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今日で、今年も終わりか。
そんな事を考えながら、雪を踏み締める。
時折、“冬の山は枯れ果てている”だの“冬の山に見る物は無い”だの言う者が時折居るが、大半が冬の山に入った事が無いか、冬の山が取り分け嫌いな奴か、冬の山に追い出された奴だ。
“冬の山は恐ろしい”と言う者に関しては、大いに同感だが。
雪の上に残ったシカの足跡を見定め、歩き方から体重と性別を辿る。
息を潜め、気配を悟られない様に気を張り詰めながら。
言うまでもないが、此方が獲物を見つける前から獲物に見付かっては、元も子もない。
雪の上に残されたシカの足跡を見ながら、頭を掻いた。
土と雪の違いを考慮しても、シカがこの雪を踏んでからまだそこまで時間は経っていない、と見て良いだろう。
改めて、冷たい空気を吸う。
シカの足跡が示す先を見据えながら、日差しを意識した。
成果に関わらず、暗くなる前には決めていた場所には戻ろう。
肩に掛けて背負っていた、ディロジウム原動機や圧力機構を使わない方式のクロスボウを手に取り、備わっている滑車とスプリング機構を使って弦を引く。
一応他にも武器はあるが、今追い掛けているシカならこのクロスボウで仕留められる筈だ。勿論、不測事態が起きた時には成果に関わらず、直ぐに引き上げるつもりではあるが。
ユーリから借りたクロスボウなので多少慣れない感覚があるのは否めないが、団員に用意してもらった狩猟用のクロスボウも手に馴染まない点では、良い勝負だろう。
それに団員が持ってきた、祖父ですら忘れていた様な古びたクロスボウよりも、ユーリから借りたクロスボウの方が比べるまでもなく高性能だ。
実際の狩猟でどちらを選ぶべきか、迷うまでもない。
あのクルーガー達との茶会を終えた後日ユーリの所に行ったのだが、ユーリは俺が思っていた以上に狩猟の約束を楽しみにしていたらしく、“都合さえ合うなら年末の狩猟に付き合ってくれないか”と眼を輝かせながら言い出したものだから、面食らってしまった。
どのみち年末の予定など壁か窓を眺めるか、鍛練をするか程度の予定しか無いので有り難く年末の予定に入れさせて貰ったのだが。
…………正直に言って、スヴャトラフの葬式の際にしたあんな一言の約束を、ユーリがここまで楽しみにしてくれていたなんて、夢にも思わなかった。
クルーガーから聞いたのか、ユーリは俺が元々一人でも狩猟に行く男だと知っており、俺がユーリの山小屋に古びたクロスボウを担いで現れた途端、挨拶もそこそこに
「普段はクロスボウで狩りをしないのか?そんなクロスボウより、俺が持っているクロスボウを使え」
と言いきるものだから、少し笑ってしまった。勿論、真剣に心配して言ってくれているのだろうが。
それにしても随分と冷える。
ユーリは日頃からこんな冷えきった、一筋縄では行かない雪山を狩猟の為に歩き回っていると言うのだから、舌を巻く他無い。
自分も冬、雪山の狩猟も経験が無い訳では無いが、どちらかと言うと結果が奮わない事の方が基本的には多かった。
それに対しユーリはつい最近も、大きなメスのシカを仕留めて帰ってきては燻製にしたりシチューにしたり、と心踊る様な狩りを楽しんでいるらしい。
山に住むべくして住んでる様な男だ。
今回に至っては狩猟に出る前、ユーリからはこの狩猟の成果に関わらず、今晩は肉料理をご馳走すると約束されている。
今回の狩猟が終わったら、俺も個人的に狩猟に出ても良いかも知れないな。
勿論、こんな立場と状況の俺が狩猟を再び始めるなら、色々な準備が要るだろうが。
狩猟の準備の為に俺の指示を受ける団員はきっと良い顔をしないだろうが、少なくとも「今日こそ処刑されるかも知れない」と毎朝思いながら起床していた頃よりは自由が利く。どうせ何を言っても良い顔をしない部下ならば、今更遠慮するよりは手伝わせた方が得だろう。
スパンデュールやグレムリンとは比べ物にならない長い矢をクロスボウにつがえ、グリップを握り直した。
断言こそ出来ないが、先程の雪に残った足跡から見ても、近くにシカが居る可能性は十分にある。
辺りの気配に神経と直感を研ぎ澄ませながらも、クロスボウを手にゆっくりと雪の中を歩き始めた。
息と足音を抑えつつ深い雪、そして木々の中へと深く踏み入っていく。
森の中でオオニワトリに襲われた記憶が幾らか脳裏を掠めるも、呼吸によって意図的に頭から追い出した。
冬のオオニワトリは夏程、活動的じゃない筈だ。勿論冬眠はしないし、歩き回っていても何ら不思議では無い。襲われる可能性は、冬でも充分にあると言えばあるのだが狩猟をしている者には今更の話だ。
革手袋の指先で草を千切り、宙に幾らか散らす。
風向きを確かめると言うと指先を濡らして確かめる者が殆どだが、極寒の中で素手を晒す上に指先と言えど濡らすのは個人的には大いに避けたい所だ。
先週か先々週程の寒さなら手袋を外して肌で探っても良かったが、ここまで冷え込んだなら話は変わってくる。
この草切れを散らす方法なら、顔さえ凍りそうな極寒の中でも使う事が出来る。素手を翳して肌で風向きと風の強さを感じる方法と同じく、風の強さを草の散り方から体感的に把握出来る。
以上の理由で、いつからかは忘れたが極寒の中で狩猟する際、風向きを確かめる時はこの方法を使う様になっていた。
歩く向きと風向きを頭に刷り込み、気配を探りつつ視界と意識を広く保ち、背後の方角で気配がちらついても直ぐ様クロスボウを向けられる様に意識を研ぎ澄ます。
獲物が見付かった場合も、獲物の痕跡があった場合も、“何もなかった”場合も想定しながら少しずつ進んだ。
“山を歩く者は街を歩けるが、街を歩く者は山を歩けない”とは誰の言葉だったか。
音も無く、影も無い相手の気配を意識出来る様になったのは、いつ頃だったか。
狩猟で山に踏み込んだ時に体得した感覚だったかも知れないし、任務で壁の向こうに居る敵を感じ取った時かも知れない。
あるいは、同時だったかも知れない。だが切っ掛けが何にせよ、この鋭敏な察知能力に命を何度も救われてきた事は確かだ。
何時だったか、笑えない話を聞いた事がある。“あの男”は教訓として、随分と気に入っていたが。
ある男が山の中で深い濃霧に囲まれ、食料と装備を落としてしまった。
残った装備は腰に備えていたナイフだけ。
男は濃霧の中、迷いに迷った末に池の近くで座り込んでしまう。
疲れ果てた男は辺りを見回すも濁った汚い池には害虫ばかりで魚は見当たらず、濃霧の向こうからは気味の悪い鳴き声が聞こえてくる。
男は何とか火を起こすも疲れ果てた上に濃霧の恐怖で眠れず、餓えと渇きの末に池へと頭を突っ込んだが、虫の浮いた濁った水に耐えられず吐いてしまった。
そしてそのまま、何度か立ち上がっては座ってを繰り返し、最後には濁った池の傍で力尽きてしまう。
暫く月日が経ち、別の男がまたもや山の中で濃霧に囲まれ、装備と食料を失いナイフ一本で濁った池へと辿り着き、座り込んでしまう。
だが男は躊躇なく濁った池の水を飲み、火を起こし、木の枝で作った串で捕まえた水辺の害虫を串焼きにして、幾つも食べた。
顔と手は汚れ、口の中には虫の脚が入り、濁った水で気分が悪かったが、男は躊躇無く虫を食べ、池の水を飲み干す。
夜、濃霧の奥から気味の悪い鳴き声が聞こえてきても、焚き火の傍で男は歯を剥きナイフを握ったまま爛々と眼を輝かせていた。
そんな濃霧が暫く続き、男は池の傍で池に湧く虫を食べながら濃霧が晴れるのを待ち、一月程して濃霧が晴れたのを見計らって山を降りる事が出来た。
後日、男はあの池が屍肉漁りで有名な、ヤギクイワシが巣にしている恐ろしい場所だと知った。
気分の良い話では無いが、要はこういう事だ。
野生や自然は人間の礼節に付き合ってはくれない。人間が皿を探している間に、鳥達は獲物の内臓を食い漁っている。
人間が血溜まりや濁った水を見て気分が悪くなっている最中、鳥達はその血溜まりや濁った水を舐め取っては啜り、生き延びている。
今踏み締めている様な雪山、自然では街や都会で培った物は通用しない。
昆虫であろうと喰らい、血溜まりだろうと泥水だろうと啜って生き延びる者だけが、優位に立つ事が出来る。
泥を被ってでも、内臓を喰らってでも、敵より優位に立つ者こそが“強者”なのだ。
そんな事を考えていると研ぎ澄ました神経に何かが引っ掛かり、雪へと踏み込んでいた足を止めた。
素早く辺りに視線を走らせ、違和感の原因を探す。
いつ、どの方向で何が起きてもクロスボウが向けられる様、身体の隅々まで意識を張り詰めた。
張り詰めた空気の中、時間が引き延ばされる。
意識を研ぎ澄ませた甲斐あって、左手が微かに暖かい事、気配が“空から向かってきている”事、そしてよく知った気配だと言う事に直ぐ様気が付いた。
クロスボウを、向けるまでも無い。
右手にクロスボウを握ったまま、左腕を止まり木の様に目の前に翳すと僅かな羽音と共に、シマワタリガラスが何とも落ち着いた様子で腕に留まった。
溜め息が漏れる。
よりにもよってお前かよ。そんな言葉が胸中で溢れた。
緊張ともまた違う、呆れや諦めに似た感情と共に眼を細める。
状況が分かっているのか意志が伝わっているのか、カラスは鳴き声も上げず意外にも大人しく辺りを見回していた。
静かにしてくれているのは有り難いが、だからと言って何か役に立つ訳でも無い。
狩りに関しては“先輩”だろうと、カラスに何を教わる訳でも無い。
………悪名高い“カラスの怪物”もこうして見れば、呼んでも居ないカラスが留まってきては腕や肩が疲れるだけだ。
評判が悪くなる以外、何か得がある訳でも無い。
腕に留まっているカラスの眼を覗き込めば、不思議そうな眼が覗き返してくる。
大した理由は無かった。思い付くとさえ言えない様な、雑念にも似た発想。
こうして、止まり木の様になっている左腕。
その左手の痣に、眼が留まる。
口に出す訳でもなく、少し左手の痣に意識を向けた。
力を込めた、と表現しても良い。
そうして意識したその瞬間、カラスが顔を上げ、直ぐ様勢いを付けて飛び立った。
左腕を下げ、右手にクロスボウを握ったまま空高く飛び上がっていくカラスを見つめる。
先程思い付いた事、“それ”を試した事を少し後悔しつつも眉を潜めた。
まさかな。
雪山、そして原生林を高く見下ろせる様に飛び上がっていくカラスから意図的に視線を切る。
あのカラスは飽きて去っていっただけだ。胸中でそう言い聞かせながら、再びクロスボウを構え直して歩き始めた。
雪の中をゆっくりと進み、神経を研ぎ澄ませながらシカの痕跡と気配を探る。
間違いなく、近くには居る筈だ。
正確な距離や方角こそ分からないが、少しずつ距離を詰めているのは間違いない。
問題は、追っている事を悟られずに近付けるか。またクロスボウの矢を当てられるか。もし手負いにしたら逃がさずに追い詰められるか、追い付けるか。
そこが、肝要だ。
そんな事を思っていると、遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。呼び掛ける様な、報告する様な声だった。
少し息を吐いて、空を見上げる。
空を旋回しているカラスを見る限り、やはり先程思い付いた事は思った通りになってしまったらしい。
やるんじゃなかった。そんな後悔にも似た、いや後悔そのものが胸中に溢れ出る。
幾ら今の状況、そして自分に好都合だとしても、“それ”を認めたくは無かった。少しずつ、戻れない道へと進んでいる様な気がしたからだ。
鳴き声と共に、空を旋回しているカラスを見据える。
その様子はどう見ても、“此方に獲物の位置を教えている”様にしか見えなかった。




