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1827年。
ユーリとライサが出会って2年が経ち、2人が交際し始めてから1年が経った頃。
あれだけ渋っていた紅茶もライサに言われるがまま散々練習を重ね、今ではさぁ紅茶でも飲むか、と意気揚々とカップやポットを用意するまでに上達し、慣れ親しんでいた。
無愛想なのは2年前から変わらないが、ユーリの顔にあの時の様な空虚な影は無い。
父の葬儀の後、冷えきった様子から知人でさえ話し掛けなかった2年前と違い、今やユーリ・コラベリシコフは地元の人々から愛される人気者だ。
失礼を恐れない言い方をするならば、むしろ葬儀の前より人気になったと言っても良かった。
ライサのお陰でザルファ教を学び、信仰し、今まで興味の無かった本を読み料理を学び、彼女に引っ張り出される形ではあるが挨拶混じりに街を歩く。
不慣れながらもそんな生活を続けている内に、本人も信じられない事であるが、次第にユーリは幸せな自分自身を誇りに思える様になっていった。
朝方、陽射しを見上げながら爽やかな気持ちで仕事に向かうなど、以前ではどう転んでも考えられない事だ。
あれから数えきれない程本を読み、ザルファ教に深く精通し、リドゴニアのニヴェリム語だけでなくユーリは中央国レガリスの言語、マグダラ語も話す様になった。
元々多国語の才能が少なからずあったらしい。
すると、今度は少数ながらレガリス相手や、レガリスの関係者とも仕事が出来る様になった。
今では、通訳に呼ばれる程だ。
友人も以前とは見違える程に増えた。何人かはライサ目当ての者も居たが、ユーリとライサの様子を見ると諦めが付いたらしく、妙な真似はしなくなった。
相変わらずユーリは家族から受け継いだ家を手放さず、見た目は相変わらず無愛想だった為に誤解されやすい。
だがユーリ本人の資質も幸いしてか、ライサを通じて知り合った連中の悩みや頼みを聞いている内に、街の連中にも随分と味方が増えた。
仮にユーリやライサに何か困った事が起きたとしても、街の連中に相談して暫くすれば、何かしら解決策が出てくる。
無論全てに答えが出る訳では無いが、誰かしら顔が利く者や知恵が回る者が居る為、自分一人で思い付かなかった解決策が仲間内から出てくるのだ。
言うに漏れずユーリも、仲間の問題を解決した事があるし、場合によっては奔走した事もある。
近年、ペラセロトツカとレガリスの戦争が囁かれ、その影響かリドゴニア東部のこの地方都市カザドグにも一目で分かる余所者が彷徨く様になっていた。
その手の連中か、その連中の関係者だと思われる者がカザドグで問題を起こした事もあったが、街の仲間達と何とかしてきたものだ。
よく意外に思われるが、ユーリは外見とは裏腹に好戦的な性格では無い。
問題が起きようとも衝突せずに収める選択肢があれば、出来る限り争わぬ選択肢を取る様にしていた。
無論、それでも向こうが衝突を望むならその限りでは無いし、衝突を望んだ相手に心から後悔させた事も一度や二度では無いのだが。
それでも周りに衝突を避ける様に、だが一線は譲らない様に、そして避けられず戦う必要があるなら立ち上がる様に呼び掛けてきた。
今では仲間内で問題が起きた際、そして意見が別れた際にはリーダーとして、ユーリやライサに意見を求められる事も少なくない。
寡黙だが頼れるユーリ、そしてその隣に付き添う明るいライサは、街中に良く知られた2人となっていた。
目の不自由で身体の弱いライサと、世界の全てを諦めていたユーリ。
この2人がここまで街に愛される様になるなど、誰が想像出来ただろうか。
そんなユーリは、仕事終わりにサモワールと呼ばれる湯沸し器を片手に帰路に付いていた。
仕事で帰りが遅くなったにも関わらず、その足取りは軽い。
理由は幾つかあった。
先月、遂にユーリからライサにプロポーズし、それが涙ながらに受け入れられた事。
それを知った街の皆から祝福された事。
天涯孤独のユーリとライサに、様々な催し物を街の仲間達が計画してくれている事。
帰りが遅くなるかも知れない、とは言っていたがライサは気にしないわ、と笑顔で言ってくれた事。
そして何より、今日はライサから“サプライズがあるの”と笑顔で言われていた事。
元々ユーリも、ライサが欲しがっていたサモワールをサプライズとして渡すつもりで居た。
サモワールと灯りを手に、意気揚々と自宅に向かっていたユーリが自宅を前にしてふと足を止めた。
何かがおかしい。何か違和感がある。
玄関、見慣れない足跡と嗅ぎ慣れない匂い。
怪訝な顔をしたユーリが息を潜め、7フィートあるとは思えない程に気配を殺し玄関に近付く。
強盗か空き巣の類いか。だが、今更この辺りの連中がユーリの家にそんな事をするだろうか?
やるとしたら、この辺りの事情に詳しくない、余所者。
そこまで頭が回った瞬間、ユーリは自分の顔から血の気が引くのをはっきりと感じた。
レガリスの連中。人を人とも思わない、ラグラス人を喋るヤギの様に本気で思っている様な、身の毛もよだつ恐ろしい連中。
そして今は、“サプライズ”の為に、中にライサが居る筈だ。
殆んど蹴破る様に、と言うより実際に蹴破って玄関から室内へと飛び込む。
素早く部屋の中に飛び込んで、敵を叩き潰してやろうとした所でユーリは足を止めた。
状況も忘れて、膝を付く。
理屈や根拠がどれだけあっても、そのまま動けなかった。
動かなかった、と言い換えても良い。
両膝を突いたユーリの足元に、折れたライサの杖が転がっていた。
翌日。街の仲間達から、ライサを拐ったであろう連中の話を改めて聞いたユーリは、背骨まで冷えきった様な気がした。
ユーリの家に乗り込んだであろう連中は、レガリスから来た奴隷商の連中であろうと言う事。
バラクシアの“首都”たるレガリスから特別認可を受けている、国際貿易奴隷商人である事。
それは治安維持の為に武装や攻撃が許される憲兵と同等の権限を持ち、特定の諸外国においてラグラス人を一切の合意無しに拉致する事や、それを妨害する者に暴行や殺傷、発砲まで認められていると言う事。
また中央国レガリスは、ペラセロトツカやリドゴニアで行われているその行為を全面的に黙認していると言う事。
奴等は、そうした手段で一方的に奴隷を“入荷”している事。
もし自分達ラグラス人が歯向かった所で、あいつらは平気でピストルなりライフルなりを発砲するだろう、という事。
連中はそれを何とも思っておらず、咎められる事もまず無い事。
逆に自分達がレガリスの貿易商に暴行、もしくは殺傷した罪で憲兵達に捕らえられかねない、という事。
もしレガリスに罪人として連行されでもしたら、まず間違いなく重刑か死刑になる事。
そしてライサがどうなったかは、言うまでも無い事。
仲間が落ち着けようとするのも構わず、ユーリは殆んど恐喝せんばかりの勢いで、そのレガリスの連中が何処に居るのかを聞いた。
奴隷を一定数仕入れたレガリスの奴等は、数日もすればカザドグから離れ空中都市に向かう。
それも、金の掛かった飛行船で、ウィスキーの瓶とグラスを持って。
そこまで聞いたユーリが、静かに口を開いた。
奴隷と言うのは、幾らするんだ?
そんなユーリの発言に戸惑いながらも仲間が奴隷の一般的な値段を答えると、ユーリは静かに自宅に帰っていった。
その日の夜。
カザドグ中心部の酒場にて、レガリスから来た奴隷貿易の者達はいつになく緊張した面持ちで立っていた。
椅子に座っている者も僅かにいたが、殆んどが言われるまでもなく無意識に椅子から立ち上がり、レバーピストルを握り締めている。
酒場を訪れた7フィートのユーリは只でさえ巨漢な上、厚い防寒着のお陰でその身体は益々膨れ上がって見えた。
レガリスの商人達がユーリに向けている目線は、猛獣相手に槍を構える狩人のそれである。
商人達は、見えるだけでも6人程。
それに対して、ユーリは傍に裾を握り締めたラグラスが1人。合計2人。
人数、武装で言えば圧倒的に有利な筈の商人達だったが、息を呑んでいる者が殆どだった。
ユーリが牙を剥かんばかりの顔で、それでも何とか声音を落ち着かせながら呟く。
奴隷を買いたい。目の不自由なラグラス人の女性だ。
訛りの酷いマグダラ語だったが、笑う者は居なかった。
恐らくは頭目と思われる、ずんぐりとしたキセリア人が細巻きの葉巻を片手に答える。
前払いだ。
マグダラ語のそんな答えと共にずんぐりとしたキセリア人、クエンティン・リプスコムが金額を提示すると、ユーリの隣に居たラグラス人が眼を剥く。
女奴隷1人の値段にしては、市場価格の数倍近い額だったからだ。
抗議しようとした隣のラグラス人をユーリが手で制し、値段はそれで正当か確かめた。
相手が正当だと答えると、もう一度確かめてからユーリが荷物を開けた。
荷物の中に詰まっている、見て分かる大量の金貨やインゴッドに部下から驚きの声が漏れる。
ユーリ・コラベリシコフが所持する全財産か、それに準ずる資産であった。
それを知っている隣のラグラス人が、心配そうに隣のユーリを見上げる。
そして、その価格分を机に突きつけて今すぐライサを連れてこい、とユーリが言った。
明日の昼に、ここに連れてこよう。明日の昼まで生きていればな。そうリプスコムが返す。
ユーリの肩が膨れ上がった。
そうしてユーリが一歩前に出た途端、商人達が一斉にピストルやライフルを向ける。
それさえ待てないのなら、奴はレガリスの農場に売り飛ばす。男女の区別無く、倒れても蹴り起こされて働かされる様な使い捨ての奴隷農場にな。
リプスコムのそんな言葉に、火球の様な息を吐きながらユーリが一歩下がった。
明日の昼にまた来る。
そう、言い残したユーリにリプスコムが手を振りながら言った。
他にも欲しがったら言えよ。1人だけじゃ退屈するだろうからな。
昼前、ユーリ・コラベリシコフは呆然としていた。
商人達から向けられていた幾つものライフルの銃口が、下がっていく。
あれだけ猛獣の様だったユーリが今ではまるで、萎れた紙細工の様な空気を纏っていたからだ。
ライサが死んだ。それも、昨晩。
リプスコムが平然と説明する。
「昨日、部下が遊び過ぎたみたいでな。どうやら途中で窒息死したらしい。吐瀉物が詰まったんだとは思うが、現場に居なかったんだ」
顎の辺りを掻きながら、椅子に腰掛けたまま近所のヤギの事でも説明してるかの様に、リプスコムが続ける。
身体が弱いのは知ってたが、あんなに弱かったなんてな。
平然としているリプスコムに吐き気を堪える様な顔で、ユーリが訊ねる。
葬儀を、させてくれ。
掠れた声でそう聞くユーリにリプスコムが、怪訝な顔をする。
そして辺りの商人と顔を見合わせた後、吐き捨てる様に言った。
「何が葬儀だ、亜人だぞ?とっくに焼却廃棄したに決まってるだろうが。丁度、焼却炉を稼働させる日だったしな」
ユーリの隣に居た男が、激昂するも素早く銃口を向けられ歯を食い縛りながら一歩下がる。
お前、ユーリか?
そんなリプスコムの言葉に、呆然としていたユーリが目を向ける。
それがどうかしたか。
絞り出す様な声でユーリが呟くと、何でもない様な雰囲気でリプスコムが返す。
お前、あの女が妊娠している事を知ってたのか?
隣のラグラス人が青ざめた顔で口を開けた。
ユーリが、愕然とした顔で返す。
何だって?
帳簿でも捲る様な表情で、リプスコムが淡々と言葉を綴る。
途中、あの女が遊んでる途中で吐いたらしくてな。妊娠しているだの、ユーリがどうのと言っていたんだ。
戯言かと思ったが、今考えれば納得が行く。お前の仕業だったのか。
そう語るリプスコムの表情には、まるで影が無い。とても、妊婦の死に関わっているとは思えない気軽さだった。
妊婦なら先に言えよ。2人分の値段を誤魔化しやがって。
そんな言葉を聞きながら、ユーリが拳を握り締める。
そうだ。
拐われたあの日、ライサはサプライズがあると言っていた。
先月、プロポーズを受け入れてくれたライサが。
そのサプライズが何だったか、今なら分かる。
あのライサの表情、姿勢、体制。腹を撫でる動き。
何故、分からなかったのか。
まぁ2人分の値段を1人で済ませようとしていた事は、この際見逃してやる。
身体の弱い女を押し付けて、俺達に焼却炉まで使わせた事もな。
さっさと失せろ、女が欲しいなら他で買え。
1人分を損しちまった、全く。
またもや激昂しそうな隣のラグラス人、その肩に手を添えゆっくりとユーリが首を振った。
そして、隣からの制止も聞かずにユーリは酒場を出ていく。
レガリスの商人達の、調子づいた罵倒の声を背中に浴びながら。
夕方。
ユーリは自宅にて、部屋を片付けていた。
ライサが居た部屋を片付ける時は心が砕けそうになったが、それでも丁寧に纏める。
どんなに下らない物でも、破棄は出来なかった。
そうして家中を掃除した後に、洗面台の前に立つ。
ランプの灯りを頼りに丁寧に髭を剃り、顔を洗ってから注意深く頭髪を剃り始めた。
側頭部だけを刈り込んでから剃り込み、頭頂部から後頭部に掛けての頭髪を太い尾の様に編み上げる。
祖父がザルファ教の古代の戦士が、戦争や抗争の際に選んでいた髪型として、まるで祖父自身が戦うかの様に爛々とした眼で語っていた髪型だ。
あの時は酒の肴にすらならないと思って聞いていたが、今のユーリは迷う事なくこの髪型を選んだ。
もう一度顔を洗い、丁寧に拭く。
片付いた家の中で唯一灯っていた、洗面台の灯りを消した。
まるで職場にでも向かう様な、何気無い動きでユーリが家を出る。
そして、両手斧を手に取った。
夜。
ユーリはこれまで腐る程争いを経験してきた。
武器を使った事もあった。
だが明確な殺意を持って戦った事も、気の抜けた相手に真後ろから斧を全力で振り下ろした事も無かった。
闇夜から忍び寄り、欠伸でもするのでは無いかと思う程に退屈そうな相手に対して、真後ろから後頭部へと斧を叩き付ける。
固い果実を割る様な音と共に、深々と斧が後頭部に食い込み、退屈そうにしていた男は少し気だるい声と共に人形の様に倒れた。
抵抗も何も無い。ただ、後ろから殴られてそのまま死んだだけだ。
それだけだった。
人としての一線を超えてしまった事、最早戻れない道を歩みだした事、自身がとうとう悪辣に堕ちた事を実感した。
だがユーリの身に訪れたのは自責の念でも罪悪感でも、黒い悦楽でも吐き気でもなく、無意識な涙だった。
何の涙なのか、流しているユーリ本人にさえ分からない。
だが、ユーリは無根拠のまま思った。これは、ライサの涙だ。
無念と恥辱の末に事切れた、ライサの涙だ。
自分にはもう、何も残っていない。悪辣に堕ちる程の物も、穢れて苦しむ程の物も無い。
もう家族も失ってしまった。新しく出来た家族も、出来る筈だった家族も。
最早足掻いてまで生きる意味も無い。
涙を拭う。
ただ、自分以上に穢され、奪われたライサの為に。
恥辱の末に堕とされた、ライサの魂の安寧の為に。
果実が割れただけにしか思えない目の前の遺体を大足で跨ぎ、両手斧を握り締めた。
リプスコムは仕事の性質上、自身の危険を感じた事など幾らでもあった。
当然ながら、亜人に殺意を向けられた事も少なくない。
後もう少しで顔面や胸に斧や槍が食い込む所だった事もあるし、装填された銃口を向けられた経験もある。
自分のすぐ横の壁が散弾に破られた事もあった。
だからこそ、連れていく連中は“迷ったら殴る” “迷ったら刺す” “迷ったら撃つ”な連中を選んでいる。
亜人が抵抗すれば容赦なく骨の一本でもへし折る様な奴を連れているし、そう言った連中は実際頼りになった。
この仕事をしていて、命を危機を感じた時。
それは“そういった連中”が自分の元に辿り着いて敵を蹴散らしてくれるまで、自分1人であの穢らわしい獣の様な連中と戦わなければならない。
そう言った類いの、命の危険だった。“仲間が来てくれるまで生きていられるか”そう言った類いの危機だった。
リプスコムが震える手でレバーピストルの装填を確かめ、張り付きそうな喉で改めて息を吸う。
だからこそ、今回の様な危険は初めてだった。
数十分前、最初に仲間が殺されたと聞いた時の、確信に近い感覚をリプスコムは覚えている。
昼間の、あの亜人だ。
あのまま再起不能になったものだと思っていたが、よりによって復讐に走ったか。
愚かな奴め。
咄嗟にそう思ったのを覚えている。
だが、いつも頼りにしていた“迷ったら撃つ”仲間が、首を引き千切られて見つかったと聞いた時は、はっきりとリプスコム自身の血の気が引いていくのが分かった。
その後、報告に上がる仲間の死体は頭が割られているだの手足が切り落とされているだの、ハネワシかクロヒレザメに襲われた様な死体ばかり。
その瞬間、漸くリプスコムは理解した。
亜人を“噛み付くヤギ”程度に考えていた自分が、今どれほど恐ろしい物に狙われているのかを。
この二階建ての宿舎や、宿舎周りには我々しか居ない。
多少騒ぎが起きようが、奴隷と“遊んで”悲鳴が聞こえようが騒ぎにならない様、自分達が人里離れた場所に宿舎を手配したのだ。
まさか、まさか。
自分達が“悲鳴を上げる側”になるとは夢にも思わなかった。
先程まで銃声も悲鳴も聞こえていたが、もう聞こえない。
最後に4人程の仲間に様子を見る様に命じたが、誰1人として帰ってこない。
もう、生きているのは自分しか居ない。そんな考えが何度も頭を過り、リプスコムの呼吸が詰まった様に滞る。
リプスコムの手元には散弾を装填したレバーピストルが2丁、引き金を引けば直ぐ様ディロジウム炸薬の力で散弾が飛び出す様になっていた。
何かが倒れる音。
悲鳴じみた声と共に、リプスコムがレバーピストルを扉に向ける。
扉の向こうで軋む音がした。
返事は無い。
戻ってきた仲間かも知れない。
呻き声の様な音が聞こえる。
リプスコムは考えた。仲間なら返事がある筈だ。
「撃たないでくださいよ」と言いながら入ってくる筈だ。
そんな事を言えない奴なら、仲間だろうと撃ってしまえば良い。
これだけ死んでいるなら幾らでも言い訳は出来る。
ドアノブが回り、勢いよく扉が蹴り開けられた。
部屋のランプに照らし出されたのは、血塗れの男。
リプスコムは迷わず発砲した。
ピストルの小口径なれど、ディロジウム炸薬に吐き出された散弾が掬い取る様に、男の胸を抉る。
散弾を受け止め、胸でも蹴られたかの様に男が仰け反った。
だが、ランプに照らされた不気味な男が再び向き直る。
もう一丁を手に取る前に、リプスコムは気付いた。
男が歩いていない事に。顎を砕かれ血塗れの顎が下に垂れ下がっている事に。
その男が瀕死の仲間である事に。
その後ろで、巨漢が背中を押している事に。
リプスコムがレバーピストルを無駄に発砲させられた事に気付くのと、その瀕死の仲間が空樽か何かの様に飛んでくるのは、同時だった。
悲鳴と共にリプスコムの身体が仲間の身体にのし掛かられ、被さった身体で身動きが取れなくなる。
その後ろから猛然と迫ってくる、7フィートの巨漢に対抗するべく必死に床へ転がったピストルを手に取った。
その手が、骨ごと踏み潰される。
小骨を踏み砕かれながら踏みにじられた後、絶叫しながらリプスコムが何とか仲間の死体をはね除けるも、巨大な万力の様な手がリプスコムの肩を掴んでは引き起こした。
思わず息を呑む。
目の前に、血塗れのユーリ・コラベリシコフが居た。
思わず無事な腕で殴り付けるも掴み取られ、腹を殴られ、空気が絞り出された所でユーリが枯れ枝でも折る様に無事な腕を肘からへし折る。
リプスコムの絶叫が、喉を掴まれて塞き止められた。
踏み潰された手と肘からへし折られた腕。両腕を失ったリプスコムの首を、血塗れのユーリが掴んでいる。
良く見れば、ユーリも様々な箇所を負傷しているらしく服や腕の至る所に赤い血が滲んでいた。
額からも血が滲んだまま、ユーリが吠える。
何故こんな事が出来る。何故、こんなにも人を踏みにじる事が出来る。
我々は人から生まれた人だ。奴隷になるべくして生まれる者も、見下げられるべくして生まれる者も居ない。
言葉を話す事も出来るし本を読む事も出来る、人を愛する事も愛される事も出来る、お前らと同じ様にな。
なのに何故貴様はそこまで人を踏み潰す事が出来る。
お前に何をした。我々が何をしたと言うんだ。
其処らの中型鳥類にも負けない程の、張り裂けんばかりの咆哮だった。
涙さえ溢れさせながら咆哮するユーリの言葉に、激痛と恐怖で同じく涙を溢れさせたリプスコムが、生命と意地の全てを振り絞って叫ぶ。
テネジアも信仰していない上に、サメ肉やらサメの魚卵やらを金払って食べてる様な亜人野郎が、人間様を語るな。
便所からはみ出した神様を信じて、俺達以下の国と文化で生きてるお前らは、俺達を支えるべく生まれて来たんだ。
現にお前の女も、便所らしく俺から小便を恵んで貰って使命を全うしただろうが。
あの女は幸せだったんだよ。俺の暇潰しになれたんだからな。
お前より、よっぽど満足出来ただろうよ。
喉から血を吐かんばかりのユーリの咆哮は、人のそれではなかった。
リプスコムの首を締める訳でもなく手を離し、頭を掴んだユーリの両手、両親指が、根本まで深々とリプスコムの眼窩に抉り込んだ。
断末魔たる絶叫の最中、ユーリが咆哮と共に全力で眼窩から頭蓋骨を引き裂き、歪める形で砕く。
咆哮が、止んだ。




