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カザドグ憲兵のアルチェミーは、ユーリと知り合って2年程になる。
ユーリ・コラベリシコフと言う男がどんな男かも、どれだけ頼れる男かも分かっているつもりだった。
正直に言うと、少しライサを狙っていた節もあったのだが、まるで敵わなかった事も覚えている。
だからこそ、血と臓物が撒き散らされた死屍累々の中に、魂が抜けた様に佇むユーリを見た時は目を疑ったものだ。
放血した樽の血を頭から被ったかの様に、血塗れのまま机に腰掛けているユーリに隣の後輩が思わずライフルを向けるも、アルチェミーが手でそれを制して下げさせる。
ユーリの足元には、同じく血塗れの両手斧が転がっていた。
新入りな事もあって、怯えた様子の後輩を丁寧に落ち着かせながら自分もライフルを背負い、丁寧に呼び掛ける。
ユーリ?
反応は無い。
ユーリ、どうしたんだ?何があった?
後輩がアルチェミーの身を案じて呼び掛けるも、無視してアルチェミーが呼び掛け続ける。
こいつらはレガリスの連中だろ?お前がやったのか?ユーリ。
怪我だらけで、額からも血の跡を残したままユーリが顔を上げる。
後輩が身構えた。
子供の様な、小さな声でユーリが呟く。
ライサが死んだ。
アルチェミーの目が、見開かれた。
レガリスから特別認可を受けている奴隷貿易商人達が死屍累々となっており、その中に佇むユーリ。
何を言いたいのか、何が起きたのかアルチェミーは全てを察した。
辱しめられて、殺されたんだ。腹には、子供も居たのに。それでも、殺されたんだ。
そんなユーリの言葉に、嗚咽と共にアルチェミーが手で口元を覆う。
ユーリ、お前は…………
そんなアルチェミーの言葉を、ユーリが遮る様に呟く。
もう何も無い。何も無いんだ。
アルチェミーが辺りを振り返った。もうすぐ憲兵達の乗った鹿車が到着する。
レガリスの特別認可を受けている国際奴隷貿易商人、本人及び仲間にこんな事をすれば確実に只では済まない。
このまま北方国リドゴニアのカザドグから、中央国レガリスに引き渡されたら確実に死刑、一生監獄暮らしならまだマシなぐらいだ。
つまり、このまま此処に居れば。
アルチェミーが悪態を吐き、それでもユーリの肩を揺さぶった。
ユーリ、ユーリ。聞こえるか。
逃げるんだ。直ぐに憲兵達が集まってくる、このまま捕まれば確実に死刑になっちまうぞ。
そう言った瞬間に、後輩がライフルを構え直す。
こんなバケモノを見逃すんですか。これだけの血と臓物を撒き散らした怪物を、野放しにすると言うんですか。
そんな後輩の言葉にアルチェミーが、歯を剥いて怒鳴る。
黙ってろクソガキ、仕事云々じゃねぇ。給料の為に正義ごっこしてる場合じゃねぇんだよ。
普段仲間には滅多に怒鳴らず、穏やかな物腰で知られていたアルチェミーの、犬でも食い殺しそうな語気の怒鳴り声に、後輩は耳でも引っ張られた様な顔で一回りも二回りも小さくなってしまった。
アルチェミーがユーリに向き直る。
此処は俺が何とかする、行け。
しかしそんなアルチェミーの言葉に、ユーリは力無く首を振った。
ダメだ。そうなれば、取り逃がしたお前は確実に処罰を受ける事になる。
アルチェミーがユーリの肩を叩いた。
処罰なんぞ知るか、この仕事をクビになろうが構うもんか。お前がレガリスで処刑される事に比べたら、俺のクビなんて大した事じゃない。
また安い仕事でも探すさ。
そんなアルチェミーの言葉に、ユーリは再び首を振る。
お前の妹はそうも行かない。せっかくカザドグの憲兵になれたんだ、お前達はたった二人だけの家族だろ?
幾ら立派に見えても、まだまだ妹にはお前が必要な筈だ。
お前とお前の妹を犠牲にしてまで、俺には生きる意味が無い。
何もかも諦めた様に淡々と、だがそれでもアルチェミーを気遣う様な声色でユーリが続ける。
家族を、大事にしろ。
2年前に流行り病で最後の家族を失い、そして今、新しく出来た家族と出来る筈だった家族を失ったばかりの男が、そう言った。
空虚な眼をしたまま、それでも。
それでもお前には家族が居るだろうと。
悲痛な献身にさえ思えるその発言に、アルチェミーは謝罪とも叱咤とも言えない慟哭を、噛み潰した。
どうして。どうしてお前ばかりこんな。
色んな物を失ってきて、更に今失ったお前が、どうしてこんな。
アルチェミーを慰める様に、血塗れの顔でユーリが微笑む。
大丈夫だ。俺には、もう何も無いから。
そう言い切った瞬間に、部屋の扉が蹴破られた。
ディロジウム銃砲のライフルやピストルを握り締めた、険しい表情のカザドグ憲兵達が雪崩れ込んでくる。
「全員動くな!!!!」
噂は、瞬く間に広まった。
あのライサが帝国に売られる奴隷として、レガリスの連中に捕えられた事。
奴隷として“遊ばれている”内に、屈辱の中で息絶えてしまった事。
そのライサと結ばれる筈だったユーリが、特別認可を受けたレガリスの奴隷商を文字通り引き裂いて皆殺しにした事。
そのユーリはカザドグの憲兵に捕えられ、近日中にレガリスへと連行される事。
まず間違いなく、ユーリはレガリスで死刑になる事。
カザドグの街の人々は2人を失った事に深く悲しんだが、それで何か変わる訳でも無かった。
それが、世の常だった。
あの時アルチェミーの予想した通り、ユーリはカザドグの刑務所に収監される事は無く、数日もすればレガリスに連行され裁きを受ける事になる。
それでも、ユーリに後悔は無かった。
葬儀も出来ず、ライサを悼んでやれなかった事を除いては。
カザドグの憲兵達はアルチェミーを除き、ユーリが犯した罪状を聞いていたのかクロヒレザメでも触るかの様に怯えていたが、老いたヤギの様に従順なユーリの様子を見て、次第に怪訝な顔をする様になっていた。
筋骨隆々かつ、7フィートの巨漢である事を除けば、まるで手に余る事が無いからだ。
憲兵の指示には大人しく従い、言い渡された規則を守り、言い逃れをする様子も逃げ出しそうな様子も無い。
同時期に捕えられていた、小さな窃盗で捕まったキセリア人の男の方が、余程反抗的だった程だ。
そんなユーリの様子に現場を見ていない憲兵の数人が、彼の罪状は何かの間違いでは無いかと訊ねて叱られていた。
現場の惨状を聞かされたのか、少しすると心底怯えた目でユーリを見ていたが。
後日、レガリスから高圧的な帝国憲兵がカザドグを訪れたが、ユーリに簡素な手枷しか付いていない事を知ると厳しく叱咤した。
帝国憲兵はカザドグの憲兵隊長を出身と階級を含めて罵倒した後、ユーリに厳重な枷を付ける様に命じていく。
十数分後、鋼鉄の頑強な手枷と足枷、加えて数本の太い鎖で拘束されたユーリはヤギの様に鹿車へ押し込まれ、カザドグ及びリドゴニアを発つ事となった。
カザドグの憲兵達を、帝国憲兵達が心底軽蔑した眼で一瞥してから、ついでに唾を吐いてから鹿車に乗り込んでいく。
レガリスへ連行される太い鉄格子付きの鹿車の中で、時折揺れながらユーリは物思いに耽っていた。
自分の事。
この先自分は一体どうなるのか。間違いなく、死ぬだろう。処刑には詳しく無いが、蒸し焼きにする処刑方法がレガリスにあると言うのは本当だろうか?
アルチェミーの事。
彼は処罰を受けなかっただろうか。彼の妹は、立派に見えるが芯が細い所がある。あの2人に、今回の件で何事も無いと良いのだが。
ライサの事。
復讐によって、何が変わった訳でも無い。これからもあんなクズは大手を振ってレガリスやリドゴニア、それこそカザドグを歩くだろう。
今回の自分の事件は伝染病を纏った狂犬かヤギクイワシにでも襲われた様な、“事故”と語り継がれるだろう。
きっと指を火傷したパン屋の様に、明日も明後日も、来月も来年も“パンを焼く”だろう。二度と、火傷しない様に注意を払いながら。
もはや未来は無く、ライサも居ない。これからも、これまでと何も変わらない。
それでも構わない。もう、自分には何も無いのだから。
そんな時に、大きく鹿車が揺れた。
鹿車の道が悪い程度では、何もユーリは動じなかった。同じく、彼の琴線に触れる様な事も無かった。
もう騒ぐ程の事は何も無い。
だが、鉄格子の向こうでアメジカが見当違いの方向に走っているのを見た時、ユーリが鹿車に乗って以来初めて顔を上げた。
ユーリが眉を潜める。
この護送用の鉄格子付き鹿車は、重量物を運搬する事も想定して4頭のアメジカで牽引されている筈だ。
それに加えて、アメジカに直接騎乗している憲兵が護衛の為に2人付いてきて居たのを、ユーリは鹿車へ乗り込む際に見ていた。
そこまで考えた辺りで、誰も乗って居ないアメジカが走っている事が、本来有り得ない事にユーリが気付いた瞬間、車体が大きく揺れる。
何か大きな物を轢いた感覚と共に、再び大きく車体が揺れた。
鉄格子の向こうに、遠ざかっていく人間が見える。地面に横たわった、意識が無いであろう人間が。
この護送用の鹿車が襲撃されている、という発想にユーリが至った辺りで鹿車が大きく速度を落とし始めた。
乗り込んで以来、座りきりだった護送鹿車の中で初めてユーリが腰を上げ、前を覗くと黒い革の背中が見える。
明らかに帝国軍の制服とは違う生地。その背中が、アメジカの手綱を握っていた。
速度を落としていた鹿車が、ゆっくりと停車する。
解錠の音。
ユーリが入っていた鹿車の鉄格子付きの客席、牢屋の様な座席の扉がゆっくりと開いた。
黒い、鳥類を模した不気味なマスク。
これまでの経験上、度胸はある方だと自負していたユーリだったが、それでも息を呑んだ。
バラクシア都市連邦の“首都”、あの中央国レガリスに真っ向から対抗する抵抗軍、そして革命軍。
“黒羽の団”の工作員及び戦闘員、レイヴンがそこに居た。
話に聞いた事はあったが、まさか実際に見る事になろうとは。
ユーリがそんな事を考えていると、2人のレイヴンが不気味なレイヴンマスクの下から語りかけてくる。
お前を、我が黒羽の団に招待したい。奴隷制度を含めた現政権を打倒する為、共に戦ってくれ。
お前の様な、権力を恐れず分別を弁えた上で、間違っている事に立ち向かえる者が必要だ。
そう言ってレイヴンが手を差し出す。
癖があるものの、達者なニヴェリム語だった。
そんなレイヴンの言葉に、ユーリが自身の手を見つめる。
まだあの時の血が、掌に染み込んでいる様な気がしていた。
差し出された手を取らず、言葉にも答えずに自身の掌を見つめているユーリに、レイヴン2人は顔を見合わせた後に静かに呟く。
勿論強制はしないが、このままレガリスへ連行されたとして、余り良い結果にならないと思うぞ。
そんな言葉の中で、リドゴニアやリドゴニアに住む人々の、何もかもを見下したリプスコムの姿勢がユーリの頭を掠めた。
黒羽の団に、ザルファ教を信仰している者は居るか。
自身の掌を見つめたまま、ユーリが唐突に呟く。
そんなユーリの言葉に些か驚いたものの、レイヴンの1人が答えた。
俺もザルファ教徒だ。団員の半数近くはザルファ教徒だぞ、主神三柱の彫像もある。もう半数は、テネジア教徒かな。
ユーリが顔を上げた。
黒いレイヴンマスクに真っ直ぐ眼を向ける。
ライサの笑顔が、ユーリの脳裏を過った。
「サメ肉の料理を食べた事あるか?」
唐突な質問にレイヴンの1人は幾らか首を捻ったが、淡々と答えた。
「あぁ、好物だが」
サメ肉や魚卵を使ったユーリの手料理に、喜んでいるライサの姿が再び脳裏を過る。
「他の仲間も食べるのか?」
「サメの魚卵もそうだが、余ったら取り合いになるぐらいには。それがどうかしたか?」
何故そんな事を、と言わんばかりの声音でレイヴンが呟いた。
もう一度、ユーリが自身の掌を見つめる。
ライサが居たら、今の自分に何と言うだろうか。このままレガリスで死ぬだけだった筈の自分が、レイヴンに勧誘されているなんて。
こんな自分にも人が救えるのだろうか。最愛の君すら救えなかった、こんな自分に。
ライサの声を、笑顔を思い出す。
再び、顔を上げた。
そうだよな。君ならきっと、そう言ってくれる筈だ。
ユーリが、差し出されたレイヴンの手を取る。
ライサの声が、脳裏を過った。
やってみましょうよ、と。




