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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
203/294

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「相も変わらずクソ寒いわね、全く」





 隣のラシェルが忌々しげに呟きながら、踏み固まった雪を更に踏み締めつつ雪道を歩いていた。


 居住区の方面に来るのは、随分と久し振りだ。


 まぁ、わざわざ自分から炙られに暖炉の中に入る訳が無いのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。


 現にそれを証明するかの様に、俺とラシェルが歩いているとそれだけで奇異の視線や、畏怖の視線が幾らか肌に刺さるのを感じる。


「一応聞くけどあのクルーガーの所に居たカプリット、呼んでないでしょうね」


「あぁ。最も本人は、どうにか呼んで貰おうとしていたがな」


 そんな俺の言葉にラシェルが、これ以上無い程分かりやすく鼻で笑った。


 現に今日、待ち合わせ通り午後から技術開発班からラシェルに付いていく形で雪の中を歩いていったが、あの時の俺達を遠目に見送るロニーの顔は、未だに覚えている。


 スノーシャベルを片手に持ったまま俺達を見送るロニーの顔は、正に“羨望”そのものだった。


 …………ロニーがラシェルの素性、何故“血塗れのカワセミ”と呼ばれるかを知っていたなら、別の表情が浮かんで居ただろう。


 少なくとも、何とか自分も呼ばれようなんて考えなかった事だけは間違いない。


「まぁカプリットが来ないなら、何でも良いわ。署名の時も見たけど、何であんなガキに懐かれてんの?」


 考えに耽っていた自分が、そんなラシェルの言葉にふと引き戻された。


 よく見れば、ラシェルは隣を歩きながらも俺の目を見つめている。


「皆、不思議そうにしてたわよ。あんたみたいな曰く付きのカラスの化け物に、ピカピカブーツの“カワイイ”新人レイヴンが何で懐いてるのかって」


 少し息を吐いた。


「その“カラスの化け物”がクールなんだと。元帝国軍の、黒魔術を使う化け物がレガリスを脅かすのに憧れてるらしい」


「子供ね。その調子じゃ、クローゼットの怪物もたまらなくクールでしょうね」


 俺の説明を、分かりやすく切って捨てるラシェル。


 確かにロニーの羨望の眼には些か思う所が無い訳じゃないが、随分と簡単に切り捨てるものだ。


「誰にでも若い時はあるだろ」


「鞭を惜しむと子は駄目になるわ」


「そう厳しく言ってやるなよ、その内ロニーも理解するさ。今は学ぶ頃だろ」


「腸を路地で溢しながら“学ぶ”なら止めないわよ。世の中、取り返しが付く失敗ばかりじゃないわ。それとも、あんたの今までの失敗は全部償えたとでも言うつもり?」


 少し眉を潜めた。こればかりは、分が悪い。


 もう少し言い返そうかとも思ったが、敢えて留まった。


 経験上、言い負けた時に言い返しても、望む様な結果にはならない。


 負けた事が分からない程、俺も子供じゃなかった。


 鼻を鳴らすだけで会話を打ち切ると、ラシェルは此方を一瞥した後、拍子抜けの様な雰囲気で前に向き直る。


 ラシェルがそのまま煙草を取り出して火を付ける様子を見ながら、寒空を見上げた。


 全てが償える訳ではない。


 当たり前の言葉だが、こうして改めて突き付けられると重く、深い言葉だ。俺の様な人間には、特に。


 赤黒く錆び臭い、礼拝堂の記憶が脳裏から滲み出してくる。


 息を吸っては吐いて、その記憶を意図的に抑制した。


 分かっているさ。分かっている。


 俺は赦されるべきではない、分かっている。


 そうして記憶を押し込めている、そんな最中。


「“グロングス”に手懐けられたって噂、本当だったのねぇ」


 不意に飛んできた、無遠慮が隠しきれない声にラシェルと共に振り返った。


 少し、身を引く。


 中々に厚手の防寒着を着た、いや防寒着を厚手の如く膨らませた肩幅のある女性が、敵意を塗り込めた笑みと共に此方に歩いてきていた。


 黒髪を結べない程に短くした、黒髪の女性。


 ラシェルと同程度の身長を持つその女性は此方に歩きながらも、笑みを浮かべたまま此方のラシェルを見つめる。いや、睨み付けると表現した方が正しいだろう。


「マリーは知ってるの?それとも“彼女”だけじゃなくて“彼氏”も欲しいとか?」


「ジェフリーに捨てられたからって、男に絡むんじゃないわよジョアンナ。カラスが欲しいなら森にでも行って探すか、ヤギにでも抱かれてきな。向こうも喜ぶでしょ」


 ジョアンナと呼ばれた女性の言葉へ、用意していたかの様に直ぐ様スラングで言い返すラシェルに、内心で感心に近い物を抱く。


 流れる様にカラス扱いされている事については思う所が無いでも無かったが、今更と言えば今更ではあった。


「あら、随分と食って掛かるじゃない。不機嫌そうだけど、図星だったかしら?ごめんなさいね」


「ジェフリーに聞かなかったの?クソ寒い中で、クソを拭き損ねたケツみたいな顔のブスに絡まれるのがどれだけ気分悪いか。そりゃ、不機嫌にもなるわよ」


 紫煙を燻らせながら、ラシェルが笑い話の様に言葉を返す。


 笑顔のまま、ジョアンナの肩が幾らか動いた。


 肩の動きと佇まい、身体の重心で相手の素性を察する。


 この女、相当人を殴った事がある様だ。恐らくは、殴られた経験も同じぐらいあるだろう。


 となるとこの空気から考えられる展開は、そう多くは無い。十中八九、俺がよく知ってる“流れ”になるだろう。


 ましてや、相手は“血塗れのカワセミ”だ。


「随分と強気じゃない。皆が皆、あんたに従うとでも思ってるの?」


「確かに皆が皆じゃないわね。まともな連中と、美人と、あと“弁えてる”奴だけ。その逆の奴は、全然従ってくれないわ。あんたとかね」


 飄々と紫煙を吹かしながら返すラシェルに、ジョアンナの眼が険しくなる。


 敵意の塗り込めた笑みに、無理に笑みが張り直された。


 相変わらず、団の中では随分と強気でやっているらしい。まぁ、ラシェルを知っている者なら納得の行く話ではあるが。


「人の男盗んで何も言われないとでも思ってるなら、左目だけじゃなく右目も“お揃い”にしてあげようかしら?両方揃えないと不恰好だし、良い薬になるでしょ」


「両目揃ったブスが良く言うわよ。ジェフリーなんて盗む訳無いでしょ、男のバカとブサイクはお断りなのに両方なんて。そこまで落ちぶれてないのよ」


 あからさまに殺気立っていくジョアンナに対して、一切余裕を崩さないまま笑いながらラシェルが返す。


 立ち止まったまま、随分と話しているせいで少し冷え込んできた。


 ラシェルの用件が何にしろ、手早く済ませて欲しいものだが。勿論、ジョアンナとやらの用件も。


「盗む訳無い?よくも言い切れるものね、あんなにジェフリーを惑わせておいて。それとも男を誘うのが癖になってるの?」


「あんなのに発情されて良い迷惑よ、皆が居る広場で交際の申し込みなんて。断られて恥かく事ぐらい分からなかったのかしらね?」


 分かりにくい形ではあるが目の前でジョアンナが拳を握り、歯を食い縛る。


 あぁ、良くない空気だ。


 分かりきってはいたが、良くない空気だ。


 そんな事を考えているとラシェルが不意に首を此方に向け、何気無く呟いた。


「今度は止めるんじゃないわよ」


 その眼には、獰猛な光が宿っている。


 血塗れで気絶していた、マルセルの事が頭に過った。


 そう言えばあの時は最後にラシェルが両手を振り下ろそうとしていたのを、俺が止めたんだったか。


 再びジョアンナに向き直っては睨み直すラシェルから、幾らか距離を取る。


「先に言っておくわ」


 ラシェルが足を変え重心を変え、そして両の掌を開きながらラシェルが先程とは違う、冷たい声で言った。


「此処で私とやるつもりなら、あんたのお仲間がバカな事考えない様に“見せしめ”にするわよ。覚悟する事ね」


 そんな言葉に対して、ジョアンナが一歩前に出る。


「そう言えば此方が怯えるとでも思った?これからはあんたが怯える時代よ」


 距離を詰めているのは隠し様が無い、“やるつもり”と見て良いだろう。


 2人がやり合う際、邪魔にならない様に幾らか離れた。


 ラシェルが左手で紙巻き煙草を口から離し、紫煙を吹かす。




 対峙している2人の間が霞む、その刹那。




 ジョアンナが前傾すると共に体重移動で素早く前進するのと、その顔面にラシェルが紙巻き煙草を弾いて飛ばすのは殆ど同時だった。


 紙巻き煙草に火が付いていても、火が都合良く顔に当たるとは限らない。


 前提として、煙草を避ける可能性も十分にあるだろう。


 だが白兵戦が勃発したその瞬間、攻撃に転じた刹那に、“顔に物が飛んでくる”という事実は無視出来ない意味を持っていた。


 ジョアンナが首の動きで頬の横を通す形で飛んできた煙草をかわし、同時に右手で顔へ突きを放つ。


 突発的な煙草、煙草の回避、右手の攻撃。


 僅かばかり意識が煙草に削がれたジョアンナの右手を、ラシェルが左手で払った。


 その左手と同時に、開いた右手の掌底を相手の顎を掴む様に突き出す。


 顎を掌底で打つと同時に、顎を掴む指先が鋭く眼にめり込んだ。


 掌底と眼に入り込んだ指先に呻いたジョアンナが、弾かれた様に大きく仰け反る。


 その一連の流れを見て成る程、と胸中で呟いた。


 確かに、ジョアンナは人を殴る事には慣れているのかも知れない。


 恐らくは相手が降伏するまで、殴り続けた事もあるだろう。


 だが。


 敵対する相手を打倒し降参させる事には慣れていても、相手を“仕留める”為に殴った事も戦った事は無い筈だ。


 素手で相手を再起不能にした事も、生涯二度と立ち上がれなくした事も。


 眼を抉った事も頚椎を捩り折った事も、喉を潰した事も。


 喧嘩自慢と捕食者の違いは、そこにある。


 大きく仰け反ったジョアンナに、ラシェルが一歩踏み込む。


 両手の左右で交互に打つ連打が胸骨を2発、顔に2発と流れる様に素早く繋がった。


 予め脳内で組んでいた動きなのか、胸骨への打撃で幾らか下がった頭が直ぐ様打ち上げられる。


 その瞬間に右腕を左手で掴み、打たれたジョアンナの意識がそちらに向いた瞬間に、脛にブーツの底で削り取る様な蹴りが入った。


 意識が下に向いた瞬間に右腕を上げさせ、脇の下に入る様にして右肘をジョアンナの肋骨に重く打ち込む。


 此方にも聞こえる、鈍い音。肉ではなく骨に響いた事が、聞くまでもなく伝わってきた。


 そのまま相手を背負う様に右腕を肩に掛け、ラシェルが息を吐くと同時に投げ下ろし、背中から冷えた地面に相手を叩き付ける。


 仰向けに倒された相手の胴に跨がり、ラシェルが相手の喉を掴んだ。


「殺すなよ」


 そう呟くと、此方に目線すら向けないまま言葉が返ってくる。


「“見せしめ”って言ったでしょ」


 そう言ったラシェルに、跨がられたままのジョアンナが赤黒い唾を吐いた。


「くたばれクソッタレのクソ売女!!!カラマック中の男のナニをお前とマリーに突っ込んでやる!!!」


 右腕は、肋骨を痛めたせいで上手く振り上げられないのだろう。


 それでも文字通り血を吐きながら渾身の罵倒を吐くジョアンナに、ラシェルが小さく笑う。


「上等じゃないの」


 そう言ったラシェルが掌で目を塞ぐ様に、相手の顔を掴んだ。


 片手で掴んだ顔面を軋ませつつ、ラシェルが空いた片手だけで紙巻き煙草を取り出し、同じく片手で取り出したライターで咥えた煙草に火を付ける。


 煙草を咥えたまま、ラシェルが紫煙を吹かした。


 あぁ、まずいぞ。


 視界が塞がれているジョアンナに対して、酷薄な笑みを浮かべたラシェルが煙草を片手で翳す。


 そして、掴んでいた手を離すと殆ど同時にラシェルが赤く灯っている紙巻き煙草の先を、ジョアンナの鼻孔に深く捩じ込んだ。


 殆ど叫び声を上げるジョアンナに、ラシェルが煙草の捩じ込まれた鼻を叩き潰す様にして殴り続ける。


 動く左腕で抵抗こそされたが跨がったまま両手でその左手を掴み取り、指を一息にへし折ると悲鳴と共に腕が下がりその後は殴られるがままとなった。


 少しの間殴り続け、ジョアンナの潰れた鼻骨にラシェルが、大きく振りかぶった拳底を全力で叩き付けた辺りで「おい」と声を掛ける。


 直ぐ様、ラシェルが不機嫌そうに振り返るも、それには取り合わずジョアンナを指差した。


 正確には、その下半身を。


 防寒着で分かりにくいものの確かにその下半身は、局部から色が変わっている。


 ラシェルが俺の指先に視線をやりジョアンナが失禁している事に気付くと、呆れた様な顔で呻き声を上げているジョアンナから離れた。


 一応、まだ失神はしていないらしい。した方が良かったかも知れないが。


 呻き声を上げ、怯えた眼で此方を見つめつつ弱々しく身を捩るジョアンナに、ラシェルが分かりやすく唾を吐き捨てる。


「小便漏らしたまんま部屋にでも帰るのね。それこそジェフリーにケツでも拭いてもらいなさい」


 そうして思い切り振りかぶったブーツの先をジョアンナの脇腹に蹴り込んでから、ラシェルが離れた。


 涙と鼻血だけでなく、とうとう嘔吐したジョアンナを尻目に、また新しくラシェルが紙巻き煙草を取り出す。


「小便女に時間取られちゃったわ、行きましょ」


 そう言いながらライターで紙巻き煙草に火を付け、歩き出すラシェルに苦笑しながらついていく。


 同じく歩きながら、ふとジョアンナの方を振り返った。


 気絶しているならまだしも、まだ意識があるなら取り敢えずは放置しても大丈夫だろう。


 立ち上がる事すら出来ていない所を見ると、“大丈夫”と言って良いのか分からないが。


 少し乱れた防寒着の襟を直して何事も無かった様に歩き続けるラシェルに、ふと言葉を溢した。


「ロニーを連れてくるんだったな」


「あのカプリットを?何でわざわざあんなの連れてくるのよ、ジョアンナにでも宛てがってやるとか?」


 ラシェルが煙草を咥えたまま、不思議そうな顔をする。


「さっきの光景を見せておきたかったんだよ」


 そう返すと、ラシェルが怪訝な顔をしながら紫煙を吐いた。






「ブスが漏らす所を?あんたも悪趣味ね」

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