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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
162/292

158.5

 僅かにだが、高くなった陽射しが眼に障った。





 少し早い様な気がしたが、直ぐに自分が予定より遅いのだと気が付き、脳内の時間感覚を修正する。


 急がなければ。


 壁に張り付いている状態から思い切り跳び上がり、屋根の端を掴んでは身体を引き上げる。


 高層都市を編み上げた様な下層を抜けて漸く上層、積み重ねられた都市部の“表面”と呼べる場所まで這い上がってきた。


 高く、眩しい日差しを浴びながら、開けた景色に一息つく。


 流石はレガリスの中心部、か。


 余りにも壮大な、発展し続ける最先端の巨大都市。


 バラクシア都市連邦でレガリスが“首都”と呼ばれるのにも、納得の行く話だ。


 厳密な話をすればレガリスの中にも“首都”はあるし、東方国ペラセロトツカにも北方国リドゴニアにも、それこそ南方国ニーデクラにも“首都”はある。


 だが、いつの間にか首都と言えばバラクシア都市連邦の中心国、“レガリス”その物を指す言葉となってしまった。


 言葉の意味としては間違っている筈なのだが、最早“首都”は正しい意味で使われる事の方が少ないだろう。


 スナークスが起こした陽動が帝国軍にどれだけの効果を及ぼしたかは分からないが、中身が“肩透かし”である事やまだ警報が鳴っていない事、レイヴンがアニガノ地区のこんな中心部まで入り込んでいるとは気付かれていない事から、「やはりこんな警備の中でレイヴンなど来ないか」「来るにしても此処に辿り着くまでに警報が鳴るか、報告の一つでも上がってくるだろう」と気が緩んでいる事を祈るばかりだ。


 せめて、ウィンウッドの元に辿り着くまでは襲撃を気取られない様にしなければ。


 高い屋根の上で太いパイプの陰に隠れる様にしながら、自分の居る位置より離れた、だが決して遠くは無い議事堂を見据える。


 いよいよ、本命だ。


 偵察装備の一つ、専用の光学望遠レンズを取り出してレイヴンマスクの強化レンズの上から重ねる様に装着し、簡易的な単眼式望遠鏡として議事堂を偵察した。


 緊急総会が行われている議事堂の警護が厚い事は、確かめるまでもなく分かっていたが念を入れて損は無い。


 固定倍率の視界で一人一人、資料で知っていた兵士の配置と実際の配置を重ねていく。


 レイヴンマスクの下で、顔をしかめた。


 資料で知っていた以上の数の、装甲兵。クランクライフルを持っている兵士も多数確認出来る、議事堂にも関わらず宿舎が併設されているかの様な人数だ。


 事前資料で知らされていた人数より、明らかに兵士及び装甲兵が多い。直前になって増員されたのか?


 展開式ウォーピックこと、アイゼンビークは今回持ち合わせて居ない。敵の規模と隠密最優先の任務を考慮しての装備だったが、当然ながら力押しでぶつかる事になる装甲兵の相手をするには、分が悪い。


 見る限り、ここの装甲兵達は先程の装甲兵とは違い、フルフェイスの兜をしっかり被っている様だ。当たり前ではあるが。


 ウォーピックもウォーハンマーも無しに軽量合金の鎧を着込んだ兵士、それも武術に精通した上級衛兵を相手取るのは流石に難しいだろう。


 このログザルなら何とか勝ち目はあるかも知れないが、それにしたって隠密最優先の中でやる訳にも行かない。


 まずいぞ、と胸中で声が零れる。


 ある程度の潜入ルートは幾つか考えていたが、これ程までに増員されているとなると前提条件から考え直さなければならなかった。


 あるルートは、敵が密集し過ぎている。またあるルートは監視の眼が多すぎる。

 不安要素、不確定要素が大きいルートばかりになってしまっていた。


 加えて兵士達の士気も、見るからに高い事が見受けられる。


 それに緊急総会とウィンウッドの都合も考えれば、時間も言う程ある訳じゃない。


 事前の計画では単独である事を考慮し、議事堂本館へ侵入ルートは安全性と隠密性を重視したものを選ぶつもりだったが、こうなった以上一からルートを練り直さなければならないだろう。


 加えて兵士だけでなく装甲兵が多すぎる、敵が居たとして排除出来る事を前提に考えない様、注意しなければ。


 固定倍率のレンズ越しに潜入ルートを何とか考えていたが、ふと顔を上げる。


 高く強い陽射しによって、別館付近の線路に停車している数台の私有列車、その傍に暗い影が差していた。


 今の時間帯、そして快晴だからこそ差している、一時的な影。


 その差した影と、別館付近を入念に観察する。


 脳内で暗い影を利用した別館潜入ルート、ひいては議事堂本館への侵入ルートを考え、僅かに拳を握った。試す価値は、ある。


 少なくとも、他のルートを選ぶよりは勝算が高いと見るべきだろう。


 元が低いと言われたら、それまでだが。


 一瞬、躊躇したがそれでもすぐに動き出した。時間は限られている、行動しなければ。


 太いパイプの陰から静かに抜け出し、建物の屋根から別の屋根へと勢い良く跳んだ。


 立体都市として、予め高所に配置されている通路はそのまま通路にしつつ、時折、想定されている道を踏み越える様にして通路から飛び出す。


 足を掛けた欄干やパイプを軋ませ、屋根や無人の通路に跳び移っては煙突の合間を潜り、必要となれば助走を付けて思い切り跳躍し、自身を投げ付ける様にして跳躍の先の僅かな手掛かりにぶら下がった。


 そうした移動術の末に辿り着いた、少し傾斜の急な屋根を踏み締めながら、改めて自分が考えたルートをもう一度確認する。


 陽射しにより急遽、私有列車の辺りに差した暗い影。


 時間帯、太陽の照らし方によってはきっと、潜入など考えられない程に照らされている筈のルートだったが、今この瞬間だけは暗い影が差している。それも、潜入には有用な影が。


 即興で考えたルートではあるが、確かに別館にまで辿り着く事が出来れば隣接する本館へと、続けて潜入する糸口にはなる。隠密性が維持できている前提にはなるが、別館からでこそ得られる情報もあるかも知れない。


 しかし本当にこれで行くのか。ルートの一つを日光、天候を決め手にして自分や任務、全ての命運を掛けて良いのか。


 革手袋に覆われた左手を見つめてから、ゆっくりと染み渡らせる様に息を吸い込んだ。


 やるしかない。他に確実なルートも見付けられない上に、躊躇している内に陽射しや影が変化して機会を逃す事も充分に有り得る。この規模の作戦で機会を逃せば、比喩抜きに俺はそれだけで任務を失敗する事になるだろう。


 傾斜を滑る様に駆け降り、小さく跳んで平らな地面に着地してから、足音を抑えつつ走り出した。


 普段より静音性を意識しながら通路を渡り歩き、議事堂の一部、別館へと距離を詰めていく。


 別館の警護も厳重には変わり無いが、隣接する本館に比べれば幾分か外部から接触しやすい上に、現在は待機させている私有列車等のお陰で一時的に、暗い陰を伝って議事堂の敷地内に潜入出来る可能性が生まれていた。


 移動術を用いて、重力を騙す様に壁面や屋根を駆けながらも、改めて頭の中で作戦を反芻する。


 先程確認した限り、私有列車の近辺に居る兵士は鎧を着込んだ装甲兵が2人。クランクライフルを持った兵士が1人。


 “ライフル”の方は静かに片付けられるだろうが、装甲兵の2人が日頃から死体の傍でティータイムを過ごす習慣でも無い限り、まず間違いなく騒ぎになるだろう。


 そして今の所、装甲兵2人を隠密に片付ける方法は思い付かなった。


 つまり私有列車の影に入るには、あの3人に全く触れる事なく、また決して見られる事なく、影の様にすり抜けるしかない。


 仕留めずに解決する事は、時に仕留める事より難しい。“あの男”のそんな言葉が、脳裏を閃いた。


 勿論、その3人だけでは無く広い視点で見れば装甲兵を含め、周辺には決して少なくない数の兵士が彷徨いている。勿論、警報装置も至る所に確認出来た。


 あくまで一点突破の際に問題になるのがあの3人というだけで、レイヴンに気付いた兵士の1人が大声の一つでも上げれば、其処ら中の兵士が俺の元に集まってくるだろう。


 そうなれば、ディロジウム手榴弾でも足りない程の敵が集まってくる事になる。


 …………こんな所業、隠密部隊に居た者でさえ容易い事では無い。せめてウォーピックと人数があれば、ユーリ達を従えてコールリッジの邸宅に侵入した時の様に、複数の装甲兵を素早く排除する事も出来ただろうが…………


 だが逆に、もし複数人で来ていたらあの都市下は抜けられて居なかったかも知れない。都市下を抜ける選択に、反対された可能性もあるだろう。


 それに、この状況を切り抜けたとしても人数や手数では覆せない状況に陥る可能性だって、充分に有り得る。


 一長一短で、短所ばかり嘆くのは愚か者のする事だ。


 この状況で長所を見るなら、“すり抜ける”事に関しては単独の方が好都合なのは間違いない。


 そして、俺が今からやろうとしている方法も単独で無ければ無理な方法だった。


 左手を意識しつつ、握り締める。


 以前クルーガーが言っていた。俺の“手繰り寄せ”は端から見れば、俺が風景に塗り潰された様に消えてしまうと。移動先に、俺が風景画を突き破る様に現れると。


 ならば、監視の目をすり抜ける様に“手繰り寄せ”で、奴等の脇を素早く駆け抜ける事も出来る筈だ。


 …………黒魔術を使う事に抵抗が無いと言えば、嘘になる。


 あの“黒く冷たい濁り”に触れ続けていれば俺はいずれ、歪んでしまうどころか自身が歪んでいる事すら分からなくなっていくだろう。


 だが、それでもやるしかない。例え俺が濁って穢れた“怪物”になろうとも、この帝国を、レガリスを、世界を、変えなければ。


 左手に意識を集中させ、僅かに力を込めると革手袋の上からでも分かる程に、痣が蒼白く発光する。


 ふと、あの胸の奥まで冷え込む様な感覚、崖から空を見下ろす様な不安を思い出したが、意識的に抑え込んだ。


 潔白に囚われた者は虫も殺せず、玄関すら潜れないが、髪と靴に泥を塗った者は王すら討ち、世界の果てまで駆けていける。


 “あの男”のそんな言葉を思い出しながらも別館近く、私有列車の影を目指して移動していき、物陰から件の三人が仔細に確認出来る距離まで、静かに接近した。


 装甲兵士2人が持っているのは、ローズスパイク。槍の端、石突きと呼ばれる部分を地面に突いている者、そして肩に担いでいる者。


 鎧を着込んでいない兵士はまだ何も起きていないと思っているからか、退屈そうな表情のまま、胸の前でクランクライフルを保持している。


 装備に目が行きがちだが、今回は装備よりも兵士自体の頭や顔の向き、そして視線が重要だった。


 装甲兵2人は何気ない動きで辺りに視線を投げては居るが、余り大きい動きは無い。

 残りの兵士1人は、他の2人と余り仲良くないのか話のネタが尽きたのかは知らないが、退屈そうに装甲兵達とは他の方向を見渡していた。


 装甲兵2人が大きく動く気配は無い。クランクライフルを持った1人の兵士、その視線の向きが重要になってくるだろう。


 もう少し観察していたいが、余り時間がある訳でも無い。


 兵達が大きく動かない事を祈りながら、足音を抑えつつ物陰から飛び出す様にして駆けていく。


 勝負は一瞬。


 見間違うか、目が留まるか。


 右を向くか、左を向くか。


 振り向くか、振り向かないか。


 息を、吸った。


 左手の蒼白く発光する痣に意識を集中させ、指に絡め取った“何か”を全力で引き寄せる。


 脳髄と胸の奥へ、濁った氷水を流し込まれた様な感覚と共に周囲の景色が後ろへ抜けていき、目の前の景色が一点に収束していく。


 加減無しに“手繰り寄せ”れば、自身が何れ程“跳ぶ”のかは一応ながら把握していた。


 最高速の列車から顔を出したとしても絶対に見られない景色と共に、装甲兵2人の近くを一足で通り抜ける様にして私有列車の暗い影へと身体を投げ込む。


 ブーツの底で可能な限り静かに地面を捉え、転がる事なく勢いを保ったまま静かに駆け出した。


 身体を止める事なく、素早く辺りを見回す。


 装甲兵2人はまるで問題ない、いや。ライフルの兵士が此方に振り向こうとしていた。




 空気が、時間が引き延ばされる。



 このままでは見られる。



 クロスボウで狙うか、いやダメだ。今殺せば台無しだ。



 相手には、干渉する訳に行かない。



 奴の死角に移動するか、ダメだ。角度が悪すぎて少し急いだ程度では確実に見られる。




 鋭く息を吐いた。


 炙られた様に熱い左手をもう一度握り締め、更に“手繰り寄せる”。


 着いたばかりの地面から足から消え、再び眼前の景色が一点に収束していった。


 黒く冷たい、恐ろしい濁りが胸から更に広がっていく。淀みが、俺自身に染み渡っていく。


 咄嗟の判断で選んだ方向は、別館。またもや加減無しに“手繰り寄せた”せいで、影を伝って素早く近付いて必要であれば更に“手繰り寄せ”を使う予定だった筈が、目を疑う程近くへと踏み込む事となった。


 しかも私有列車の暗い影を大して伝う事もなく飛び出してしまったせいで、影と別館の中間という何とも中途半端な位置にまで来てしまっている。


 加えて汗が吹き出す程の、燃え盛る様な激痛。


 焼き焦がす様な左手の痛みに、呻き声を必死に堪えながらそれでも、日向の中を走り出した。


 速度を意識しながらも隠密性を優先しつつ、左手を抑えながら走る。


 後ろを振り返る余裕も無く、別館に最短距離で侵入出来るルート、開け放たれていた手近な扉から別館の中に、それでも物音を抑える様にして入った。


 入り込んで直ぐ様振り返る。見られただろうか、警戒されたか。


 少し遠目に件のライフルを持った兵士を確認したが、まるで緊張した様子は見られなかった。


 暇そうにさえ見える様子で、また振り向く前の方向に向き直っている。


 息を吐いて、辺りを見回した。


 敵は、居ないか。


 予想より何倍も余裕の無い入り方になってしまったが、少なくとも人知れず別館へ入る事には成功した様だ。


 頭の中に別館の地図や図面を思い起こし、自分が入り込んだ位置と頭の図面を重ねる。


 炙られているかの如く焼き焦がされる左手を抑えつつ、ゆっくり息を吸う。


 落ち着け。入り込んだ先からどうするかは決めていただろ。


 左手の激痛で思考が乱されない様、急かされない様に意識しながらも、左手を抑えていた右手を離しヴァイパーを取り出して展開する。


 事前の任務資料により、この時間帯の別館内部には余り兵士が居ないと分かっていたが、無人とは行かないだろう。


 多少想定外の入り方にはなったが、別館に入り込む事そのものは計画通りだ。


 別館のこの部分から入ったならば上階へ向かう階段に近い事、また最上階から屋上及び屋根の上に出られる事も分かっていた。


 足音。


 前方から聞こえてきた足音、そして気配。


 右手のヴァイパーを握り締めたまま、即座に頭を巡らせる。


 前方、恐らくはあの角の先から此方に接近する兵士。


 足音の重さから鎧は着ていない。


 下がるか、いや下がった所でこの通路は直線だ。


 扉の外は今度こそ見付かる可能性がある、ここで見付かる訳には行かない。


 左手の黒魔術は無理だ、“手繰り寄せた”所で視線の向きも分からないのだから、普通に確認される可能性だってある。それにこの左手の状態ではかなり無理をする事になる。


 下がれない、外にも出れないとなれば答えは一つしか無かった。


 少し腿の緊張を溜めた後、床を足裏で押す様にして一気に距離を詰める。


 無力化の為の幾つもの戦法、幾つもの殺害方法が脳裏を過る中、不意打ちも兼ねて角から勢い良く飛び出した。


 驚いた様な、と言うより不思議そうにすら見える顔をした、兵士。


 の、背後に更にもう一人、同じく驚愕の色を見せる、兵士。


 二人、居る。


 頭の奥に、鮮烈な火花が散る。


 狙い澄ましたヴァイパーの素早い一撃が、甲斐あって目の前の兵士、その喉を突き破った。


 突き刺したヴァイパーを傷を広げる様に捻ってから手を離し、すかさず背後の兵士の胴体へとスパンデュールを放つ。


 咄嗟のボルトは、胸に当たった。


 間を開けずにもう一発ボルトを兵士の胸に撃ち込み、ヴァイパーの刺さった兵士の脇を抜ける様にして一気に距離を詰める。


 左手のワイヤーグローブを操作し、ガントレットを操作して特注のフルタングダガー、“ラスティ”を逆手に掴み取った。


 胸にボルトが撃ち込まれ俯くも何とか顔を上げ息を吸った兵士の喉を、逆手に持ったラスティで素早く掻き切る。


 拳で横向きに顎を打ち抜こうとして空振りしたかの様な動きだったが、拳底を延長したラスティは速度はそのままに、はっきりと兵士の喉を切り裂いていた。


 ヴァイパーの刺さった兵士を片手で支えつつ、吸った空気を喉から赤く零れさせる兵士が喉を抑えながら膝を付くのを見ながら、ラスティをガントレットに収める。


 喉を切り裂いたのは正解だったな。口の動きと表情からも、何かを言おうとしていたのは確かだ。誰に何を言おうとしていたのかは知らないが、静かにするに越した事は無い。


 ヴァイパーが刺さったままの兵士が力無くもたれ掛かってくる所を、片手で支えながらゆっくりと床に降ろす。


 命が首から抜け落ち、俯いたままの兵士に目をやり、ディロジウム銃砲のホルスターが腰に下がっている事に気付き、少し目を剥いた。


 思った以上に、窮地だったらしい。


 二人の死体を隠蔽するべきか少し悩んだが、隠せる場所については余り心当たりが無い。


 便所に隠そうにも、図面通りなら此処から便所までの道程は決して短くない。


 死体を2つ、何とか引き摺っている所を別の兵士に見付かる訳にも行かない、便所まで隠しに行くのは無しだ。


 この時間帯の別館に人が少ない事は資料からも分かっている、そんな中でこの二人を仕留めた事を考えると、念入りな隠蔽は必要無いだろう。


 それに別館にまで辿り着いている事を考えると、もうじき本館のウィンウッドと交戦して隠密性が無くなるのは間違いない。


 先を急いだ方が良さそうだ。


 適当な物陰に二人を雑に押し込め、スパンデュールのボルトを装填しなおしてからヴァイパーの刀身を、兵士の服で適当に拭う。


 内外構わず兵士が溢れ返っている本館と違い、別館の警護は外部の警護に多くの人員が割かれ、内部には余り人員が割かれて居ないと資料で予め分かっていた。


 ヴァイパーを右手に握ったまま、入念に気配と足音を探りつつ予定通り近場の階段へと急ぎ、静かに階段を上がっていく。


 二階の辺りで少し物音が聞こえ肝を冷やしたものの、アニガノ地区に入ってから今まで隠密性を保ってきた恩恵か四階、最上階まで階段で上がる間、兵士を見る事は無かった。


 まぁ、そうは言っても最上階に用がある訳では無い。


 俺の目的は最上階の更に上、屋上だ。


 屋上、ひいては屋根の上に通じる扉をゆっくりと開き、静かに辺りを確認する。


 スパンデュールの装填を確かめ、屋上の警護に当たっている兵士を改めて観察した。


 場所は三ケ所。二ヶ所が別館周り、一ヶ所が別館周り及び本館を監視する形でクランクライフルを手に辺りを見回している。


 本館を監視している箇所は二人、他の二ヶ所は一人ずつ。合計四人。


 別館から背の高い本館を監視する形で、本館周りの監視、そして万が一よじ登ろうとするレイヴンが居れば撃ち落とそう、という計画か。まぁ流石に、レイヴンにここまで入り込まれるとは夢にも思って居ないだろうが。


 そして、他は言うまでもなく別館周りの監視。


 三ヶ所。お互いがお互いを監視している訳ではないが、もし振り向きでもすれば充分にお互いが確認出来る位置関係だ。


 一ヶ所を制圧したとしても、他を制圧する前に振り向かれたらそこで俺の存在が露見してしまう。


 余り振り向く様な気配は感じられないが、敵というものは「今だけは振り向くな」という瞬間に、頭を掻きながら振り向くものだと言う事は不本意ながらよく知っている。


 息を深く吸った。


 今も本館、議事堂で行われている緊急総会は終盤に向かっている筈だ。時間も余り無いだろう。最悪、総会を早めに切り上げる可能性だって充分に有り得る。


 時間との、勝負だ。


 焦る訳には行かないが、もう動き出さなければならない。


 一気に、駆け出す。目指すは別館周りを一人で監視している、三角形の一角。


 そんな一角、その背後に素早く忍び寄っていき、展開したままのヴァイパーを握り締める。


 一角の一人を仕留めたら素早くもう一角の一人を仕留め、後は素早く二人を仕留めて無力化。


 文字にすれば、それだけの話。だが、“それだけの話”で命を落とした者、任務を滞らせた者を、俺はよく知っていた。


 計画通りに進める思考と並列する形で、不測の事態に対応出来る柔軟な発想、可塑性を保持しておく。


 振り返った際、押さえ込む事も考えなければならない。急いで“黙らせる”方法も考えなければ。


 スパンデュールで撃つのも手ではあるが、ボルトも無限にある訳ではない。加えて言うなら、今回の任務においては既に何本かボルトを使っている。


 ウィンウッドを仕留める際、または仕留めた後の脱出に際する交戦においてもボルトを使用する事を考えれば、思い切り浪費する訳にも行かない。


 かと言って、ボルトを渋って潜入が露見すればそれこそ今まで努力してきた事が水の泡だ。


 背後に素早く忍び寄られている兵士は、今の所気付く気配は無い。


 ヴァイパーを右手に握ったまま、押さえ込める様に左手を構えた。


 目の前にまで忍び寄った瞬間に膝裏を蹴り込み、背後から口を押さえつつ、右の脇腹から左の心臓までヴァイパーの切っ先で深々と貫く。


 少し暴れたがヴァイパーの刀身を捻って引き抜き、声が出なくなったのを確認して直ぐ様、口を押さえていた手を離しクランクライフルを落ちる前に掴み取った。


 段差や角度で見えなくなる様にゆっくりと身体とライフルを床に寝かせ、ヴァイパーの刀身を引き抜く。


 栓が抜けた様に溢れ出る鮮血がブーツに付かぬ様、足早に身を引いて素早くもう一角、もう一人の別館周りを監視している兵士に向かって駆け出した。


 何気ない会話の為だろうと、夕飯の話だろうと、どんな理由だろうと今、監視している連中が振り向いたらそれで終わりだ。


 角度と段差の問題で遺体は見えないにしても、立っている筈の場所にさっきまで居た同僚が立っていなければ、まず間違いなく調べに来る筈だ。周りに呼び掛けてから調べに来る可能性だって充分にある。


 奴等はクランクライフルを手にしているのだから、警報を鳴らさずとも当たる当たらないに関わらず発砲すればそれだけで警報を鳴らすに等しい効果は発揮されるだろう。


 発砲させる訳には行かない、その上音も立てさせない方が良い。


 音を抑えつつ、別館周りを監視している一人に駆けていく中、その一人が僅かに小首を傾げた。


 そんな兵士の動きに、胸の奥がざわつく。


 まずい。あの、何気ない仕草はとてもまずい。ああいう動きをする時は経験上、何かに気が向いた時か、何かに飽きたか、何かに違和感を感じた時だ。


 あの兵士は、振り向く。


 直感、確信にも近いそんな予感に、総毛立った。


 頭の中で直ぐ様、無力化する計画を切り替える。


 ここからあの兵士が振り向くより先に、兵士の元に駆け付けられる可能性は非常に低い。


 その瞬間に殺害、ひいては無力化出来なければ、その瞬間に騒ぎが始まる。


 ブーツの底で地面を噛み、音を抑えつつ駆けていく先を一人の元から、本館を監視している二人へと切り替えた。


 クランクライフルを持ち直した兵士がゆっくりと振り返る様が、視界の済に映る。


 クソッタレが。


 そちらに直ぐ様振り向いて足を止め、片膝をつき、低い体勢からヴァイパーを地面に放った右手でスパンデュールを放つ左腕を支え、左手でガントレットを操作。


 意識の高さ故か、振り返った兵士が眼に映った物を理解してライフルを持ち直そうとした瞬間、狙い済ました甲斐あって風切り音と共に眼球と眼窩を通ったボルトが、骨の入り雑じった脳漿を撒きながら後頭部を突き破った。


 空気が抜けていく様に後ろにしなだれていく兵士を尻目に、音よりも速度を優先して全力で二人の元へと駆ける。


 走りながらも、地面のヴァイパーを拾わなかった右手で腰のログザルを引き抜き、左手にはグローブ操作でラスティを逆手に掴み取った。


 左手に特殊合金のダガー、右手に骨のヴァネル刀を握った状態で、本館を監視していた二人の元へ勢い良く駆けていく。


 ライフルを辺りに向けながら監視の目を光らせているであろう、兵士二人の元へと全力で駆け寄っていく最中、ボルトが頭蓋を突き破った兵士が倒れたのだろう、遠いながらもそれなりに派手な音が後方から聞こえた。


 走りながら、右手のヴァネル刀ことログザルを肩越しに振りかぶる。


 一言、右の兵士が隣に話し掛けた後に此方へライフル片手に振り返るも、その兵士の喉に左手の拳底を叩き込む様な動きで、右手でログザルを振りかぶったままラスティの刀身を真正面から突き刺した。


 首に刺したラスティを捩りつつ下に引いて手を離し、兵士の頭を下げさせてから足を踏み変える様にして隣の兵士に近づき、ラスティを離した左手を添えて力を増した振り抜きと共に、踏み込みながら隣の兵士の首を斬り飛ばす。


 既に此方に振り向き、ライフルを振ろうとしていた兵士はまるで、子供が叩き付けた際に誤って首が千切れてしまった人形の如く、据えた果実を横から打ち飛ばした様な勢いで、屋上の地面へと水平方向に首を吹っ飛ばしていった。


 真上方向にさえ若干の勢いをもって迸る鮮血から目線を切り、ダガーを首に刺したままの兵士に対し、振り抜いた勢いを利用して回転する様に向き直りつつ、直ぐ様足を振りかぶる。


 首から赤黒い鮮血の帯を真下に伸ばし、刺さったままのダガーを抑えて俯いていた兵士の顔に、勢いの付いた硬いブーツの爪先が鼻を潰しつつめり込んだ。


 頭を下げさせられ俯いていた事もあり、此方の体勢が崩れる程の振りかぶりと蹴り上げを真正面から顔面でまともに受けた兵士が、鼻血と歯の欠片を噴き上げながら大きく仰け反る。


 全身を使って蹴り上げたが故に自分は後方へと大きく体勢を崩したが、相手はそれ以上に大きく後ろに崩れ、思った以上の音を立てながら屋上の地面に倒れ込んだ。


 辺りを素早く見回し、騒ぎが無い事を確信してから荒い息を吐く。


 崩れた体勢を立て直しヴァネル刀を鞘に収めていると、急所を乗り越えたという事実に安堵にも似た想いが胸中に沸き上がり始めるが、呼吸で意図的に抑え込んだ。


 安堵している場合ではない、まだ乗り越えるべき難所は幾つもあるのだから。


 もう一度辺りを見回してから大きく息を吸い込み、長く吐いてから屋上の中央に置いたままだったヴァイパーを拾い、適当に血を拭ってから格納する。


 急がなければ。


 別館、階層にして四階、屋上を含めるなら五階分の高度。


 その五階分の高度から本館、それも日の向きと角度の関係で濃い陰になっている壁面の一部へと、これから俺は全力で跳び移らなければならない。


 勿論、急拵えな計画である事は自覚していたが想定以上の兵士達や限られた時間、制限の多い環境から導き出せる答えはこれしか思い付かなかった。


 本館と別館の間は、先程自分が排除した連中が担当していた範囲だからか、他に比べて随分と兵士が少ない。ここだけ見れば、“言う程でも無いか”と言える程に。


 跳び移る瞬間を見られたらそれで終わりだが、言い出せば終わりの無い話だ。それを言うなら、ここに辿り着くだけでも随分なリスクを乗り越えてきたのだから。


 不要なリスクを遠ざけるのなら、必要なリスクは取らなければならない。


 “取る時”だろう。


 別館の一階から抜け出て、本館の下からよじ登ればもっとシンプルに片付くのではないか、とも勿論思ったが余りにも行程と見られるリスクが多かった。


 別館から抜け出て歩いている内に、もしかしたら別館の一階まで降りている内に騒ぎになったり、途中で兵士に見られたりするかも知れない。


 肩を回した。


 屋上の中心辺りまで移動し、改めて精神を集中させていく。


 分かりきった事ではあるが助走を含め、全力で跳ばなければ目標として定めている濃い影の壁面には届かないだろう。


 それより高過ぎても、低すぎてもダメだ。改めて登るならまだしも、それ以外の壁に跳んだ勢いで飛び付くのは目立ちすぎる。


 まぁ、飛び付くのがやっとの距離で“高過ぎる”は無いだろうが。


 行くか。


 屋上の中心辺りから、加速を重視しつつ全力で駆け出し、地面を噛んだ足で自身を押し出す様にして速度を上げていく。


 側面や周囲の風景が後方へと流れていき、意識と景色が眼前に収束し始めた。


 駆けろ、駆けろ。


 ここで充分な速度を稼げなければ何にもならない、高く飛び上がっても壁面に届かなければ結局、“五階の高さから飛び降りて地面に叩き付けられたレイヴン”で終わりだ。


 更に加速しつつ正面の本館、その壁面を見据えた。


 跳躍の時が近付いてくるにつれて、端で踏み切る足を意識しつつ頭の中を研ぎ澄ませる。


 頭の中で、全力で跳んだ際の動きと壁に掴まる動きを思い浮かべながら、別館の屋上の端に足を掛け、全力で跳んだ。




 想定以上でも以下でもない、時の流れが引き伸ばされた様な緩やかな浮遊感。



 全力を振り絞った跳躍。全身の全てが地から離れている数秒間、レイヴンでしか知り得ない感覚。



 跳躍と勢いで振り切っていた、万物が逃れられない当たり前の力、時と重力が真下から徐々に絡み付いてくる。



 空を揺蕩う肉体、感覚、臓腑が引き戻される。



 迫り来る目の前の暗い壁面に、意識の全てを集約させる。



 真下で、死が口を開けているのが分かる。俺が、手足を踏み外すのを待っているのが分かる。



 指を掛けろ、掴まれ。



 衝撃を受け止めろ。足と身体から受け流せ。



 掛ける指を滑らせるな、叩き付ける勢いは肘と前腕で逃がせ。



 指だけは滑らせるな。



 もう来る、壁面が近付いてくる。



 掴まれ。




 壁に投げ付けられたとさえ言える衝撃と共に、本館の暗い壁面に衝突しつつ指で直ぐ様予定していた手掛かりを掴む。


 足裏と肘から伝わる衝撃を受け止めつつも、顔と胸だけは叩き付けない様に腕を突き出していた。


 呻き声が零れそうになるも、何とか抑えながら直ぐ様身体を引き上げ、暗い陰の中で壁に身体を張り付かせる。


 カラスというよりは毒虫の類いだな。そんな皮肉と共に下を見下ろすも、特に俺を見掛けて騒いでいる様な連中は見受けられなかった。


 念の為にもう少しだけ息を潜めて壁に張り付いていた後、騒ぎになっていないと確信出来てから少し息を落ち着かせ、暗い影の中から壁面を這い上がって行く。


 時折、影が薄い比較的明るい部分を伝う事もあったが、出来るだけ目立たない場所を登る様に努めた。


 過剰とも言える数々の装飾に手や足を掛け、一つ一つを渡り歩く様にして登っていく。


 五階近い高さがあった別館よりも更に高い本館の、まず人の手が届かない様な壁面にさえ数々の装飾が詰まっているのだから、何とも豪華な話だ。


 こうして其を伝って壁面を登り、暗殺を企てているレイヴンが言うのも皮肉な話だが。


 議事堂の屋上、その端の豪勢な装飾に手を掛けようとした辺りで、ふと眉を潜めた。


 ここまで壁面を登ってきた自身の息が上がっているのか、とも思ったが違う。


 気配がする。微かだが、屋上から人………間違いなく、兵士であろう気配が。それも複数。


 そして何よりも、金属音。装甲兵だ。


 胸中で、悪態を吐いた。


 本館の高い屋上には、兵士が居ても2人か3人程の筈じゃなかったのか。少なくとも作戦資料ではそうだった筈だ。だからこそ自分も黒羽の団も、屋上を潜入ルートの一つとして選んだのだ。普通の兵士なら最悪、スパンデュールのボルトを連発すれば色々と音はするものの、まだ何とかやりようもあったのだが。


 と、そこまで考えた辺りで我に返り、自身を罵った。


 作戦資料よりも実際に配置されている兵士、それも装甲兵の数が多いのは分かりきっていた事だろう。望遠レンズで偵察した時は本館の高さ故に、屋上を確認出来なかったのだからこれぐらいは想定して然るべきだ。


 窓の装飾に足を掛けたまま、静かに顔を上げる。


 時間は少ない、愚痴を言っても仕方がないだろう。居るにしても、何とか排除しなければ。


 気配を入念に探りつつ首を伸ばす様にして、屋上の端の装飾の隙間から静かに兵士の配置を確認する。


 息を呑んだ。


 何人もの装甲兵。両手剣を下げている者に、ローズスパイクを握り締めている者。言うまでもなく、フルフェイスの兜も被っている。


 装飾の隙間から覗いただけなので全体像は見えないが、隙間から覗いて遠目にもこれなら、間違いなくかなりの数が居ると見て良いだろう。


 屋上の端からは離れているから此方に気付く事はそう無いだろうが、だからと言ってどうなる訳でも無い。


 屋上の端から、ゆっくり身体を下げていく。


 確かに本館の屋上は広いが、だからと言って装甲兵を屋上に何人も配置するとは。よっぽどレイヴンを警戒しているのだろう、分かりきった事ではあるが。


 しかしそうも言って居られない、どうする。あの人数の装甲兵を隠密に排除するのは間違いなく無理だ、大騒ぎの末に抜け出す事も出来なくは無いだろうが、ウィンウッドにもその騒ぎには伝わるのは間違いない。


 上層階にある総会が行われているであろう会議室、そこにウィンウッドは居る。


 そして上層階階に外部から侵入するには、この屋上からの侵入が必須だ。他から侵入しようにも本館上層階の窓は嵌め込み式が半分近く、換気用に開けられる窓も殆どが施錠…………内側から固定されてると見るべきだろう。


 現に今装飾に足を掛けている、この窓も跳ね上げ式の開閉出来る窓ではあるがガラス越しにも小さな金具で、内側から窓枠へと窓が固定されているのが見える。


 本館内部に軸を通す様にして取り付けられているディロジウム昇降機、その太い柱の様なシャフト内を伝って本館の各階層を往き来する案も想定しては居たが、その案を採用するにしても昇降機自体の入り口は一番近い所が屋上の真下、最上階であり、その最上階に降りる屋上の入り口は言うまでもなく、この屋上にある。


 装飾へ足を掛けた体制のまま、レイヴンマスクの下で顔をしかめた。


 非常にまずい展開だ。


 考えろ、考えろ。そう胸中で呟きながら、自身の装備と兵士の行動理念、どのリスクを切るべきかを脳内で思案する。


 何か盲点は無いか。無意識に決め付けているせいで、思考の幅が狭まっていないか。発想が不自由になっていないか。


 “反則”など無い。“無様”と“狡猾”は違う、ルールを捨てられる者こそが生き残る。


 固定観念を捨てられる者こそ前に進める。


 そこまで考えた所で、ふと自身の足を見つめた。


 正確には、足を掛けている窓枠。


 体勢を変え静かに壁面を這い降りて、窓枠を固定している小さな金具をガラス越しに観察する。


 跳ね上げ色の窓を内部から固定している金具、只でさえ高階層の窓と言うものは普段から固着しがちで、錆びた様に開きづらく簡単な固定を内側から施すだけで殆ど開かなくなってしまう。


 だが、逆にこれだけの高階層の建築物ならばそう頻繁に補修や改装は出来ないだろう。


 ましてや屋上付近の最上階ともなれば、年季が入っていてもおかしくない。


 左手のガントレットをワイヤー仕込みのグローブで操作して、ラスティを逆手に掴み取る。


 ラスティの刃先を確かめてから、跳ね上げ式の窓と窓枠の間に強引に捩じ込んだ。


 賭けではある。だが、意識と警備の隙を突くにはこれしかない。


 特殊合金から削り出しで製造され、破格の頑強性を持っているフルタングダガー“ラスティ”は、ダガーとしての用途は勿論ながら梃子の様にして蝶番を破壊出来る程の強度も兼ね備えている。


 ゼレーニナ曰く、薄い金属板なら突き破れるとの事だったが生憎と機会は無かった。


 そんな機会には縁が無いのが、一番ではあるが。


 軋んだ窓枠の隙間を抉じ開ける様に、固定している小さな金具に負荷が掛かる様にラスティへ力を込めていった。


 少しずつ窓枠が変形しているのか、負荷が掛かった金具と窓が無理に曲げた金属の様な音を立てる。


 そこまで大きな音では無いが、近くに居る者なら嗅ぎ付けても仕方無い音だ。


 屋上の連中とて離れてはいるが万が一此方にやってきたなら、聞き付けて不審に思う者が居るかも知れない。


 窓からガラス越しに見える風景には、まるで無人の如く変化が見られないが手早く済ませるに越した事は無かった。


 小さな金具が窓枠の変形に耐えきれずに弾け、部屋の中に転がる。


 施錠が破壊出来た事を確認して、固着しかかっていた窓を素早く跳ね上げる形で開き、中に転がり込んだ。


 直ぐ様、窓を閉める。


 即座に耳を澄ませたが、特に音は無かった。


 どうやら取り敢えずは、内部に忍び込めたと見て良いだろう。


 窓を観察した時、ガラス越しにも分かっていたが、どうやらこの部屋は単なる便所らしい。


 掃除こそされているものの取り分け珍しい事も無い、跳ね上げ式の窓があるのも換気の観点から考えれば当たり前の話か。


 頭の中の図面から部屋割りを引き出し、自分が今どの辺りに居るかを把握する。


 真上に屋上が位置する最上階、そして中心部には劇場さながらの豪勢な会議室。


 其処に、ウィンウッドは居る。取るに足らない、数多の連中と共に。


 此処から少し進めば、会議室へと入り込む両扉の入り口に辿り着くだろう。其処から会議室へと飛び込めば、中に居るウィンウッドと直ぐ様ご対面だ。


 …………元から、隠密性を保ったまま帰る事が出来るとは思っていない。いよいよ、隠密性を捨てる時だろう。


 頭の中で思考を巡らせる。


 資料によれば兵士が居るのは会議室の入り口こと重厚な両扉、その外側。扉を背にして装甲兵が2人居るとの事だが、この状況から考えてもそれ以上居ると思っておいた方が良い。


 装甲兵をすり抜けて会議室に飛び込んだとしても、咄嗟にウィンウッドの位置を把握し、仕留められなければ装甲兵が中に踏み込んできて面倒な事になる。


 中に入れば確実に俺の存在は露見する、他の連中がレイヴンがウィンウッドを仕留める所を、黙って眺めている訳が無い。



 足音。



 便所に近付いてくる足音、それに伴う気配。


 音が軽い、装甲兵ではない。


 便所の扉の影になる様にして隠れようかと思ったが、壁との間が狭すぎる。


 腰から取り出したヴァイパーを、素早く展開して握り締める。個室に隠れるしか無いか。


 察されない様に開いていた個室の扉は閉めず、隠れたまま僅かに気配を探る。


 便所の扉が開き、足音と気配が一際大きくなった。


 傍を歩いている様な足音が続き、少しずつ近付いてくる。


 個室の扉の前に来れば即座に喉を狙おうと考えていたが、少しして足音が止まった事、そしてその位置が窓の辺りだと気が付いた瞬間、素早く個室から飛び出した。


 窓枠を確かめる様に触れていた兵士が驚いた様に振り返るも、即座にヴァイパーで喉を突き刺す。


 ヴァイパーから手を離し、反射的に振るわれた兵士の腕を肘で防ぎ、ヴァイパーの柄を掌底で叩き付ける様にして押し込んだ。


 生気が抜けていく兵士の喉に刺さったヴァイパーの刀身を、軟骨の感触と共に捻って引き抜く。


 壁に背中からもたれ掛かり、兵士が疲れて座り込む様にずり落ちていく中、後頭部を壁にめり込ませる勢いで顔を踏みつけた。


 便所に来ただけかと思っていたが窓を気にしていた辺り、やはり聞こえる者には音が聞こえていたらしい。気になったのが、こいつだけだと良いのだが。


 ヴァイパーの刀身の血を拭い、格納してから兵士の死体を便所の個室に押し込めてから、ふと思い付く。


 隠密を捨て去る頃合いに来ている上、出入口の扉の付近に装甲兵が待ち構えているのなら…………


 手首の骨を鳴らし、肩を回し、スパンデュールの装填を確かめ、別館の屋上で使用して以来ボルトを装填していない事に気付き、改めて装填した。


 何発も撃てるに越した事は無い。


 そして幾つか持ってきていたディロジウム手榴弾を何時でも取り出せる様に位置を変え、頭の中でもう一度作戦を整理する。


 リスクはあるが、この期に及んで“靴紐を心配する”様では話にならないだろう。


 頭の中で作戦を再確認しつつ、カラスの懐中時計で時間を確かめた。


 分かっていたが、時間が無い。加えて、この便所から飛び出せば、一息吐く暇は暫く無いだろう。


 腰のログザルの柄に触れ、左手の痣を革手袋越しに蒼白く浮かび上がらせる。






 さて、行くか。

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