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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 身体中の血液が、沸き立つのを感じる。





 薄着で肌寒い筈の闘技場だが、まるで寒さを感じなかった。


 腹の底まで届く様な深く、長い呼吸と共に、闘志を高めていく。


 麗しく美しい妻のアマンダが礼儀正しく椅子に座り、専属で自分を鍛えた講師達を従える様にして自分を見守っている。


 聖母テネジアに祈るが如く、両手を組み合わせた。


 かつて、人類にとって大陸が全てだった時代。


 ディロジウムが発明される前、ディロジウム駆動機関どころか蒸気機関すら夢のまた夢だった頃。


 我々が“達人”や“魔性”と呼ぶ様な恐ろしい程の身体能力を持った兵士が、溢れ返っていたそうだ。


 鍛練と素質の末に、片手で剣を振るっているにも関わらず容易く敵の腕や足を切り落とす者や、素手にも関わらず敵の頚椎を握り潰し頭を引きちぎる者。


 堅木の警棒を素手でへし折る者。煉瓦を砕くどころか、煉瓦の壁を破る者。


 人間には、それだけの可能性がある。


 時代と技術により人間が種として衰退し、それだけの事が出来る人間が稀になってしまった現代においても、それは変わらない。


 誇り高い血脈。様々な教養を備えた高潔な人格に加え、最新鋭の機器と技術で鍛え上げた鋼鉄の肉体。


 男として、いや“雄”として憧れぬ者は居ないだろう。


 教養や人格が食事や茶会、会話で試され磨かれる様に、男としての肉体や雄々しき魂も鍛練や試練、闘争によって試され磨かれるのだ。


 ダンベルとバーベル、最新鋭の技術による鍛練によって確かに自分は彫刻や絵画に並ぶ様な、美しい肉体を手に入れた。


 使用人や部下が褒め称えるものの、自分はそこが終着点とは思わない。


 その先へ、“男”としての道を更に進みたいのだ。


 そして見つけ出した答えが、格闘による闘争、“ベアナックル”と呼ばれる格闘技の世界だった。


 家系も血筋も無い、ただ勝者と敗者だけが残される単純かつ冷酷な闘争の世界。


 労働階級のスポーツと揶揄される事も多いがストリートファイトや、ベアナックルでの勝者は階級や出自に関わらず、“強者”として敬意を払われる事も確かだ。


 お世辞にも上品とは言えないが、それでも貴族の間では格闘技を好む者は意外と多い。


 聞いた話によると、わざわざ鹿車を用いて隣の区域に向かってまで、違法な賭け試合を観戦する貴族も居るのだとか。


 勿論、幾ら尊敬されると分かっていても、自身が拳を握る様な貴族は居ない。


 ファイトの世界に入ったなら、どれだけの階級と血筋があっても盾になってくれず、誰も守ってくれないからだ。


 だが、自分は違う。


 自分は貴族の人格と教養、血筋を備えたまま獰猛かつ雄々しいファイトの世界に置いても、“強者”となりたい。


 逞しい“男”として。


 雇った講師から格闘技術を学び、使用人相手に幾らか練習もした。


 先月、清掃を任せていた大柄な亜人奴隷ともファイトしたが、亜人奴隷は黙って殴られてばかりで手も足も出なかったのを覚えている。


 亜人も何度か拳と蹴りを出してきたが、自身の鍛え上げた鋼の肉体には気の抜けた攻撃にしか感じられず、現に防ぐ事も容易かった。


 雇い主だからと言って忖度などしなくていい、と言い付けた上でこの様なのだから、まず間違いなく自身の実力だろう。


 そしてそれからも使用人相手に幾らかファイトしたが、いい加減“その先”へと進む時だと感じていた。


 知らない連中とのファイトだ。


 勿論、知らない連中と言ってもストリートで殴り合っている、悪臭のする様な無頼漢を引き抜いてくる訳では無い。


 粗相の無い様、公式なベアナックルの試合を経験している様な、“弁えている”闘士を金で雇った。


 言うまでもなく、キセリア人の闘士を。


 鍛練やダンスの練習に使っていた広場を一時的に改装し、特別に用意させた私設闘技場。


 八角形(オクタゴン)の闘技場、その1コーナーに立ったまま再び深い呼吸をする。


 前々から丁寧に準備した上で鍛練もしてきた、勝てる筈だ。勝てるとも。


 伝える前は多少不安だったが、アマンダにその旨を伝えると彼女も飛び上がらんばかりに喜んでくれた。“雄々しい”夫を持って、何と自分は幸せな妻なのか、と心から喜んでくれたのだ。


 自身の選択はやはり間違っていなかった、自分は“男”として正しい方向へと進んでいる。


 対角線上に控えた闘士が、講師や部下と何かを話していた。恐らくはルールの確認だろう。


 ベアナックルの公式試合では噛み付き、目潰し、局部への攻撃は禁止のルールだ。


 本来ならば、指や骨を折るのは反則ではないのだが、今回ばかりは講師からの要望で無しにしている。


 まぁ、相手も安いとは言え一応、公式なベアナックルの選手だ。


 貴族が私用で選手の指や骨を折るのも、後々波紋を呼ぶかも知れない。


 講師は時折生意気な節があるが、一応信頼に値する講師ではある。


 あれだけ強く言うのなら、従ってやろう。


 部下の一人が宣言し、特設闘技場の中に入る事を両者に促す。さぁ、本番だ。


 闘技場の外から促されるまま中心へと歩んでいき、これからファイトする闘士と対峙した。


 少しだけ見上げる。


 自身が6フィート弱、向こうが6フィートきっかりの身長。


 1インチ程の身長差しか無い筈だが、こうして見ると数インチは違う様に思えた。


 この闘士は、こんなに大きかったか?


「宜しくお願いします」


 にこやかに闘士が握手を求めてくる。


 これから戦う相手に握手など、と思ったが一応握手には応じてやった。


「忖度するなよ、私は真の闘いを求めて個々に居るのだ」


 睨み付けながら、呟く。其処らの忖度された上で気遣われる事を当たり前だと思っている様な、怠惰な貴族とは違う。


 俺の言葉が意外だったのか、闘士は僅かな間の後に「勿論です」と返してきた。


 手を離し、少し距離を取る。そんな笑顔など、欠片も出ない様にしてやる。


 闘技場の外へと目をやり、待機していた講師に「始めてくれ」と声を掛けた。


 講師が頷き、高々と手を挙げる。


 息を吐きながら自分が大きく構えると、闘士も緩く構えた。


 表情からも分かる通り、余裕のある構えだ。


 気に入らない。


 講師が大きく間を取り辺りを見回した後、響き渡る大声で開始の合図を叫んだ。











 講師が叫んでいるのが聞こえる。


 もっと動けと言っている。


 言い返そうにも、呼吸が追い付かなかった。


 胸中で叫ぶ。


 出来るなら言われるまでもなくやっている、ふざけるな。


 足と腕が、過酷な鍛練の後の様に重い。


 殴られた脇腹と肩に、鈍い痛みが染み込んでいた。


 使用人と試しにファイトした時はまるで違う。こんなにも、闘争の世界とは過酷な物なのか。


 意識的に息を吸い拳の突きを幾つか放つも、当たり前の様に防がれる。


 闘士はつい先程試合が始まったかの様に、落ち着いて構えていた。


 突きも蹴りも幾らか良いものが入った筈だから、向こうも腹や腕に来ている筈だ。


 表情を隠すのが上手い奴だ、きっと内心は相当効いているだろうに。


 選手として、表情を隠す技術も必要なのだろう。


 ステップを調整し、相手の足元を見据えながら鋭く息を吐き、蹴りを放つ。


 空振り。


 まるで蹴りが分かっていたかの様に、闘士にかわされた。


 胸中で悪態を吐く余裕すら無い。


 相手が踏み込んできた。


 まずい。


 直ぐ様腕を寄せ、顔の防御を固めた。


 いや、腹を打たれるかも知れない。蹴りも有り得る。


 石をぶつけた様な固い音がして、腕の中の頭が思い切り真後ろに仰け反った。


 思わず足が後ずさる。


 力が抜けた。


 意識が定まらない。まずい。


 牽制として相手の顔も分からないまま、左腕を反射的に振るう。


 当たらなかった。


 右腕を銃口の様に突き出す。


 牽制だった。何がどう伝わるか分からないまま、とにかく右腕で牽制する。


 少し時間がかかるが、意識が戻ってきた。


 自分が訳も分からず突き出した右腕を見て、闘士が様子見の様な仕草で距離を取る。


 冷静に考えればこの右腕は何一つ牽制になっていない。それどころか腕を取られる可能性だってある。


 闘士が構えたまま距離を取っているのは、忖度のつもりだろう。相手に忖度されるのは腹立たしいが、今攻められると非常にまずい。


 体裁として右腕で牽制しながらも、音を立てて荒く息を吸った。


 少しずつ、打たれた瞬間の出来事が脳裏に甦ってくる。


 何故だ。


 腕で防御を固めていたのに腕の内側、顎を打ち上げられた。


 そこまで考えて、一つの結論が出る。


 相手は此方が固めた防御、腕の下を潜らせる様にして顎を打ち上げたのだ。


 腕の下を潜らせる方法は教えられてはいたが、正直実戦で使うとは思わなかった。


 牽制したまま呼吸している内に、更に考えが繋がっていく。


 相手は今、故意か事故かは知らないが此方を強く打ってしまい、此方が倒れそうなのを見て牽制が効いている“体”で此方を休ませている訳か。


 侮られている。非常に業腹だが、助かるのも事実だった。


 遠かった応援の声が近付いてきた様な気がして、少し意識を外に向ける。


 使用人や部下達が自分を応援していた。


 指示では無い、此方の勝利を信じて応援している。


 アマンダの声も聞こえた。


 貴方は真の男よ、負けないで。


 そんな言葉が聞こえ、息を吸った。


 そうだ。妻が見ている。あの美しいアマンダが自分を応援している。自分の勝利を信じている。


 声の様に音を立てて息を吐き出し、肺に深く空気を吸い込んだ。


 一気に、駆ける。


 全身に振り掛かる歓声が、倍に膨れ上がった。


 気力を漲らせ、突きを打ち込む。


 相手が防御を固めているが、それでも構わない。


 追い込んでやる。


 此方の突きは腕や肘で和らげられたものの、幾らかは闘士の腹にも入っていた。


 咆哮と共に蹴りも入れ、相手の脛や腿へと鋭い蹴りを打ち込む。


 相手の顔は、まだ涼しく見えた。


 いや、効いていない筈は無い。


 足や脇への打撃は、毒の様に染み込んでいく筈だ。


 振るわれた大振りな突きを防ぐ。


 そうだ、効いている。


 こんなに大振りになるなんて、向こうにも余裕が無くなっているんだ。


 アマンダの応援が聞こえる。


 勢い付いているのが、自分でも分かる。


 息を吐きながら、相手の脇腹へと打ち込んだ。


 肘で防がれる。


 またも重ねて脇腹へと打ち込み、下段への蹴りも交えつつ、防御の上から更に打ち込んだ。


 負傷が隠せなくなったのか、闘士がはっきりと声を上げ急に体制を崩す。


 顔を上げた。今だ。今しか無い。


 肺の空気を吐き出しながら、全身を使って大きく足を振りかぶり、相手の胸を踏みつける様にして蹴りを放つ。


 咆哮と共に叩き付けたその蹴りに、闘士が予想以上に後ろに飛んだ。


 突き飛ばされてわざと後ろに飛んだ子供の如く、闘士が仰向けに倒れる。


 急に声が遠くなり、足から力が抜けた。


 片膝を付いて荒い息をしながら仰向けに倒れた闘士を睨んでいたが、闘士は仰向けに倒れたまま静かに手を上げ、回す様にゆっくりと振った。


 降参の合図だ。


 その途端、大歓声が沸き起こる。


 闘技場に部下達が入ってきて次々に称賛の言葉を述べ、講師に至っては「現役の闘士に勝ってしまうとは」と笑顔を浮かべていた。


 片膝を付いた体制から立ち上がり、支えようとした部下の一人を払いのける。


 払いのけた部下に「起こしてやれ」と倒れたままの闘士を指して言うと、皆が思い出した様に闘士へ顔を向ける。


 そして指示された部下が闘士を引き起こそうとすると、闘士がそれを払ってから身体を起こした。


 直ぐ様、叱咤するかの様に声を飛ばす。


「私は忖度される為にベアナックルを始めたのではない」


 自分が張り上げた声に、辺りが静まり返る。


 部下の一人が、自分が叱咤されたかの如く息を飲んだ。


「私は自分を磨く為にお前を雇ったのだ。今後、もし忖度でもしようものなら許さんぞ」


 数秒静まり返った後、再び歓声が沸き上がる。


 汗を拭いたばかりだと言うのに、アマンダが涙ながらに飛び付いてきた。


 自分の勝利を心から祝福してくれているのが分かり、思わず此方も身体が痛んでいるのにも関わらず、頬が緩む。


「所詮は貴族だろうと侮っていました、お許しを」


 闘士が身体を起こした体制のまま、通る声で吐露する様にはっきりと言う。


 少しばかり口角を上げ、更に闘士が言葉を続ける。


「貴方ならベアナックルの試合でも戦えるでしょう」


 そんな闘士の言葉に、更に歓声が沸き上がった。


 堪えきれない様にアマンダがきつく、腕を回して抱き締めてくる。


 身体は痛み、呼吸は乱れていたがとても良い気分だった。


 誇りと“男”としての溢れんばかりの尊厳が身体中を駆け巡っていく。


「貴方はこのレガリスでも最高の夫だわ」


 耳元で甘く、感動を抑えきれない様にアマンダが呟いた。


 此方も優しく頭を擦り寄せる。


「貴族で紳士なだけじゃなく、“ベアナックル”まで強いなんて」


 そんなアマンダの声に聞き惚れながら、「当たり前だろ、私は美しい君の夫なんだからな」と返すと、益々腕に力がこもり、思わず笑ってしまった。


 それから少し経って、闘技場に集まっていた連中が徐々に解散していき、負けた筈の闘士が意気揚々と金貨の袋を手に帰っていくのを見て、歯噛みした。


 悠々と歩いている姿には、何一つ身体を痛めた様子は無い。痛い筈の脇腹に至っては、左右に軽く伸びをしている始末だ。


 あの野郎。


 闘士を見送っていた講師を呼び寄せ、真っ直ぐ目を見ながら呟いた。


「奴はもう雇うな」


 そんな自分の言葉に、講師が目を見開いた。


「何と言いました?」


「奴をもう雇うな、と言ったんだ。次からはもっと小柄な闘士を呼べ、私より高いじゃないか」


 自分のそんな言葉に思わず講師が眉を潜める。


 あの闘士、ベアナックルの相手として選び雇ったのはこの講師だ。当然、全ての責任はこの講師にある。


「確かに向こうの方が高いには高いですが、数インチにも満たない差ですし」


「体重差で向こうが有利過ぎる。あいつは数発だが、殺す気で打ってきたぞ。私だから耐えられたものの、あのまま倒れてもおかしくなかった」


 講師の言葉を遮る形でそう続けると、講師の顔が幾らか青くなった。


 漸く、自分の考えが甘い事に気付いたらしい。


「私が負けても良いのか?金で雇ったベアナックルの闘士ごときに、無様に倒されても構わないと?私が皆の前で負けたなら、その敗北は全てお前の過失だぞ」


 畳み掛ける様にそう言葉を紡ぎ、加えて講師の胸ぐらを掴み上げた。


 生憎と、講師相手ならば自分の方が身長も高い。


 少し講師の呼吸が速くなり、自分が顔を近付けると講師が息を飲んだ後に答えた。


「畏まりました、次は小柄な闘士を呼びます」


 そんな講師を突き飛ばす様にして離し、睨み付けながら呟いた。






「お前は私を美しく勝たせる為に講師をしているんだ、忘れるなよ」

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