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息が白くなっていた。
もう氷結の月か。
今月で今年も終わる訳だが、考えてみれば今年は随分な年だった。
春頃の自分が今の自分を見ても、きっと信じられないだろう。自分とは分からないかも知れない、無理も無いが。
厚い防寒着を着込んできたのは正解だったらしく、頬から伝わる冷気が今年の冬も容赦無い事を示唆していた。
道を歩きながら、手袋に覆われた指を曲げ伸ばす。
個人的には、着込めば解決出来る分夏よりは冬の方が好きだった。
少なくとも今年の夏の様な、スクランブルエッグに憧れる奴しか歩かない様な炎天下の事を考えると、尚更冬が好きだと言わざるを得ない。
雪を踏み固める様にして歩いていたが、流石に技術開発班の方面まで来ると道は整備されていた。
道を覆わない様に雪は端へ寄せられ、またそれが同時に道筋を示している。
技術開発班の連中は、この寒空の中でも仕事をしている様だ。何れ程の愚痴が混ざっていたのかまでは、知らないが。
整備員の一人が友好的な笑顔を見せながら、片手を上げて挨拶をしてきた。
友好的な反応に内心、少し驚きながらも顔には出さずに此方も片手を上げて挨拶をする。
カラスが肩に留まって、目の前の整備員が走って逃げる様な事にならない様、胸中で願いながら。
整備員は用件を訊ねようとしたのだろうが聞く前に大体の検討が付いたらしく、俺の視線の先を振り返っては“何でわざわざそんな所に”という表情を、何とか誤魔化そうとしていた。
演技派では無かったが。
そんな整備員の顔に気付かないフリをしながら別れ、周りの雪掻きを怠っているせいで主の人となりや性質が如実に現れている、“魔女の塔”に足跡と共に入っていく。
冷たく武骨な両扉を開いて何を迷うでもなく中に入り、大型貨物昇降用のリフトを呼び出すレバーを引いた。
轟音と共に昇降リフトが下がってくるのを眺めながら、冷えた空気を吸う。
本腰を入れてザルファ教について知ろうと思い立った後、この塔に来る事を思い付くまでそう時間は掛からなかった。
少しは自分で調べようかとも思ったが、元々団に味方の少ない自分が自発的に物を調べようとすれば、大体をクルーガーに頼るしかない。
幹部達は論外だし、一応俺の命令を聞く様に指示されているであろう、階級の低そうな部下に至っては怪訝な顔をするだけだった。
そして、頼む立場でこう言っては何だが、特に専門家でもないクルーガーに聞いた所で限界があるのは否めない。
クルーガー本人に、特にそう言った書物には心当たりが無い、とまで言われてはお手上げだ。
可能な限りお教えしましょう、と教えてもらったザルファ教の知識も実際の所、崩落地区でユーリから聞いた話以下の情報でしかなかった。
もう一度ユーリにザルファ教の事を教えてもらう、と言うのも悪くない選択肢ではある。
だがユーリに聞くのは、何となく憚られた。
酒を呑んだ仲と言う訳でも無いが、彼はこの団には珍しく自分に冷たい眼を向けてこない、数少ない知人だ。
それに元々、ザルファ教のおおまかな話は既にユーリから聞いている。
個人的な感覚かも知れないが、ユーリの様な男に此方の都合で余り聞き込む様な事はしたくなかった。
轟音と共に目の前まで降りてきた昇降リフトに乗り込み、呼び出しレバーに比べて随分と引きやすい稼働レバーを引く。
再び轟音と共に上昇し始めるリフトの上で、長く息を吐いた。
ユーリやクルーガーに比べれば、ゼレーニナは随分と質問しやすい相手ではある。
少なくとも、知らない事を質問する事に気後れする様な相手ではない。
答えが返ってくるかは、別にするとしても。
それに、付け焼き刃の様な答えが返ってくる事もまず無いだろう。性格は置いておくにしても、ゼレーニナの教養と知識は本物だ。
少なくとも其処らの教授と遜色無い、何ならそれ以上の情報が得られると踏んで良いだろう。
まず無いとは思うが、仮にゼレーニナがザルファ教について何一つ知らなかったとしても、その時は蔵書なり何なりを読ませてもらうか、借用すれば良い。
少なくとも、それぐらいの交渉が出来るだけの関係はある。
硬く、重い音と共にリフトが上層に到着し、肩を回した。
そしてシャッターを開閉させる赤いボタンを押そうとした、その時。
「ホラ!!クルヨ!!」
そんな、グリムの声が微かに聞こえた。
些か妙な気分だったが、別に取り止める道理も無い。
素直にシャッターの開閉ボタンを押し、稼働音と共に上がっていくシャッターを稼働途中で潜り、部屋に入っていく。
「ゼレーニナ、入るぞ。居たら返事しろ」
最早お決まりになった台詞を言いながら、扉を開けた。
少し、面食らう。
よりにもよって扉を開いた目の前に、当のゼレーニナが立っていたからだ。
それも肩に大きなヨミガラス、グリムを留まらせたまま。
「ホラネ!!ヤッパリ、デイヴィッドダ!!ホラネ!!」
やたら嬉しそうにはしゃぐグリムに、ゼレーニナが不機嫌そうに眼を細める。
うるさいだろうな。
「騒ぐんじゃありません。では、伝言ではなく情報収集に向かいなさい」
呆れた様にそう返すゼレーニナに、グリムが分かりやすく不機嫌に身体を膨らませる。
「エェーー!?イマ!?イマカラァーー!!?」
そんな不満そうなグリムの叫びにも、ゼレーニナは当然動じない。
「グリム」
そんなゼレーニナの言葉に、不満そうに身を捩った後、不意に羽音を立てながらグリムが一直線に此方に羽ばたいてきた。
少し驚いたが、動かずに居てやるとグリムが俺の肩に飛び付く様に留まり、足を入れ替えてゼレーニナの方に振り向く。
抗議のつもりらしい。
呆れた様な溜め息が、ゼレーニナの口から漏れた。
「………呼び出すつもりでしたが、そちらから来たのなら手間が省けました。注文されていた骨のヴァネル刀が完成しました、細部まで仕上がっています」
思いもよらぬゼレーニナのそんな言葉に、グリムを肩に留めたまま「あぁ、もう仕上がったのか」と声が溢れる。
確かに、フカクジラの骨でヴァネル刀を製作する様に注文し、仕様も指示して資材費用も収めた筈だが………もう出来ているとは思わなかった。
流石と言うか何と言うか、らしいと言えばそれまでだが。
そこでふと、自分が来た目的を思い出す。
いや、向こうは手間が省けた程度に考えているが、自分の用事は別件だ。
そう思い此方が何か言おうとした瞬間、ゼレーニナが目線と手で此方を制する。
「貴方の用事は後で聞きます、まずはフカクジラのヴァネル刀を先に確認してください」
そう言ったきり、此方の返事を待つでもなく踵を返しゼレーニナは部屋の方に向かってしまった。
自嘲にも似た息が小さく漏れる。こいつは、こういう奴だったな。
まぁ良い。此方としてもザルファ教の資料や情報は、最優先という訳では無い。
それより変にこいつの機嫌を損ねて、情報を貰えなくなる方が問題だろう。
まぁ、いずれヴァネル刀の方も確認するつもりだったのだから、多少早まった所で問題ないか。
靴音と共に銀髪を揺らすゼレーニナに付いていく形で扉を潜り、部屋を移った辺りで耐えられなくなったのか、肩に留まっていたグリムが大きな羽音と共に羽ばたき、離れていった。
飼われている身であのゼレーニナに真っ向から逆らったにしては、頑張った方だろうな。
飛び去っていくグリムからゼレーニナに視線を戻すと、予め用意していたらしく部屋の机に置いていた木箱を開け、剣を取り出す瞬間だった。
骨で出来ているであろう、刀身こそ丁寧な造りの鞘に覆われて見えないものの、丹念に仕上げた事が柄からも伺える。
と言うより、ゼレーニナにしては随分凝った造りになっていた。
彼女なりに何か気に入っている所でもあるのか、それとも技術者の矜持故か。
そんな想いと共にフカクジラのヴァネル刀、その凝った造りの柄に手を伸ばした所で、不意にゼレーニナが柄を引いた。
手から離れていく柄に顔を上げる。金ならとうに払っていると言おうとして、相手がとても真剣な顔をしている事に気が付く。
顎を引いた。
悪ふざけじゃない事は、聞くまでもなく眼で分かる。
見定める様な眼で、ゼレーニナが静かに呟いた。
「フカクジラの剣に触れた時の事を、覚えていますか?」
静かな、だが芯のある声。
忘れる訳が無い。このフカクジラの剣を注文する発端になった、あの余りにも奇妙な事件。
奇妙な“唄”に加え蒼白く染まっていく、骨の刀身。ウルグスが指している事、俺に示された事、全てを察したあの日。
空気が、一瞬にして張り詰める。
ゼレーニナが何を言いたいのか、直ぐに合点が行った。
このままカラスと黒魔術を携え、奇妙な蒼白い骨の刀身を振り回す事の、意味。
“グロングス”として俺がどんな存在になっていくのか。
一つ言っておくなら、当然ながら現時点で俺以外にウルグスから痣を焼き付けられた人間は俺達の間で確認されていない。
分かりやすく言うなら、前例が無いのだ。
あのフクロウから痣を焼き付けられ、不気味な黒魔術を宿された俺が、ここからどうなるかは誰にも分からない。
その点をゼレーニナが危惧するのも、理論としては筋が通っている。
起こり得る可能性全てを考慮するなら、俺が今度こそ致命的な変化を起こしてしまう可能性は、十分にあるだろう。
万が一、俺にその致命的な変化が起これば取り返しは付かない。
ゆっくりと、息を吸った。
「覚えている」
ゼレーニナの真剣な、大きな眼が真っ直ぐに此方を見つめてくる。
その眼を見返しながら、言葉を紡いだ。
「勿論、覚えているさ」
変化や結果を恐れていては、何も踏み出す事は出来ない。
いつしか黒魔術を使う時に決心、そして覚悟した事でもある。
次に黒魔術を使えば、自分はあの超常的な力によって突如八つ裂きになってしまうかも知れないと。
だが、この力が無ければ自分は生き残れず、いずれ死ぬ。
自分は覚悟の元に踏み出し、次こそ八つ裂きになってしまうかも知れないという危険を覚悟して、あの不気味な黒魔術に手を染める決断をした。
踏み出した歩を引く事は出来ず、立ち止まれば次こそ倒れるだろう。
そして、何よりも。
「意味を、分かっているんですね?」
フカクジラの剣を手にしたまま、ゼレーニナが静かに言葉を紡ぐ。
確かめるまでもなく、ゼレーニナは賢く頭も回る奴だ。
その頭が回るゼレーニナだからこそ、俺が超常的な“黒い淀み”へと踏み込んでいく事の意味を理解した上で、「その上で更に踏み込むのか」と聞いているのだ。
此方が“踏み込む”意味を理解出来ると信頼した上での、質問だった。
利害ではなく、“人”として。
便利な武器や道具、薬とは訳が違う。
自信を持って、断言出来る事があった。
俺は今、常人が手の届かない、“届くべきでない”所へ踏み出そうとしている。
黒い淀みに踏み込めば、その淀みに染まる事は避けられない。
焼き付いた痣と共に黒魔術に染まり、カラスを肩に留まらせフカクジラの骨を握って戦えば、俺はきっと“届かない所に届く”代わりに引き返せない所まで踏み込む事になるだろう。
その時、俺が“人”で居られる保証は何処にも無い。いや、まず間違いなく“許されない何か”に堕ちていくだろう。
覚悟と共に、息を吸った。
「分かっている」
それでも、俺は倒れる訳には行かない。あの浄化戦争で失われた物の為にも、俺が奪ってしまった物の為にも。
剣の柄に向けて、静かに手を差し出す。
覚悟は、決まっていた。
黒く穢れた淀みに染まり、“怪物”に成り果てる覚悟が。
ゼレーニナが、差し出した俺の手を見つめる。
そして、俺にここまで“淀みに染まる”覚悟を問うのならば、彼女も分かっている筈だ。
ここで俺にフカクジラの剣を渡せば、彼女とて無関係では居られないと。
俺の手を引くにしろ背中を押すにしろ、すぐ隣で俺が“怪物”になっていくのを見届ける事になると。
隣で堕ちていく俺を素知らぬフリをして、涼しい顔で見ていられる様な人間なら、またその意味を分からない様な女なら、そんな事を聞く筈は無いのだから。
ゼレーニナが意味を反芻する様に眼を閉じ、僅かな間の後にゆっくりと見開いた。
彼女が何を想ったのか、何を決めたのかは分からない。彼女がどんな理由でこの団に居るのかすら、俺は知らない。
だが、改めて見開いたその眼には、此方と同じく深い“覚悟”があった。暗く重い、覚悟が。
貴方も私も、きっと戻れませんよ。
口に出すまでもなく、如実にその大きな眼が語り掛けてくる。
覚悟の上だ、と眼で語り返すとゼレーニナが長く息を吐いた。
「どのみち私も貴方と同じく、いえ……」
そんな言葉と共に剣の柄がゆっくりと差し出され、此方もそれを手に取る。
握られている鞘から、刀身を抜く形でフカクジラの剣を滑らかに引き抜いた。
「……貴方以上に罪深い、穢れた身です」
呻く様にも、誘う様にも聞こえる“唄”が手から伝わってくる。
余りにも不気味で奇妙な、骨の唄が。
ゼレーニナが噛み締める様な表情と共に、呟いた。
「貴方が、“それ”を覚悟した上で踏み込むのなら」
刀身から零れる、焼き焦げる様な音。
「私も付き添いましょう」
骨の刀身が、蒼白く染まっていく。




