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不気味な低い鳴き声が聞こえ、我に返った。
身震いする様な寒さ、ではなく崖の端から深い夜空を見下ろした様な、肺から冷え込む様な冷たさが身に染み込んでくる。
野花の匂いと腐った内臓の様な匂いが入り雑じった、奇妙な香りが鼻に付いた。
分厚い濃霧に遮られた頼り無い日差しの中で、漸く自分が冷えきった石の上に立っている事に気付く。
石の上、と言ってもそれは大きな石でも岩でも無く、浮遊大陸だった。
土も草も無く、冷えた氷から削り出した様なこの小さな大陸は、石の様にも金属の様にも、結晶の様にも見える鉱石のみで構成されている。
今も足の下に広がっているその鉱石は、水から引き上げた様に冷たく濡れており、鈍い光沢を見せていた。
そして身震いする様な空気の中で唯一、灯火の様に熱を帯びている左手。正確には、左手の痣。
曖昧になっていた思考が少しずつ定まり始め、改めて冷たい空気を吸い込む。嗚呼、此処か。
朧気な日差しを浴びながら、漸く自身があの“虚無”に居る事を自覚した。
そんな想いと共に、左手を擦っていると奇妙な香りの中、再び不気味な低い鳴き声が響いてくる。
先程聞いた鳴き声と同じ鳴き声だという事、それが巨大な動物から聞こえる声だと言う事。
そしてその鳴き声が自身の近く、背後から聞こえている事に気付くのは、全く同時だった。
条件反射に近い形で鳴き声の主に振り向き、思わず息を呑む。
空魚類の中でも体躯と獰猛性において頂点に君臨する王、フカクジラの巨大な鼻先が真正面から迫ってきていた。
顔に影が掛かる。
100フィート近くある獰猛なクジラがゆっくりと迫り、思わず身構えたがどうやら向こうは俺に興味が無いらしく、嘆く様な探る様な物悲しい鳴き声を響かせながらフカクジラは、優雅にさえ思える動きで俺の傍を泳いでいった。
俺に屋根を掛けるかの様な動きで、優雅に頭上を泳いでいくフカクジラを見送っている内に、この物悲しく歌う様な低い鳴き声に聞き覚えがある事に気が付く。
何処かで、聞いた唄だ。
この奇妙な低い鳴き声を、何処かで俺は聞いている。
頼り無い日差しの中を低く鳴きながら、泳いでいくフカクジラを見送っていると不意に左手の痣が熱く疼いた。
来たか、と冷たい空気を吸う。
蒼白い奇妙な光と共に、熱く脈打つ左手の痣を眺めていると空気が一際冷たくなる様な錯覚と共に、鳥の咆哮と人の悲鳴を織り混ぜた様な奇怪な音と共に、目の前にウルグスが現れた。
不気味な蒼白い双眸を備えた、巨大なフクロウの姿をした神霊。
ウルグスは羽ばたいて島に降り立つでも無く、石の地面から生えてくるでもなく、奇怪な悲鳴の音と共に、頁を捲る様にして現れたウルグスが嘴から老人の如き嗄れ声で呟く。
「英雄と呼ばれ、英雄を名乗る者は多く居る。凡庸な英雄こそ、歴史には数多く刻まれるものだ」
先程の、人々の悲鳴と鳥類の鳴き声を練り合わせた様な奇怪な音は、聞き覚えがあった。
あの不気味な黒魔術。この左手の痣から眼窩を抉られたカラスを呼び出した時に、聞いた音だ。
「英雄という重責を背負い、英雄と呼ばれるべく目指した者も少なくない。背を追う者は先頭を歩く者に比べ遥かに数多く、何時だってありふれている」
あの音は、この“虚無”に関係があるのだろうか。
それともあの眼窩を抉られたカラスに関係があるのか?
「だが、英雄でありながら英雄とは呼ばれず、むしろ英雄である事を咎としている者は少ない」
いや、それならばウルグスの移動でその音が鳴るのは筋が通らないか。
淡々と英雄について述べていくウルグスの嗄れ声を聞きながら、頭を捻った。
英雄である事を咎とする、か。
「そして世界に大きな変化を及ぼす者は、そういう者だ」
考えてみれば、英雄と呼ばれる事に誇りを感じた事など一度も無かった。
言われた言葉通りに考えるのは気に入らないが、確かに俺が英雄などと呼ばれるのは間違っている。
「英雄として名が語り継がれ、本と記録に名が記された者は尊敬と名声の末、英雄から“かつて英雄だった者”となる。英雄が英雄である内は誰も、支えようとも讃えようともしない。何故だと思う?」
老人の様な嗄れ声が、微かに弾んだ。
ウルグスの不気味な双眸が、更に大きく見開かれる。
「今も剣を握り戦い続けている血塗れの英雄など、民衆には恐ろしい存在でしかないからだ。怪物と呼んで忌み嫌う者も居るだろう」
怪物、か。
確かに俺は戦場において英雄と呼ばれたかも知れないが向こう側、敵国からすれば正しく怪物と言えただろう。
英雄と怪物は、紙一重だ。
「血塗れの英雄と、血塗れの怪物にどう線を引く?それは、線を引ける物なのか?引けるなら、引く資格は誰にあるのか?」
そう語り続けるウルグスに不気味な物を感じながら、目を細める。
左手が、共鳴するかの様に疼いた。
奇妙な香りが混じる、冷たい空気を吸う内にある事に気が付く。
黒魔術を使った時に自身の中へと流れ込んでくる、黒く濁った何か。
あの淀んだ“何か”が、胸の中にある。俺の中に、淀んで穢れた何かが今も粘り付く様に、染み込む様に残っている。
何か不可逆的な、取り返しの付かない何かが俺の中から微かに、だが確かに滲み始めていた。
左手を、握り締める。
再び響いてきた低く長い鳴き声に意識を向け、哀しげに泳いでいるフカクジラに視線を投げた。
音も無く泳いでいる為に気付かなかったが、思ったより遠くまで泳いでいたらしい。
そんなフカクジラを遠目に見ながら、不意に無関係の事実に合点がいった。
「お前は何者だ、デイヴィッド。国を引き上げる英雄か?国を叩き落とす怪物か?」
そうか、あの鳴き声を何処で聞いたのか、漸く思い出した。
あの鳴き声は。あの不気味かつ物悲しい“唄”は。
「それともその両者ですら無い、何かに成り果てようとしているのか?」
蒼白く染まる、骨の刀剣から聞こえていた唄だ。
ゆっくりと瞼を押し上げる。
瞼を上げた後も、寝床から動く気にならなかった。
あのフカクジラの鳴き声が、耳朶に残っている様な気がする。
虚無、か。
長く長く、天井を見つめた。
英雄と怪物は紙一重である事。線を引ける者など何処にも居ない事。
少し、考えた。
英雄である事を咎とする、か。
浄化戦争の英雄など、何一つ名誉に思った事は無い。
英雄を名乗った事も英雄を目指した事も、まるで無かった。
寝床のまま、虚無とはまるで違う空気を吸う。
帝国軍の頃は周りから英雄と呼ばれる度に、胸中で俺は英雄などではない、と叫んでいた時期もあった。
隠密部隊に居た時も含めて、の話だ。
この先、どんな裁きが待ち受けようとも俺には当然の報いだ、と言い聞かせていた時期もある。
顔に手をやった。
やめよう。無理に思考を転換しようとしても、誤魔化せないものはある。
俺は確かに今恐ろしいものを経験し、恐ろしいものが胸中に張り付く様にして残っている事は、認めざるを得なかった。
言うまでも無いが、恐ろしいものと言っても勿論先程の風景や言葉では無い。
横になったまま、何を言うでもなく呻き声が漏れた。
今日はゼレーニナの所に本を借りに行くつもりだったが、止めておこう。
とてもじゃないが、そんな気分にはなれない。
あの時。あの虚無の中。今は感じ取れないが間違いなく、俺の中に“冷たく淀んだ何か”が滲んでいた。
以前は左手の痣、黒魔術を使った時にしか感じられなかったあの濁りと穢れが、確かに自身の胸中に感じられた事を思い出す。
覚悟はしていた。
何れ、取り返しの付かない事になっていくのだろう、と。
覚悟はしていたが、覚悟をしていただけだ。まるで動揺が無いとも、不安が無いとも言いきれなかった。
俺はあれだけの力と引き換えに、どんな代償を支払ってしまったのだろうか。それとも、これから代償を支払うのだろうか。
ウルグスは自分に、どんな代償を求めているのだろうか?
頭の中で虚無の記憶が再び反響する。反芻、と言い換えても良い。
そう言えば、あの骨から聞こえていた、物悲しい鳴き声。
悲痛な、骨の唄。
骨から微かに感じ取れたあの唄は、フカクジラの鳴き声だったのか。
人の悲鳴と鳥の咆哮を織り混ぜた様な奇怪な音と言い、骨から伝わってくる悲痛で不気味な唄と言い、虚無の音で思い当たる節が多い。
眼窩を抉られたカラスもそうだ、と考えた辺りでふと記憶を手繰った。
ウルグスに出会う前、そして出会った後もあの頼り無く照らされる霧の中を泳いでいたフカクジラ。
記憶を、更に手繰り寄せる。
虚無の中で、まるで俺が存在しないかの如く泳いでいったフカクジラ。
あのフカクジラの眼窩も、抉り取られていなかったか?




