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若いオスのシカだった。
眼を見張る様な大物とは言えないが、勿論見逃してやる程の小物でも無い。
多少肉が固いにしても、充分“御馳走”には変わりないだろう。
もう一度だけ、草切れを使って風向きを確かめてから緩やかに冷えた空気を吸いながら、クロスボウを構えた。
息と精神を落ち着かせ、胸中で数を数える。
自分を信じ、されど過信せず。平常心で、名前でも書く様に。
狙われているシカは、気付く様子も無く鼻先で雪を掘り返している。
精神が集中し、周りが静かになっていくのを感じた。
シカの命を奪おうとしているこの瞬間に、クロスボウを握った自分が穏やかになっていくのが分かる。
シカの胴体にクロスボウの照準を合わせていたが、心臓や肺等の内臓を考慮して少し照準を変えた。
緩やかに空気を吐いて、もう一度緩やかに吸う。
吸って、息を止めた。
意識の外で指が、穏やかにクロスボウの引き金を絞っていく。
雪の重みで、木の枝が音も無くしなる様に。夜半に新雪が降り積もる様に。
クロスボウを握っている手、手首から先、指先が勝手に動いていく。
火の中で朽ちていく薪を眺める様に、まるで自分と関わりが無い出来事の様にシカを眺めながら、引き金を引いた。
クロスボウの矢が飛び出すのと殆ど同時に、雪でしなっていた枝がはね上がり音を立てて雪を落とす。
雪を掘り返していたシカが、被食者特有の反応の速さで素早く頭を上げ、身を強張らせた。
時間にしてみれば、誰も気にしない様な僅かな差。
クロスボウの矢は体勢を変えたシカの肩と胸の辺りを幾らか抉ったものの、勢いを殆ど落とす事無くシカの後ろへと突き抜けていく。
此方が顔をしかめるよりも早く、シカは悲鳴の様な鳴き声と共に弾かれた様に駆け出した。
出血、色から見ても明らかにシカの傷は浅い。
手負いにして苦しませたくは無かったのに、心苦しい事をしてしまった。
出血を辿ろうかと少し考えたが、矢傷は出血こそして冬毛を赤く染めてはいるものの、浅い。
いつまでも辿れる程の出血にはならないだろうし、正に死に物狂いで奔走するシカがその程度で大きく体力を落としているとは思えなかった。
仮に途中で血痕が途絶えたとしても、荒れた雪の足跡から追えなくはない。
手負いにした責任と共に、“仕留められる”として追うべきか。傷こそ負わせたがその傷は浅く、苦しみこそするものの直ぐに死ぬ様な事にはならないだろう、“半端に怪我させて悪かったな”と諦めるべきか。
追わなければ無事に戻れるだろうが、手柄無しだ。その上、俺は悪戯にシカを苦しめ、傷付け、怯えさせただけになる。
ある意味、シカを殺すより罪深いと言えるだろう。
傷を負わせた上、もしシカがこのまま逃げに逃げた後に上手く回復出来ず、苦しんで衰弱して、雪山の中で歩けなくなった所をオオニワトリにでも捕まり、生きたまま内臓から喰われていくのかと思うと、一思いに仕留めてやりたいという思いも充分にある。
ザルファ教の女神、その一人の名前が脳裏を掠めた。豊穣の女神ゲヴンヴェイグ。
その豊穣の女神から見れば、俺達がシカを仕留めるよりニワトリかワシにでも喰われた方が余程、“自然”なのかも知れない。
雪の上に残った血痕と、シカが残した足跡を見据えつつ、雪の中を駆け出しながら機構を使ってクロスボウの弦を引き絞る。
いや、ザルファ教には豊穣の女神とは別に狩猟の神、“エズ”が居るんだったな。
仕留めた獲物の骨や角にエズの名前と感謝の紋様を刻んで、祈りを捧げる風習があった筈だ。
冷え込む雪景色の中を駆けつつ、弦を引き絞ったばかりのクロスボウに矢をつがえた。
とにかくその狩猟の神が見ているなら、中途半端な傷を負わせて手負いのシカを森の中に逃がす事を、良く思わないだろう。
冷えた空気を吸う。
成果に関わらず、暗くなる前に引き上げる。その予定には、変わりない。
だが、何にせよシカを追える限り追うべきだろう。狩猟の礼儀という訳では無いが、どこぞの浅薄な連中の様に小鳥を撃ち落としては拾い上げ、自慢げな顔をした後に草むらに投げ捨てる様な真似はしたくない。
シカが負傷した場所に辿り着き、そのまま素早く駆けていった方向へと同じく駆けていく。
此方に気付いて逃げ出したシカを、雪の中でどこまで追えるか。出血で少しでも体力が落ちているか、弱っている事を期待したい所だが。
雪の上に血痕と足跡はまだ色濃く続いているが、いつまでも追える訳では無い。
木々の中を縦横無尽に走り回って逃げるシカの足跡を律儀に辿っていたら、どれだけ時間が掛かるかは言うまでも無かった。
となると、先を読む必要がある。
負傷したシカが何処に逃れようとするのか、此方をどう撒こうとするのかを考えなければ。
もしシカが直線的に離れているのではなく円を描く様に大きく回っているとすれば、そしてそれを掴めれば。
シカの描く弧を割る様に直線的にシカの元へと向かい、シカに追い付く事が出来る。勿論、仕留める事も出来るだろう。
言うまでもなく、“理想論”の一言に尽きるが。
雪の上の足跡を辿りながら、クロスボウを握り直す。
シカの足跡からシカの行き先を先読みしつつ、行き先を読んで可能なら先回りしなければ。
勿論、無理ならば見切りを付けて暗くなる前に引き上げる事も考慮しながら、行動する必要があった。
山の地形を考えながら、頭の中で自分が今どの位置に居るか、シカがどの辺りをどう逃げているのかを重ね合わせる。
ユーリと違い、自分はこの山の殆どを知っているとは言えない。他の団員に比べればカラマック島に来てから日も浅い、何度か踏み込んだ原生林だってまだまだ知らない、未知の部分が大半だ。
カラスの鳴き声。
雪に踏み込んでいた足を止め、長い息を吐きながら顔を上げる。
前方、白く染まった木々の上をカラスが鳴きながら旋回している。
シマワタリガラスは俺が向かっている方向より随分と左に寄った方向を示しながら、知らせる様な声で繰り返し鳴いていた。
クロスボウを握っていない左手で、頭を掻く。
…………認めるのは少し抵抗があるが、おそらくシカは俺が目指している先から左に逸れた辺りに居るだろう。
それも、今カラスが鳴いている下の辺りに居ると思った方が良い。
先程想定した様に、“弧を割る”ルートを取るのなら此処から直線的にカラスの示している方向に進むべきなのは、明らかだった。
先程まで追跡していたシカの残した足跡を見据え、少し辺りを見回した後にカラスの示している方向へと歩き出す。
カラスに獲物の位置を探らせて、その方向に進んでいくとは。もしこの光景を見られたら、“カラスの怪物”と言われても何一つ反論出来ないな。
まぁ、この団で自分が反論する事自体にどれだけの意味があるのか、定かではないが。
足を取られない様に気を付けながら、見た目以上に危険が潜んでいるであろう雪景色の中を進んでいく。
忘れそうになるが、この自然に“狩人”は自分だけではない。
こうして歩いている途中で、ワシやニワトリに襲われる可能性だって充分にある。自然に踏み込んでいる以上、自身が常に“捕食者”である保証など、何処にも無いのだ。
雪の降り積もった大きな岩をかわし、急な傾斜の坂を足だけでなく、手も使ってよじ登る。
考えてみれば、レイヴンとして垂直な建物の壁面を駆け上がったり蹴って跳ね上がったりしてるのに、只の傾斜がきつい山道にこれ程苦労するのも不思議な話だ。
これこそ正しく、“山を歩く者は街を歩けるが、街を歩く者は山を歩けない”か。
今の所、シカが移動している様な痕跡は何も見付からず、気配も感じられないが現にカラスが示した場所には事実として、シカが居た。
童話の様な話ではあるが、事実は動かしようがない。実質主義の観点から見ても今回のカラスが示す位置に、シカは居ると想定する価値はあるだろう。
そして想定通りの位置にシカが居るならば、左に逸れて移動したシカに此方は更に左方向から、逆方向に弧を描いてシカを先回りする様に移動していくつもりだった。
風向きを考慮しても、仕留めるつもりなら“弧を割る”より更に良い結果、優位を取れる筈だ。
逆向きの弧を描く様に移動する為、直線的な移動に比べて単純な移動距離は伸びるがそれに見合う結果はあるだろう。
鳴き声が聞こえ、もう一度カラスの方を見据える。
カラスが示している場所には、もう随分と近い筈だ。足音と気配、息を殊更に潜めた。
ゆっくりと、雪の中を進む。
即応出来る様にクロスボウを握り締めたまま、冷えた空気を嗅いだ。
耳を澄ませ、自分から出ている音以外の全てを聞き取るべく意識を辺りに広げていく。
またもカラスが鳴いた。
鳴き声は近い。手負いのシカはきっと、近くに居る。
視界の端、周辺視野に何かが引っ掛かった。雪景色の中、岩でも木でも無い物が、目に留まった。
シカの冬毛。
見間違いの様な、見逃してしまいそうな遠さではあったが、カラスが示していた距離と凝らした眼がそれを捉える。
改めて息を吸いながら、静かにクロスボウの照準をシカに合わせた。
が、クロスボウを下げる。まだ遠い、もう少し距離を詰めるべきだ。
はっきりとシカを眼に捉えながら、雪の中を進んでいく。
音と気配を抑え、何度か動きを止めながらもゆっくりと距離を詰めていった。
これ以上は気取られる、という距離まで詰めた辺りで音を立てない様に膝を付く。
膝を付いた体勢から再びクロスボウを構え、先程より近いシカにクロスボウの照準を合わせた。
息を吸って、溜める。
カラスが鳴いた。
「血の匂いがすると思ったよ」
吊るしたシカから放血が終わった辺りでそんな声が聞こえ、振り返ると弓を片手にしたユーリが立っていた。
その手に、獲物は無い。
「そっちは成果無しか?意外だな」
振り向いたまま、そんな言葉を返す。てっきり、ユーリなら今頃大物を仕留めていると思ったのだが。
するとユーリが俺の言葉に不思議そうな顔をした後、微笑んだ。
「もう仕留めたよ。肉の良いニワトリだ、放血も済んで肉も分け終わった。今晩はシチューにしよう、他の肉料理でも良いぞ」
少し、目を見開いた。
もう仕留めた?放血も終わった?
つまり既に仕留めて処理も終わった上で、俺を探しに来たのか?この時間で?
「仕留めたニワトリはどうしたんだ?」
「もう山小屋にあるぞ。でもシカ肉もあるのは有り難いな」
………山小屋まで仕留めたニワトリを持ち帰った上で、再び狩猟ついでに俺を探しに来たという事か。
何というか、流石としか言えない。きっと、山の中を歩き回る様子も俺より格段に動きが良いのだろうな。
「手伝おう」
俺の吊るしていたシカが放血を終えたのを見て、ユーリが大型ナイフを取り出しつつ言った。
そんなユーリの言葉に頷いて、此方も腰からナイフを抜く。
肋骨を切り開き、ユーリと二人掛かりで吊るしたままのシカから内臓を引き下ろした。
当たり前と言えば当たり前かも知れないが、随分と手際が良い。数えきれない程、一人で山に入ってはこういった解体作業をやっているのだろう。
内臓を抜き取ったシカから、毛皮を引き剥がしていると不意に羽音が聞こえ、肩にシマワタリガラスが留まった。
今回ばかりは、このカラスを無下に出来ないな。肩のカラスを見つめているそんな俺の様子を見て、ユーリが微笑みながら毛皮を剥いでいく。
「懐かれたな」
そんなユーリの言葉に、溜め息を吐く。
「認めたくないが、今回ばかりはこのカラスに助けられた。このシカも、こいつが見付けた様なものだ」
「助けられた?」
怪訝な声音と表情が帰ってくる。当然と言えば、当然の反応だ。
まぁ、こいつには話しても良いだろう。少なくとも、笑い者にする様な事は無い筈だ。
シカの毛皮を引き剥がしながら、笑うなよ、とユーリに前置きしてから話し始める。
「…………このカラスが、わざわざシカの場所を教えてくれたんだ。獲物の上で鳴いては旋回してな。途中でシカが逃げた後も、同じ方法で逃げた先を教えてくれた。こいつが居なきゃ、今日の獲物はきっとお前が仕留めたニワトリだけだっただろうな」
幾らかの沈黙。あぁ、まぁそうなるよな。口を閉じて作業を続ける。
正直、面白くない冗談を言った様でバツが悪かったが、少しするとユーリの手が止まっていた。
良いさ。別に信じてくれとも言わない。そう言おうと顔を上げた辺りで、ユーリが感慨深い顔で俺の肩、カラスを見つめている事に気が付く。
「どうした?」
「いや、気を悪くしたなら済まない。カラスに獲物を見つけさせて仕留めるなんて、まるで寓話の狩猟だと思ってな」
感心した様に言うユーリに、今度は此方の手が止まってしまった。
寓話の狩猟、か。
確かに“カラスに獲物を見付けさせる”なんて言うと、子供に聞かせる童話か寓話の様ではある。
「そいつに、内臓をやろう」
「何だって?」
ユーリの急な発言に、思わず聞き返してしまう。
内臓だって?
「棄てる予定の内臓があるだろう。肉の切れ端でも良い、少しカラスにも分け前をあげよう」
肩に留まったカラスを見つめながらそんな事を言うユーリに、少し鼻を鳴らしてから肩のカラスに目を向ける。
カラスは、此方に見向きもしない。いや、カラスの目線は穴に捨てて野鳥や虫に喰わせる予定だった内臓や、自分達が今切り分けているシカの肉に奪われたままだった。
まぁ、対価と言えば理屈の通る話でもある。
ユーリに一言断ってシカ肉の解体から離れ、肩にカラスを留まらせたまま棄てる予定だったシカの内臓へと歩み寄った。
内臓とは言ったが、ユーリは心臓や肝臓は料理として食べるつもりらしく別に分けてあり、それらを除いた他の部位をカラスにやれ、という意味らしい。
俺が肉を持ち帰る為に持ってきた袋や、ユーリ自身が持ってきた袋に分けた枝肉や肉の塊を詰めているユーリを尻目に、革手袋のまま棄てる予定だった内臓の切れ端を拾い上げ、肩に留まったままのカラスに差し出してみた。
少しの間の後、嘴で内臓の切れ端を受け取る様に咥えたカラスが肩から飛び立ち、少し離れた場所に舞い降りては足で抑えつつ器用に食べ始める。
今日はお前のおかげで助かったよ。胸中で呟くも、返ってくる筈も無く。
しかしカラスに狩りを手伝って貰ってその結果、シカの肉にありつくとは。
ラシェルが居たらどれだけ笑われる事か。クルーガー辺りなら、随分と楽しそうにメモを取るかも知れないが。
「デイヴィッド」
背後から聞こえてきた言葉に振り返ると、ユーリが肩に袋を掛け先程切り落としたシカの頭を持って立っていた。
「どうかしたか?」
「この紋様は、まさかお前がやったのか?」
ユーリがシカの頭を持ったまま、シカの角に刻まれた紋様を指す。
ザルファ教に伝わる、狩猟の神エズと感謝を示す紋様がシカの角に刻まれていた。
言うまでもなく、俺自身がナイフで刻んだものだ。
ユーリの反応を見るに、何かやり方が間違っていたのだろうか。
「あぁ。拙いのは承知で俺がやったんだ。書物で読んだ通り、“エズ”に感謝と祈りを捧げるつもりでな。祈りも捧げたが、まずかったか?」
ザルファ教の神々の視点から見て失礼の無い様にしたかったのだが、やはり付け焼き刃は失礼だったか。
そんな事を考えていると、一瞬の間を置いて堪えきれない様にユーリが笑いだした。
大声では無いが、どうにも堪え切れないと言った笑い方だ。
「すまない、すまない」と何度も謝りながらもそれでもユーリの笑いは止まらない。
「初めてやったんだ、何か間違ったか?それだったら謝るよ」
そう此方が言うと、精一杯笑いを堪えながらユーリが手で此方を制しながら、何とか息を整えながら言った。
「違う、違うんだ。間違っていない、間違っていないんだ。紋様も作法も正しい。ザルファ教としては理想的な祈りだ。だが、だがその、な」
目を細める。
間違っていないのか。それなら良かったが、なら何故こんなにユーリは笑っているんだ?
意味も無く、他人を笑う奴ではない筈だが。
「いや、正しい。正しいんだが、その、獲物にエズの名前と感謝を刻むのは敬虔な教徒なら褒め称える事だ。だが……………」
「何だよ?」
何とか息を落ち着けたユーリが、一息付いてから改めて口を開いた。
「それは、俺の祖父より前の世代がやっていた作法だぞ。どれだけ古い本を読んだんだ?」




