるのならこんなにも苛烈な戦いを経験するとは思わなかった。
子供の頃は大きな虫さえ怖かったものだが今では大の大人、それも顔に剣呑なタトゥーを入れている様な筋骨隆々のギャングを、躊躇無く殺している。
前述の理由をなぞる訳では無いが、こうしてサヴァナが手にしている武器も帝国軍の武器と大差無い、鋭い刃の付いたサーベルであった。
通常、修道院は宗教団体でもある帝国軍の管理下に置かれ、程度の差はあれど支援を帝国から受けつつ修道院は帝国軍の援助をする、と言うのが一般的なレガリスにおける修道院の在り方だ。
他地区の修道院では、帝国軍及び帝国兵に鍛練及び戦闘を学ぶ者はそう多くは無かった。
聖職者の中で志願する者は帝国軍の簡易的な教育課程を受け、聖職者でありながら軍の予備役も兼ねるという形になり、課程を修業した者は非常時や有事において早急に兵力を拡充する為、呼集に応じて動員される。
とは言うものの、近年のレガリスにおいてはそれ程厳密に予備役として定められている、言う訳でも無かった。
簡易的な教育課程、及び訓練を経験していれば軍の仕事の一部を振り分けられる。そうなれば、帝国軍も人員の振り分けについて幅広く考える事が出来る。
言ってしまえば、それだけの話だった。
修道士及び修道女も聖職者が、“本当に”不敬な連中と血塗れの剣劇を繰り広げるかも知れない、なんて考えている者など殆ど居ない。
荒事があれば、まずは帝国軍兵士が出てくるのが普通だろう。
だがこのラクサギア地区は違う。
ラクサギア地区に並ぶ著名な宗教地区以外の地区、前述した“通常の”地区に住んでいる人間の殆どは信じないだろうが、レガリスにおいては宗教地区にて聖職者を志した人間の大半が、帝国兵に負けるとも劣らない過酷な鍛練を経験していた。
修練の見習いを終えた修道士、及び修道女の大半が過酷な鍛練を始める。
他の地区の、志願して簡易的な教育課程を受けた者とは比べものにならない程の、本当に過酷な鍛練だ。
人によっては、帝国軍の新兵に課せられる鍛練よりも過酷だと言う者も居る。
現にサヴァナ・ウィールライト自身も新入りの憲兵、刈り込んだ髪が初々しい新入りの兵士を、模擬戦において完膚なきまでに叩きのめした事があった。
お前よりギャングの方がまだ骨がある。
冷たく見下ろしながら、そう言い切られた新兵の顔は随分悔しそうな顔をしていた。
もし、あの新兵が。あの後、ラクサギア地区から別の地区に異動になったあの新兵が。
今のサヴァナを見て同じ顔を出来ただろうか。
たった今、鋸を引く様にギャングの脇腹を切り裂いて、路面に赤黒い血溜まりを作らせている、このサヴァナを見て。
厚い生地を使っている修道女の服に返り血が飛ぶも、気にする様子もなく両膝を付いたギャングの、鼻を叩き潰す様な形でサヴァナが振りかぶったサーベルの刀身を横凪に叩き付けた。
意識と命が抜けて仰向けに倒れたギャングから視線を切り、サヴァナが周囲に視線を走らせる。
今回の抗争も例に漏れず中々の規模であり、ギャングも手強い者が揃っていたがサヴァナは戦局を余り心配していなかった。
腰に下げたレバーピストルを取り出し、薬室に張り付いた金属薬包を専用の機構で押し出す。
張り付いた金属薬包を引き剥がして排出するには、かなりの力が必要な為に本来は地形や台座の角等を利用するのだが、サヴァナは腕と肩の筋肉を膨らませ手と腕の力だけで容易に排出した。
新しいディロジウム金属薬包を、排出したばかりの薬室に装填した辺りで別の修道女が駆け寄ってくる。
「戦局は?」
そんな修道女の言葉は修道院に所属する聖職者と言うよりは、まるで戦場の兵士の様な口調だったがこの地区では格段珍しいものでも無かった。
それに、このラクサギア地区において戦場という例えは強ち間違いと言う訳でもない。
「此方は片付いた、恩寵者様は?」
「東の通りを抑えてる。1人で」
「1人で?」
「負傷者を撤退させる為に残ったの。助けに行くから手伝って」
サヴァナが返事代わりに修道女の肩を叩き、2人して東の通りへと走り出した。
聖職者の服を着てはいるものの、その姿は正しく激戦区の兵士と大差無い。
白が基調の修道女の服には返り血が染み付き、その上から装備した革製のホルスターやベルト、バックルは正しく兵士の物だった。
「恩寵者様!!」
サヴァナが、息が上がっているにも関わらず響き渡る様な声で叫ぶ。
2人の視線の先。死体が此処彼処に転がっている通りの中心部には、何人もの殺気立ったギャングに囲まれた1人の修道女。
いや、1人の“恩寵者”が佇んでいた。
血を流さない武器と言う評判を嘲笑うかの様に、手にした金属製のメイスには漬け込んだ様な量の赤黒い血がこびりついている。
急に呼び掛けたにも関わらず、恩寵者はまるで動揺した様子は無かった。
聞こえていないかの様にも見えたが、この地区においてそれは有り得ない。
“有り得ない”のだ。
近場に居たギャングの1人が踏んだ場数を感じさせる様な、板に付いた呼吸と共に鋭く剣で斬りかかった。
金属音。
剣を打ち払うメイスの音。
すかさず、恩寵者がギャングへと素早く距離を詰める。
詰められた距離に、反射的に振るわれたギャングのサーベル。その刃先が恩寵者の服を掠めた。
掠めた、という事は捉えられなかったと言う事。捉えられなかったと言う事は、恩寵者は踏み込んでいると言う事。
恩寵者が至近距離に踏み込む事が、どれだけまずい事か、説明が必要な者などこのラクサギア地区には居ない。
焦燥に染まったギャングの表情が直ぐ様、苦痛に変わった。
踏み込みと共に振りかぶっていたメイスの先端が、最も力を伝えられる形でギャングの脇腹にめり込む。
比喩無しにめり込んだメイスの先端からは、骨の砕ける音がはっきりと聞こえてきた。
重い呻き声と共に、体勢を崩したギャングの頭頂部にまるでそう言った段取りを予め話し合って決めていたのかの如く、スムーズにメイスの先端が叩き込まれる。
目玉が飛び出し頭蓋が目に見えて砕け、首を潰す様にして頭事態が肩と胸にめり込んだ。
物理的に身長が縮まったギャングを手で乱雑に払い、声も出さずに後ろから迫っていたギャング、その振りかぶった斧の手元へと振り返り様にメイスが叩き付けられる。
先程の肋骨と胸郭が砕ける音を幾分か軽くした様な、細かい骨が束になって砕ける音に悲鳴を織り混ぜながら、ギャングが斧を見当違いの方向へと投げ捨てた。
取り落とした、と表現しても良い。
手首と手首から先が大きく潰れたギャングが叫び声を上げ、その大きく開いた口を閉じさせる様にメイスの先端が顎を下から突き上げる。
振りかぶって振り込むのではなく、先端が直に突く様な動きではあったが顎を砕いている時点で、威力という点において何ら問題は無かった。
文字通り悲鳴を押し潰されたギャングの身体から、命が抜け出ていく。
その背中に、レバーピストルの銃口が向けられた。
何一つ此方を向いていない背中。距離も射程圏内。
そのギャングがレバーピストルを外す理由は、何一つ無かった。
そんな光景を見たサヴァナが駆け寄りながら素早くホルスターからピストルを抜くも、サヴァナの腕前を差し置いても射程圏外なのは間違いない。
「必要ありません」
そんな恩寵者の声に続く様に、ギャングのピストルから銃声が響いた。
駆け寄っていたサヴァナと隣の修道女が、息を呑む。
そのギャングが、レバーピストルを外す理由は何一つ無かった。
確かにピストルのディロジウム薬包から発砲された弾丸は、狙い済ました通りの軌道を描いて肉に深くめり込んでいる。
だが、それは聖職者の肉では無い。
顎を突き上げられて砕かれたばかりのギャングの身体に、弾丸が深々とめり込んでいた。
一切ギャングの側を振り向く事無く、恩寵者が仕留めたばかりのギャングを自分の背面へと、子供を背負う様に素早く振りかざしたのだ。
その仮面に覆われた顔を、此方に向ける事すら無く。
比喩でも何でもなく顔すら向けずに弾丸を防がれたギャングの顔が、驚愕に染まる。
弾丸が受け止めたばかりの死体が脱いだ上着か何かの様に高く投げられ、ギャングの視線が引き付けられたその瞬間。
驚愕に染まっていたその顔に、的当てか何かの様に斧が深々と突き刺さった。
空中で命を完全に失った死体が、重い音を立てて路面に落ちる。
ギャングの顔面を割る様に投げられたその斧は先程、恩寵者が手を砕いて叩き落とした斧だった。
高く投げた死体に意識を引き付けるとほぼ同時に、死体の下を通す様にして恩寵者が斧を投げていたのだ。
サヴァナと修道女が駆け付けるが、決着は確かめるまでもなく明らかだった。
それでも気を抜かぬ様に訓練されていた修道女とサヴァナが素早く周囲を警戒するも、恩寵者は「敵はもう居ません」と言い切ると2人は少しして大きく息を吐く。
恩寵者が居ないと言い切るのなら、敵は居ないのだ。
サヴァナは恩寵者がどれだけ広く世界を見ているか、またその言葉がどれだけ正しいかをよく知っている。
遺体を積み重ねた様な通りの中心で、恩寵者が落ち着いた様子でメイスにこびりついた血を振り払った。
この日、ギャング“トルセドール”は東方面の一部の縄張りを、大きく失う事となった。
諸事情により、次回更新日は8月16日になります。




