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不味い酒だった。
こういう時は飲んでも良い方向にはならないと分かっていたのに、ウィスキーなんて飲むんじゃなかった。
二杯程飲んだだけで、もう気分が悪い。
酔った訳では無い。ただ、酒に逃げようとした自分が益々惨めになるだけだった。
栓を開けたばかりのウィスキーを、適当に片付ける。
あの任務から随分経った様な気もするし、つい一昨日の様な気さえした。
深い溜め息が漏れる。
正式に謹慎を命じられた訳では無いが、まるで部屋から出る気がしなかった。
まぁ、過去の事やアマンダの事、あの礼拝堂の事を時折思い出しては吐き気を堪える様な今の状態で、外に散歩でもないだろうが。
…………昨夜は弟、アルフレッドの夢を久々に見た。
言うまでもなく酷い内容だったし、古傷を錆びた工具で抉じ開けられた様で勿論気分も良くない。
今の所、肉体の鍛練を支えに何とか正気を保っているが、相も変わらず勝機は見えなかった。
当然ながら部屋まで来て、団内の情勢を教えてくれる様な味方も居ない。
何処かの誰かみたいに逐一周囲の状況を報告してくれるカラスでも飼っているなら別だが、勿論そんな事も無く。
いずれ幹部連中から処分なり処刑なり、次の任務なり報告が来るのだろうがそれにしたって随分な日々だ。
心無しか部屋に食事を運んでくるいつもの部下も、随分と冷たい眼をしている気がする。
いや、気のせいでは無いだろうな。
察する事しか出来ないが、あの任務以来どうにも消灯が早い。窓の外を見ても見るからに以前とは違い、ある時刻を境に示し合わせた様に殆どの明かりが消え、息を潜める様に島全体が灯りを控えている。
間違いなく、灯火管制が行われているのだろう。
俺個人に注意が来た事は今の所無いが、それは俺が疲れはてる様に早く灯りを消しているからかも知れない。
思った以上に身体と精神は疲れているらしく、この頃はどんどん就寝が早くなりつつあった。
何にせよ、良くない傾向なのは間違いない。
だからと言って今の俺に、何か出来る訳ではないが。
水を貯めた真鍮製の洗面器で顔を洗うも、当然ながら気分は晴れなかった。
分かってこそいたが、水面に映った自分は随分と顔色が悪い。
浄化戦争が苛烈な頃によく周りで見た顔だが、よりによって今自分がこんな顔をしているとは。
表情を洗い流すかの様に、もう一度顔を洗う。
余計な事を考えず、だが考える事は止めず。言葉にすれば簡単だが、これがどれだけ難しい事かを俺はよく知っている。
また気分が悪くなり始めたが、意図的な呼吸と意思で抑制した。
…………こうして待機していれば、いずれ次の仕事が来る。処刑されるなら、その時はその時だ。
気遣ってもらう為に団に来た訳でも無い、そもそも命を捧げる覚悟でこの団に来たのだから。
どのみち、前回の不始末は取り返し様がない。猟用鳥が評価を上げるには、次の狩りで成果を出すしかない。
ただ、それだけだ。
自身を宥める意味も兼ねてまた鍛練でもやるか、等と考えていた所で不意にノックの音がした。
神経が張り詰めていた事もあって素早く振り返るが、少しばかり過敏だった事に気付き気の逸りを抑える。
次の仕事の話か、いや。
このまま処刑場に連行されるのかも知れない。
そんな思いが一瞬脳裏を過るも、自嘲が漏れた。
そうなったら、それまでか。
鍵を開け、ゆっくりと扉を開く。
今日処刑された所で、罪深い穢れた大罪人が一人減るだけだ。
扉を開いた瞬間、眉間の皺が伸びるのが自分でも分かった。
「ロニー?」
刈り込んでから少し伸びた様な髪型のブロンドに、青い眼。
6フィート程のキセリア人、ロニー・グリーナウェイが部屋の前に佇んでいた。
何故、という言葉より先に目の前のロニーが分かりやすく眉を潜める。
「………酷い顔だな、大丈夫か?」
ロニーにそう言われて少し自分の顔に触れた。
先程、水面に映っていた自分の酷い顔色を思い出す。
ここ数日の事を思い返すだけでも、悪夢と嘔吐の記憶が殆どだ。他の記憶があっても、合間に鍛練の記憶が挟まる程度でしかない。
何か言い返そうとした瞬間にロニーが鼻を鳴らし、更に眉を潜めた。
「飲んでんのか?」
そう言えば先程、ウィスキーを少し飲んだばかりだったか。
最も、気分は最悪だったが。
「用件は?」
色んな説明をした所で言い訳にしかならない事に気付き、咳き込んでからやや掠れた声で呟く。
そんな俺の言葉にロニーはしかめていた顔を途端に緩め、「忘れる所だった」と一言置いてから少し興奮した調子で切り出した。
「あんたの追放が中止になったんだ、厳罰も無し。殆ど懲戒も無いらしいから、また自由の身だぜ」
少し、いや随分と間が空いた。
追放が中止?厳罰も懲戒も無し?どういう事だ?
再び眉間に皺が寄る。
「何だって?」
そう返すと少し興奮していたロニーは漸く自分が説明不足だった事に気付いた様で、目線を外して首を捻った。
「そうだよな、あー何処から話したものか…………」
俺個人には殆ど報告や連絡が無く、団の現状こそ知らなかったがロニーの話によれば、もう少しで俺を追放なり処刑なりする話が成立する所だったそうだ。
それも、団員の“総意”によって。
まぁ心当たりなど確かめるまでもなく、余りあるのだが。
あの任務によって、ここ数ヶ月で散々レガリスをかき回していたレイヴン達、その一人がよりによって精神異常の猟奇殺人鬼“デイヴィッド・ブロウズ”だと、帝国に知れ渡ってしまった。
帝国は絶対に認めないだろうが、これでも俺は元々“浄化戦争の英雄”だ。
公式記録には残っていないだろうが、俺がどれだけの事を出来るか、どれだけの人間を殺してきたかは帝国が一番知っている。
そんな奴が黒羽の団の味方となり、帝国に立ち向かうレイヴンとなっているとなれば、帝国としては頭の痛い話だろう。
その結果、レガリスは近年では考えられない程に黒羽の団への優先度を高め、近辺空域の捜索隊まで組織して“黒羽の団”撲滅へと乗り出したそうだ。
団がウィスパー等の航空機による巡回や偵察を控え、灯火管制を徹底しているからか今の所帝国軍はペラセロトツカやリドゴニア近辺といった、見当違いの空域を捜索しているらしい。
団の予想によれば、もう暫くすれば帝国軍は空域の捜索を打ち切り現在の厳戒態勢は解除されるそうだが、当然ながら何もかも以前のままとは行かない。
灯火管制、及び厳戒態勢に団を追い込み、黒羽の団の拠点ことカラマック島の所在が、帝国軍に知られる危険を及ぼした事は否定しようが無いだろう。
この明らかな過失を根拠に、俺をよく思っていない“熱心な連中”が一度は取り止めになった俺の処刑、もしくは追放に再審を求め、“ラグラス人を殺し回った忌むべき大罪人”を黒羽の団から処分しようと目論んでいたそうだ。
言うまでもなく、俺という人間は好かれる人間に比べて、嫌われている人間が遥かに多い。
元々声を掛けて集まっていた“ブロウズ大嫌いクラブ”の連中が、今回の件を好機と見て「やはりブロウズを処刑なり追放なりするべきだ」とわざわざ署名まで集めて団の上層部に提出するつもりだったらしい。と言うより、実際に提出されたのだとか。
今回の過失に加えて団員達から署名まで提出されては、上層部含め幹部連中も流石に動かなければ団員の信頼を失いかねない。
勿論、それを見越して署名を集めていたのだろうが。
そうして、もう少しでデイヴィッド・ブロウズが黒羽の団から処分される筈だった所で、それを見越して動いていたロニー達が“対抗策”を講じた訳だ。
“ブロウズ大嫌いクラブ”の連中が処分を求む署名を提出するなら、とロニー達も団を駆け回って署名を集め、“あの状況に置いてブロウズに失点は無かった”とする署名を提出した。
非常にざっくりと言えば、署名の理由はこうだ。
“あの状況において妊婦を殺さなかったブロウズの判断については、非常に人道的と言え過失ではなく適切な判断であり、今回の事態についてはやむを得ない、不可避なものであったと言える。あの状況で迷い無く子供を殺す様な判断をする様なら、それは人道や道徳心の欠如に他ならず今回の件は逆説的に、ブロウズが団員達から非難されている様な人間、人格でない事の証明である”
…………正直言って、今の自分に人道だの道徳だのを主張してくれる人間が居る事に随分と驚いたが、何にせよ俺の処分に反対する署名を各所で募った所、驚くべき事に俺を団から処分する署名に対抗、もしくは上回る程の署名が集まったそうだ。
こんな、俺の為に。
実際に起きた事と根拠の無い噂話を区別し、俺がアマンダを殺せなかったのは惚れていたからではなく、妊婦と聞かされていたからと説明し、決して強制だけはせずに署名を集める。
そんな、対価無しでは教会の連中でさえ渋りそうな、根気の必要な大仕事をよりにもよって、目の前のロニー・グリーナウェイと、あのクルーガーがやってくれたというのだ。
紅茶もコーヒーも出せず、大した持て成しも出来ない部屋であったが、それでも何故か満更でも無い様子でロニーは椅子に座り、テーブルに着いていた。
「“英雄”の部屋にしちゃ随分と安いな、文句言った方が良いぜ。倍の広さか値段の部屋を用意してもらえよ」
殺風景な部屋を見回しながら何故か楽しそうなロニーに対し、対面に座ったまま頭を掻く。
何というか、物好きも居たものだ。
「……大体の事情は分かった。お前にも感謝しなきゃならないだろう、勿論クルーガーにもな」
そんな俺の言葉にロニーが此方を見据えた後、上機嫌そうに鼻を鳴らした。
座っている大きく椅子を軋ませ、思った以上に軋んだのか少し椅子を心配する素振りを見せてから、またも椅子を軋ませている。
しかし、俺が間を開けた事でその表情は少しばかり神妙なものとなった。
俺が何か真剣な事を聞こうとしているのに、気が付いたらしい。
少し息を吸った。
「何故、そんなに俺を助ける?」
ロニーの腰掛けていた椅子が、軋む。
「クルーガーと組んでるからには色々と助けもあっただろうが、決して楽な仕事じゃなかった筈だ。それに、俺に味方する様に呼び掛けて回るなんて真似をすれば、間違いなくお前の敵は増えるだろうし、評価だって下がるだろうに」
そんな俺の言葉に、ロニーが一拍置いてから不思議な表情を見せる。
またも椅子が軋んだ。
「どうして、そこまで俺に肩入れする?こんな、“カラスの怪物”に」
そんな俺の言葉にロニーが幾らか首を捻り、何でそんな事を、と言わんばかりの表情で口を開いた。
「当たり前だろ?確かにあんたはレガリスさえ脅かす、“怪物”だ。だが考えても見ろ、帝国軍はあんたの話が出ただけで血眼になって都市中を嗅ぎ回ってる。それだけ向こうも、あんたを恐れてるって事さ。あの帝国軍が、嫌味も出ないぐらい震え上がってる」
そう語るロニーの語り口こそ軽かったが、眼には熱いものが滾っていた。
滾った眼が、真っ直ぐに此方を見据える。
「現にあんたのお陰で、レガリスにおいて黒羽の団はラグラス人の希望になり始めてる。スナックだかスナーキーだかのギャングも、段々とメンバーを増やして俺達を支持し始めた。分かるか?あんたが、帝国からどれだけ金銀財宝をちらつかせられても、どれだけ地位や名誉を約束されても、帝国の犬にならずに帝王へ立ち向かったから、俺達は再び自由を目指せるんだ。他の恩知らずどもと違って、俺はあんたの功績が分からねぇ程ボンクラじゃねぇ」
“ボンクラども”を思い出したのか、悪態でも吐きそうな表情を見せるロニー。
こんなにも。こんなにも、真っ直ぐに俺の背中を押してくれるのか。
おそらく俺の所業を知っているであろう、こんなに若い団員が。
余りにも真っ直ぐなロニーの眼と言葉に、胸の奥に暖かい物が滲み出していた。
いつの間にか握っていた拳へ、力が入る。
「それなのに、あんたは感謝される筈の団員達に追いやられて追い詰められて、部屋で一人で酒飲んで腐ってるってのか?冗談じゃねぇ」
「帝国に勝つには、絶対にあんたが必要なんだよ。“カラスの怪物”、デイヴィッド・ブロウズが」




