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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 1825年、リドゴニア東部。


 浮遊大陸の地方都市、カザドグ。






 迷いの無い、手慣れた動きで薪を割る男が居た。


 必要数以上の薪を割っている事は分かっていたが、それでも男は止めない。


 止める理由が無い、と言い換えても良かった。


 ユーリ・コラベリシコフがいつもの様に、家から持ち出した両手斧で薪割りを始めてから随分と経つ。


 口数が少なく、お世辞にも社交的とは言えないユーリだったが、それでも普段なら通りすがった知人や家族が1日に数度は話し掛けてくれる事はあった。


 だが、薄着に汗を滲ませつつ取り憑かれた様に薪を割り続けるユーリに、今は誰一人として話し掛けない。


 レガリスと違い、ラグラス人が国民の半分以上を占めるリドゴニアでは人種を理由に話し掛けられない、無視される、と言う事は殆ど無かった。


 地方都市と言っても1日通してユーリの元に誰も通り掛からない程、寂れている訳でも無い。


 むしろ、数えるだけでもユーリの知っている顔が何人も通り過がっていた。


 だがユーリは今日1日、一度も口を開いていない。それどころか、通り過がった者の顔すらまともに見ていない。


 ただただ、昼前に思い立った様に斧を掴み、丸太を持ってきては熱に浮かされた様に薪を割り続けていた。


 父親の葬式が終わって、もう一月が経つ。


 流行り病で家族を次々に失くしていたユーリは、最後の最後まで父親の事を信じていた。


 どれだけ流行り病に家族が倒れようとも父親だけは、最後まで病魔に負けないと。流行り病など、何れ笑い話にしてくれると。


 しかし病床に伏した父親が残した最後の言葉は、独りにしてしまうユーリへの「すまない」という謝罪の言葉だった。


 そんなつもりが無い事は分かっている。


 それでも、あれだけ勝ち気で頼れる父親が病床に伏し、謝罪の言葉を最後に事切れた事実はユーリに残っていた最後の欠片を、粉々に砕いてしまった。


 幾つもの部屋が空き部屋となったが、家は残っている。


 仕事も父親から受け継いだ港の仕事や、薪や炭を業者に納品する仕事がある。狩猟だって出来るし、木材を扱う仕事も出来る。


 だが自分にはもう、何も残っていない。


 言葉にすれば些かありきたりに聞こえるが、ユーリは心からそう思っていた。


 家族はもう居ない。自身も流行り病に罹っているかも知れない。


 友人も少ないながら幾らか居たが、父親の死別から立ち直れず人形の様に薪を割るユーリを見て、“彼はもう壊れてしまった”と見限り離れていく。


 ユーリ自身も、何処かで分かっていた。


 このまま何にも関心を持たず、何もかもに冷め、独りで生きていれば何れ自分は錆び付き、生きる事さえ止めてしまうと。


 だが、もうユーリはそれに抗うつもりもなかった。


 錆び付いて擦りきれていくなら、それで良い。どのみち、自分が消えて悲しむ者も居ない。


 そう、思っていた。


 熱に浮かされた様に斧を散々振るい、必要以上の薪を割り終えたユーリが薪割り台に座り込む。


 ユーリの体躯からすれば言うまでもなく低すぎたが、別にユーリは気にしなかった。


 今更気にする事の方が少ない、とも言えたが。


 今日はまだまだ長い。


 だが、もうユーリにはやる事が思い付かなかった。


 まだ陽は高い。だが、薪割り台に落ち着けた腰をまるで上げる気にならない。


 一人で、紅茶を淹れる様な優雅な趣味も無かったし、祈る様な習慣も無い。


 バラクシア全土で広く信仰されている聖母テネジアなんてものに興味は無かったし、リドゴニアやペラセロトツカで信仰されている神様だらけのザルファ教にも興味は無かった。


 祖父や母は敬虔な信者だったが、結局は流行り病で死んでいる。


 それもあって、ユーリは父親と同じく無宗教だった。


 神様など何の助けにもならない事は生憎、家族が身を持って証明している。


 ユーリは周囲に居たザルファ教徒やテネジア教徒の連中と違い、天罰に怯えたりはしなかった。


 自分が悪辣に堕ちようと、最早誰も悲しむ者は居ない。


 唯一悲しむであろう父親も遂に先月去ってしまった。


 薪割り台に腰掛けたまま、ユーリが片手で顔を覆う。


 あれ以来、自分の中に良くない物と良くない考えが湧き出している。その事に、ユーリは気付いていた。


 ユーリは今まで金貨をくすねた事は無く、幼い頃を除けば保身の嘘を吐いた事も殆ど無い。


 この時勢故、荒事こそ腐る程に経験したが幾ら殺意を向けられようとユーリは自分から相手に殺意を向けた事は、今まで一度も無かった。


 だが何もかも失った今、敵から殺意を向けられたなら、きっとユーリは薪割りに使っている両手斧を迷わず手に取るだろう。


 そして、薪以外の物を躊躇無く叩き割るであろう事を、ユーリは自覚していた。


 何もかも失った人間は、周りが思っている以上に容易に道を誤るものだ。


 まさか、自分がその立場になるとは夢にも思わなかったが。


 胸中でそんな自嘲めいた言葉を溢していると、不意にユーリの思考へ咳の音が割り込んだ。


 杖を突いたラグラス人の女性が道端、ユーリに背を向ける形で足を止め苦しそうに咳をしている。


 ユーリが何気無く顔を上げた。


 随分と辛そうな咳だ。


 何の雑念もなく、ユーリがそんな感想を抱いていると女性は咳が収まらず、杖片手にとうとう膝を突いてしまった。


 考えるより先にユーリは薪割り台から立ち上がり、女性の元へと駆け寄る。


 意識の外、考えるより先にユーリの身体は動いていた。


 先程まで動く理由が何一つ思い付かず、薪割り台に腰掛けていたのが嘘の様にユーリの足取りは軽い。


 直ぐ様心配する言葉と共に手を貸したが、女性は苦しそうな咳にも関わらず随分と驚いた様子だった。


 7フィートある自分が急に駆け寄ってくれば、それも相手が小柄な女性となれば驚くのは当然か。


 そうユーリは思っていたが、咳の合間に聞こえる言葉、そして仕草と杖からしてユーリはその女性の目が全くでは無いにしろ、殆ど見えていない事に気が付いた。


 良く見れば杖も、足や腰の為に杖を突いている人々が持っている杖とは雰囲気が違う。


 酷い咳の間に、“暫くすれば落ち着きますので大丈夫です”と何とか言う女性に、少し休んだ方が良いとユーリが返し、女性を気遣いながらも自分の家を見やった。


 休ませてやりたいが自分の様な大柄な男が、目の不自由な女性を家に連れ込むなど傍目に見ても怪しい行為だ。


 もしこれで女性が悲鳴でも上げたら、それだけで自分は言い逃れ出来ないだろう。


 と、そこまで考えて諦めにも混じった苦笑がユーリの顔に浮かぶ。


 先程、誰も悲しむ者は居ないと悩んだばかりではないか。


 ユーリが疑われても、顔見知りが“あいつはそこまで堕ちたのか”と酒の席で笑い話にするだけだ。


 悪辣に堕ちて両手斧で薪以外を叩き割る事に比べれば、人助けで誤解されて取り抑えられた方が良い。


 どうせ長くないのなら、最後まで心持ちだけでも善人で居よう。


 そう思ったユーリがすぐ其処に家がある、と口を開いた。


 咳をしながら此方を見る女性に、後で憲兵に自分を突き出しても構わない、ご家族にも貴女が説明しても構わないから家で休んでくれ、と丁寧に言う。


 そんなユーリに女性は些か驚いた様な顔をしたが、思った以上に迷い無くユーリの手を取った。








 ライサと名乗る女性は、少し休むと幸いにも咳は落ち着いた様だった。


 人をもてなした事が余り無いから、紅茶が酷い出来でも許してくれとユーリが言うと、ライサが可憐に笑う。


 こうして見ると、ライサはユーリが思っていた以上に若かった。女性どころか、少女とさえ呼べるかも知れない。


 色が漸く付いた湯の様な、お世辞にも褒められたものではない紅茶だったが、ライサは幾らか匂いを嗅いだ後に少し味わってから、名も知らぬ私を家で休ませてくれた事に対して丁寧に感謝を述べた。


 ご家族にも、と感謝を述べようとするライサに、ユーリは少し迷ったが苦笑を溢しつつ、自身の事を一つ一つ語った。


 先月父親が亡くなり、この家には自分一人な事。


 葬式以来、仕事を除けば人と話したのは久し振りな事。


 この状況で家に誘う大柄な男など、何処をどう見ても怪しいだろうから憲兵に突き出される事を覚悟してやった事。


 いずれ、自分は冷めきって錆び付いていくのだろうが最後に、何もかも失って悪漢になるのではなく、何もかも失って尚人助けが出来て良かった事。


 そこまで話した辺りで、ライサが不意にユーリの手を取った。


 ライサが、手に力を込めながら言う。


 家族を失い、一人になる気持ちはよく分かると。


 例えそれが慰めでも、そう言ってくれて嬉しいよ。


 そう言おうと顔を上げたユーリが、思わずたじろいだ。


 ライサの大きな両眼から、大粒の涙が溢れていたからだ。


 家族を失い、独りきりになる気持ちは痛い程分かると、ライサが涙ながらに言う。


 私も流行り病と事故で家族を失ったと、もう自分の家族が自分しか居ない気持ちは、良く知っていると。


 ライサが、一つ咳をしてから話し始める。


 元々身体が弱く、私は外で走った事など数える程度しか無い。家族が居なくなってからは眼病にかかり、目が不自由になった。


 咳だって酷いし先程の様に、立てなくなる程に咳が収まらない事だってある。


 見付けた仕事だって身体の弱さや目のお陰で苦労しているし、理不尽な目にあった事は数えきれない。


 私もかつては途方に暮れ、もうそのまま消えてしまおうかとさえ思った。


 だけど。


 ユーリの手が、痛い程に握られる。


 諦めないで。


 確かにこの世界は冷たくて残酷で、私達の全てを否定してくるかも知れない。


 それでも。


 貴方が貴方を諦めてしまったら、もう誰も貴方を救えない。


 この世界を私達が諦めてしまったら、この世界は最後の一欠片まで冷えきってしまう。


 私はどんなに残酷な目に合っても、この世界を信じてる。世界はまだ壊れていない、まだ終わっていないって信じてる。


 現に、この世界がどれだけ酷くても貴方は見ず知らずの目が不自由な私を、損得無しで迷う事なく助けてくれた。


 それだけ辛い事があり、心が折れそうになっていても尚私を迷う事無く助けてくれたのだから、それだけで私は今日も明日も、世界が良くなる事を諦めずに、生きていける。


 だから、諦めないで。


 そう締め括って、ライサがまたも咳をする。


 ユーリは同じ境遇の筈の目の前の少女が、いやむしろ自分より過酷な目にあっている筈の少女が、何故こんなにも世界を信じて生きていけるのか、不思議で仕方無かった。


 それだけの境遇なら、唾を吐きながら世界の全てを憎みながら生きていても不思議では無い筈だ。


 泣き言を言いながら悪の道に堕ちても、不思議では無い筈だ。


 それが何故こんなにも明るく、自分と世界を諦めずに生きていける?


 何故、出会ったばかりの人の為に涙を流す事が出来る?


 暫し迷ったが、それでもユーリは聞く事にした。


 何故そんなに辛い目に合いながら世界を愛せるのか、何故そんなにも人を信じられるのか。


 何故、希望を失わないのか。


 少しの間を置いて、涙を拭いつつライサが笑って答えた。


 世界がどれだけ冷たくても、貴方みたいな人がまだ居るから。


 貴方みたいに、自分の境遇を別にして迷わず人を助ける様な人が居るから。


 私は、この世界と空の全てを愛しているから。








 その後、家まで送ったのを切っ掛けに、ユーリは休日や仕事終わりにライサと会う様になった。


 ユーリ自身が、同じ境遇にも関わらず明るく生きるライサから、目を離せなくなっていたからだ。惹かれている、と言い換えても良い。


 ユーリがライサの家に赴く事が多かったが、時折ライサが杖を片手にユーリの家を訪れた事もあった。


 そうして共に過ごす時間が増えて分かった事だが、自身の境遇のみならず身体が弱い事や目が不自由だと言う事を、ライサはまるで苦にしていない。


 ユーリに手を引いて貰うどころか、ユーリの手を引きかねない勢いで新しい店に誘ったり、珍しい料理や体験を求めて日頃から杖片手に、意気揚々と歩いていた。目が不自由にも関わらず。


 7フィートの身長がある上、筋骨隆々でそうそう喧嘩を売られない程に強靭なユーリだったが、むしろ小柄な少女のライサ相手には付き従う形になってしまっていた。


 まるでユーリより、遥かにライサの方が日々を謳歌しているかの様に。


 人付き合いが得意では無く、寡黙かつ巨漢故に誤解されやすいユーリと違い、ライサはそれだけの境遇に居ながらも自然と人と打ち解け、人を惹き付けるものを備えていた。


 どうやらライサは、ユーリが今まで知らなかっただけで街では中々に名の通った人気者らしい。


 匂いだけで屋台の料理と味付けを当て、大笑いしている屋台の店員から当たり前の様に、ブリヌイを半額で貰っているのを見た時はユーリも随分と呆気に取られたものだ。


 またライサはヤギ肉やシカ肉の様な獣肉よりも空魚の様な魚肉、中でもサメ肉を好んでいた。


 中央国レガリスや西方国キロレンにおいて、サメ肉は魚肉の中でも劣った肉として知られている。


 だが、あくまでもそれは未熟な処理故に以前のサメ肉は他の肉に比べて臭気が強かった事や、レガリスやキロレンのサメ漁は基本的に皮革や油を目的とされ、食用とされる事は少なかった事に由来していた。


 勿論、適切な処理をしたサメ肉は臭気が低減され独特な風味を持つ、個性のある食肉となる。


 リドゴニアの郷土料理にも使用される、サメ肉をライサは心から気に入っていた。


 生憎とユーリはサメ肉の郷土料理どころか、まともな料理すらした事が無かったが。


 また、ライサは詩や音楽に造詣が深く、紅茶と料理を愛していた。


 そして何より、ザルファ教を深く信仰していた。


 ユーリは言うべきか迷ったが、自身は無宗教でザルファ教を信仰するつもりは無い事を伝えた。同じ話が出来なくて済まない、とも。


 それに対して、ライサが不思議な顔で答える。


 何故謝る必要があるの?貴方は貴方として生きてるだけなのに。何も謝る事なんて無いわ、と。


 不思議な事を言うのね。


 紙で包んだブリヌイを片手に、そう言われたユーリが呆気に取られる。


 こう聞くと矛盾している様な話だが、ユーリがザルファ教へ興味を持ち始めたのは、その時からだった。


 書物を幾つか手に入れ、氷骨神話と呼ばれるザルファ教の物語を幾つも読み込み、誰に命じられるでも無く神々とその神話に詳しくなっていく。


 以前まで“神様だらけのザルファ教”としか呼んでいなかったが、次第にユーリは神々の名前を一つ一つ説明出来るまでになっていた。


 最も、一番の話し相手のライサはユーリよりザルファ教に詳しいので、その機会は無かったが。


 ザルファ教を学ぶにつれ、ユーリは少しずつ日々の一つ一つに興味を示す様になった。


 幸いにもユーリは家族から教え込まれていた為、文字が読める。


 その為、ザルファ教の書物を読む事には事欠かなかったが、次第に他の本も読み始めた。


 歴史の本や哲学書、教本や小説だって読み始め、次第に本棚が埋まっていく。


 その内、料理本を手に取ったのを切っ掛けとして、リドゴニアやカザドグの郷土料理を学び始めた。


 腹に入れば同じ、肉が多ければそれで良い。野菜は食べた方が健康に良いらしい。


 ユーリはその程度しか意識していなかったが、意外にもユーリには料理方面の才があったらしい。


 料理人顔負けのライサの手解きもあり、次第にユーリの食卓は彩り豊かになっていった。


 勿論、サメ肉の料理も時折食卓に並んでいく。


 ある日、食卓でガルショークと呼ばれる壷焼き料理を食べながら、ライサが提案する。紅茶を淹れてみましょうよ、と。


 最初、ユーリは苦笑いで断った。自分には向いていない、最初に家で淹れた酷い紅茶を知ってるだろう、と。


 それを聞いたライサが、笑った。


 じゃああの頃、本棚はあんなに埋まっていたかしら?あの頃から、夕飯の味付けに悩んだりした?一人でペリメニを作ろうとした事なんてある?


 言い返せなくなったユーリに、笑ったままライサが言う。


 貴方が貴方を信じられないなら、私が貴方を信じてあげる。





 やってみましょうよ、と。

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