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ヨミガラスとフカクジラ  作者: ジャバウォック
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 中々の大物だった。






 沸き立つ脈を宥めるかの如く緩やかに息を吸い、少し止める。


 数秒して、同じ時間をかけて緩やかに息を吐いた。


 ここで焦っては駄目だ。


 逸り始める自分をきつく自制し、冬の冷えきった空気を深く吸い込む。その冷たさで、自身が宥めるかの如く。


 先日、ブロウズとザルファ教の神々へ祈りを捧げた時よりも、気温は更に冷え込んでいた。


 降雪こそ無いものの、これから年末に向けて更に気温が下がっていくのは間違いない。


 自然溢れるカラマック島の手付かずの原生林においては、説明されるまでもなく肌で冬の厳しさを実感していた。


 あの山小屋から随分離れてはいるが、この距離と時間帯なら雪の山道で足を取られる事を加味しても、血抜きをした上で山小屋まで持って帰れるだろう。


 少し大きな肉料理にしても良いし、燻製にしても良い。


 またも気が逸るが、再び息を吸いながら数を数え、止め、数を数えながら息を吐いた。


 極めて平常心を意識しながら狩猟弓を握り直し、背中の矢筒から矢を取り出す。


 いや。


 革の手袋、その指先で掴んでいた矢を静かに矢筒に戻した。


 音を立てない様に気をつけながら手袋を外し、手を翳すようにして肌で風向きを確かめる。


 少し待つ。よし、風下だ。


 革の手袋を付け直し、再び静かに矢筒から矢を取り出して今度こそ狩猟弓の弦につがえる。


 生え変わった冬毛が美しい、大きなシカだった。


 雪と土に残る足跡からも分かっていたが、充分な体重もある若いメスだ。きっと肉も柔らかいだろう。


 穏やかに息を吸い、弦を静かに引き絞った。


 空気が止まり、呼吸が止まる。時間さえも延びている様な錯覚。


 シカは気付かない。


 冷たい冬の空気の中、呼吸を止めたままの胸中で、感謝を述べる。


 少しの間の後、矢を放った。


 風切り音に顔を上げようとしたシカの、心臓近くを充分すぎる勢いの付いた矢が貫く。


 シカの悲鳴の様な鳴き声。


 強い弦を引き絞った甲斐あって矢は刺さるどころか、鏃が完全にシカの身体の向こうへと貫通していた。


 心臓、もしくは肺に命中。出血から見るに心臓ではなく肺に命中したのだろう。


 シカが走り出す。


 致命傷の筈なのに、尻でも叩かれたかの様に元気な動きで。


 肺を矢で貫かれてもそのまま走り出すシカを感謝ともまた違う、敬意の念と共に追い掛ける。


 雪の中を全力で駆けながら、矢筒から二の矢を取り出した。


 予想通り、肺を貫かれたまま走り出したシカは当初こそ速かったものの急激に失速し、満足に吸えない呼吸を繰り返しながら徐々に自分との距離が詰まっていく。


 握っていた矢を矢筒に戻し、腰から愛用の鉤付き斧、通称“鉤斧”を引き抜いた。


 息切れとも、咳とも思える様な息をしながらシカが大して走れなくなってきた所に、漸く追い付く。


 後から血痕を辿っても良かったが、この雪で万が一にも見失うのは避けたかった。


 足がふらつき、最早満足に歩けなくなっていたシカに対して斧を握り締める。


 騎乗するアメジカに対してもよく誤解されているが、シカと言っても大人しい種ばかりでは無い。


 皆、アメジカが人に懐いたり撫でられたりしている図ばかり見聞きしているので、シカに危険性など無いと思っている。


 とんでもない。


 レガリスに置いても、管理されていたアメジカが人を殺傷した事件など幾らでもある。


 不用意にアメジカの後ろに立った人間が頭を蹴り飛ばされ、亡くなった事件だって珍しくないのだ。


 シカは食肉として引き締まった肉が多い事ばかり注目されるが、その肉が元々筋肉な事を多くの者が忘れている。


 普段アメジカが重い鹿車を引いている事を、日頃から知っているにも関わらずアメジカの筋肉がどういう物か分かっていない。


 成人であろうと襟首を噛んで振り回す事だって出来るし、そもそも本気で噛めば人の指ぐらい持っていく事もある。


 自然に敬意は払うし感謝もする、だが決して自然を侮ってはならない。


 それが、自身の考えだった。


 勿論今回の獲物はシカではあるが、レガリスで移動手段として普及している様なアメジカでは無い。筋肉量だってアメジカ程では無いだろう。


 それでも、侮りはしなかった。


 迂闊な対応をすれば、此方の頭や背骨が踏み砕かれる。それだけの意識を持って、狩猟に望んでいた。


 酸欠と出血で頭が低くなり、足元もおぼつかなくなっているシカの後頭部。その首の付け根に対して、振りかぶって勢いの付いた斧を叩き付ける。


 更なる致命傷と共にシカの意識が途絶え、雪の中に倒れ込んだのを確認したら、直ぐ様ナイフで動脈を刺して縄で吊し、放血させていった。


 冬の冷えた空気に、血の匂いが混じる。


 今度は胸中ではなく実際に言葉として、祈りと共に感謝を述べた。


 致命傷こそ負っていたものの、まだ生きていたシカが放血によって“大地の恵み”こと“食肉”になっていくのを眺めている内、自身の信仰するザルファ教と神々に意識が移り、不意に先日の祈りへと意識が移る。


 パトリックとスヴャトラフ。言うまでもなく、誇り高い戦士達だった。


 他の戦士達と同じく革命の為に惜しみ無く命を捧げ、そして散っていった二人。


 パトリックの信仰していたテネジア教には余り詳しく無いが、彼の魂が報われる事を願う気持ちは他の者と変わりない。


 レガリスにおいて、異教の者はそれだけで人権が認められぬ程に虐げられ、強制的に“改宗”させるべく専用の施設に送られる、と言う話を聞いた事があった。


 どんな神を信仰するかは言うまでもなく自由、そして権利の一つだ。


 お前の信仰する神は間違っているから此方の宗教に改宗しろ、など許される訳が無い。


 レガリスの帝国軍は、全員がテネジア教徒として教育を受ける事でも知られている。テネジアの名の元に、数多の敵や“弱き者”を虐げていた事も。


 故郷、リドゴニアでの記憶が滲み出る様にして脳裏を過る。


 家族の事。ザルファ教に入信した事。自然の美しさに気付いた時の事。大地の逞しさと儚さに感動した時の事。愛の素晴らしさを知った時の事。


 血が沸き立つ程の怒りを覚えた事。初めて人を殺した時の事。世界の全てが色を失った時の事。


 そして何より、ライサの事。


 血の匂いの中で一人、表情が険しくなる。


 奴隷になるべくして生まれる者など居る筈が無い。一方的に虐げて良い人生など無い。あって良い筈が無い。


 放血を終えたシカを樹木の枝から縄で吊したまま、肋骨を切り開き、内臓を引き下ろした。


 もう、随分と戦い続けている様な気がする。


 パトリックとスヴャトラフのみならず、数多の戦友の死を背負ってきた。


 真なる自由の為、そしてその自由を踏みにじられぬ為、数えきれない犠牲を払いながら今も黒羽の団は戦っている。


 帝国軍ことレガリスと戦っていたペラセロトツカが劣勢に追い込まれた時も、降伏した時も我々は諦めなかった。


 レイヴン達が謎の襲撃で大打撃を受けた時も、ウィスパーを運用出来ない程に追い込まれた時も。


 あの時、諦めていれば我々は「かつて一部には抵抗軍も存在した」と書に記されるだけで終わっていただろう。


 真の敗北とは志半ばに倒れる事でも、強大な敵に倒される事でもない。


 自ら膝を屈し、敵に頭を垂れる事を言うのだ。


 今我々が命懸けで戦わなければ、戦う機会も力もない無辜の人々が子孫に至るまで、虐げられる日々を送る事になる。


 立ち上がれないのではないかと言われる程の大打撃を受けて尚、僥倖とも宿業とも言える因果の末に再び黒羽の団は立ち上がった。


 内臓を抜き取ったシカから、皮を剥いでいく。この仕留めたシカ一つ取ってもそうだ。


 我々と同じく、テネジア教徒もシカを食べる。それは何も変わらない。


 だがテネジア教徒がシカの命をその日の糧としても、シカに祈る事は無い。食前に祈る事もあるが彼等の祈る先はシカではなく、聖母テネジアだ。


 勿論、それを責める事は無い。


 しかし帝国軍の手によってザルファ教が否定され尽くしたとなれば、最早誰もシカに祈る事は無い。


 言うまでもなく、感謝の言葉と共に仕留めた獲物へと祈る者など、この空の何処にも居なくなるだろう。


 我々の神は忘れ去られ、我々の信仰と神話は途絶える事になる。様々な文化と宗教、全てが永劫に失われる。


 皮を剥ぎ取り、塊となったシカを枝肉に分ける。


 白い息を吐いた。


 相手を否定する為に戦うのではない。我々が否定されない為に戦うのだ。






 我々の未来と文化、誇りと安寧を守る為に。

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